無始仏の論理 其の一。

日隆上人の寿量仏観




「寿量品には『如是我成仏已来甚大久遠常住不滅』と。『我本菩薩道所成寿命今猶未尽』と説き玉ふ。
因果所成の仏なれば久遠の本仏に始め有るべし。

其の上、法身は性徳の仏、報身は修得顕了の身なれば、事相修顕の仏身に何ぞ始めを論ぜざらんや」
(私新抄第七・宗全8-184)

「玄七には『本因妙とは、本初発菩提心行菩薩道所修因なりと判ぜり。』是れまた初発菩提心の言は、本仏も初めは理即の凡夫にして御座しが、妙法の名字を初めて聞きて、菩提心を発し、本因妙を成じて、其の後、本果妙覚の仏と成り玉ふと聞こえたり。」(宗全8-185)

「因妙の生の始め、之れ有る故に不生と云わずして、不滅と計り書き玉へり」(宗全8-186)

「久遠の本仏報身に修行の初めを論ずべき事、顕然なり」(宗全8-186)

「本因妙修行の時は、釈尊も凡夫地に居す。父母果縛の肉身の当体無作三身と顕し玉へり」(宗全8-230)

等と有るように、
本仏は理即の凡夫から修行して開覚した仏であるとしています。


「尋ねて云く。報身に於いて始めを論ぜば、今経の無始無終本有常住の久遠成道、齋限有るべし。齋限有らば無作三身に非らず。有為報仏に同ずべし。而も始め有ってまた無始無終なる相を成ずべきなり。如何」
と、
「始めがあるとすれば、無始無終本有常住と云っても齋限があって、永続性の無い有為報仏と同じ仏格となってしまう。有始であるが無始無終である説明をして貰いたい(取意)」(宗全8-187)
との問を設け、その問いに対して

「報身は能成の智、法身は所成の境なれば、同体の境智にして境智共に実相なるべし。実相の境智は本有にして常住なり。・・・
境智ともに如如なる故に、智に始め有りといえども、本有の照了なれば、始終本有として宛然なり。・・・境智不二の智が境智不二の法身に冥合して常住なるを久遠の報身とは云う、故に本因本果倶に
如如不思議の因果なる故に、因も常にして諸法実相、果も本有にして諸法実相なり。・・・本因本果は十如実相同体の因果なる故に、本因の始めも三千世間依正宛然の自受法楽の本因妙なり。始めといえども迹中体外の始めの如くには非らず、三世常住の上の三世なれば過去の始めと云うも、無始無終本来の過去三世なり。」
(宗全8-187)

と答えています。
答えの意味は、
「智の活動の始めが有るとしても、境を覚る(境に冥合する)智の働きは実相本有のものであるから、有始に即して無始無終と言える。」
と云う事のように思えます。

「次ぎに本門の意は本有三因仏性、之れを談ず。・・・三因仏性、本来の具徳なれば、果成ずる事、また始めたるに非らず。『還我頂礼心諸仏』といへり。一切衆生の心性に本来果徳の妙法之れを円満す。始めて果位の万徳を得たるにて非らず。『釈迦如来久遠成道皆在衆生一念心中』と。・・・三因仏性倶に本来の覚体なるべし。
(宗全8-375)

「本門の意は三因修性不二にして常住なれば三身もまた無作三身にして因果倶に本有常住なり。」(宗全8-376)

三因仏性を本来の果徳とし、修行の始めがあるとしても修行の結果の開覚は本来具有の果徳と不二であるから、無始無終の仏と言えると云う見解のように思えます。

本有の三因仏性を久遠成道の釈尊が無始の仏で有る事の根拠にしているようです。


「五百塵点劫の当初にまた成道の仏あらば、釈尊の本因本果は垂迹にして権仏なるべし、然るに釈尊より久しき成道の仏無き故に、久遠の釈尊を初め仏の根本として自覚覚他成就せり」
(宗全8-210)

「三世十方の諸仏よりも猶、久しき仏なる故に、本門久遠劫の釈尊より前に本仏更に之れ無し。五百塵点劫の其の上釈尊一切仏の最初頂上機本なる故に、其れより後の十方三世の諸仏は釈尊の分身応用にして権仏なれば」(宗全8-377)

と、釈尊より以前の仏は居ない故に十方三世の諸仏は釈尊の分身であるとしています。


上行菩薩については、

『私新抄・第四』「地涌菩薩を以て所化と為す事三身に亘ると云うべきや」の項に、法身・報身・応身それぞれに約して説明しています。

「法身に約せば、三千森羅の依正万法悉く地涌菩薩に非らざること無し。故に地涌の菩薩は内証法身支分の眷属と云へり。」(宗全8-102)
と云い、

「法身仏は事事随縁の当体法爾天然の覚位であり、法身仏の自受法楽の慈悲の振る舞いを地涌菩薩と云う(取意)」(宗全8-102)

として、
「本は法身、迹は地涌菩薩なるべし」
と説明しています。

この思想は『授職灌頂口伝抄』

「飢時の飲食、寒時の衣服、熱時の冷風、昏時の睡眠、皆な是れ本有無作の無縁の慈悲にして、利益に非らざること無し」(昭定802頁・偽書論有り)

との思想に近似しているようです。


「報身に約して之れを論ぜば、本因妙は地涌の菩薩なり。本因妙をば経に『我本行菩薩道』と説けり。・・・故に釈尊本因妙の時も地涌菩薩と成って妙法蓮華経を修行し玉へり。総じて三世諸仏因位の行は皆な地涌の菩薩の修行なり。一切衆生最初下種の時は地涌と顕れ、一切衆生得脱の時は本果妙の釈尊と示し玉へり。(宗全8-103)
とし、さらに

「釈尊の本因妙と地涌菩薩と一体なり。別物に非らず。・・・自行本因妙の辺は釈尊の因行地涌の菩薩なるべし」(宗全8-104)

と云って、釈尊も自行因行の時分は地涌菩薩として修行したとしています。

さらに
「覚他の辺は釈尊本因妙地涌の外に、また所化の地涌菩薩之れ有るべし。之れは釈尊報身仏の弟子なり」(宗全8-104)

と、釈尊は地涌菩薩の身分として自行すると同時に覚他の行も行ったので、所化としての地涌菩薩も居たはずで、この地涌の菩薩は釈尊報身仏の弟子であると説明しています。

「次ぎに応身に約して之れを論ぜば、唯、弟子なるべし。」(宗全8-104)
として、

さらに
「蓮師聖人『我が弟子、之れを推せよ。地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり』と、これらの経文釈義は、今昔の仏仏毎(ごと)に本化の菩薩を召し出すことは能化の仏、入滅の後未来の衆生に本門寿量品の首題を持たしめんが為めなり。是れ等の意を以て之れを案ずるに、地涌を以て応身の所化と為す時は一向弟子にして、滅後末法の導師と成らしめんが為めなるべし」(宗全8-106)

云って、
応身に約せば地涌菩薩は釈尊の弟子であると説明しています。


地涌菩薩は釈尊の弟子であるとしながら、釈尊が本因行の身分を顕したのが日蓮聖人であるとする一仏二名論の論拠を述べている箇所を挙げますと、

「仏とは、『己心是法界、法界即己心』と開して、法界の当体、己心の仏果と成る故に、己心の父、法界九界の子に周遍し、法界の子また本仏の体内に流入して父子の十界一体なりと、父子の約束を成ぜり。此れを当座にして知れるは地涌菩薩にして本化薩?と云われ」(宗全8-376)

「一念三千とは、十界互具なるべし。釈尊の仏界、地涌の九界互具融即して同体なり。
本因妙は九界、是れ地涌なり。本果妙は釈尊、仏界なるべし、本因本果九界仏界融即して同体なり。・・・此の無始の九界とは地涌菩薩なり。無始の仏界に冥合して一体なりと云う。」
(宗全8-356)

「一念三千とは十界互具なるべし。釈尊の仏界、地涌の九界互具融即して一体なり。本因妙は九界、是れ地涌なり。本果妙は釈尊、仏界なるべし。
本因本果九界仏界融即して同体なり。・・・此の無始の九界とは地涌菩薩なり。無始の仏界に冥合して一体なりと云う。・・・
籤六に云く『物機無量なれども三千を出でず。能応多しといえども十界を出でず。界界転(うたた)現ずれども一念を出でず。土土互いに生ずれども寂光を出でず。衆生は理具の三千に由るが故に能く感じ、諸仏は三千の理満ずるに由るが故に能く応ず。』と云へり。
『衆生は理具の三千に由る』とは、九界所具の三千、是れ地涌所具の三千なり。『諸仏は三千の理満ずるに由る』とは仏界所具の三千なり、是れ釈尊所具の三千なるべし。
能所師弟生仏の不同は之れ有りといえども、釈尊地涌三業互具融即して同体なり。」
(宗全8-356)

等が有ります。

十界互具であるから、釈尊と地涌と本質的には互具平等であると云う趣旨の説明でなく、法界全て釈尊の一念の現れたものであるから地涌菩薩(九界総て)は、そのまま仏(釈尊)であると云う趣旨の説明のように思えます。

真言宗で云う大日如来を事法身として一切を事法身の現れと見る考えや、諸明王等を教令輪身や等流身と見る考えに近いように思えます。

『授職灌頂口伝抄』
「釈尊と我等とは本地一体不二の身なり」(昭定・801頁)


『三世諸仏総勘文教相廃立』の、

「此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり、法界に周遍して一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし時・・・四土不二にして法身の一仏なり十界を身と為すは法身なり十界を心と為すは報身なり十界を形と為すは応身なり十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う是の故に無相の極理とは云うなり」(昭定・1690~1692頁)

と云う「十界の外に仏無し、十界は仏の身体」と云う思想や

また『今此三界合文』の、

「また(懐中に)云く『釈迦如来は是れ三千世間の総体、無始より来、本来自証無作の三身、法々皆具足して欠減有ること無し』と。文に云く『如来秘密神通之力』と。観普賢経に云く『釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけ、其の仏の住処を常寂光と名づく』文。」
(昭定・2292頁)

と云う「釈迦如来は三千世間の総体」と云う思想に近いように思えます。

『三世諸仏総勘文教相廃立』『三世諸仏総勘文教相廃立』『今此三界合文』はいずれも偽書論のある御遺文です。

また
『清水龍山著作集・第一巻』にある

「横に空間的には、十方法界・三千依正に周遍せる、本有無作の一大円仏実在す、この仏たる既に法界三千をもって相と為し(応身)性と為し(報身)体と為す(法身)故に法界一法として、此の本仏の妙体ならざるはなく、三千一塵として此の本仏の妙用ならざるはなし、本仏即法界、法界即本仏にして、法界は不変真如の本仏・本体・実在界より随縁縁起したるものにして、随縁真如の法界三千の現象界は、即是本仏の全体起用なり、」(39頁)

との寿量仏陀観と近いように思えます。

清水龍山師のこの寿量仏陀観に対して、

浅井円道教授

「聖人の本仏観は事法身であると結論する清水龍山師の本仏観は密教の大日如来に堕ちたことになる(取意)(清水龍山著作集・第一巻「解説」421頁)
と評しています。

日隆上人の一仏二名論は、大日如来を事法身とする仏陀観・法界観と近似の思想に根拠を置いているように思えます。


法華経の教相上でも御遺文に於いても、釈尊の本弟子である上行等の地涌菩薩が末法に応現して妙法五字を弘宣すると云うことになっているのに、釈尊が上行菩薩となって日蓮聖人として応現したと主張するのか、私は今のところ、なかなか理解出来ないでいます。

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