無始仏の論理その6。
 山川智応博士と高橋智遍居士

山川智応博士

山川博士の著書より、「なぜ無始古仏と言えるか」に関しての説明部分を抄出します。

「仏教では、諸法実相の理は無始の本有であり、これに迷っている衆生も無始であるが、その理を覚った仏陀は有始のものだとする。したがって『仏も元は凡夫なり』といふ。
それは『本覚は不覚なり、本覚を始覚するなり』というものだから、・・・理に迷うことが先づあり、迷いから覚りが出るとするのである。・・・

かういう一般仏教に対して、別類の仏教がある。それが日蓮聖人のいはゆる本化仏教といふので、この仏教では、宇宙は一体のものであるが、その固有の活動には両面がある。即ち法性縁起と無明縁起である。・・・

かくの如き両縁起が無始より法界即ち宇宙に固有し、各々因果によりて活動する。・・・

一般仏教の如く、どうして実相の理のみ前にあり、これに迷うものが先ず出来てから、覚るものが出たかといふ。・・・本覚は不覚なり始覚は本覚を始覚するなりといふ、理からどうして事が出て来ったか、不覚からどうして始覚が出て来たかが説明困難となり、宇宙そのものを法身仏の仏体だとしても、ではなぜその中に仏体に違背する無明が存するかは、法性無明は法界固有で、無明は自体不能証、法性は一切能証の力ありとするの外に、説明の方法は存在しないのである。是れを解決したのが法華経哲学の『具』の法門で、・・・『縁起縁生』の法門の根底的思想を為すものである。・・・

その無始以来絶えざる法性縁起の活動を、『三身常住三世益物』といひ、その主体を仮に『本仏』と名け(る)、・・・

「観心本尊抄」に、寿量品の仏をば『五百塵点乃至所顕三身、無始古仏也』とある。五百塵点と数が限られていれば、決して無始でなく、天台も「玄義」に『これより久しいのは東方五百塵点の国を過ぎとあるを、四方を以て譬えとする』などと説いていらるる。しかし日蓮聖人はさように見ずに、無始を譬説せられたものとせらたが、その無始のはじめに『我本行菩薩道』したとなれば、やはりはじめから仏界があったのではなく、はじめは菩薩であったのではないかとの疑問があるが、それは無始の仏界無始の法性縁起の因行面をいったので、無明縁起から法性縁起に入らんとしたものではない。

その仏界の因行面を『本因妙』といひ、その果徳面を『本果妙』といひ、因果の住処を『本国土妙』といひ、本門仏教には、この三方面は本仏に固有しているとするのである。」

(開目抄の研究303~308頁

「法華経寿量品の仏は、これを本仏釈尊即ち本体実相を示した釈尊として、事実は歴史上の仏陀であっても、これは迹仏といわぬ・・・

本化高位の菩薩は、五百塵点劫の昔から本仏の弟子となっていて、『昼夜常精進、為求仏道故』と、未だ嘗て仏とは成っていないのである。
これは迹門仏教や権門仏教に普くいふところの、仏は三世十方に在り、菩薩は菩薩道を行じて仏と成るといふ仏教とは、根本的に性質を異にしているものである。
この権迹仏教の思想は、仏は滅度する場合に、仏の補処であった菩薩が仏と成る、それは菩薩道を修行して徳が満ちて仏と成るとする。

これを国家にすれば、君主は有限の生命であり、継いで位に登るは徳の充ちた者であるといふ、有徳作王思想となる。然に本門仏教では仏は唯一であって、二人三人とはない。たとへその応身は滅度を示しても、実には三身常住で三世に同一の本仏が迹を垂れられるとするから、補処の菩薩の成仏といふことはない。

では本門仏教で『成仏』といふのはどういふものぞといへば、本仏の道を実修常証して、当位のままに仏道を行ずること、日本臣民が皇道を奉戴して、当位のままに皇道を実行しているのが、皇民たる完成であると同じなのである。」

(開目抄の研究310~312頁)


「『本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし、(開目抄)』
とあって、法界に無始の十界の存在をいはれています。
無始の無明縁起を認めれば、真の円教は『一起一切起』でなければなりませぬから、無始の法性縁起をも認めねばなりませぬ。

即ち無始の九界縁起と同時に、無始の仏界の縁起をも認めねばなりますまい。

これは法界の自然任運の縁起で、決して造作によったものでないのですから『無作』といはねばなりませぬし、無始の縁起とすれば『本有』といはねばなりませぬ。

経に『我本行菩薩道』といはれ、『我実成仏已来無量無辺』とあるのはそれです。

そうすると本因の時にも、すでに法身のみではなく、報身の智慧功徳と、応身の慈悲喜捨もともに動いておりますが、いまだ全分を円満化せられたのではありませぬ。

そこに三身始めより事実に存在はしたが、報応は全分的に動いて居いないから、横に並有していたのではないことがわかり、而も始めは無明縁起で迷っていたといふのでなく、無始の始めから法性縁起で、菩薩行をせられていたのですから、始めは法身のみで、次に報・応と縦に出て来たともいへませぬ。
即ち不縦不横の三身があります。

そこでこれについて明らかにせねばならぬのは、法性縁起の仏界の本因の菩薩行の境界と、無明縁起の菩薩界の縁起の境界との相違で、おれをここでいっておかぬと、この二つの差別がつきませぬ。

法性縁起の仏界の本因行では、
前表に出した本有十界の理法を、法性縁起の自然法爾として、全体的に円満に覚知するのです。
覚知はしても未だ実践されていませぬ。そこでその覚知によって本因の菩薩行を起こされます。それは事の一念三千の智慧慈悲行です。
三身に約すれば法身の全面を覚ると、同分に報応の智慈が行ぜられるのです。

然るに無明縁起の菩薩界は、無明縁起の故に法性の全体理法の全体を円満に先ず覚ること
ができず、部分的にしか偏にしか法界の理法を、見る事ができませぬ。

かの法華経開顕以前の二乗に対立したる権大乗経の菩薩行が無明縁起の菩薩行を代表したもので、「無量義経」に『無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず』(十功徳品)とあるのはこれです。

ですからそこには法身の体のみあって、円満な覚知すらなく況(ま)して報応二身は存在しないのです。

本因の菩薩行では、始めから理法の全体を覚って乗法において分分に修因得果して行かれるのですから、法身の全体を覚るのみでなく、直ちに全体に即する部分的活動を開かれているので、報・応二身もすでに始めから存在することになるのでして、そこに『三世に於いて等しく三身あり』。而も最初から不横の三身の常住を説くことができるのです。」

(本門本尊論収録・本門本尊唯一精義46頁)


「寿量品の開顕に依ると、無始久遠の本時の本有の妙法蓮華経で、法性縁起の無始の仏界も無明縁起の無始の九界も、同時の縁起であるから、無明縁起無始の九界はおのおの本具する仏界の性はもちながら、無明縁起の故にそれを蔽って発起せずに、九界の迷因迷果にさまようている時に、法性縁起の無始の仏界は、九界の性も本具しながら、法性縁起の故に、万法はこれ妙法蓮華の法と覚り、九界の迷因を却て仏界の本因に化して、竟に本果の妙証を得られた。

その時の因行を経に『我れ本と菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命復た上の(五百塵点劫の)数に倍せり』といはれ、本果の妙証を得られたことを、『我れ実に成仏してより已来甚だ大いに久遠にして・・・常住にして滅せず』といはれている。

かかる仏は何れの経にも明かしていない、五百塵点劫という超数量的久遠の時に、何れの仏の教えに依ったのではなく、自ら菩薩の道を修して仏の果を得た。
仏界の因を修して仏界の果を得られた。
仏界の因といふのは何かといへば、一切の諸法には悉く十界の性を本具して、如何にとも化し得る妙法である。法性縁起の故にかく覚りて、自らに具する迷いの因たる九界の性をも、悉く化して常楽我浄の資料とし、他を救い国土を荘厳する用に供せられた。
それが『我本行菩薩道』だ。

かくて九界の性をも悉く仏界化しおわって、十法界悉く常楽我浄の四徳波羅蜜を奏でる果徳を得られた。それが『我実成仏』である。これを久遠実成と名づける。

因行と果徳に時間的隔たりがあるから、無始の仏果とはいへないが、無始の仏界の因を修して無始の仏界の果を得られたから、これを『無始の仏界』(開目抄)といひ、『無始の古仏』(本尊抄)といはれたのである。」

(本門本尊論収録・妙行正軌略解119~120頁)


「諸法実相といふのは、迦毘羅衞城に生まれたとせられる釈迦牟尼仏が、始めて覚りを開いてそして覚ったところの宇宙の真理なのであるが、その諸法実相では本体的の理が前にあって、仏は迷いの境界からその理を覚ったものとするのである。
しかるに、法華経の涌出品寿量品では、そういふ釈迦牟尼仏は、十方世界の過去現在未来に出現する仏と同じく、方便示現して迹を垂れた垂迹の仏であり、真の仏といふものは、一切衆生の中の仏界を除いたる下九界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩)の衆生が、迷い出した初めから、悟りの方へ進み出されたものであって、迷えるものが無始の存在なれば、悟れるものも無始の存在である。

その無始の昔から一たびも迷いの因を修して迷いの果を得ることなく、悟りの因を修して悟りの果を得られて、宇宙間に常住して十方三世に常に迷える衆生を救おうとしていらるる実在者を本門の仏陀と申すので、その本門の仏陀即ち本仏を顕したのは、一切諸経の中に法華経の如来寿量品しかないのである。」

(本門本尊論収録・妙行正軌略解30~31頁)

「元来法華経本門寿量品以外の仏法においては、『諸法実相』の理は本有だが、これを証った仏は本有ではなくて始めがある。『本覚は不覚で本覚だと始めて覚るのが始覚である』。そこで『法身は無始無終の理身、報身は有始無終の智身、応身は有始有終の悲身』といふことになる。

随って仏といふものも、本来迷いの凡夫から覚った『一迷先達以て余迷を救う』もので、本質は衆生と違わないものだったとなったて、完全な汎神論的教理を為しているのだが、同時に『迷いからどうして悟りが生まれ出たか』の疑いは、基督教に対する根本的疑問たる、『真善美の具象体たり全知全能なる神から、どうして偽悪醜の源たる悪魔がでたか』と共に、両教の最難点であり、弁証法的『無』の本体などとでも解かねば、解き方がない訳だ。

法華経の如来寿量品はそれに根本的解決を与え、一般仏教と基督教とに対する、根本的の両疑を根滅したものである。

それは一般仏教では何れの経にも、仏教の教主人間釈尊が五百塵点劫といふ、譬喩として殆ど無始の表示と見るの外なき、有限的無限数の昔からの本来の仏陀で、それ以来の三世十方の仏陀は勿論、凡そ救世度人の聖賢は、みなその垂迹だなどといふ事を説いてある経はない。

そして何れの経に説かれている仏も、みな前の仏に随って菩薩の道を行じて仏になったとある。阿弥陀仏でも薬師如来でも毘盧遮那仏でもみなそうだ。

然るに寿量品には『我れ本と菩薩の道を行じて』とあって、本仏は何れの仏にも随わず、始めから仏道の本因を修して、『我れ実に成仏してより已来甚大久遠・・・常住不滅』といふ本果を得たとある。

斯の如くこの法界は無始の昔から悟りの因を修して悟りの果を得た本仏と、迷いの因を修して迷いの果を得た九界の衆生との、同時倶存の存在体なのであることは、清浄の蓮華が必ず泥の中に生ずる如きもので、これ即ち妙法蓮華経であると示された。」

(本門本尊論収録・妙行正軌略解41~42頁)

等と見解を論じています。


高橋智遍居士

上記の山川智応博士の見解を平易に説いている高橋智遍居士の講演録があります。
(昭和40年5月16日 大阪市成正寺に於ける「純正日蓮主義関西講習会第一回」の『講演速記録・日蓮本仏論批判』)


「先ず法華経の迹門と本門の区別を申し上げますと、

法華経の迹門の方はどういう事を説いたかと云いますと、法華経に来る迄はこの地獄の衆生が志を立てて餓鬼になり、餓鬼から畜生に進み、畜生から修羅に進み、修羅から人間に進み、それから人間から天人に進むもの、人間から声聞、縁覚、、人間から菩薩、仏になるもの、こういう具合に進み方が違って来ますけれども、こういうものがこういう具合になっているんだ。

所が法華経の迹門では、人間の心の中に縁覚の性質も、声聞の性質も、菩薩の性質も、仏の性質も人間の心の中に皆入っているんだという事を明かした。

法華経に来る迄それを明かしてない。明かしてないから迷いが先にあって、悟りが後にある、これがね、わからなかった法華経に来る迄、なんで迷った所から悟りが出て来るか、男から女が飛び出すよりむつかしい問題なんです。・・・・

法華経の迹門に於いて始めて、この地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天人この六道の衆生に、ちゃんと声聞の性質も縁覚の性質も、菩薩の性質も、その菩薩が完成して行く仏の性質も皆仏性としてちゃんと具されているんだという、性具の法門が成立った。

さあなり立ってはみたもののですよ、成り立ってはみたもののまだ、これでは徹底しない、なぜかというと迹門でいいましたならば、これは本来の仏、本来の菩薩、本来の声聞、縁覚じゃない。
皆んな途中かあら声聞、縁覚になった。

所が法華経の本門に来て、この仏も、菩薩も、声聞も、縁覚も本来から有るんだ、だんだんに迷いの方が先で悟りの方が後ではないんだ、先迷後悟これは迹門迄こうなんだ。
所が本門になって来て悟りも始めから有るんだ、迷いの方だけでなし、悟りも始めからあるんだ。
でありますから無明と法性とが両方ともこの宇宙の始まりから活動しているんだ。という事をば法華経の本門で、寿量品で説き明かされた。これはね、もう仏教の大革命なんです。


もう五千巻、七千巻の経典の中に何処にもない事です。仏教の大革命。この大宇宙には今まで仏と云えば人間が志を立てて、そうして、難行苦行して菩薩から仏様へと悟りを開いて行ったもんだと思ったならば、あに計らんや、この大宇宙には地獄が本来あると同じように仏様も本来活動しているんだ、ただたんに仏性があるという、そんな生やさしいもんではない。仏性があるなんて、生やさしいもんじゃない。仏様もね、仏様が本来この大宇宙に地獄界がは動き出すと同時に仏界が動いている。

こういう具合に、本来大宇宙に仏様の方が動いている。迷いの地獄の方が動くと同時に本来仏様が動いている。・・・

それは菩薩行が済んで、それから仏様になったと云う事は因果の原則にちゃんと則っているけれども、始めから本仏が有るというと、
「我れ本、菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶尽きず。復、上の数に倍せり」
というのはこれはどうなるんだ、始め菩薩でそれから仏になる、これは迹門の仏なんです。本門の仏は始めから仏なんです。始めから仏だとなったら我本行菩薩道、所成寿命はどういう具合になるんだ。
これはね、法華経の本門の方の仏は、因果の法則というものをば無視したもんじゃないかと、こういう疑問が起きてくる。こういう疑問が起きて参りますね。・・・

法というものは、これは仏を生ずるもの、で、仏は法が動いて仏が出てくる、その仏が法によって動かされて、そして法を覚ってくる、覚られるものは、法であります。
その覚られた法に則って、そうして仏は御自分の人格をば成就していく、仏はその成就された体験に則って法をば説いて行く、こういう関係になります。・・・・

この大宇宙に真理が無始無終に存在すると云うのはね、迹門でも云っている、迹門でも、所がこの大宇宙にその真理と共に人格も又一緒に存在しているという事は、本門でだけしか云わない。真理と共なる人格が、この大宇宙に一緒に存在しておると云う事は、本門でなければ云わない、それならば真理が先にあって、覚った人格が後から出てくるというのが之が迹門なんですよ。

真理が動くと同時に真理と一体になっている人格が動くんだ。という事が法華経の本門の方なんです。・・・


宇宙の全体の真理を覚る智慧が自ずから法から生まれてくる、というのは法と人格、法格と人格が、根本に於いて一つであります。その根本に於いて一つなる法が動き出してくると、法とちゃんと一体不二の人格が動いてくる。・・・

法華経に来る迄は、法身は無始無終であるけれども、報身は有始無終である、応身は有始有終である。法身はこれは法華経に来る迄、真理はこれは無始無終に始めから大宇宙に有るんだ、けれどもその真理をてらす処の智慧、智慧というのは、これは真理をてらし終わった始まりがあって、そうして、それは真理を全部てらしてしまうと、真理の永遠なるが如く、真理と常に共に無終になってしまう、その大智慧を以て、衆生界を導く慈悲を起こしてくる。その慈悲は、衆生界の出没に応じて、始めあり、終わりある、これが法華経に来る迄の仏身論なんです。

処が法華経の本門に来ますと、単に法身だけでなしに、智慧も、慈悲も共に無始無終なんだ。所謂智慧と慈悲、これを仮に人格とします。この法身の方を法格とします。

永遠なる法格これは法華経でなくとも説いている。処がその永遠なる法格と共なる永遠なる人格というのは、法華経の本門寿量品でなかったららば、これは説き出されてない。・・・

宇宙にはちゃんと、法界を一貫した真理がある、その法界を一貫した真理が動き始まると、仏様という人格が出てくる。それは元来は真理と智慧、法格と人格は元来一つもんなんだからです。
一つもの、その一つものだという事を非因非果の妙法だとこういうんです。・・・

さて今度は同じ十界互具の妙法真如の中にあって、仏は始めから覚っている。始めから覚っている、その仏様の方から法界全体、妙法真如を見れば、所謂仏様の方から見ればという事は、果に約す、

仏様の方から見れば始めから覚っているからね、この始覚なんでない、本覚なんです。本覚、そうして九界をどうするかと云えば、九界を仏の用(はたらき)の自在なる応用面に持って行く、・・・

久遠の本仏が御自分の御心の中に持っていらっしゃる煩悩、九界の心、その九界の心をば仏界化する、九界の心をば仏界化する事が、我本行菩薩道なんです。そういう事なんです。我本行菩薩道と云うのは、

我もと菩薩の道を行じて、と云う事はそれは仏様が、始めなき始めに於いて、我が心の中の九界の心、迷いの心をば悉くさとりにしてしまう。九界を仏界化してしまう、そういう智慧と行、それが菩薩道になるんであります。


でありますから、うんと簡単に申しますと本有の仏界、本来の仏界の中の九界が本因なんです。そうして仏界の中の仏界がこれが本果になる。こういう具合になる。・・・」


両先生の見解は

「寿量品によれば釈尊の先仏は居ない。宇宙の始まりから、法性縁起の仏界と無明縁起の九界との本有十界が活動している。仏は己心所具の九界を法性化(悟り化)し、応用し教導を行う事が我本行菩薩道である。迷いの凡夫から修行して仏果を始めて得た仏ではない。本因行と同時に本果も働いている。
故に無始の古仏釈尊である。」


と云うもので、優陀那日輝上人の見解の系譜に属するように思えます。


『三世諸仏総勘文教相廃立』

「釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、」(昭定1698頁)
との文を根拠に、釈尊も凡夫地から修行して開覚した仏とする見解があるのですが、高橋智遍居士は『三世諸仏総勘文教相廃立』を偽書であるとし、

『当体義抄』
「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時因果倶時不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因妙果倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり、」
(昭定760頁)
の文を根拠に

「聖人理を観じて万物に名を付くる時」凡夫じゃない、聖人なんです。これが本仏なんです。
至理というのは、至れる理、至理はこれは本法、宇宙に本来存在している、本法、それから聖人理を観じてという聖人は、これは本来の仏の本仏なんです。」(講演速記録・日蓮本仏論批判)
としています。

隆門の日憲上人が『即身成仏名字口唱決』

「経に云く、我本行菩薩道・・・我とは釈尊凡夫地の時なり、菩薩道とは上行菩薩の行なり・・・時とは前仏本涅槃妙の滅後、末法の時なり」(宗全第九巻177頁)

「凡夫の釈尊已前に前仏の出世有り。・・・其の滅後の本利益末法の時、釈尊、我等が如く名字凡夫にて本因の位に居し、口に南無妙法蓮華経と唱へ玉ふ。是れを尊本因妙行菩薩道と云うなり」
(宗全第九巻228頁)

と論じている見解と大きな違いがあります。


先仏が居たとすると、三世十方の諸仏の根本仏との仏格が薄まるように思えますし、上引の『三世諸仏総勘文教相廃立』と『当体義抄』との文は、共にむしろ前仏無くして独悟したとの意に読み取れますが、

隆門では

「本因妙には本師無くしては叶わざるなり。此の積劫行満に依って本果妙の成道を成ずる時、別に師無ければ独悟するなり。・・・我が身を五大なり、妙法五字と習って、自行の成道を唱え玉ふ事は自然覚了なれども、覚って見玉へば、本因妙の時、積劫行満して、本果妙の成道を唱へ玉ふなり。仍って是非共に本因妙の時は本師無くしては叶わざる事なり」(日忠上人・観心本尊抄見聞・宗全第九巻144頁)

と弁明しています。久遠釈尊に本師無しとする山川智応博士との見解と大きな違いが有るようです。

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