十如是と五何法
「法華経原典に無い十如是を用いて構成された天台大師の教理思想は、法華経原典と無関係である」と云うような見解を懐いている人が有るようです。
こうした見解に対する適切な反論を勝呂信静博士が述べられているので紹介いたします。
(以下引用↓)
渡辺(照宏)氏は、天台はサンスクリットが読めなかったから、その法華経解釈はデタラメであるというが、これは例のごとき暴論であって、とるに足りない。ただ、氏は、天台大師の基づいた羅什訳法華経の文句には、梵文法華経と違った点があるという文献学上の事実に基づいて立論しているのであって、この点は一おうの客観性があるといえる。このことはつとに学者が指摘したところで、周知なのであるが、渡辺氏も「日本の仏教」 (一八七~九頁)にこれを引用し、自説に都合のよいような解釈を与え、天台をけなすための論拠として利用するのである。
十如是
その一つに十如是の問題がある。羅什訳法華経方便晶第二に、諸法実相として「如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」という十如是が説かれているが、この十如是と十界と三世間とをかけ合わせて三千とし、これをもとにして一念三千の法門が成立するのである。ところが梵文法華経をみると、この十如是に相当するところは、
「どの諸法、どういう諸法、どのような諸法、どういう相を持った諸法、どういう自性を持った諸法」 (渡辺氏の訳文による)というようになっていて、十如是ではない。漢訳の「如是」(かくの如き)は、梵文の、「どの、どういう……」にあたり、この点は語学的には問題ではないのであるが、梵本の方は十項目ではなく、数えてみると五項目しかない。菩提流支等の訳した「法華経論」 (世親著)に、この個所が引用されているが、それには「何等法、云何法、何似法、何相法、何体法」とあって、梵本に一致する。これをふつう五何法と称している。竺法護の訳した「正法華経」も、少しはっきりしない点があるが、だいたい梵本に近い。こういうわけで、十如是は羅什が意訳したものであって、同じ羅什訳「大智度論」の中に十如是とよく似た文があるので、羅什はそれを利用したのではあるまいか、と推定されるに至ったのである。
もっともいまの梵文法華経はネパールに伝えられたものであるが、羅什訳の原典は西域系のもので、これと系統を異にし、成立も古いから、その原文には十如是があったかも知れないと反論できないわけではないが、今日西域から発見されている梵文法華経の断片をみても、この個所はネパール本と一致するといわれるから、この反論はあまり有力なものではない。
そこで十如是が原典になければ、一念三千の法門が成立しなくなるから、大問題であるということになったのである。しかし、よく考えてみると、梵文法華経がはじめて知られたころには、これはショックを与えたかも知れないが、今日の学問的水準からすれば、この程度のことばの相違は、思想上の問題としては、大したことではない。
諸法実相とは「真如」のことであるが、天台は「如是」を真如をあらわすと解釈したのである。真如は、原語ではタターターといい,タター(是の如く)という副詞に抽象名詞をあらわす語尾のターを加えて作られたことばであるが、さながらのもの、ありのままのものというような意味をもっている。如是を真如と解釈することは、ことばの成立からいっても誤ってはいない。真如は平等・無差別とされるのであるが、それは決して差別を離れた平等ではない。森羅万象の差別的な諸法がそのままにして平等性をあらわしているところが、真如といわれるのである。これが諸法の、ありのまま、さながらの姿である。したがって諸法の差別相を、五法と数えようが十法と数えようが、あるいは百法、千法、万法としても同じことである。一念三千の三千とは、森羅万象と同じ意味である。だから十如是と五何法の違いは、ただ説明の上で開・合の相違があるだけだといわねばならないのである。」
(教育新潮社刊・勝呂信静集「日蓮思想の根本問題」219から221頁)
(↑以上引用終わり)
羅什が利用したと推測されている「大智度論」の箇所は、
「大智度論巻三十二」の
「一々の法に九種有り。
一には、体有り。
二には、各々法有り、眼耳は同じく四大造なりと雖も、而も眼のみ独り能く見、耳には見る功無きが如し。また、火は熱を以て法と為し、而も潤す能わざるが如し。
三には、諸法各々力有り、火は焼くを以て力と為し、水は潤すを以て力と為すが如し。
四には、諸法は各々自ずから因有り。
五には、諸法は各々自ずから縁有り。
六には、諸法は各々自ずから果有り。
七には、諸法は各々自ずから性有り。
八には、諸法は各々限礙有り。
九には、諸法は各々開通方便有り。諸法の生ずる時は、体及び余の法、凡て九事有り。此の法には各々体法有りて具足するをしる」
との文です。
九種法と十如是の開合について、
「法華文句・巻第三下」に
「達磨鬱多は、此の九種を将って法華の中の十如を会す。
各々法ありとは、即ち是れ法華の中の如是作なり。各々限礙ありとは、即ち是れ法華の中の如是相なり。各々果ありとは、即ち是れ法華の中の如是果、如是報なり。各々開通方便ありとは、即ち是れ法華の中の如是本末究竟等なり。余は名同じ、解すべし」
と説明しています。
また、慈恩三蔵 の「妙法蓮華経玄賛」には、五何法と十如の開合について、
「如是相と如是性とは、合して是れ第一の何等法なり。相は是れ有為、性は是れ無為なるが故なり。
如是体は是れ第五の何体法なり。五蘊体非五蘊体を謂うが故なり。
如是力と如是作とは合して第三の何似法なり。力は常法を謂う、常法は力能有るが故なり。作とは無常法を謂う、造作有るが故なり。
如是因・如是縁・如是果・如是報は合して是れ第二の云何法なり。・・・
如是本末は是れ第四の何相法なり。」(国訳一切経・経疏部四・149)
と配当しています。
羅什三蔵は「五何法」を諸法の在り方と解し、大智度論の「九種法」を参考にして、理解しやすいように「十如是」に開いたものでしょう。
それから、薬草喩品に
「唯如来のみあって、此の衆生の種・相・体・性、何の事を念じ、何の事を思し、何の事を修し、云何に念じ、云何に思し、云何に修し、何の法を以て念じ、何の法を以て思し、何の法を以て修し、何の法を以て何の法を得ということを知れり。衆生の種々の地に住せるを、唯如来のみあって実の如く之を見て明了無碍なり。」
とあって、衆生が報果を受けるまでの在り方を説いています。
薬草喩品のこの文に基づいても「五何法」を「十如是」に意訳したものと推定されます。
勝呂博士の指摘の通り意訳とはいえ思想上問題ないといえましょう。天台大師の思想教理が十如是を用いて構成されていても、「法華経原典の思想とかけ離れた無関係な教理思想である」と短絡的に否定出来ないでしょう。
目次に戻る
|