○折伏は必然的方法であった。
「摂受を行ずる時は、僧と成って正法を弘持する」について。
「観心本尊抄」の「摂受を行ずる時は、僧と成って正法を弘持する」の直ぐ前に
「今末法の始め小を以て大を打ち権を以て実を破し、東西共に之を失し、天地顛倒せり。・・・此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。因謗堕悪必由得益とは是なり。」(昭定719頁)
とあります。
この文意は
「末法の初めである今は、謗法盛んであるから、妙法蓮華経の五字をもって下種結縁しなければならない時である。汝の信仰は謗法であると強く批判されれば当然、反発し日蓮に怒りを抱き日蓮を誹謗迫害するであろう。しかし、下種結縁によって、やがては法華経を信受する暁を迎えるであろう。
日蓮の採るこの而強毒之の弘経方法は、不軽菩薩が強いて、二十四字を専ら説き聞かせ、礼拝する事を誹謗した者達が、悪道に堕ちたものの、結縁の因縁をもって、やがて信受し救われた、と云う事と同例である。」
と云うものでしょう。
末法の初めは、大判すれば、本未有善の機、謗法の機なので、一念三千の仏種である妙法五字を強いて聞かせ下種結縁しなければならないと云う五義判からの結論に立って、当然起こる法難迫害を忍んで(摂受して)他の謗法を批判し妙法信受を強く迫る化導法を採る(道門折伏)というのが本尊抄の立場であることが分かります。
このように大判としては道門折伏ですが、細判としては道門折伏一辺倒ではありません。
富木殿の再度の法論を止められたことなどが例です。
次直ぐ後の
「摂受を行ずる時は、僧と成つて正法を弘持する」
と矛盾があるのではないかという意見が出てくるのですが、日蓮聖人の思考が分裂していない限り、同一論文の中で異なる見解を述べる筈はないわけです。
先学の解釈。
そこで、
「折伏を現ずる時は」の折伏とは涅槃経の有徳王の如き、俗人、身行の折伏で、行門の折伏であり、「摂受を行ずる時」の摂受とは行門の摂受で、日蓮聖人は折伏はせられたが、それは出家、口、意の折伏で、教門の折伏であり、行門の折伏でないと古来から会通されています。
そうした先師の見解に基づき
「日蓮聖人御遺文講義2」に担当の石川海典師が
「摂受を行ずる時の聖僧は『正法を弘持す』とあるから、此の摂受は口業の師子吼を意味する。
此の聖僧の師子吼を摂受としているが、其の実は折伏である。事実聖人御一期の大師子吼は本化の上首たる上行菩薩が、聖僧と示現して正法を弘持した以外のものではない。・・・何が故に標準御書の観心本尊抄に之を摂受としてあるかを究める要がある。そしてそれは結局、在家と出家、僧と俗と異なるによって其の修行の形式に寛厳の相違があり、出家たり僧たる者の折伏は、之を在家たり俗たる者の折伏に比する時は摂受と云われる。口業の師子吼は身業の武力に比すれば猶摂受なりという意味に外ならない。・・・大師子吼は折伏ではあるが、之を刀杖斬首の如き行門の折伏に比する時は、なお多分に摂受の傾向を含むから、聖僧の正法弘持を摂受とされたのであろう。」(321頁)
と解釈しています。
今成教授所論に疑問
今成教授は
「聖人は『折伏』を実践すべき事を説かれてはいるが、しかしそれは積極的に言っておられるわけではなく、『批判に対する対抗』である『仕方なく折伏を実践』されていたのである。また聖人は摂折を重視していなかった。
折伏主義は龍口・佐渡法難時の『今日斬る明日を斬る』という非常時対策としての『時限立法』である。
摂折に関する遺文数が少ない。このことはそれほど摂折問題を重視していなかったことを物語っている。・・摂受・折伏の言葉が出てくる御書は全て依智から佐渡時代のもので、その後は全く出てこないことも、摂・折は瑣末な問題であったことを裏付けている。」
等と論じているとのことですが、
謗法を強く批判し妙法五字を以て下種せしむと云う化導方法は五義判(五綱教判)から、必然的に生じる化導方法なのですから、「摂・折は瑣末な問題であった」などとは、とうてい言い得ないことです。
「佐渡以後、摂・折はについての教示が全く出てこない」という事ですが、摂折についての教示が行われて、已に門下に周知されたので、あえて重ねて教示する必要がなかったからでありましょう。
しかし、弘安三年の「諌暁八幡抄」に
「末法には一乗の強敵充満すべし。不軽菩薩の利益此なり。各各我が弟子等はげませ給へ、はげませ給へ。」(真蹟・昭定1850頁)
とも
弘安元年の「檀越某御返事」に
「雪山童子の跡ををひ、不軽菩薩の身になり候はん。いたづらにやくびやう(疫病)にやをかさ(侵)れ候はんずらむ。をいじに(老死)にや死に候はんずらむ。あらあさましあさまし。願くは法華経のゆへに国王にあだまれて今度生死をはなれ候ばや。」(真蹟・昭定1493頁)
とも
弘安二年の「上野殿御返事」に
「願くは我弟子等大願ををこせ。・・・おなじくはかり(仮)にも法華経のゆへに命をすてよ」(真蹟・昭定1709頁)
とも
弘安三年の「智妙房御返事」に
「阿闍世王の提婆をいましめしやうに、真言師、念仏者、禅宗の者どもをいましめて、すこしつみをゆるくせさせ給かし、」(真蹟・昭定1827頁)
ともあることより身延御入山以後においても、折伏逆化の化導方法を教示されていたことが分かります。
今成教授は、
《折伏とは、「受難を怖れぬ常不軽菩薩の礼拝行」のごときものではなく、悪口雑言の類であり、物理的な暴力も辞さない強引な布教方法である。》
と定義されているそうですが、もし折伏の語意が「悪口雑言の類であり、物理的な暴力も辞さない強引な布教」と云う意味に限定されるのであれば、日蓮聖人の化導方法は折伏でないと言い得ましょう。
不軽菩薩の化導方法に倣われた日蓮聖人。
弘長二年二月の「教機時国鈔」
「又謗法の者に向ては一向に法華経を説くべし、毒鼓の縁と成さんが為なり。例せば不軽菩薩の如し。」(昭定242)
文永十一年(或いは建治元年)の「聖人知三世事」(真蹟)に
「日蓮は是れ法華経の行者なり。不軽の跡を紹継するの故に 」
(昭定843)
等の御書によって分かります。
文永十二年の「曽谷入道殿許御書」に
「夫れ以れば重病を療治するには良薬を構索し逆謗を救助するには要法には如かず(中略)悪人為る上、已に実大を謗ずる者には強て之を説く可し、」(曽谷入道殿許御書・昭定895)
とあるように、大判すれば、日蓮聖人は末法の五逆・謗法の衆生の救助の対象としたのであるから当然、強いて説く、即ち折伏の化儀を採られた事は明白です。
続いて、「強いて説く」経証として、不軽品の
「乃至遠く四衆を見ても亦復故に往いて」
「四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り悪口罵詈して言く是の無智の比丘何れの所従り来りてか」
「或は杖木瓦石を以て之を打擲す」
の文を引き、さらに、法華文句十の「本未だ善有らざるには不軽・大を以て之れを強毒す」との文を証として挙げ、
「今は既に末法に入つて在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり、 」
と、日蓮聖人の弘通化儀は不軽菩薩の化儀と同じ方法を採っていると述べられています。
「顕仏未来記」に
「例せば威音王仏の像法の時不軽菩薩我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、」
(昭定740)
とありまして、二十四字を拒む者に強いて語った故に、罵りや杖打を受けたと解釈されていますから、不軽菩薩の化儀も勧持品と同じく強説(折伏)と見られていた事になります。
日蓮聖人は不軽菩薩の化儀を「強いて説く・而強毒之」すなわち折伏の化儀と見られていたことは確かです。
「開目抄」に「不軽品の如し」の句が無かったとしても、日蓮聖人が不軽菩薩の化儀を強説・折伏と理解されていた事は確かでしょう。
「折伏とは、悪口雑言の類であり、物理的な暴力も辞さない強引な布教」と勘違いしてしまう者が出るといけないので、
「開目抄」に「不軽品のごとし。」とあるのでしょう。
今成教授の指摘のように、この句が後人の付加であると仮定しても、同じく誤解を心配して付加されたものでしょう。
文永九年四月の「富木殿御返事」(真蹟)に
「 日蓮臨終一分も疑ひなく、刎頭の時は殊に喜悦あるべく候。大賊に値ふて大毒を宝珠に易ふと思ふべき歟。・・
但し生涯は本より思い切り了んぬ。今に翻返ること無く、其上又違恨無し。諸の悪人は又善知識也。摂受、折伏の二義は仏説に任す、敢て私曲に非ず。万事霊山浄土を期す。」
(昭定619)
とあります。
特に「摂受、折伏の二義は仏説に任す、」の部分の文意は
「不軽菩薩の跡を紹継して強義の布教によりかかる状況に至っているが、これは仏説に任せて折伏の化儀を歩んだ結果である」
と領解すべきです。
この文によっても、日蓮聖人がご自分の化導形態を折伏の範疇と思われていたと、理解できましょう。
直弟子がたも聖人の弘経を折伏と表現。
「注法華経」の不軽菩薩品に、
「文句四に云く。若し去住倶に謗せば宜く喜根の如く強て説くべし、今は去て則ち益有り、那そ忽に住せしめん、住しては則ち損有り、那ぞ忽に遣らざらん。喜根は慈を以ての故に強て説く如來は悲を以ての故に發遣す。(同二右)」
との注記があります。
日蓮聖人が不軽菩薩の布教を「慈を以ての故に強て説く」ものと理解されていた事が分かります。
日向上人の著述に「金綱集 」があります。その「金綱集・第十下・法華経の事 」に、
「天台大師は一代聖教を摂受折伏に摂す。
一、摂受とは、世間(世界悉檀)の文に当たる。安楽行品の意、世界歓喜為人生善之意なり。・・・
一、折伏門とは、世間の武に当たれり。不軽品の意、対治破悪是れなり。・・・」
(宗学全集第十四巻495~502頁往見すべし)
と摂折について記述しています。
「金綱集」は「一代五時図 」に基づく日蓮聖人の講義が骨幹になっていると見られているので、日蓮聖人が不軽菩薩品を折伏門に当てられていたことを証する資料と云えましょう。
中老日法の『日蓮聖人法門聴聞分集』(宗全第一巻)には
「不軽品と薬王品等には或いは強説、或いは五五百歳中広宣流布等如何、その上へ仏に両説之れ在り、一切経は摂受と折伏を出でず(中略)末法折伏の世に難ずべからず」(宗全第一巻108)
「末法は是れ折伏の時なり」(宗全第一巻111)
とあります。
日蓮聖人が講義で「不軽品は強説であり、現今は末法折伏の世であるから強説を否定すべきでない。末法は折伏の時」と語られておられたか、直弟の日法上人がそのように領解していたと云うことになります。
「日蓮宗宗学全書第一巻上聖部」にある「頂尊之部」の「申状」
に、日蓮聖人の弘経について
「折伏を起こして、偏執を退けて正路に導かんと欲すれば」
(41頁)
と述べています。
宗門上代の師がたは、日蓮聖人の弘通方法を折伏と表現していたことが分かります。
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