無始仏の論理その5。

綱要導師と優陀那日輝上人

日導上人(綱要導師)

日導上人は、『今此三界合文』により、随他意と随自意との二種の本門があるとしています。

随他意本門といって、経文上(説相)の説明では、

「寿量品の釈尊も五百塵点久遠の最初を尋ぬれば、則ち本行菩薩道の所修の行に由りて、始めて正覚を成じ玉ふ。『(五時懐中決に)久遠と説くと雖も其の時分を定め、遠本を説くと雖も因に由りて果を得る義は始成の説に順ず。具に寿量品の中に説く所の五百塵点等の如し』と云う、是れなり」(祖書綱要巻第九・法華学報第十号38頁)

と、釈尊は久遠の昔に始めて開覚した仏であるとしています。

『法華玄義七』の「本門十妙」に有る「六重本迹」の説明に基づいて、

「其の中の理事・理教・教行・体用の四重の本迹は、正しく今の釈尊、五百塵点劫の最初に凡夫たりし時、昔仏所説の十如実相の教えを稟けて、而して一心三観の修行を立て、六即五十二位を歴て、因より果に至り始めて三身の覚体を成じ玉ふの次第を明かす」
(第十四巻・法華学報第十三・十四合併号138頁)
と、久遠始成の釈尊の先仏を認めてるとしています。


それに対して、随自意本門は

「経文に『五百塵点劫の成仏』と説くは、伽耶の始成を破して、し始覚は即ち本覚なりと開して無始本覚の三身を顕わさんが為めに、夢中の言語を借りて開覚の時節を指して、且く成仏の言を立つ。」
(法華学報第十号39頁)
と説明し、

また、
「随自意本門とは、所謂る寿量品の文底五百塵点の所顕なり。『観心本尊抄』に『寿量品に云く、然我実成仏已来無量無辺百千万億那由他劫等云々。我等が己心の釈尊は、五百塵点、乃至所顕の三身にして、無始の古仏なり』と。(『玄義見聞』の六の十四に慧心流の古義を挙げて云く、『塵点の当初の事の成仏とは、迹化の近情を破す為め、譬えを塵点に借る故に、彼は能顕の方便なり。此の外に所顕の仏体、之れ有るべきなり。其の仏と云うは住本顕本の内証無作本覚の如来なり』と。此の義は今に同じ。」(法華学報第十号40頁)

と、始覚即本覚で、経文上の五百塵点劫の成仏説をもって(能顕として)三身相即無始の古仏で有ることを説いているのが寿量品の深義(随自意本門)だとしています。

『本尊抄』
「五百塵点、乃至所顕の三身にして、無始の古仏なり」

『授職灌頂口伝抄』
「此の三身は無始本覚の三身なりと雖も、且く五百塵点劫の成仏を立つ(是れ則ち能顕なり)。此の時、始覚の三身即ち三世常住なり(是れ則ち所顕なり)

等を文証にしています。

また『法華真言勝劣事』の、
「問うて云く。大日経の疏に云く、大日如来は無始無終は遙かに五百塵点に勝れたりと、如何。・・・五百塵点は際限有れば有始有終なり。・・・然れば則ち法華経は諸経に破せらるるか如何。
答へて云く、他宗の人は此の義を存す。天台一家に於いて此の難を会通する者、有り難きか」


と文節の文意を、

日導上人は
「寿量品の経文は五百塵点の久成を説いて伽耶の始成を破る。仏意は正しく三身相即無始の古仏を顕すに在り。而るに経文五百塵点の随他本門を以て之れを迹化に付し、文底塵点所顕は無始の古仏を以て之れを本化に付す。
故に、迹化の天台は但だ経文五百塵点の随他本門を弘む。文底所顕の随自本門の無始の古仏を宣べ玉はず。
然るに真言宗の元祖、本化付属の随自本門を盗み取りて、大日経に於いて三身相即無始の古仏を立て、還りて天台所弘の法華経に対して、其の勝劣を論ず。慈覚・智証等、之れを知らずして全く彼の義に同ず。故に天台一家に於いては、此の難を会する者、有り難しとなり」
(法華学報第十号58頁)

と論じています。

日導上人は、
始覚即本覚をもって釈尊の無始性を証しています。
(日導上人が先仏を認めているかどうかは未だ考察していません。)

『当体義抄』と『三世諸仏総勘文教相廃立』の五百塵点劫当初の成仏の始めを説いてある文を引いて「吾が祖もまた五百塵点の始めを立てているのに、どうして無始と云うのか?」との問を設け、

「答ふ。釈尊五百塵点劫の当初、我が色身は本来三身(常住の)如来の身体なりと開覚し玉ふのみにして、本の儘なり。成仏と謂うには非らず。・・・然るに経に『五百塵点劫の成仏』と説き玉ふものは、衆生、無始より思い馴れし夢中の心地なる故に、且く爾前夢中の言語を借り用ひて始覚の近情を破し、以て法華証道の悟りの本心を顕示し玉ふが為めなり」(法華学報第十号59頁)

と説明し、根拠として
『御義口伝』
「成とは開く義なり。法界無作の三人仏なりと開けたり。仏とは此れを覚知するを云うなり」

『授職灌頂口伝抄』
「此の三身は無始本覚の三身なりと雖も、且く五百塵点劫の成仏を立つ。此の時、始覚の三身即ち三世常住なりと。今の弟子の始覚の三身もまた我が如く顕して三世常住の無作を成ずべきなり」

の文を挙げています。



優陀那日輝上人。

『綱要正義』

綱要導師の随他意と随自意との二種の本門説に対し、
「所詮の実義、無作本覚の意を得。而して未だ塵点仮説の論に及ばず。・・・既に文上随他文底随自と言うに、何を憚って久成仮説を言はざらんや。」(日蓮宗全書・祖書綱要刪略正義会本142頁)

と綱要導師が五百塵点劫の久遠成道を仮説と言わない事を批判しています。

「経文は但だ有始に約して無始を談じ一仏に約して法界を顕すのみ。」
とし、
「台家、之れを覆相する故に有始を談ずるのみ。而るに両重に義を成す所以は、経、並に像末に投ず。故に如来巧説して、随他始覚の義を帯びるのみ。」(祖書綱要刪略正義会本152頁)
と、
「天台家は真実義覆う故に有始仏としている。文上随他・文底随自の二義が見えるのは、法華経が像法末法にも宣説されるので、如来の巧説として、像法弘宣法門の為めに随他始覚の義を帯びている」と説明しています。

「今典の妙は、正に十界常住に在り、然るにもし塵点久成の説無くんば則ち仏界常住未だ顕れず。」(祖書綱要刪略正義会本153頁)
とし、

「故に『或は己身を示し、或は他身を示し・・・皆な実にして虚しからず、・・・如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、』と。是れは十界常住の明文、寿量談理の要処なり。塵点久成の所詮、正しく此に在り。」
とし、
「或示己身・或示他身とは無始十界を謂う。無有生死若退若出とは本有常住を謂うなり。」
と細記を注し、寿量品は十界常住・無始十界を説いて居るとしています。

さらに
「要(かなら)ず知るべし。塵点久成の意、仏界無始を顕すに在り。普現色身の意、九界無始を顕すに在り。況んや『六万恒沙四大唱導』は密に十界を表す。『本と菩薩道を行じて成ずる所の寿命今猶を尽きず』は、また是の意、九界無終を顕すに在り」

と、十界常住・九界無終を意味する文を挙げています。

(無始九界を言わずに)若し単に仏界常住を詮せば、また未だ諸法実相円常具足の義(十界互具具足の義)を顕すに足らず。」

と十界常住・無始十界説の重要性を言い、

「未だ十界常住を聞かざる故に、謂って法身流動して九界と成ると為す故なり」
と十界常住を認めなと、法身流動して九界と成ると考えることになり、

「但だ理法身常住の義に帰す」
「九(界)を捨て一(仏界)を求むるの執を破するに足らず」

(祖書綱要刪略正義会本153頁)
と言う欠陥を生じると論じています。

「若し五百塵点久遠始成を実と為さば則ち無始無作の義、成ぜず。故に台家が久遠の始成を立つる如きは、則ち但だ遠成を貴しと為し、則ち無始無作の義顕れず。当家既に無始無作を実義と為す。則ち遠成は但だ是れ能顕の巧説のみ」(祖書綱要刪略正義会本142頁)

とも論じているので、日輝上人は文上の五百塵点劫の始覚は仮説であり、久遠釈尊は無始の古仏であることを説く事が寿量品の正意であるとしているようです。

「五百塵点久遠時の始覚を云う日導上人とは少し違いが有るようです。


日輝上人は証真の「修因感果のでない自然覚の仏(本覚仏)は認められない」との批判をどのように考えられていたのかと言う疑問が残りますが、
『祖書綱要刪略正義会本1423頁』
「久成を実と為すの害」として四つ。「久成を虚と為す功」として四つを挙げていますが、この説明をもって証真の考えに対しているように思えます。


『妙経寿量品宗義抄・上巻』に、
寿量品の所顕は無始本覚の三身であるが、必ず五百塵点、久遠の始覚に寄せて説かれている理由として、四つ挙げています。

「一に、久遠の始成を談ぜざる時は、久遠の弟子を論ずるを得ず。別頭の人を挙げざれば別途の法を立するを得ず。何を以てか後五広布別命の大法を顕すを得んや。是の故に久遠の始成を談ずるなり。」(四紙左)

(久遠始成を語り、久遠以来の教導を明示しないと、昔に教化した本化の弟子が居ることを論じられないし、本化の弟子に大法を付属する事などを顕せない)

「二に、単に無始を談ずる時は、法身常住の義を成ず。縱ひ三身無始と説くと云うとも、聴者は必ず性得三身の解を為す故に、修得の非実を顕すに由し為し。修得の果を破せずんば、永く生仏隔異の見を破するを得ず。則ち無始の仏界、非始の妙果顕れず(是れ一)
また九界全く本果が家の九界なること顕れず、十界同体の義究竟せず。(是れ二)
また仏界、本より九界を具するの義顕れず(是れ三)
則ち事具の三千究竟の実相顕れず。是の故に必ず遠成の始覚に寄せて無始を談ずるなり。」
(五紙右)

(始覚を云わないで直ちに無始仏であると談じると、単に真理の常住を説くだけと思われたり、理具の性徳三身のことだと解されやすい。そのように解されてしまうと、修得の三身でなく本来から自覚の三身である事の説明が理解し難くなる。修得の三身でなく本来からの自覚仏である事が顕さないと無始の互具平等が成立しないから衆生と仏とは隔異しているとの見解を破ることが出来ない。無始十界互具・十界同体の義が徹底しないと事具三千の実相を顕す事が出来ない)

「三に、遠成を以て近成を破する故に、始覚虚なりと雖も、而も全く廃すべからざる事を知る。則ち本覚必ず始覚を借りて顕れ、始覚必ず本覚に会するの義顕れ、本より迹を起こし、迹に依って本を顕す。不二の体用、本迹倶実の妙旨顕わるる事を得。是の故に必ず遠成の始めを談ず。」(五紙左)

(近成を破する為めに遠成が説かれるたのであって、遠成の始覚も実ではないが近成を破する為めに廃すべきでないのである。
本覚は始覚説を借りて説き顕すことが出来るし、始覚は必ず本覚三身を顕現する義が顕れ[始覚によって本覚三身が顕現されるとの意か?]、遠成の仏が迹身を応現して来た説によって本迹身の関係が明確に示される)


「四に、久遠の始覚を論ぜずんば、世世番番、三世益物、非生現生、非滅現滅の仏なることを顕すこと能わず。非滅現滅を談ぜざれば、滅後の弘経、持経修道の功用、必ず常住の仏身を見るの義顕れず。則ち流通の大益隠没すべし。
是れ最も本門興起の大事なり。是の故に必ず久遠の始覚に託して、無始本覚の能顕とする所以なり。」
(五紙左)

(久遠の始覚を云って、現身に開覚し説法し入滅する仏としないと、世世番番に出世し、三世益物し、滅に非ずして入滅を現じる仏で有る事を顕すことが出来ない。滅に非らざる入滅をしないと、入滅後弟子の菩薩が仏に代わって弘経する必然性や弘経の功徳を明確に説けないし、如説修行の功徳によって常住の仏を見奉れると云う事も説けない。以上の様な理由から、必ず久遠の始覚を通して無始本覚を説く必要がある)

と久遠の始覚を能顕として無始本覚を説いて居るのであると論じています。

続いて無始本覚を実義とする理由として、

「(経)文は久遠の始成を説くと雖も、無始本覚の義に結帰せざるときは、諸仏に新古高下ありて、隔歴の果となり、仏界尚を未だ融せず。況んや九界に於いておや。竪に隔異を成ぜば横もまた隔歴し、一身一念遍於法界の理に契わず。三千唯一の義成ぜず。」(六紙右)

(無始本覚の仏としないと、諸仏に新古高下の別が有ることになり、竪に三世の諸仏、横には十方の諸仏の仏果が共通しないことになる。法界全体が即ち仏の身と心であるという理が言えなくなる。)

「また、新成の仏は本化の弟子無く、分身の応化無く、多宝の願に契わず、化境の広狭、体用の優劣、永く不同を成じ、戯論の謗り何ぞ免るることを得んや。」(六紙右)

(成り立ての仏には久遠の昔に弟子となったという本化の弟子は無いことになるし、まだ分身を十方に現していないので、分身の応化は無いことになる。さらに分身集合して身を現すという多宝の誓願にも応じることが出来ない。他の諸仏と化境の広狭や教化力の優劣が生じ、どの仏が勝れているか論じる戯論を生じる事になる

「また、前品に『如来、今諸仏の智慧、諸仏の自在の神通の力、諸仏の獅子奮迅の力、諸仏の威猛大勢のちからを顕発宣示せんと欲す』と云い、今品に『諸仏如来、法皆な是の如し』と云い、後品に『願はくは我未来に於いて長寿にして衆生を度すること今日の世尊の如く、寿をとくことまた是の如くならん』と云う。
三身の寿量、諸仏に通ずること文義必然なり。
況んや、『我れ然灯仏等と説き、またまた其れ涅槃に入ると言いき、是の如きは皆な方便を以て分別せし』と云う。
三世の諸仏、実体無二。文義必然なり。
故に宗祖『灌頂抄』に『且立塵点』と云い、『本尊抄』に『五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり』と宣べ給へり」
(六紙左)

(『涌出品』の『今欲顕発宣示 諸仏智慧・・・』や『寿量品』の『諸仏如来 法皆如是』の文、また『分別功徳品』の『願我於未来 長寿度衆生 如今日世尊・・・説寿亦如是』との文によれば、三身の寿量は諸仏共通であること確実であり、また釈尊が過去世に於いて然灯仏等として応現したとあるので、三世諸仏の実体は無二であることが確実である。故に日蓮聖人も『灌頂抄』や『本尊抄』において久遠始成を能顕として無始の古仏であることを説いて居ると教示している)

と論じ、
「今経は台家に約すれば、過去久遠なれども猶を有量なり。今家は寿量品にて過去の無始を実義とする故、報身の寿命、過去未来倶に無量なり」(八紙左)

(報身は未来に約すれば無量(無終)であるが、其の修証の始めがあるので諸経では有量であると定められている。法華経も台家の解釈では、寿量品の釈尊は過去久遠であるが久遠時の始覚を云うので有量である。今家(日蓮聖人)の解釈では、無始を実義とするから報身も無始無終の寿命である)

と、寿量品は釈尊が無始の古仏である事を説いていると見るの実義であるとしています。

日輝上人は塵点久遠成道を仮説とする見解のようですが

『妙経寿量品宗義抄・上』に、

「此の三身は開悟の時、始めて得るものに非ず。人々の生得の果報なるを本有無作。無始久遠の三身と云うなり。」(二紙右)

また『下巻』に於いて、
『久修業所得』の解釈をしている箇所に、

「我本行菩薩道所成寿命を頌するなり。久修に因って久寿を得るなり。平等の慧慈を仏業とす。修徳の精進なるにあらずんば何ぞ長寿を得ん。真寿を得んと欲する者は、真因を修すべし。」

とも論じてるので、性徳三身を無始古仏とし、無始古仏を顕現す
るには修因の行が必要としているようです。

「始覚は本覚を覚ったのだから久遠始覚の釈尊は即ち無始仏である」とする綱要導師の見解と同じようにも思えます。

また、
「我本行菩薩道」の句の意趣について、

「三身無作と雖も、必ず修証を用て顕す事を示さんが為めなり」
「本時の果、修証あるを説いて、上来、久遠の果体を結成するなり」
「果、必ず因を用て顕すは、仏界具九界の義を示すなり」

(三十六紙右)

と、修証によって三身無作を顕現する旨を語っていますが、この中、「果、必ず因を用て顕すは、仏界具九界の義を示すなり」
との意味は、山川智応博士・高橋智遍居士が「所具の九界を法性化し、衆生教導に応用する事が我本行菩薩道の意味」との解釈と通じるのではと思われます。


まだ読んでいませんが、『昭和三年の大崎学報第78号』において北尾日大教授が日輝上人の塵点仮説論は教相破壊の邪説であると批判しているとの事です。

目次に戻る