無始仏の論理その3。

日什門流の日受上人・日鑑上人


日受上人『本迹自鏡編下巻余之一』
に、
「事成報応無始事常住の義、未だ分明ならず如何」(宗全第六巻64頁

と、「実成なのに、どうして無始事常住と言い得るのか?」
との問を設け、

「そもそも我等、釈尊事成の本覚の徳を具すと雖も、不覚を以ての故に、流転すること已に久しくして無始なり。
而るに今日始めて本覚の妙法を信ず、此れは始覚の最初にして、冥に本覚に契う。
もし、昇進すれば則ち分に本覚を顕し、いよいよ昇進すれば則ち修顕得体す。
是れ則ち始覚の終わりにして、全体、釈尊同体の本覚と成り、即時に始本不二の妙体なり。」
(65)

と、「迷者である凡夫が妙法を信行し始め、そして修行が増進し、本来具足している釈尊事成の本覚の徳を顕わせば、釈尊と同体の本覚と成る」
と、同様に、

「釈尊もまた修顕得体の時には、必ず先仏同体の本覚と成るべし。
其の先仏も、またまた斯の如くにして、前前古仏相続して本、断ゆること無き。則ち是れ報応各三、無始事常住の覚体、無始の本因本果、無始の始覚本覚、事の一念事の三千の妙体なるなり。」
(65)

と、「釈尊も修行成就して開悟したときには、先仏同体の本覚を顕し終わった身と成ったので、始覚即本覚であるから、始覚でありながら無始の本覚の仏であると言える」
と説明しています。    


『如実事観録序』にも

「釈尊既に久遠始成の当初に於いて、則ち無始本具の仏界本因本果乃至事常住事本覚の体を証得し玉ふ。・・・始本倶に無始本有の事常住にして始本全く是れ不二に由るを以ての故に、無始事常住の仏界の外に更に久遠始覚の釈尊無く、将た久遠始覚の釈尊の外に更に無始事常住の仏界無きなり」(如実事観録序・163)

「無始の仏界の外に更に釈尊無し、将た釈尊の外に更に無始の仏界無し。以ての故に但だ久遠始成の釈尊の当体を指して、以て無始已来の本仏と号するものなり」(如実事観録序・178)

と、「釈尊は無始より本具の仏界(事本覚の体)を証得顕現したのであるから、久遠始覚の釈尊がそのまま無始已来の本仏である」
と説明し、久遠始覚でありながら無始の本覚仏の仏格を得るのだから無始の仏であるとしています。

日受上人は釈尊も、
「流転すること已に久しくして無始なり」と、久遠の昔、流転の凡夫であったとし、また「本師の先仏有り」(102)
と、無数の先仏の存在も認めているので、当然、釈尊が根本仏と言えるのかと云う問題が起こります。

その問題に関して
『本迹自鏡編補 闕・巻上』に、

「然るに釈尊もし先仏の名号を挙げ、以て之れを称呼する則ち終に窮まり無からん、所以に釈尊、自身を指すに即ち久遠以来の諸仏の本師たり。
然るに、釈尊、成道已前に無始の古仏有りと雖も、釈尊(の)修顕得体の全体と無始以来の古仏と、一体不二と成る故に、釈尊の外に別に古仏無し。」
(102)

と、「先仏またその先仏と名号を挙げたら窮まり無いし、釈尊自らご自身を久遠以来、諸仏の本師とされているし、釈尊と無始以来の古仏(先仏)と一体不二であるから、釈尊の外に別に古仏は無いといえる」
と説明し、久遠において、所顕した本覚仏と言う他仏と共通の仏格
を根拠に、釈尊が根本仏であることを述べています。

また『如実事観録序』にも、

「無始の仏界の外に更に釈尊無し、将た釈尊の外に更に無始の仏界無し。以ての故に但だ久遠始成の釈尊の当体を指して、以て無始已来の本仏と号するものなり」(如実事観録序・178)

「実に五百塵点に於いて則ち実に始成の三身にして而も即時に無始以来の本具の三身を顕し全体不二と成る」(如実事観録巻下・218)
と、同様の説明をしています。

また、『本迹自鏡編補 闕・巻上』に、釈尊が一切諸仏の本師である理由について

「分身外の諸仏の如きも、また分身に同じ。
智証大師の曰く『釈迦如来久遠成道皆な衆生の一念の心中に在り』と。当に知るべし、釈尊成道已後の分身に非らざる善徳仏等十方の諸仏の如きは、皆な悉く此の釈の『皆な衆生の一念の心中に在り』の一句の中に攝在す。
是の故に、一切の諸仏は釈尊一仏を以て即ち我が本師と為す。」

(102)

と説明しています。

この説明の意味が私にはよく理解出来ませんが、
「釈尊の分身でない諸仏も分身の場合と同様に考えればよい。『諸仏は衆生の一念の心中に在る』との考えに立って云えば、諸仏は所具の仏界に攝在している事になる。衆生所具の仏界は釈尊と同体である。と云う事は、一切の諸仏は釈尊に攝在されている事になるので、釈尊一仏を以て即ち我が本師とする」
と云う意味のようです。

また
「此の土に於いて入実し而して他土に於いて則ち若しは浄土、もしは穢土を取って衆生を摂取する、もしは分身、もしは他仏は今の所論に非らず。
且つ夫れ釈尊の本国土に於いて種熟脱し、此の土に於いて八相成道する久遠以来の諸仏の如きは、是れ釈尊の分身なるべしと弁明するの義なり」
(102)

と、「他土の諸仏や他土教導の分身のことは、この娑婆世界の衆生とは種熟脱の教導因縁がないので、娑婆世界の本師は何仏かの論義には、取り上げない。娑婆世界において、種熟脱の教導をした諸仏は釈尊の分身であると主張するのである」
とも説明しています。


永昌院通義 日鑑上人『本迹立正義』に、

「釈尊も久遠の当初、未だ妙法を聞き給はざる時は、我等の如き愚凡にして、而も釈尊已前の無始の古仏の本因本果の仏徳を具し給へり。然りと雖も、不覚にして流転し給うこと我等と全く同じふして異なることなし。幸いに内外の薫力に由って、先仏の本覚の妙法を信受し給う。是れ釈尊始覚の最初なり。信念増進して分に仏徳を顕し、いよいよ増進して修顕得体し給う。是れ釈尊の始覚の終わりなり。
此の時、釈尊の始覚と先仏の本覚と同体にして一毫の差ひなし。釈尊も我等も本来、事の因果不二、事理不二、生仏不二、自他不二、事の十界を事が直(まま)に具するが故なり。
其の已前の古仏等、仏仏展転して無始なり、また無終なり。
故に高祖『然我実成仏は我等が己心の釈尊なり。釈尊久遠実成の時、顕し給う処の仏は釈尊已前の無始の古仏なり』と判じ、また『無始広劫より未だ顕しまさぬ己心の一念三千の仏を造り顕しましますなり』と判じ給へり。」
(本迹立正義・宗全6-272)

と、「釈尊已前の古仏もそれぞれ、先仏の本覚と同体であるから無始無終である。釈尊の始覚は先仏の本覚と同体と成ったのであるから釈尊も無始無終の仏である」

と説明しています。


無始の事本覚(所具の本覚)については

「無始の九界全体、本来無始報応各三の事常住事一念事の三千の全体を具足し、無始十界全く前後無く、事理もまた前後無し。而して、事を以て体と為し、理を以て徳と為し、事理一体に由るを以ての故に、事理を束ねてまた事と名づけまた体と名づくるなり。
須く知るべし。現前の修事に対望すれば則ち本来の事理の故に、また性と名づけ、また理と名づく」
(本迹自鏡編下巻余之一・79)


「宗祖判じて曰く、『他宗の人をば当体の蓮華仏と名づくべからず』等とは、性本来覚体なりと雖ももし修行の功を藉らずば何を以てか其の本覚を顕すことを得んや。所以に吾が祖、修を以て性を奪って、斯の如く之れを判ずるのみ。今、予が謂う所の性とは、全く通途所談の法身非寿及び理性の義には非らず(本迹自鏡編下巻余之一・63)


「然るに此の所具の本因は是れ常修常証なり。所具の本果は常満常顕の本因本果なり。
然りと雖も冥伏して未だ現ぜず。現前せずと雖も、実に事常住の仏界を具足す。即ち之れを指して無始の事本覚と号するものなり。」

(本迹自鏡編補 闕・巻下141)

と説明しています。

「初めに真如の理法があって、その理法から十界互具のそれぞれの界(存在)が生じたと云う前後の関係でなく、十界の活動の徳性として理法が働くのだから、事体と理徳の前後は無く、事理一体である。
仏界の本因は常修常証の働きがあり、仏界の本果は常満常顕の働きがある。この仏界の本因本果を事本覚の体と言う。

ただし修行を借らなくては実際に本因本果の活動が起きないので、理性とも言い得る。しかし、現前せずと雖も、実に事常住の仏界を具足しているのであるから、法身非寿及び理性の義ではない。」


との意味であろうと思います。

また、本来所具の事本覚とは

「釈尊久遠の事成の所顕所具を用て、則ち之れを以て、衆生本有常住の事本覚を指的し、将た衆生本有の事常住の始覚を点示するの時は、是れ則ち無始にして始、始にして無始なり。宛も二羽両輪の如し。豈に台徒の始及び無始の異論に類せんや」
(本迹自鏡編補 闕・巻下142)

と、「釈尊が久遠の昔に顕した釈尊所具の事本覚であるとし、無始の本覚を顕すのだから始にして無始である。」
と説明しています。

「台徒の始及び無始の異論に類せんや」
とあるのは、天台の証真の自然本覚仏否定論の対破に当たらないと言う意があるのでしょう。


仏の元起については

『如実事観録序』

『八十華厳(廿一・五)十無尽蔵品』
「何らか無記法と為る。謂く世間の辺・無辺。何らか如来の最初の出世ならん。何らかの衆生が最初の生ならん。何らかの如来が最後の出世ならん。何らかの衆生が最後の生ならん」
の文。

『大法鼓経』
「迦葉、仏に白く『一切の無始の仏、誰が化し誰が教えしぞ』、仏の言わく『無始とは二乗菩薩の知る所に非らず。仏の元起の如きは知るを得べきこと難し、衆生の元起もまたまた是の如し(略抄)』」
との文。

『無性の攝論』
「謂く諸の如来、前前出世し、猶、生死の如く最初有ること無し」の文等を引き

「是れ則ち無始無終の十界事常住を説くの文なり」(如実事観録序・152)
と説明し、

さらに
『法華文句(一の廿一)』にある、
「但だ仏仏相望するに、是れ則ち窮まり無し」の文意も上記の経文等と同意を含む文とし、

「天台大師も内証には、仏界無始事常住、事理不二、及び事理に於いて則ち前後無きの旨を捉えていたけれども、理本事迹の義を点示するに止まれたのである(取意)」(如実事観録序・152)
と説明しています。

釈尊の久遠の昔の始覚は認めていますが、その始覚が顕現する本覚は無始であるとしているようです。

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