日本テーラワーダ仏教協会のA・スマナサーラ長老著
『般若心経は間違い?』を読んで。

その一。

唯識の専門家である太田久紀氏が著書『凡夫が凡夫に呼びかける唯識』(大法輪閣刊)
において、阿頼耶識は無変化の実体的なものでないことを力説しています。

「阿頼耶識は固体でも実体でもない。〈種子〉を受けいれる透明なガラス容器のようなものでないことはいうまでもない。仏陀が八十年の生涯を通して語りかけられたのは、諸行無常・諸法無我の真実であって、固体的な人間観の打破こそがその目的でたといってもよいのである。いくら八識別体説をとるからといっても、阿頼耶識を実体的にみることなどはないのである。
・・・前にも、〈種子〉というのは〈生果の功能〉といって、一つの力であることをみtら通りであって、決して粒子や塊ではない。・・・いずれにしても、阿頼耶識も種子も実体的なものではないのである。」(凡夫が凡夫に呼びかける唯識・66頁)・・・阿頼耶識は固体でも実体でもない、動き続けている、ということを説いたもう一つの有名な言葉をあげておこう。それは『唯識三十頌』の
  恒に転ずること暴流の如し
という一句である。・・・阿頼耶識は、決してガラス容器のような固体ではないのである。」(68頁)・・・だから『解深密経』に、
  我(仏陀)は、凡と愚とには(阿頼耶識の教えを)開演せず。  彼(凡愚)は、分別し執して我(実体的自我)とするを恐れて  なり。
といわれるのだ。うっかり、人間の根底には薫習を受け付ける阿頼耶識が在るなどというと、それを実体的に考えようとする傾向を、凡夫が生来もっていることを仏陀はお見通しなのである。阿頼耶識はーつまり自分は、固体でも実体でもない。そこは寸分も狂ってはならぬのである。」
(72頁)
と、阿頼耶識は固体的、実体的なものでないと力説しています。

そして
「『成唯識論』に、
《人間が刻々に変わるものであるならば、なぜ、記憶とか、稽古ごとの習熟とか、怨みを忘れぬとか、恩に報ゆるとか、過去の行為の結果があらわれるとか、六道輪廻するなどと云うことが  あり得るのか?》
という質問を設けているところがある。そしてその答えは『非常非断の阿頼耶識があるからだ』という。
つまり人間には刻々変わってつながらない一面(非常)があるのはたしかだが、同時に、つながる面(非断)もあるからだというのである。」
(71頁)
と述べ、さらに

「阿頼耶識を実体視してはならぬことを、しっかり胆の底にたたきこんだ上でのことだが、阿頼耶識の連続性、自己同一性の面を唯識が捉えていることには、積極的な大切な意味があることも見落としてはならない。」(72頁)
と述べています。

パリー仏典『ミリンダ王の問い』
「大王よ、それと同様に、ひとはこの〈現在の〉名称・形態によって善あるいは悪の行為をなし、その行為(業)によって他の〈新しい〉名称・形態が次の世にまた生まれるのです。それ故にかれは悪業から免れないのです」(ミリンダ王の問い・東洋文庫7ー124頁)

「死とともに終わる〈現在の〉名称・形態と次の世においてもまた生まれる名称・形態とは別のものであるけれども、後者は前者から生じたのです。それ故に、かれはもろもろの悪業から免れないのです」(東洋文庫7ー126頁)

と説明している転生の非連続の連続性を、さらに詳しく解明しているのが唯識論の阿頼耶識の思想であると言えましょう。

A
・スマナサーラ長老著『般若心経は間違い?』に於いて
「そういうわけで仏教の思想体系に、唯識論が何か新しい風、新しい革命を起こしたわけではないのです。ただ仏教を笑いものにしてしまっただけです。
なぜなら『阿頼耶識という根本識があるのだ』という思考は、インド思想から言ったら、根本魂、アートマンと同じ話だからです。明白な実体論に陥っているのです。」
145頁)
と述べていますが、

太田久紀氏著『凡夫が凡夫に呼びかける唯識』・『成唯識論要講・第一巻』を読むと、『般若心経は間違い?』の阿頼耶識思想に対するこの批判は、唯識論の阿頼耶識の概念を全く把握し損なっている批判であることが解ります。


その2。

そのまま反論となる文章が太田久紀氏著『成唯識論要講』に有りますので、紹介します。
【 大乗仏教の経典(『解深密経』)を根拠にして、阿頼耶識はあるのだということをいいましても、・・・勝手に作った経典ではないか、大乗経典といってもそんなもの信用することはできない。という批判がでてくるのです。・・・それに対して『成唯識論』は反論を加えます。・・・
諸大乗経ははまず第一に「皆無我に順じ」大乗経は無我の教えを説いている。・・・大乗経は無我を説いている。仏説と認めざるを得ないと反証するのです。
第二番目は・・・迷いから離れていこうとする。迷いを乗り越そうとする。迷いから背いて「還滅に趣向せり。」還滅は涅槃と菩提。涅槃は空寂の境、静かな証りの世界。菩提は空を見極める智慧。涅槃と菩提という世界に向かっていく。つまり涅槃とか菩提を求めていこうとすることを説いているのが大乗仏典である。
第三番目が「仏・法・僧を讃し諸の外道を毀る。」仏・法・僧を讃るというところがポイントでしょうね。
第四番目「蘊等の法を表し。勝性等を遮す。」五蘊皆空というのでよく知られています。五蘊の教えを表し、勝性等は外道の思想の中で、永遠に変わらない実体というものを否定するのです。
「大乗を楽う者に。能く無顛倒の理を顕示する契経に攝めらるると許すが故に。」無顛倒の理を顕示する。・・・

つまり大乗経典はお釈迦さまの教えではない、勝手に自分達で作ったものだという批判に対して、無我が説いてある。これはお釈迦さまの教えの根幹である。それを証る、無我を証るという、解脱とか証りという方向が説かれている。
仏・法・僧の三宝を讃えている。五蘊の教えを現している。こういうことを見ると大乗経典は紀元前一世紀頃できたと歴史的にはいうかもしれないが、基本的には仏教の根本が説かれている。だから無我を説き還滅を説く。仏・法・僧を讃えて仏教の真髄を押さえているではないか、という反発をするのです。・・・

文献的な基準に随って見るのではなくて、その教えが真実を説いているかどうか、教えの中身に立って見てゆく。そうすれば大乗経典は例えお釈迦さまが亡くなられて何百年も経ってからできた経典であろうと、中身を見ろ、・・・偽経ではない。本当のお経と少しも違わない、こういう見方をしてゆくのです。・・・
第五教証です。・・・「大衆部の阿笈摩(アーガマ・阿含)の中に。密意を以て此れを説いて根本識と名く。」大衆部は根本識という。・・・「密意を以て此れを説いて根本識と名く。」第八識を説いて根本識と名けている。
上座部の場合には「上座部の経と分別論者とは。倶に密に此れを説いて有分識と名く。」・・・上座部とか分別論者の使っているお経の中では有分識という言葉が出ているというのです。

有分識の有は三有、三界のことです。分はそれの因のことである。つまり三界を生み出す原因となる心。これを有分識という。・・・三界、我々の住んでいる世界を作り出す原因となる心を有分識と呼んでいる。これも有分識と呼んでいるけれど本当は阿頼耶識だといいたいところです。

今度は化地部(では)、窮生死蘊という。・・・生死を窮めて続いていくところの蘊。これも生死を窮める。生死を一貫して流れていく心を説いている。

もう一つ「説一切有部の増壱経中にも」・・・説一切有部のお経の中には「阿頼耶を愛し。阿頼耶を楽い。阿頼耶を欣び。阿頼耶を憙ぶ。」そういう言葉が出てくるではないか。・・・

つまり阿頼耶識は唯識が始めていきなり言い出したことではなく、伝統的な経典、つまり大乗経典ではない伝統的なお経の中にも出てくる。つまり阿頼耶識という深い人間の心の世界は、新しい経典の中にも古い経典の中にも説かれていると(成唯識論では)主張するのです。 】

(以上は太田久紀著・成唯識論要講第二巻36~45頁略抄)

その3。
『般若心経は間違い?』
「唯識論は明白な自己矛盾です。認識のはたらきについてお釈迦様は認識は無常であって変化してはたらきますよ、と詳細に心理学的に説明されています」(144頁)
などと唯識論を蔑んでいます。

唯識論は、無常であって変化する認識の実状を第八識・第七識・第六識の働き方を、パーリ仏典における心理学的説明より、さらに詳細に説明していると言い得ましょう。ですから、貶す必要などないと想われます。

また
「『阿頼耶識という根本識があるのだ』という思考は、インド思想から言ったら、根本識、アートマンと同じ話だからです」
(145頁)
と批判していますが、この批判が的外れであることは、上記の【その1。】に、すでに指摘しました。

また、スマナサーラ長老は
「唯識論は自己矛盾です。阿頼耶識は『認識できない知識』なのに、それをどうやって説明できるというのでしょうか?『はじめからアクセス不可能な、知ることが不可能なものがあるのだ』という証明できない妄想概念を最初に作って、それから語っても話しにならないのです。・・とにかく唯識論はすごい矛盾です。」(146頁)
と論じていますが、
『成唯識論』において、阿頼耶識の存在論証の「五教・十理」を語る中で、部派仏教においても、根本識・有分識と云う阿頼耶識の原型となる思想が有ったことを指摘しています。

唯識論が勝手に阿頼耶識の存在を妄想したのではないのです。
成唯識論は経証に並んで十箇の道理から阿頼耶識の存在の証明をしています。妄想概念などとは速断するのは如何なことかと想われます。

今回は「十個の道理」の中から分かりやすい幾つかの道理を紹介し、スマナサーラ長老にたいする反論とします。

『成唯識論』には、前記のように阿頼耶識が有る事の経証を挙げ、続いて、阿頼耶識が有るとしなければならない十箇の道理(十理)を挙げています。

○「一類相続して熏習を可能ならしめ、有漏・無漏一切の種子が蔵せられ、現行を生じることができるのは第八識があるからである」
一切の種子を保存していく働きがないと、人間の人格の持続ということが説明できない。

○(心)異熟は過去を背負った自己のこと。阿頼耶識という持続していく心があるから、そこに経験が蓄積をさせたり、素質がその中に潜められたりする。そういう過去を背負える自己という見方で人間を見る時に、第八識、阿頼耶識があると考えていけばつじつまが合う。

○これは輪廻の主体です。有情は五趣(地獄・餓鬼・畜生・人間・天)四生(胎生・卵生・湿生・化生)に流転する。すなわち有情は流れていく、その流れていく有情を繋いでいくものが何かあるはずである。これが阿頼耶識である。

○「生まれる時と死ぬ時には、明瞭な意識はない。」生まれる時と死ぬ時には第六意識のようなはっきりとした意識はない。けれども死んでいるのかといえばそうではない。働いている。それは何だというと、生まれる時と死ぬ時にはまおかつ命を支えていくのは第六意識ではなくて第八阿頼耶識である。

○滅尽定という人間の心の働きを静めた深い禅定がある。他の意識は働いていないのに生きている。ということは第八阿頼耶識のような深い命があるからそれが可能なわけである。

○染浄は心を根本とする。心によって染浄が現起し持続する。そしてその働きはただちに熏習される。我々の心の中に清らかなものと汚れたものとの両方がある。清浄と雑染の二つの矛盾したものが我々の人格の中には同時に有り得る。縁によってそれが動いていく。そこには両方を包み込む阿頼耶識を考えなければならない。もし第八識がなかったならば根本となるものがないことになる。
(太田久紀氏著・成唯識論要講第二巻・47~72頁要旨)

その4.

スマナサーラ長老
【「『般若心経』はあまり勉強していない人が作った経典ではないかな」というのが私の感想です。・・・本人は「空」ということをわかっていないし、空の思想も理解していませんでした。空を理解していたら使えない「na無」という言葉を使ってしまっていることからもわかります。作者は、龍樹(ナーガルジュナ)のように空論を詳しくしっていた人ではないのです。】101102頁)
とか
【『般若心経』は大乗仏教の空思想とは関係がありません。】103頁)とまで貶して居ます。

かかる批判は、平川彰博士の『般若心経の新解釈』(世界聖典刊行協会)や、横山紘一博士の『唯識でよむ般若心経』(大法輪閣)を読めば、全くの的外れな批判であることが分かりましょう。

スマナサーラ長老はまた
【ブッダのパーリ経典の立場からみれば、『般若心経』には、「これが真理です」という理論、メッセージがないのです。「このようにしなさい」という実践論もありません。・・・向上への躾けも欠けています。】104頁)
と批判しています。

しかし、
『般若心経』は空が真理だと主張しているし、また、空思想に立って生活すべしと言う実践論が根底にあります。

また、スマナサーラ長老は
龍樹の失敗は、「哲学を作るなかれ」というお釈迦さまの戒めを破ったことなのです。・・・仏道は、自分でやってみるための教えなのです。龍樹は空を哲学化することで、目の前にあった「仏道」を見失ってしまったのです。】108頁)
と批判しています。

龍樹菩薩の『中論』『六十頌理論』『空七十論』『廻諍論』などは非常に哲学的に空思想を論じています。
しかし、『宝行王正論』や『勧誡王頌』『十住毘婆沙論』などは仏道実践の徳目が詳しく語られています。龍樹菩薩は単に空思想を哲学的に論じているだけではないですね。

その5。
またスマナサーラ長老は
【 大乗仏教になると、仏道修行の目的も、それまでの「ブッダの教えを実践して完全に悟る(阿羅漢の悟りを得る)」ことから「菩薩行をして白分かブッダ(正等覚者)になる」という途方もないものに変わってしまいます。ブッダたるお釈迦さまの教えを実践することはダサい小乗(劣った教え)で、白分かブッダになって人々を款うことを目指すのがカッコいいということになってしまったのです。それで大乗仏教の具体的な修行法は「六波羅蜜」として整備されました。 】(「般若心経は間違い?」37頁)
と大乗仏教を批判しています。

部派仏教では阿羅漢の悟りを得て、無余涅槃に入る事が修行の理想目的としているようです。その無余涅槃は「灰身滅智」と云って、完全な無存在になって消えてしまうことです。

自分一人が先に「灰身滅智」してしまったら、まだまだ多く居る迷苦の衆生の救済を放棄することになるので「小乗」と呼称したのです。
法華経にも
「我本邪見に著して 諸の梵志の師と為りき 世尊我が心を知しめして 邪を抜き涅槃を説きたまいしかば 我悉く邪見を除いて 空法に於て証を得たり 爾の時に心自ら謂いき 滅度に至ることを得たりと 而るに今乃ち自ら覚りぬ 是れ実の滅度に非ず」
(法華経譬喩品)
と云って、灰身滅智は真実の滅度では無いと主張しています。

【ブッダたるお釈迦さまの教えを実践することはダサい小乗(劣った教え)】と批判したのでなく、「灰身滅智」を修行目的としているから小乗と呼称したのです。

法華経では
「我本誓願を立てて一切の衆をして 我が如く等しくして異なることなからしめんと欲しき 」(方便品)と有るように、「衆生をして釈尊と等しい覚者にしたい」というのが釈尊の誓願であるとしています。

自分は「灰身滅智」してしまって、迷苦の衆生の救済を放棄してしまうのは、慈悲を説いた釈尊の精神から外れているといえましょう。
迷苦の衆生が居る限り教導活動を決して止めないところの、釈尊のような常住不滅の覚者と成るべきことを理想とする大乗の思想を「途方もないもの」などと侮蔑するのは如何なものでしょうか。

またスマナサーラ長老は
【その思考がどんどん発展していくと、「仏教を信じる人は過去世でどこかのブッダに縁を持って、各々ブッダになるための誓願をして波羅密修行しているのだ」ということになって、「誰も彼もが菩薩だよ」というところまでエスカレートしてしまうのです。】(「般若心経は間違い?」38頁)
などと云っています。
大乗仏教にも正系的なものと傍系的な思想が有る事は確かですが、A・スマナサーラ長老は、大乗思想の中の傍系的ないし脱線的な考えを取りあげ批判し、一般読者に「大乗思想全体が怪しげなものだ」と理解させようとしている文勢のように思えます。

法華経法師品にも、法華経を信受修行する者を讃えて、
「是の諸人等は、已に曽て十万億の仏を供養し、諸仏の所に於いて、大願を成就して、衆生を愍むが故に、此の人間に生ずるなり。」
とも、また、
「此の人は是れ大菩薩の阿耨多羅三藐三菩提を成就して、衆生を哀愍し願って此の間に生れ、広く妙法華経を演べ分別するなり。何に況んや、尽くして能く受持し種々に供養せん者をや。・・・若し是の善男子・善女人、我が滅度の後、能く窃かに一人の為にも法華経の乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり。如来の所遣として如来の事を行ずるなり。何に況んや大衆の中に於て広く人の為に説かんをや。」
とも讃えていますが、あくまで法華経を如説修行する者を称賛している文です。

修行を歴なくともそのままで「誰も彼もが仏だよ」などと云う中古天台本覚法門の亜流の当体全是の思想などは脱線仏教思想です。
大乗仏教全体が、無条件に「誰も彼もが仏だよと云う思想には流れ込んでは居る」と読者をして、誤解させるような文勢だと思います。

A
・スマナサーラ長老は、
【もっとも、大乗仏教でもジャータカ物語などに描かれた菩薩の大変な修行についてよく知っていましたから、[自分がブッダになる]という目標は途方もない話で、そんな簡単にいかないことは知っていました。それで、いろんな菩薩が衆生を救うためにあんな誓願を立てた、こんな誓願を立てたということを書いた経典が創作されて、菩薩が衆生を救うために立てた誓願・決意に乗っかって、「楽して紋われよう」「あわよくはインスタントにブッダになってやろう」という話になったのです。 有名な菩薩の誓願は、浄土経典の一つ『無量寿経』に説かれる法蔵菩薩の四八願というものです。これがずーっと以前に成就していて、法蔵菩薩は阿弥陀如来というブッダになっているので、現世の人はただ「阿弥陀仏」の名を称えれば(正確には念じれば)、極楽浄土に生まれ変われるんだよ、というのです。「お釈迦さまが降誕されたのは、この阿弥陀如来の存在を伝えるためなのだ」と、浄土系の宗派の人々は説明するのですか、ここまでくると、もうお釈迦さま本来の教えは原形をとどめておらず、ただブッダという名前が新しい宗教の教義に使われただけではないか、という感じもします。 】(「般若心経は間違い?」38頁)
などとも云っています。

「無量義経」には、端的に
「次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども、」(説法品第二)
と言って、大乗は菩薩行を説いているが何れも難行で機の遠くなるような長い修行精進をしなければならない教法であったと判定し、
「菩薩摩訶薩疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得んと欲せば、応当に何等の法門を修行すべき、何等の法門か能く菩薩摩訶薩をして疾く阿耨多羅三藐三菩提を成ぜしむるや。」(説法品第二)
と難行歴劫修行でない法門を求めています。

それに応える教法として「無量義経」「法華経」が説かれたのだと言う説法の構成になっています。
「無量義経」「法華経」では如説修行が行法の本筋とされています。
【菩薩が衆生を救うために立てた誓願・決意に乗っかって、「楽して紋われよう」「あわよくはインスタントにブッダになってやろう」という話になった】と云うような経法でないことが分かります。

A
・スマナサーラ長老は
【現世の人はただ「阿弥陀仏」の名を称えれば(正確には念じれば)、極楽浄土に生まれ変われるんだよ、というのです。「お釈迦さまが降誕されたのは、この阿弥陀如来の存在を伝えるためなのだ」と】38頁)とも云っています。

厭離穢土欣求浄土の阿弥陀仏信仰は、法華経教学の立場から評すれば、大乗仏教の正系思想ではありません。
ここでも阿弥陀仏信仰と言う傍系思想を批判し、読者をして「大乗思想は怪しい」と疑念を懐かせようとする底意があるように思えるのですが、私の思い過ごしでしょうか。

その6。
A・スマナサーラ長老は
【 パーリ経典にも、サーリプッタ尊者がお釈迦さまに代わって説かれた経典がたくさん残されています。それだけに、あとから出てきてお釈迦さまの教えにケチをつけようとした大乗仏教では、サーリプッタ尊者をなんとかおとしめようと励みました。それまでの伝統的仏教(大乗からみると「小乗」仏教)の代表者として、菩薩たちの奇をてらった言説に翻弄される狂言回しのような役回りをさせられることになったのです。その代表的な作品が『維摩経』です。・・・ところが『般若心経』自体は、そこまで腹黒い作品ではないのです。・・・(般若心経の大品を)読んだところで、観自在菩薩がサーリプッタ尊者に上から目線で教えてやったという話は全然書いてありません。
『般若心経』では、サーリプッタ尊者が「あなたはどのように修行しましたか?」と観音菩薩に質問します。それに対して「私はこのように瞑想しましたよ」と菩薩が説明するのです。菩薩は修行中だとはっきり言っていますから、・・・ 「菩薩」と言った時点で、悟っていない一般人です。サーリプッタ尊者は阿羅漢ですから、とっくに悟っています。阿羅漢は菩薩の先生なので、質問して弟子の心境をチェックするのです。その辺は誤解しないほうがよいのではないでしょうか。「観音菩薩がサーリプッタ尊者に教えてやった」という気分になると、差別感で心が汚れてしまいます。せっかく
写経して心が汚れてはかないません。 】
48頁~50頁)
などと云っています。

天台教学でも『維摩経』等の教意は「弾呵(たんが・呵責)」にあるとしています。
三蔵教によって界内の見思を断じ阿羅漢の灰身滅智を至極の果と思い込んでいるので、その思い込みを打破するための大乗経典が『維摩経』等の所謂、方等部の経であると見ています。
ですから、「腹黒い作品」とか「あとから出てきてお釈迦さまの教えにケチをつけようとした大乗仏教では、サーリプッタ尊者をなんとかおとしめようと励みました。」との、物言いは大乗経典にケチを付けたい心根かなと感じるのは私の僻思いでしょうか。

『般若心経』は腹黒い作品でないから、二乗の悟りを強く貶していないのではありません。
天台教学では般若経の部意は「淘汰(とうた)」であるとしています。「淘汰」とは、「大小二乗の法門はその実を究めれば、皆是れ般若畢竟空のいち法門なる事を説き示して、以て、二乗の弟子の大小二教を永く隔てる執情を洗除する意味」であると説明されています。

般若経典の教意が「淘汰」であるから、「弾呵」すなわち呵責を部意とする『維摩経』等のような「二乗の悟りは浅劣の悟りである」との強い批判が明示されてないのです。

般若部経典では、教相上では、仏が舎利弗尊者や須菩提尊者に大乗の法門を代説させています。しかし、舎利弗尊者や須菩提尊者は代説しながらも其れは菩薩の法であって二乗の修行法ではないと思って居ると云うことになっています。
仏が代説を命じた理由は、舎利弗尊者等が次第に大乗の法門に馴れ近づく為めであったとされています。

A
・スマナサーラ長老は【菩薩は修行中だとはっきり言っていますから、・・・ 「菩薩」と言った時点で、悟っていない一般人です。サーリプッタ尊者は阿羅漢ですから、とっくに悟っています。阿羅漢は菩薩の先生】
と述べていますが、

菩薩には極々初心の菩薩から、等覚位に登っているの高位の菩薩も居るのです。観音菩薩は高位の菩薩であるとされています。
ですから「観音は悟っていない一般人であるから阿羅漢のサーリプッタ尊者の方が先生格である」などと言えないのです。

例え実際に、観音菩薩が舎利弗尊者に空の法門を説いたとしても、勿論、空・無所得心の悟りを得ている観音菩薩は「自分の方が舎利弗尊者より偉い。じぶんが舎利弗尊者に教えてやるのだ」などと云う分別心に執われながら舎利弗尊者と対話することなど無かったことでしょう。

天台大師によれば、般若経典には通教・別教の二教を帯びて正しく円教を説いて居ると経典とされています。
そして、通教が説く空観は「体空観」であり、小乗経(阿含)の説く空観は「析空観」であると判別しています。

『般若心経』が説いて居る空観は、阿含経が説いて居る「析空観」では無く、通教の「体空観」を説いていると云うことになります。

「析空観」と「体空観」との違いについては、福田堯穎著『天台学概論』に分かりやすく説明してあるので、長文ですが、その説明を引用します。

「此の教(三蔵教=阿含経)では、所有る物質を構成する法体(法体とは万物の元質となるもの、所謂る化学に云う原素あるいは原子の如きもの)を十一種に分ち、更らにそれを細分すれば四十九種となり、また心識即ち吾人の精神を構成する法体を分ちて四十七種となし、その他、物質及び精神に通ずる法体に十四種ありとなすのである、
以上挙げたる七十二種の法体は永久に滅せざるものであって、此の宇宙間に無始無終に法爾として存在するとなし、而して現に吾人の面前に展開して居る所の所有る物心二界の諸法は、悉く此等七十二種の法体の結合に依りて現れたものであるとなす。それ故、此の教では、
色心萬有の諸法は真実の存在ではあるが、併し乍ら一物として限定せられたる実我実性のあるものに非ずと云う。何んとなれば諸法の一々は、皆、前述の七十二種の法体(元質)が種々に結合して成立したものである、例せば此の書物は紙片の集っだものであって、紙片の外に書物なる物体の存せざる如く、又紙にしても、繊維の聚った物であり其の外に紙と指す可き実性無きが如く、要するに萬有の諸法は、一々皆実際の存在ではあるが、併し実我実性のある可きものでないと云うのが、此の三蔵教に説く我無法有の教理である。」

(福田堯穎著『天台学概論』159頁)

「 析空観は三蔵教で説く所の観法であって、'析空とは析色入空の義で、析は分析であり、色は萬有の諸法である。即ち萬有の諸法を一々分析して諸法は空なりと観じて行く観法を云ふのである。再説すれば吾々の眼前に碁布羅列する所有る諸法は、過去世に造りたる業と煩悩との因縁力に依って、五蘊の実法を仮りに聚めて形態をなしたるものなれば、之を一々分析し吟味すれば、実我実性の認む可き無く本来空なるものにして、譬えば芭蕉の全体は皆筋にして、筋を一々に取り去れば芭蕉無きか如く、かく分析析破の観法を用ひて、三界の諸法は実有なりと迷執する見思の煩悩を破して、真諦の空理を悟るのが析空観である。
要するに三蔵教の所説の教理が因縁存実の教なるを以て、萬有の諸法は実際に存在するものとなすが故に、析空観を用ひて萬有を観析して空理を悟るのである。」
(福田堯穎著『天台学概論』147頁)

と、析空観を説明しています。

また、体空観については、
「次に通教に於て談ずる所の教理の概略を述べれば、前の三蔵教では萬有の諸法は、客観的に確実に存在するものではあるか、因縁の離合集散に依りて常に新陳代謝が行はれ、新旧交替するものであるから一切の諸法は生滅無常なものであると、かく吾々凡夫が日常に経験し認識する所を基礎とし、至って心得易い様に教理を立てて居る。此れが三蔵教の即ち界内の事教と謂はるる所以であるが、之れに反し、此の通教は同じく界内の教ではあるか、理教である故、凡夫の経験や認識を基礎とはせず、直ちに道理を基礎として(直ちに論理を基礎として)教理を立てるものである。
而して此の通教では、因縁即空無生無滅と説いて、吾人の眼前に映ずる萬物は勿論の事、總べて三界六道の諸法は決して客観的に実在するものでは無くして、唯だ吾人の主観上の迷妄よりして漫りに認めて実在なりと為すのであって、本来空である。空であるか故に宇宙問には、実際に若しは生じ若しは滅するものは一物も無い筈である。されば吾人か總べての諸法を詔むる情態は、譬えば夢中に見る種々なる事象の如きものであり、夢中の事象は、夢中にのみ存在し、決して実在の物にはあらざるが如く、叉眼に病あるが故に空中に華を見るけれども、其の華は真実の華にはあらざるか如く、畢竟吾人の迷から認めて居る丈けの事である。
 何んとなれぱ、三界の諸法は其の世界に棲息する生類が、前世に於て造作したる煩悩業の因縁より生じたもの、即ち業感縁起のものだと云ふのであるが、若しも三界の諸法が実際に存在するものであるならば、斯くの如き煩悩業の因縁力を借らずとも、天然自然に法爾として存在す可き筈である。元来煩悩、業は情有理無のものであるから、無から有を生ずる道理は決してあり得可からざる事であり、また煩悩、業は有漏の妄法である、然らば妄法に依って真実の存在が現はれると云ふ事も、断じて道理上許す可からざる事であって、要するに三界の事象は吾々の主観上の迷妄より生ずる恰も夢幻の如き、蜃気榛の如き非有似有の姿を認めて、之れを真実の存在とするものであり、若し一度比の通教の真実智を開いて之を見れば三界の諸法は其のまま当体即空であって無生無滅なるものであると説くのが、此の通教の教理である。」
(福田堯穎著『天台学概論』176頁)

「体空観とは、通教で説く所の観法であって、・・・体空とは体色入空の事であって、色は即ち三界の諸法を指し、体は体達の義で、「法を換へぬ事」・「其儘」と云ふが如き意味であり、三界の諸法の当体其の儘が本来自から空なりと観達するを、体空観と称するのである。
 故に此の観法より言へば、吾々の眼前にありありと展開して居る萬有の諸法は、吾人が漫りに認めて真実の存在として居るもので、本来は森羅萬象の其儘が一微塵として認む可きものも無く、碍ゆ可きものも無い皆空無相の涅槃界なりと達観するのである。譬へば
  「世俗に此の世は全く夢の世の中だ」と言ふが如きは、恰も此の体空観の意に相似して居る。何んとなれぱ夢の中の世界は、夢が認めて居る間丈けは実在する如くであるが、覚めて見れば、夢中の諸事悉く実体が無い様なものである。その如く、萬有の諸法も吾人が迷ふてありと認めて居るのである故、当体即空なりと達観して萬有の諸法は実存なりと迷執する見思の煩悩を断破し、真諦の空理を悟るのか此の体空観である。」
(福田堯穎著『天台学概論』147148頁)
と体空観を説明し、
「之を要するに前の三蔵教では萬有の存在を一応肯定し、而して夫れを空と観ずるのである故に折空観を用ひ、通教では始めより萬有の存在を否定して、現象界のすべては吾人の迷妄より生ずる幻影なりとする故に体空観を用ゆるのである。」(福田堯穎著『天台学概論』148頁)とまとめています。

ですから、体空観を説いている般若心経を、阿含経の析空観で説明するA・スマナサーラ長老の解釈方針は、同じく空観と云っても析空観と体空観の別があると云う事実を弁えていないことになると思います。

その7。
A・スマナサーラ長老は
「色即是空」、すなわち「肉体は空である」というのは仏教的に正しいのです。肉体には実体かなくて空なのです。しかし「般若心経」は、次に「空即是色」、すなわち「空は肉体である]と言ってしまうのです。これは間違いです。
わかりやすい例をあげましょう。
「リンゴは果物である」というのは正しいのですが、「したがって、果物はリッゴである」というのは間違いなのです。
「人は死ぬべきものである」というのは正しいのですが、「したがって、死ぬべきものは皆人である」というのは間違いなのです。
同様に「肉体は空である。実体がない」というのは正しいのですが、「したがって、空は肉体である」とは言えないのです。だから「色即是空」で止まるべきなのです。「空」を知っている人なら、空即是色とは言いません。・・・
そのことを『般若心経』の作者は、わかっていないのですね。これは実践的な経験・能力のない人が犯す失敗です。 】

6162頁)

と、「空即是色」との句は間違いで、般若心経の作者が空の思想を知っていなかったので、こんな句を付け足してしまったのだと批判しています。

このような批判を見ると、般若心経が体空観や中道観の上に立っていることを、A・スマナサーラ長老は知らないのではないかと思われます。

中国天台の智円が「般若経典は通教・別教・円教の三教を帯びた思想である」とする天台大師の教理分析に基づいて「般若心経疏」を著しています。
智円は
【三蔵は色を析して空を観ず。謂く、此の身は四大和合なりと観じて、展転して折破して、鄰虚に極まる。・・・応に身は空華の如しと知る。華、豈に空に異ならんや。故に示して云く、色、空に異ならずと。
通教は、色に即して空を観ず。是れ色空に異ならずと知る。而して沈空取証す。菩薩の出仮は還って扶習を須ちう。・・・応に空は華に異ならずと知る。故に示して、空は色に異ならずと云うなり。 】


と、「色即是空」の句は三蔵教の析空観と通教の体空観を示した句であると説明しています。

さらに、
【別教は、空有の二辺を離れて中道の理を観ず。豈に中道は遮照同時を知るに非らずや。故に示して、色即是空・空即是色と云う。】
と、空を色を同時に観ずるところの中道の遮照同時の思想を示して居るのが「色即是空・空即是色」の両句(連句)であると説明しています。
また、
「色は空に異ならず(=色即是空)」を、「従仮入空観(仮より空に入る)」。
「空は色に異ならず(=空即是色)」を、「従空出仮観(空より仮に出る)」。
「色即是空・空即是色」を、「中道第一義観(色と空を雙遮雙照する観。すなわち、色・空に執われないで両方を合わせ調和して観じて行くこと)」に配当しています。

天台教学から言えば「空即是色」の句は必要なものということになります。

また、智円は、龍樹菩薩の「中論」の「観四諦品第二十四」にある
「因縁所生の法は我説く、即ち是れ空、また名づけて仮名と為す、また中道の義と名づくと。」の三諦偈に基づいて、
【色は是れ因縁所生の法なり。空に異ならず。是れ我は即ち是れ空と説くなり。
空は色に異ならずとは是れまた名づけて仮名と為すなり。
色即是空・空即是色は是れまた中道の義と名づくるなり。 】

と、「色即是空」は空諦を示し、「空即是色」は仮諦を示し、
「色即是空・空即是色」は中道を示していると解釈しています。

すなわち、智円の解釈によれば、般若心経の思想上からも「空即是色」の句は必要欠くべからざる句であると云う事になります。

『羅什訳摩訶般若波羅蜜経巻第一・習応品第三』にも
「舎利弗、色空に異ならず、空色に異ならず、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色、」(昭和新纂国訳大蔵経経典部第三巻21頁)
と、『般若心経』の「色即是空・空即是色」と同じ言葉があります。

空思想を説く為めに「空即是色」の言葉が必要だから『摩訶般若波羅蜜経巻第一』にも有るのでしょう。

現在の仏教学者も「空即是色」の句を、智円の言葉を借りれば、「仮諦」「従空出仮」を示す句として解釈しています。

横山紘一教授は
【「色即是空」は、ものへの執着をなくしていく過程であり、「空即是色」は、執着のなくなった自分というものがもう一度世間のながで具体的に他者のためにエネルギーを放出させて
いく過程であると、私は解釈しました。】
(横山紘一『唯識でよむ般若心経』101
とも、また、
【覚りの世界からもう一度現実に戻ってきたときに、また「自分」というものを意識しますし、「苦しむ人びと」が現に目の前に存在しますし、美しい自然界もあり、宇宙もあり、またドロドロした世界が戻ってきます。しかし「色即是空」を通過して再び「空即是色」に戻ってきた人は、それらは仮の存在であると覚っていますから、自分は執着することなく、今度は自己のエネルギーを慈悲行として放出するようになるのです「色即是空」であるから、そこに智慧か得られ、同時に「空即是色」であるから、そこに慈悲が展開してきます。
 以上、菩薩が持つ尊厳性である智慧と慈悲という二つの側面から「色即是空 空即是色」を解釈しました。このような解釈はよくなされる解釈でありますが、ここでは一応、唯識思想をも加えて解釈してみました。 】
(横山紘一『唯識でよむ般若心経』105頁)
と解釈しています。

要は、「空を悟り、今度は現実を無視したり、見捨てないで、空の精神に慈悲行を実践していくと言う意味を色即是空 空即是色の二句によって表現している」と言う解釈です。

また、宮元啓一教授は
【ですから、ここの「シューニヤター」を「空であること」「空性」と訳してはいけないのです。むしろ、「色即是空」は、「色かたちは、ただたんに空だというだけではなく、その色かたちに具体的に即してまさにそのものずばり目の当たりに空なのだ」というニュア
ンスで語られていると見ることができます。わたくしのサンスクリット語からの現代語訳は、そうしたニュアンスを出そうとしたものです。
ちなみに、五蘊のいずれもがそのものずばり空なるものである、というのはわかったとして、その逆である、そのものずばり空なるものか五蘊の一々なのだ、といういいかたには、今ひとつ説明か必斐かと思います。・・・・
仏教のものの見方からは、つぎのようにいえるように思います。
仏教では、智慧は、如実知見であるといいます。すなわち、この世の事実を、あるかままに見てとるということです。
「色即是空」などは、要するに、五蘊、つまり自他の身心への執著を離れよということをいっているのです。執著があると、ものごとか正しく見えません。身心への執著を完全に離れたとき、まさにそのとき、わたくしたちは、自他の身心のあるがままを、虚心坦懐に見てとることができる、これをいわんとして『般若心経』は、「そのものずばり空なるものが五蘊の一々なのだ(空即是色)」といっていると考えることかできます。
『八千頌般若波羅蜜経』や、禅宗で重用されている「金剛般若経」では、たとえば、「如来、如来、というのは如来ではない。だから如来なのだ」という、一見、何とも奇妙な表現がひんぱんに出てきます。これは、如来は確かに在すのだけれども、如来への執著の心
があるかぎり、如来をあるがままに知ることはできない、如来への執著を完全に離れたときに、如来の本当の姿が目に入るのだ、ということをいっているのです。
「般若心経」の場合も、これと同じことがいわれていると考えられます。これで、「空即是色」については、まったく神秘的ではない解釈か可能になったといえるでしょう。】

(宮元啓一「般若心経とは何か」108110頁)
と解釈しています。

宮元啓一教授は「空即是色」をサンスクリット本から「そのものずばり空なるものが五蘊の一々なのだ」と訳し、身心への執著を離れ
た時に自他の身心のあるがままを、虚心坦懐に見てとることができると主張する句であると解釈しています。

平川 彰博士は
【しかしそのように刹那に変りうるのは何故かといえば、ものの本性が空だからである。空であるから、その時その時の現象が、真実性をそなえているのである。柳は緑に花は紅というが、それが可能なのは、現象の本質が空だからである。即ち「空であるから、色が色として成り立つ」というのが「空即是色」の意味である。
しかしこの場合も、空を知ることが、空即是色を成立させる原動力である。ただ現象の区別を知るだけでは「色」があるだけである。「空」が自覚されていないならば、空がないのであるがら「空即是色」が成立する筈はない。
柳は緑に花は紅も、空を知っておれば、空即是色の立場でこれを理解するが、空を知らなければ、単に柳と花を見るのみである。故に「空即是色」を言う根低には、現象の木性は空であるから、現象の区別が成立するという理解がある。
空において、現象の区別を成りたたしめるという意味である。柳の緑と花の紅の区別を知るのは、空において知るのである。この空の媒介をへないで柳と花の区別を知るだけでは、柳の緑・花の紅の真のはたらきを理解することはできない。
その言味で、空を知る智慧が「空即是色」を成立させるというのである。現象の区別の世界を正しく作りあげていく原動力は空智である。】
(『般若心経の新解釈』112頁)
と「空即是色」の句を説明しています。

以上のように検討しますと、A・スマナサーラ長老の「般若心経の作者は空が解って無かったから『空即是色』などと言う句を置いたのだ(取意)」などと言う見解には首肯出来ません。

その8。
A・スマナサーラ長老は
【一切の現象に実体はなく、因縁によって現れては消えているのです。現象の世界には、生滅も増減も明らかにあるのです、。それをまとめて否定してしまうと、「何もないなら、べつに実践しなくてもいいじゃないか」となる恐れがあります。その点で『般若心経』の作者は、相当な間違いを犯しているのです。・・・
初期仏教では、あくまでも「一切の現象は生じて滅するものである」「一切は無常である」という立場です。お釈迦さまは生滅説なのですね。これに対して『般若心経』は、「生滅がない」と言っているのです。このひと言で『般若心経』は、せっかくお釈迦さまが発見された「無常」という真理を否定してしまうのです。・・・
『般若心経』は「色は空である」という仏説から出発したのに、「空は色である」とやりすぎて脱線して、空の捉え方が変わってしまった。ここに至って、「色はない」『受想行識もない』と五蘊まで否定してしまったのです。
さらに続けて『般若心経』は、仏説たるものを全部「無」だとして否定するのです。
六根六境を否定して、十八界を否定して、無明を否定して、無明がなくなることも否定して、要するに十二因縁を全部否定して、苦集滅道の四聖諦も否定する。智慧も否定する。もう言葉もありません。
しかし『般若心経』の作者は、十二生起因縁と十二滅尽因縁も、四聖諦も「無いのだ」と断言してしまうのです。・・・
作者は大乗仏教の基本論理さえも、あまりわかっていなかったのでしょう。】

などと貶して居ます。

『般若心経』の
「このゆえに、空というなかには、色もなく、受も想も行も識もなし。眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなく、眼界もなく、ないし意識界もなし。無明もなく、また無明の尽くることもなく、ないし老死もなく、また老死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなし。智もなく、また得もなし。
との部分は、
『羅什訳摩訶般若波羅蜜経巻第一』に有る
「是の諸法は空相、生にあらず滅にあらず、垢にあらず浄にあらず、増にあらず減にあらず、是れ空法、過去にも非ず未来にも非ず現在にも非ず。是の故に空中には色無く、受想行識無く、眼耳鼻舌身意無く、色声香味触法無く、眼界無く、乃至意識界無く、亦無明無く、亦無明の尽くること無く、乃至亦老死無く、亦老死の尽ること無く、苦集滅道無く」(「習応品第三」・昭和新纂国訳大蔵経経典部第三巻21頁)
との部分とほとんど同じです。

『摩訶般若波羅蜜経巻第二十五・実際品第八十』には
「是れを第一義と名づけ、亦、性空と名づけ、亦、諸仏の道と名づく。是の中に衆生を得ず、乃至知者見者を得ず、色受想行識を得ず、」
(昭和新纂国訳大蔵経経典部第四巻149頁)
とあるので、「色受想行識無く」等と言うのは、第一義諦(性空)を端的に語っている文であることが解ります。

『摩訶般若波羅蜜経巻第二十五・具足品第八十一』には
「菩薩摩訶薩は二諦の中に住して、衆生の為めに世諦と第一義諦とを説法す(昭和新纂国訳大蔵経経典部第四巻156頁)
とあります。菩薩は第一義諦のみでなく常に世諦の立場に立っても説法すると云う事です。

第一義諦のみでなく世諦の立場にも立つので、
「諸法の根本は実に我無く所有無く、性常に空なり。但だ顛倒愚癡の故に、衆生は陰入界に著す。是の菩薩摩訶薩は、諸法の所有無く性常に空にして、自相空なることを見る時、般若波羅蜜を行じ、自ら立って幻師の如く、衆生の為めに説法す。慳者には為めに布施の法を説き、破戒者には為めに持戒の法を説き・・・衆生をして布施乃至智慧に住せしめ、然して後に為めに聖法を説き、能く苦を出す」(昭和新纂国訳大蔵経経典部第四巻156頁)

「譬えば幻師の百千万億人を幻作して種々の飲食を与え、飽満し歓喜し、唱えて我れ大福を得たりと言わしむるが如し。・・・是の如く舎利弗、菩薩摩訶薩は初発意より已来、六波羅蜜・四禅・四無量心・四無色定・四念処乃至八聖道分、十四空・三解脱門・八背捨・九次第定・仏の十力乃至十八不共法を行じ、菩薩道を具足し、衆生を成就して仏国土を浄むも、衆生の法として度すべき無し」
(昭和新纂国訳大蔵経経典部第四巻158頁)

等と、実際には自らも八聖道を修し、衆生を教導すると説いて居ます。

「受想行識無く・・・苦集滅道無く」
と有っても、第一義諦を語っているのであって、実際の教導上において四聖諦などを否定すると言う意味ではありません。

こうした般若経典の基本的立場を考慮に入れて解釈すれば、『般若心経』が「無明の尽くることもなく、ないし老死もなく、また老死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなし。智もなく、また得もなし。」と、第一義諦を端的に述べていても、実際には、
「六根六境を否定して、十八界を否定して、無明を否定して、無明がなくなることも否定して、要するに十二因縁を全部否定して、苦集滅道の四聖諦も否定する。智慧も否定する。」
ことなど主張しているもので無いと理解しなければなりません。
A
・スマナサーラ長老は全く誤った批判をしていると言えましょう。

参考として現在の学者の見解を紹介します。
初めに横山紘一教授の『唯識でよむ般若心経』に於ける見解。

【『般若心経』の説く「無」は、有無を超えた有無超越的な「無」であります。無には「虚無の無」と「実無の無」とがありますが、「般若心経」の無は、実無の無であるといえるでしょう。
よく東洋思想の無と西洋の無とを比較するとき、内容のある無を実無の無、全くニヒルなゼロの無を虚無の無といい分けていますが、『般若心経』の無は実無の無であり「空としての無」であるといえ
るでしょう。
 以上、まとめると『般若心経』の無には、「執着を離れるための方便としての無」と、「有無を超越した非有非無の存在観としての無」との両義があると解釈いたしました。(220頁) 『般若心経」のなかに出てくる「無」というのは、前回も申しましたように、決して虚無の無、すなわち決して存在しないという意味での無ではありません。私たちは「無い」と聞くと、その言葉に 
こだわってしまい、「無いのだ」と思ってしまいます。それは一つの極端な考え方であります。また「有るのだ」というのも同様に極端な考え方です。(224頁)】


次ぎに宮元啓一教授の『般若心経とは何か』に於ける見解。

【すでに前に、「すべての事象は空であることを特質とし」とありましたが、それを受けて、「〔すべての事象が〕空であるからには」といっているのです。そしてこのあと、仏教でとくに重視される教えに出てくる項目すべてについて、「無」(ない)というのです。
もちろん、仏教の重要な教えか端的にない、といっているのではなく、たとえいかに重要な教えでも、いったんはそれらへの執著の心を捨てなければならないといっているのです。執著の心が消え去ったときにはじめて、仏教の教えが本当に体得できるというわけです。(114頁)】


その9。
スマナサーラ長老は
【『般若心経』ではどこまでも観念を回転させて、結局、修行も道徳も成り立たないところまで脱線してしまいました。道徳か成り立だなくなったので、宗教としても人々を引き付ける力がなくなってしまったのです。
 何を語るにしても、道徳が破れるところまで語ってはならないのです。話の内容がいくら緻密であっても、道徳か成り立たないような結論に至るならば、お釈迦さまはそれを「邪見」の類に入れるのです。(82頁)】
【ただ『般若心経』が広まることで起きた困った現象、弊害については、もう一度しっかり触れておきたいと思います。
ブッダのパーリ経典の立場からみれば、『般若心経』には「これが真理です」という理論、メッセージがないのです。「このようにしなさい」という実践論もありません。「私たちは確実に、人間として成長しなくてはいけないのだ」という向上への躾も欠けています。
それは先に紹介した『慈経Metta-sutta』と比べれば歴然としているでしょう?
104頁) 】
などと、「般若心経は、真理も実践論も説いて無く、道徳を破っている内容だから『邪見』の類に入る経典である」との見解を語っています。あまりにも皮相的・悪意的な読み方です。

そもそも、観自在菩薩(観音菩薩)を登場させていることは、菩薩の六度行を奨励している経典ということです。
空観(無所得心の悟り)に立っての布施行でなければ、所謂「世間檀波羅蜜」と名付けられる布施となって、自他の区別心や自我心の増大、自慢心の増大に流れてしまう原因となる恐れがあります。

そこで『摩訶般若波羅蜜経』には「出世間檀波羅蜜」と名付ける布施行でなければならないと説いて居ます。

「菩薩摩訶薩の布施する時、我れ得べからず、受者を見ず、施物得ばからず、また報を望まず。是れを菩薩摩訶薩の三分清浄檀波羅蜜と名づく。
復次ぎに舎利弗、菩薩摩訶薩の布施する時、一切衆生に施与するも、衆生も亦、得べからず、此の布施を以て、阿耨多羅三藐三菩提に廻向するも、乃至、微細の法相をも見ず、舎利弗、是れを出世間檀波羅蜜と名づく。」
(昭和新纂国訳大蔵経経典部第三巻196頁)

と無所得・空観に立っての布施行(出世間檀波羅蜜)が真実の布施行であると述べ、
さらに
「尸羅波羅蜜、?提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅波羅蜜も所依無き(=無所得・空観に立っていない)を是れを出世間と名づく」
と、他の波羅蜜行も無所得・空観に立って実践すべきであると説いて居ます。

『羅什訳・小品摩訶般若波羅蜜経・明呪品第四』
にも、
「阿難、是の故に般若波羅蜜を五波羅蜜の導と為す。阿難、譬へば
大地の如し、種を其の中に散ずるに、因縁和合すれば即ち成長する事を得。此の地に依らざれば終に生ずることを得ず。阿難、是の如く、五波羅蜜は若し波羅蜜の中に住せば増長を得。これ般若波羅蜜に護られる故に、薩婆若に向かうことを得。是の故に阿難、般若波羅蜜は五波羅蜜の為めに導きと作る。」
(中華電子仏典協会のHP・原漢文)
と有ります。
このように般若波羅蜜を根本として菩薩行を実践すべきと教える般若経典の基本的立場を考慮して
『般若心経』の、
「得るところなきをもってのゆえに、菩提薩?は、般若波羅蜜多に依るかゆえに、心に?礙なし。?礙なきがゆえに、恐怖あることなく、〔一切の〕顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟す。」
との部分を解釈すれば、

「無所得・空観に立って六波羅蜜の修行を行ったので顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟した。」
との文意と理解すべきでしょう。

ですから『般若心経』には「無所得無分別智」「体空観」ないし「中道観」の智慧が説かれ、仏道実践も説かれているわけです。

故に、
「般若心経は、真理も実践論も説いて無く、道徳を破っている内容 である」と見るスマナサーラ長老は大きな間違いを犯していると言わざるを得ないでしょう。

参考として現在の学者の見解を紹介します。

横山紘一教授著『唯識で読む般若心経』より引用。

【さて、なぜ『般若心経』では、六波羅蜜多のうちで般若波羅蜜多を代表させて説いているのかという問いがなされますが、これに対しては、「般若は仏の母である」という大乗仏教の考えが答えとなります。
般若はすべての仏を生み出す母(覚母)、すなわち根源であるいうのが大乗の基本的立場であります。それはまた、仏になるための菩薩道を実践していく根底には、般若という智慧を自分のなかに身につけることが肝要だとする立場にもつながっていきます。般若波羅蛮多は六波羅蜜多の最後に位置しますが、しかし他の五つの波羅蜜多すべての根底に、般若というものかあると認識しなければなりません。
68頁)  】

その10。
「⑧ゆえに知るべし、般若波羅蜜多は、これ大神呪なり、これ大明呪なり、これ無上呪なり、これ無等等呪なり、よく一切の苦を除く。真実にして虚しからざるが故に。
⑨般若波羅蜜多の(なる)呪を説く。すなわち呪を説いていわく。
掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝 菩提僧莎訶 」
の部分について、

スマナサーラ長老は
【驚きました。なんの脈絡もなく「これがすごい呪文である」と宣言したのです。
こうなってくるともう、迷信依存症の人々に語っていることになります。呪文やら方位学やら風水やら八卦占いやら、タロット占いやら、そんな程度の非科学的な占いを信じている人に語っていることになってしまうのです。こちらも「屁理屈に付き合って、真剣に
分析して損をした」という気分になります。『般若心経』は知識的に分析するべき経典ではない。これはただの迷信に凝り固まった原始人に語っているものだ。そんな気分にもなります。・・・
『般若心経』は自画自賛して「これこそ無上の呪文である」と宣言するのですが、それなあらゆる呪文と効き目を競争してもらわなくてはなりません。この呪文が勝ち抜いて、ようやく「無上呪」杯の優勝を認定できるのですが、作者はそこまで気にしません。『法
華経』と同じですね。他の経典は法華経が王様だと認めていないのですが、自分で勝手に「「法華経」こそが経典の王様だ」と威張るのです。
ここに至って『般若心経』は、突如として神秘主義に引っ越ししました。論理か崩れた空論者としてスタートして、虚無主義者を経由して、最後に神秘主義者になってしまったのです。 】

88頁~89頁)
【『般若心経』やらチベット密教の経典になると、悟りまで呪文で達成してしまう。呪文をあまりに過大に評価し過ぎなのです。
意味を持たない言葉の羅列には、なんの力もありません。無意味な言葉に力があるなら、世の中が成り立たなくなってしまいます。 】
94頁)
と貶しまくっています。

さて、『般若心経』の文は、
「三世の諸仏も般若波羅蜜多に依って修行したので阿耨多羅三藐三菩提を得たのであり、般若心経が真実の悟りを語る言葉であるから、大神呪・大明呪・無上呪・無等等呪なのだ」と言っているのです。

「単にいわゆる呪文の力に因って『能く一切の苦を除く』と迷信的な事を述べている」文と読むスマナサーラ長老の読み方は間違いでしょう。

平川 彰博士は
【この呪はダラニではなく、マントラ(mantra)で、真言とも訳す。
「大神呪」は、偉大なる不思議なマントラの意味。「大明呪」は偉大なる智慧のマントラの意味。「無上呪」は最高のマントラの意味。「無等等呪」は比較するもののないすぐれたマントラの意味。(取意) 】
(般若心経の新解釈・182頁)
であると解説し、さらに、
【この般若の空智を心に念持し、波羅蜜として実践し、マントラとして受持すれば、一切の苦が除かれるという。・・・般若波羅蜜は「真実にして虚しくないから」、「能除一切苦」が可能なのである】(般若心経の新解釈・183頁)
と、『般若心経』の文意を捉えています。

『羅什訳・小品般若波羅蜜經卷第二・塔品第三』に、
「 若し善男子、善女人有って、能く般若波羅蜜を受持し読誦し、所説の如く行ぜば、魔若しは魔天、人若しは非人 も、其の便りを得ず、終に横死せず。善男子、善女人、般若波羅蜜を受持読誦する故に、?利の諸天も阿耨多羅三藐三菩提の心を発し、未だ般若波羅蜜を受持読誦せざらん者も其の所に来たらん。」(中華電子仏典協会のHP・原漢文)
と有りますが、受持読誦に功徳が有ると云う思想が、般若経典のエッセンスとしての『般若心経』をマントラとして唱える思想につながっているのでしょう。

臨済宗の山田無文老師著『般若心経』(禅文化研究所刊)には、
【 般若の智慧こそが仏法のエキスであり、真理のエキスなのであります。・・・
本当に無心ということの分かった人、般若の智慧の分かった人、ご信心がいただけた人、こういう智慧の分かった人には、外からいかなる悪魔も障りも寄りつくことができん。そういう権威のあるものである。だからこれを大神呪というのである。・・・
この般若の智慧は・・・心の中の煩悩妄想の闇を照らしていく大きな唱えごとである(大明呪)。・・・この般若の智慧は、これ以上比べるもののないほど最上の唱えごとである(無上呪)。・・・
この般若の智慧が分かると、三世諸仏と同じ心の状態になれるのである。そういう立派な唱えごとである(無等等呪)。こう、般若の智慧を呪という言葉を借りで褒めでおられるのであります。】
197頁~201頁)
と、当を得た解説をしています。
山田無文老師の解説によっても、「単にいわゆる呪文の力に因って『能く一切の苦を除く』と迷信的な事を述べている」文では無いと言えましょう。

最後に有る呪について、山田無文老師は
【こちらに般若の智慧が開けると、いかなる邪悪な者でも、いかなる悪人でも、いかなる罪悪の者でも、拝んでいける境地が開けて来る。それが、羯諦、羯諦だ。我れも渡れり、人もまた渡れり。皆な渡ったのだ。・・・
波羅羯諦だ。実に人類の行き着くべき終点に着いた。・・・般若の智慧というものは、実にそういう喜びの叫びであります。・・・
波羅僧羯諦。皆な着いたんだ、皆な救われたのだ、私が救われると同時に世界中が救われたのだ!
菩提薩婆訶。人間がこの地上に生まれた、人類の最後の目的が、今日ここで解決されたのだ!
これは釈尊の胸の中からついて出た大きな喜びの叫びであります 】
(『般若心経』219頁~225頁抄出)
と、呪の解説をしています。要は、全ての人が救われる道である般若の智慧を説いた喜びと般若の智慧の実践を讃える言葉であると説明しています。

横山紘一教授は『唯識でよむ般若心経』において、
【 真実の言葉はものすごいエネルギー、力を持っている」と言うインド古来の思想が基になっている呪(真言)であり、唱えると言う行為は必ずや正聞薫習となって、また無分別智となって深層の阿頼耶識を浄化していくことになるでしょう。 】393頁~396頁の要旨
と解説しています。

宮元啓一教授は『般若心経とは何か』において、
【呪(マントラ、真実のことぱ、真言)を、ただの「呪文」と解釈すると、非常に不可解なおどろおどろしい内容だということなってしまう。
「マントラ」は、偽りのない真実のことばの意。「真言」という漢訳語は、名訳です。
また、この個所で重要なのは、般若波羅蜜という徹し通された誓いのことばは、民衆の苦しみを取り除くという、利他の大願を成就する力をもっているといっていることです。
そのことをさらに保証する文言こそ、「真実〔のことば〕である」(サッティヤ)にほかならない。
真実となった誓いのことばが、あらゆる大願を成就する力をもつということは、すでにこれまで詳細に見てきたとおりです。・・・
「掲帝……」という呪文は、観音菩薩か完遂された般若波羅蜜と、まったく同等の価値と力をもつと、経典が宣言しているのです。
『般若心経』は、般若波羅蜜は真実となった誓いのことばであるからこそ、無上の目覚め(無上正等覚、仏となる条件としての目覚め)をもたらし、民衆の苦しみを取り除く救済力をもたらすといっているのです。
般若波羅蜜こそが、自利と利他とをふたつながらに完成させる直接の原動力だといっているのが、この経典の本当のメッセージです 】
73頁~75頁の要旨)
とも、また、
【サンスクリット語では、「般若波羅蜜」は処格で、「真実のことばとしての呪文」は主格で書かれている。つまり、内容的に、「般若波羅蜜」と「真実のことばとしての呪文」は、実質的には同格だということであり、般若波羅蜜という、徹し抜かれて真実となった誓いのことばがもつ偉大な力を、この短い呪文ももっているということである。133頁要旨) 】
と述べています。

宮元啓一教授は、真実の言葉・真実となった誓いのことばには力があるという思想が基盤となっていると論じ、単なるマジナイの呪文と見るべきでないと注意しているわけです。

以上、10回に分けてスマナサーラ長老著『般若心経は間違い?』についての批判を書きましたが、スマナサーラ長老は般若心経批判を通して法華経等の大乗仏典を貶す目的で『般若心経は間違い?』を著したなと言うのが私の感想です。

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