山崎師著『九識霊断説の問題点』における批判の問題点。

倶生神符について
長尾佳代子女史の倶生神についての論文『漢訳仏典における倶生神の解釈』が、ネット上に公開されています。(平成11年度文部省研究費補助金による研究の一部http://ci.nii.ac.jp/naid/110002932972/  )
長尾女史の論文の[『薬師経』の中の「倶生神」]の項では、
【サンスクリット本『薬師経』には、「生まれつき背後に結びついているデーバター(倶生神)」とあり、「善悪の 行為をすっかり書き取ってヤマ法王に提出する」役割を持つとされている(取意)】と指摘し、[守護神としての倶生神]の項には、【グレゴリーショウペンの論証によると、「生まれつき背後に結びついている」という語は、輪廻転生していく人に従って、これを守護するという意味で使われている、と指摘されている(取意)】と述べ、また
【漢訳『世記経』にも、「もしあらゆる男女の人々には生まれた時から皆、鬼神がいて、付き従って守護していて・・・」とあり、人に付き従って守護するものとされている(但しパリー仏典の『世記経』にはこの部分が無いので、増広された部分と思われる)(取意)】
『薬師経』の伝承者たちが『世記経』の伝承者たちと同じ立場に立っていたとすれば、『薬師経』伝承者たちも、「生まれつき背後に結びついているデーバター」は人の守り神と考えていたことになる。(取意)】と論じています。
長尾女史の論文によれば、倶生神はヤマ法王に、各人の善悪の行為を報告するだけでなく、人の守り神としての役割を担っているとしている経典が有ることが分かります。
日蓮聖人の『道場神守護事』には、
「止観の第八に云く『帝釈堂の小鬼敬い避くるが如し道場の神大なれば妄りに侵・すること無し、又城の主剛ければ守る者も強し城の主、?(おず)れば守る者、忙(おそ)る。心は是れ身の主なり同名同生の天是れ能く人を守護す心固ければ則ち強し身の神尚爾なり況や道場の神をや』弘決の第八に云く『常に人を護ると雖も必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し』又云く『身の両肩の神尚常に人を護る況や道場の神をや』云云。人所生の時より二神守護す所謂同生天同名天是を倶生神と云う華厳経の文なり、」(昭定・1274頁)
と有って、倶生神は各人を守護する働きをするとしています。
『四条金吾殿女房御返事』には、
「人の身には左右のかたあり、このかたに二つの神をはします一をば同名二をば同生と申す、此の二つの神は梵天帝釈日月の人をまほらせんがために母の腹の内に入りしよりこのかた一生をわるまで影のごとく眼のごとくつき随いて候が、人の悪をつくり善をなしなむどし候をばつゆちりばかりものこさず天にうたへまいらせ候なるぞ。」(昭定・857頁)
と有ります。「人をまほらせんがために」とあるように、倶生神は、梵天帝釈日月が人を護らす為めに、各人に付き随いさせた神であり、かつ、各人の善悪の行為を「天に訴へる」役目を持つ神であると説明されています。同名同生の二神は、「各人の善悪の行為を天に訴へる」だけの、単なる伝達者でないことが分かります。
『四条金吾殿女房御返事』から「倶生神は、各人の善悪の行為を訴えるだけの働きをするだけである」などと、どうして読み取ってしまうのかと疑問に思いました。その様に解釈してしまう原因は
「梵天・帝釈天・日天・月天は倶生神の報告を受け、報告を受けた梵天・帝釈天・日天・月天が守護の手をさし伸べる。だから倶生神の役目は報告するだけのものである」と誤解したことと、『道場神守護事』の教示を忘れた結果のようです。
「人をまほらせんがために」の「まもらせん」は、使役を表し「守護させる」の意味でしょう。ゆえに、『道場神守護事』の教示と照らし合わせて「倶生神に守護させるため、倶生神を各人につけさせた」の意味に取るべきでしょう。
『諌暁八幡抄』(昭定・1843頁)において、妊娠成就祈願を掛けられた樹神が自分の力に負えないので、上位の四天王に依頼したと云う説話が紹介されていますが、この説話をヒントにして、細かい日常的な護りは、先ず倶生神が引き受けてくれ、倶生神の手に余る場合は、上位の諸神・菩薩等に守護の要請をしてくれるのではないかと私は想像しています。
身の神である一番身近で守護してくれると云う倶生神をお守り札として身に付ける事を特別とがめ立てすることも無いだろうと思います。
御遺文には七面大明神についての言及はありませんが、宗内では七面大明神のお守り札も出されています。御遺文に言及されている倶生神をお守り札にしても特別とがめ立てする必要は無いだろうと思います。
【さらに霊神符を帯する必要があるのだろうか?】と言う質問が寄せられますが、必ずお守り札にして着帯しなければならないと云う宗学的理由は無いと思います。日蓮聖人は着帯されてなかったのですから、必ず着帯する必要が有るとは云えないと思います。しかし、お護り札の形になっていれば、朝、着帯するさい「倶生神さま今日も一日お守り下さいと」と言う念のもとに着けるでしょう。この護りを信ずる念が、守護を受ける「心固ければ」との条件を自然と具する事になるだろうと思います。ただし、行き過ぎた倶生神符の誇大宣伝はいけないと思います。
「金集め、儲け目的で着帯を勧誘しているお寺がある」との投稿がありましたが、実際に、そんなお寺があるかどうか分かりませんが、かりに在るとしても倶生神符自体に罪が有るわけでないでしょう。
【三秘の受持、御本尊の受持を布教して勧めるべきであるのに、日蓮聖人の預かり知らぬ霊神符を勧めることは、常に第一義を説かれた日蓮聖人の教えに反する。】
との批判がありますが、倶生神符を取り替える為めに、寺院教会の信行会に出席すれば、必然的に、大曼荼羅御本尊を対象として唱題し、法話も聴くことになりましょう。大曼荼羅御本尊やお題目より倶生神の方が有り難いとか倶生神の方が帰依尊崇の対象であるなどと馬鹿な事を説法する教師など居ないでしょう。すから、【日蓮聖人の教えに反する。】と頭から否定する事は如何なものかと思われます。

【「整識観」「九識霊断法」「倶生神の守護」はセットになっているということである。セットということは「整識観」は「非」ならば三つとも「非」ということである。】との批判が有りますが、
倶生神符は『道場神守護事』と『四条金吾殿女房御返事』に根拠があるので、「整識観」や「九識霊断法」が無ければ倶生神は無いと云うものではないので、「セット」では無いでしょう。
「九識霊断」をしなければ、倶生神符を渡せないと云う事ではないでしょう。「整識観」が「非」であるからと云って、倶生神も「非」であるとは断言できないと思います。

「整識観」について、その1。
『新日蓮教学概論』の「第二章 整識観」を読んで見ました。
【整識観は仏教心理学の近代版ともいう可きものであるから、唯識の名称と構成を襲用し経験心理の鏡に映して、現代の誰もが容易に納得できるように構成するものである。】33頁)
【整識観は、九識を迫究し、捕捉する心理学であるが、それは同時に、世親菩薩の唯識の非心理学部分の補足訂正でもあるから、唯識の構成をそのまま襲用し、経験心理に照らして矛盾のないように、心識を整理し、会通するものである。】36頁)
と有るので、高佐日煌師の独創の「唯識の名称と構成を使用して、経験心理学的な立場から、九識を追求し、捕捉する心理学」と言うことのようです。
唯識論の名称と構成を借りているが、各識の意味概念は唯識論のそれを踏襲してないようですから、各識の意味概念が唯識論における各識の意味概念と違う点を指摘しても、しょうがないのではないかと思われます。むしろ「整識観」の構成説明に間違った点が有るか無いかの検討が必要だと思われます。
「第二章 整識観」を一読した感想は、「こういうように経験心理的な説明もできるのだな。ただし、唯識の八識(蔵識)の概念が欠けているので、三世因果論の根拠性が希薄な考えだな」と言う感想です。
もう一つ大きな疑点は
【第九識は、人間の心識に於いては主我であるが、その本質は愛を生命とする仏性である。同時に、現象世界を顕現せしむる本体界である。本体界は神秘蘊在の世界であり、その本休界にこそ、万有の起源があり、万物の創造の意志があるのである。所謂、霊界はこの無相密在せる秘密の本体界であって、その霊界の主人格を名づけて神と呼ぶのである。人間の主我は、無相に密在せる神の分霊であって、無意識の無明を越えて、現実の現象世界に神として君臨しているのであるが、この神秘識が、第六識の判断識である意識に現われるときは、仏教の説く「三世両里の因果」「結業」「輪廻転生」に依って成立する個人の肉体の主人格となるので、尊厳にして広大なる本仏の神秘は、その時点で「個人我」に置き替えられるのである。
故に、人間は自然の儘では『神』とはいい難いが、第八識の理性の慧光に照らされ、自己の主我の本質を覚ったとき、人間にして天地宇宙の創造の意志を持ち、万有の起源を所有する神を兼ねることになるのである。それが釈迦仏教から発展して、大乗仏教で大成した思想、すなわち生命一体の原理を実際の生活に生かし、仏の願いを成就する菩薩(覚有情)である。
無相に密在せる人間の主我本質の本体界は、自然と法則、生物、文化に依って現象世界を顕現している。仏教は、本体界の主人格である神の創造する天地自然と、その中に宛然としてそれらを動かしている法則を指して「法身仏」といい、その法身仏をもって生命を活動させ、創造して行く文化形態を指して「報身仏」と説き、人間の日常生活に現われる人格の価値である慈悲活動を指して『応身仏』といっている。】
(『新日蓮教学概論』89頁~90頁)
と有る部分です。
第一行の部分は納得出来ますが、二行目の「同時に」以降の論述は肯けないなと言う感想です。二行目の「同時に」以降には、第九識は、
1,現象世界を顕現せしむる本体界。
2,万物の創造の意志
3,霊界はこの無相密在せる秘密の本体界であって、その霊界の主人格を名づけて神と呼ぶ。
4,天地宇宙の創造の意志を持ち、万有の起源を所有する神。
との思想があります。
また、
「現代宗教研究所」の所報『教化学論集2』に掲載された、齊藤朋久師の論文『日蓮仏教の現代科学からの会通』は『新日蓮教学概論』の「法界観」を祖述した論文のようです。齊藤師は
【釈尊の本体である久遠の本仏、それは宇宙そのものであります。宗祖は今此三界合文という御書の中に伝教大師の著書を引用されて「釈迦如来は是れ三千世間の総体」と仰せでございます。】(教化学論集2・71頁)
「この大宇宙の生命たる本仏が、妙法蓮華経であるととかれています」と述べ、また、日蓮宗霊断師会発行の『聖徒タイムズ』第472号(四月号)の一面の法話の中に、【世界の始まりに、「平和な楽土を創造しよう」とされた仏さまの御心(一念)から無限の宇宙(三千)が現れました。その仏の心の現れの一つが「あなた」や「私」で、私たちは仏さまから、心と体をわけていただいて、この世界に顕れたのです。(中略)大宇宙創造の「仏さま」が全人類の心にいらっしゃるから 】とありました。
こうした法界観は、宇宙創造神を立てる事や、世の中の現象や人の運命は梵天や自在天の意志によると言う思想を非因計因の誤った思想であると批判する仏教の基本的思想に抵触するのではないかと思います。
成唯識論では、第八識が浄化し尽くされ(転識得智)て発揮する法界体性智を仏智とするようです。摂論宗では第九識として阿摩羅識(無垢識、真如識)を立てるようです。
天台大師は
「九識は道後の真如なり。」(法華玄義巻第五下)
「若し阿黎耶の中に智慧の種子有りて、聞熏習増長せば、即ち依を転じて道後の真如と成るを、名づけて浄識と為す。・・・ 若し黎耶の中に此の智の種子有らは、即ち理性の無分別智光なり。五品は観行の無分別智光、六根清浄は相似の無分別智光、初住より去るは分真の無分別智光、妙覚は究竟の無分別智光なり。」(法華玄義巻第五下)
と、聞熏習増長の結果、得た智慧を道後の真如とも第九識とも無分別智光とも言うと説明しています。ただし、理性の無分別智光ないし妙覚は究竟の無分別智光と言っているように、性として状態の九識、乃至、完全に発現した状態の九識すなわち妙覚究竟の無分別智光の別があると説明しています。
成唯識論の法界体性智、摂論宗でいう第九識阿摩羅識、天台大師の言う第九識無分別智光の意味概念に、高佐日煌師の言う上記の1~4のような意味概念は無いと思われます(まだ委しく調べていませんが)
ただし、『新日蓮教学概論』に見える法界観と類似している法界観を述べている先師に、日蓮宗の日導師(綱要導師)が居ます。
『祖書綱要』には
「故に本門の釈尊を以て三千世間の総体と為す。所以に九識妙法の本法を指して、本覚法身と指す」(祖書綱要巻第十)

「故に十界の諸法の当体は本有の妙法蓮華経なり。本有の妙法蓮華経とは本門の上の法門なり。所以に本覚と言い法身と言い法性と言い真如と云うは、皆な九識本法の妙法を指し玉うなり。」(祖書綱要巻第十)
と説明していて、妙法蓮華経と呼ばれる真如・実相は、九識であり、人格的仏であると考えているようです。
また、「真言宗は、元と寿量文底の本仏を盗取して大日如来本地の身と為し、毘盧遮那本地の常心を以て諸法生起の本源と為す故に、当家の九識本覚の義に同じ」(祖書綱要巻第十)と有るように、九識本覚を「諸法生起の本源と為す」ものと考えているようです。この日導師の、九識本覚は諸法生起の本源であると言う法界観と、高佐日煌師の法界観は類似しているように思います。
また、清水龍山師が
【当に知るべし、文上塵点は能顕の教相にして、文底無始は其所顕の実義なることを、夫れ竪に時間的には、無始無終三世常住、横に空間的には、十方法界・三千依正に周遍せる、本有無作の一大円仏実在す、この仏たる既に法界三千をもって相と為し(応身)性と為し(報身)体と為す(法身)故に法界一法として、此の本仏の妙体ならざるはなく、三千一塵として此の本仏の妙用ならざるはなし、本仏即法界、法界即本仏にして、法界は不変真如の本仏・本体・実在界より随縁縁起したるものにして、随縁真如の法界三千の現象界は、即是本仏の全体起用なり、】(『清水龍山著作集・第一巻』39頁)
と述べていますが、この法界観にも高佐日煌師の法界観は類似しているように思います。
『清水龍山著作集・第一巻』の浅井円道教授の「解説」には、
「聖人の本仏観は事法身であると結論する清水龍山師の本仏観は密教の大日如来に堕ちたことになる(取意)(421頁)と評しています。
もし善なる意志をもった仏が創造し司ると仮定すると、善ならざるものが生じ展開することは無いことになります。悪なる事象も迷苦の衆生も存在しないはずです。悪者の悪行も、そのままで善行と云うことになってしまいます。戦争もそのまま必要な善なる現象と云わなければならなくなります。
絶対的な支配神である宇宙創造神を立てるキリスト教に対して、
「絶対善から悪は生じない道理だから、悪の起源を説明出来ない」
「神はいかなる理由で、戦争やら自然災害を起こすのか」
「如何なる理由で不完全な人間を造ったのか」
等々の疑問が呈されていますが、これらの疑問がそのまま向けられるのではないかと思います。
恵心僧都の『真如観』に
「凡そ自他一切の有情、皆、真如なれば則ち仏なり。されば草木・瓦礫・山河・大地・大海・虚空、皆、是れ真如なれば、仏にあらざる物なし」とあります。一切は真如の顕れと見る真如縁起の思想です。
この真如を人格的仏・九識であるとすると、『新日蓮教学概論』のような説明が出てくると思われます。
『祖書綱要』でも、
「本有の妙法蓮華経」を本覚如来とか釈尊の証悟と考える所から、「故に本門の釈尊を以て三千世間の総体と為す。」とか、「(九識本覚を)諸法生起の本源と為す」と言う結論に成ってしまっているようです。
『新日蓮教学概論』でも『祖書綱要』と同様に、御義口伝・日向記・三世諸仏総勘文抄等の偽書説のある御書を重要視しているので、本覚仏を諸法生起の本源と為す『祖書綱要』の考えに酷似しているのでしょう。
しかし、真如・実相は即、人格的仏とは云えないと思います。真如・実相は因果の理法の別名です。人格的善意志的なものでないと思います。
「十界の諸法の当体は本有の妙法蓮華経」の「本有の妙法蓮華経」とは、純粋に仏界(本覚仏・九識)だけと言えないと思います。
「本有の妙法蓮華経」とは、本有の十界互具を意味するものでしょう。善悪並存と云うようなものだと思います。
「本有の妙法蓮華経」が活動展開すると、仏界だけでなく、同時に地獄等の九界も顕現すると考えるべきと思います。
身土不二・依正不二と云われますし、無始の古仏釈尊の証悟の世界は、釈尊の一念三千の世界であると云う視点から見れば、世界は釈尊の身土と云う意味合いから「故に本門の釈尊を以て三千世間の総体と為す。」と云う表現も出来ると思います。
しかし、釈尊から見れば釈尊の一念三千の世界であっても、同時に地獄の衆生の一念三千の世界すなわち地獄の世界でもあるわけです。地獄の衆生を以て「三千世間の総体と為す」世界でも有ると言えましょう。
「善と悪とは無始よりの左右の法也。・・・元品の法性は梵天、帝釈等と顕れ、元品の無明は第六天の魔王と顕れたり。」(富木入道殿御返事・定本1520頁)とあります。
「善と悪とは無始よりの左右の法也」とは、宇宙進展の根本が人格的善意志だけでは無いと云うことでしょう。
中古天台の本覚思想に酷似しているところの偽書論のある御書を主なる根拠として、理法身あるいは真如・実相を人格的本仏であると考えると、やすやすと、創価学会で云うような宇宙生命論と同じようなものになってしまいましょう。

「整識観」について、その2.

【霊断は発動性本能として諸々の欲望を肯定している。さらに、高佐師や霊断は、このような欲望の元である無明や煩悩を「仏教は否定しているのではなく肯定している」と言っている。】との批判が向けられています。
真言宗の亜流の立川流でもあるまいし、まさか日蓮宗の教師が「本能・煩悩を恣にして良い」などと主張する事などは無いと思われるので、「整識観」を検討して見ました。『新日蓮教学概論』では、
「所詮、無明識と称する第七識の本能は、人間に本来具わっている能力ではあるが、・・・更にもう一段奥に、本能の行使を誤らせず、その能力を充分活動させ、人生を満足に導く聡明な心理か具わっている・・・第八識の法性識は人間の持つ理性を捕捉するものである。・・・ 理性は、本能が終始一貫、盲目的に発動するのに対比して、正反対に自烋顕照の慧光を放つ心象である。また、本能が肉体に即する個人的な生命の運営を目的とするのに対して、理性は肉体を離れ、社会の共同体を生命とし、公明正大につく性格を有するものである。故に理性は、本能とともに主我の内容を構成するものであるが」70頁)

「第九識の意識主体・主我の本質こそ仏陀そのものである。それは個人に属する自由、享楽と、社会人に属する倫理・道徳とが異和することなく一大調和を醸しだす点であり、個人と社会大の要件を同時に結ぶ第三の真理である。その第九識、神秘識・仏性を基点とされたのが日蓮大聖大の実践宗教である。」86頁)と述べています。
要は、本能と理性が具されていて、本能と理性との調整をするのが第九識であると言っています。ですので、「本能として諸々の欲望」を野放図に肯定していない事が分かります。『十字仏教』にある
「後に具体的に説明する積りであるが、本能そのものは無意識であって、煩いでも悩みでもない。ただ発動して来た本能の取り扱いを謬ると、そこから悩みが起り煩いが起るのである。この点を昔の人は履き違えていたのである。・・・これはひっきょう生命の中に包蔵せられている合目的の理想だからである。(中略)なぜ合目的であるかというと、万人に共通しているからである。万人に共通しているということは、天来のもの、自然のものであって、人間の構想から生まれたものではない。天地の法によって定められ、神によって与えられたものにほかならないのである。(『十字仏教』九七~八頁)」との論述に対して
【要するに、高佐師は「無明は本能であり煩いでも悩みでもなく、神によって与えられたもの」と言う。・・・今更言うまでも無いことであるか、仏教は「無明の惑は煩悩であり対治の対象である」と説く。釈尊も天台も日蓮聖人も無明を対治するために教えを説かれた。】との批判が向けられています。
しかし、上記『十字仏教』の文には、
「ただ発動して来た本能の取り扱いを謬ると、そこから悩みが起こり煩いが起こるのである。この点を昔の人ははき違えていたのである」とあるので、高佐師は、諸々の欲望の発動をそのまま肯定しているのでなく「統御しないと悩みが起こり煩いが起こる」と言っていると読めます。
「本能の発動を統御する」とは「本能を対治する」意味だと思います。だから「高佐師は、本能を対治しなくても良いものなどと主張している」との批難は如何なものかと思います。
『一代聖教大意』に、
「法華経已前の諸経は十界互具を明さざれば仏に成らんと願うには必ず九界を厭う九界を仏界に具せざるが故なり、されば必ず悪を滅し煩悩を断じて仏には成ると談ず。凡夫の身を仏に具すと云わざるが故に、されば人天悪人の身を失いて仏に成ると申す、此れをば妙楽大師は厭離断九の仏と名くされば爾前の経の人人は仏の九界の形を現ずるをば但仏の不思議の神変と思ひ仏の身に九界が本よりありて現ずるとは言わず、」(昭定73頁)と有るように、宗祖は「貪瞋痴の煩悩は消し去るべきもの」と考える仏教者の考えを、十界互具の教説を知らざる者、厭離断九之仏を求める者と批判してます。いわゆる性悪不断論です。
『始聞仏乗義』には、
「生死と云うは、我等が苦果の依身なり。いわゆる五蘊・十二入・十八界なり。煩悩の振る舞いと云うは、見思・塵沙・無明の三惑なり。結業と云うは、五逆・十悪・四重等なり。・・・我等衆生、無始広劫より已来、この三道を具足す。今法華経に値い奉れば三道即ち三徳なり。・・・但し付法蔵の第十三天台大師の高祖龍樹菩薩、妙法の妙の一字を釈して、たとえば大薬師の能く毒をもって薬とするが如し、と云えり。」(昭定1453頁)
とあって、煩悩・業・苦の三道を滅し去るのでなく、価値転換(法性化・働き方を変える)すべきものとしています。
『日向記・若人不信毀謗此経則断一切世間仏種の事』にまでなると、
「されば釈に云く、断一切仏種とは浄名には煩悩を以て如来の種と為す、此れ境界の性を取るなり、』此の釈の心は浄名経の心ならば、我等衆生の一日一夜に作す所の罪業・八億四千の念慮を起こす、余経の意は、皆、三途の業因と説くなり、法華経の意は、此の業因・即ち仏ぞと明かせり。
されば、煩悩をもって如来の種子とすと云うは、是の義なり、此の浄名経の文は、正しく文在爾前・義在法華の意なり、此の境界の性というは、末師、釈する時、能生煩悩・名境界性と判ぜり、我等衆生の眼耳等の六根に妄執を起こすなり、これを境界の性と云うなり、権教の意はこの念慮を捨てよと説けり。法華経の心は、この境界性の外に、三因仏性の種子なし。これすなわち三身円満の仏果と成るべき種性なりと説けり、」
と「三途の業因、即ち仏ぞと明かせり。」まで語っています。
こうした宗祖のお考えや『日向記』の思想を基に、高佐師は「煩悩は本来具有するもので、断無出来ないもの、統御し、発動の仕方を法性化すべきもの」と主張しているのだろうと思います。
ちなみに、NHKブックス中村元著『原始仏教』には
【このように原始仏教ではこれらの煩悩、欲望をのり超えることを説いた。欲望をすてれば苦しみはなくなる。それは解り切ったことであろう。しがし実際問題として、人はそのとおりに実行することは困難である。そこでその教えにもっと説得力をもたせるために、いわゆる「無常説」や「無我説」が説かれるようになったのである。そして欲望をすてよ、ということはくりかえし説かれているが、その目的を達した究極の境地になると、わざわざ欲を去ることもないと説いている。(6) ここに煩悩をことさらに否定せず、あるがままに認めてとらわれぬようにしようとする後世の思惟方法の発端がかすかに認められるように思われる。】70頁)と論じています。
ただし、高佐師が、煩悩本来具有を十界互具論から説明しないで、「久遠の全一生命をその根底としている人間は、その生命に愛着する欲望を抱くのもまた至極当然である」(『新日蓮教学概論』55頁)
とか、『十字仏教』上記の文のように、「神によって与えられたものにほかならないのである」などと説明している事は肯けませんが、本能は「天地の法によって定められ」たもの、即ち「自然にもともと持っているもの」との高佐師の説明は、本能はその殆どは貪欲に攝属するでしょうから、本来、地獄・餓鬼・畜生界(性)を具有しているという十界互具論から肯けます。
序でですが、
高佐師の『観心本尊抄を語る』に有るという
「生死流転、所謂輪廻転生こそはだ、我々の向上進歩の条件として、方法として、ここに生命体に与えられておることである(『観心本尊抄を語る』一七八頁)」との文を挙げて
【(高佐師は)生死流転を「向上進歩の条件」と言っている。 高佐師にとって「無明の対治」も「生死の苦海を渡る」ことも全く必要ではないのであり、高佐説には、仏道の目的である「無明の対治」や「出離生死」が完全に欠落している。】との批判が向けられていますが、まず常識的に考えても、仮にも日蓮宗の教師である以上「迷いの生死流転のままで良いのだ。生死を解脱する必要などないのだ」などと主張する者は居ないでしょう。
『観心本尊抄を語る』を所有してないので、この文の前後の文が分かりませんが、テレビに出演する三輪明宏氏が「修行するために、この世に生まれてきたのです。此の世の生涯が価値あったものとする為めに人生修行しなさい」と言う趣旨の事を度々語りますが、そのような意味で高佐師は語ったのだろうと推測します。
相手の言葉の上面を揚げ足的に採り上げ批判する事は肯けません。相手が言ってない事を言っていると決めつけて批判する事は、単なる中傷になるでしょう。

『新日蓮教学概論』の近代仏教観について。

「近代仏教学の提起した大乗非仏説は、科学的考証を裏づけにした学問的研究成果であるから、宗教として帰依する仏教徒にとって異端ではあっても邪説として排除することは正当な学問的な根拠がなく、学的良心に於いても許されるものではない。」(『新日蓮教学概論』増補改訂版九頁)

「日蓮人聖人の主張された大義名分の根拠となったのは、法華経をもって釈尊の出世の本懐とする教相論でありその教相の根拠が大乗非仏説に拠って覆ることは、宗義の根拠が人きく揺らぐという、極めて深刻な立場に立だされ、重大な影響を受けることになる。」(「新日蓮教学概論」増補改訂版十四頁

「五綱教判は日蓮仏教の性格を明かすために、宗祖御自ら立てた教義であるが、宗祖御在世の仏教学と現代の仏教学とは重大な相違が起こっている。その相違によって祖師禅を除く大乗仏教諸宗は致命的な影響を受けることになる。
日蓮宗宗学も天台教学に依存する限りその影響を免れないが、整識観及び日蓮教学原理に立てば何等の影響を受けないばかりでなく、反て近代仏教学に依って日蓮仏教の性格が明らかになり、新鮮味を加え光彩を放つことになる。今や既成宗学の構成に重大なる訂正を要求せられているのである。」
(『霊断師会摘要』(二七頁)
等の文を山崎師は批判して、
【 つまり、驚くなかれ、霊断師会は、「五時八教や五綱を捨てろ。 捨てても、『整識観』があれば、大乗非仏説であっても何等の影響は受けない」(要旨)ということを言っているのである。】と弾劾しています。
しかし、上掲の文でも霊断師会では「五時八教や五綱を捨てろ」などと主張していないようです。上掲の『新日蓮教学概論』などの諸文は、「法華経は釈尊直接の説法記録でなく、別の五時は釈尊生存中の事実上の時系列ではないと云う事は仏教学上の定説(専門学者の共通認識)になっているから、日蓮教学も此の定説を無視せずに考慮してゆかなければならない」との見解を語っている文であって、蔵・通・別・円の化法四教についての天台大師の教理分析や、五綱判の序・国判・時判・機判まで否定していないと思います。
大乗経典成立については平川彰博士の
《 以上、二、三の例を示したが、大乗経典には「観仏三昧」の体験を説くものが多い。そしてその三昧の体験において、仏から教えを受け、三昧から出定してから、定中に受けた仏の教えを中心として、経典を述作したと考えてよかろう。そのために、菩薩がみずから述作した経典を「仏説」と受けとったのではなかろうかと考える。
大乗経典には、仏陀が三昧に入り、その三昧を出てから説いたとなす形式の経典がある。あるいは弟子が、仏の威神力、加持力を承けて、説法をなしたという形式の経典もある。このように大乗の経典は、経作者たちが自己の背後に仏陀の支持力を感じて、その力に乗じて経典を作ったと見られるのである。そこに深い宗教的な体験が認められる。そのために大乗経典が「仏説」であると主張されても、受持者に奇異の感じなしに受け入れられてきたのであろう 》

(平川彰著作集5・72頁)
との説。また、田上太秀駒澤大教授の、
《 これら大乗佛教のブッダは「不受後有」への反省から生まれたブッダたちと言えよう。つまり「不受後有」、つまり世間に再生しないはずの諸仏が世間に到来するという信仰は大乗仏教典の力説する点である。・・・経典中の諸仏は現実には生存していなかった。したがって耳で説法を聞くことができない。姿を肉眼で見ることができない。諸仏の声を聞いたり、姿を見たりできたのは大乗仏教の菩薩だけである。
彼らは三昧に入って諸仏の声や姿を見たり聞いたりできた。世間に再生しない諸仏が生類救済を願ってこころを傷めている姿を菩薩たちは三昧の中で見たのである。一方、諸仏は菩薩たちの三昧を介して姿を現し、声を聞かせたというべきであろう。
『華厳経』の「入法界品」の獅子奮迅三昧は生類救済のために獅子が奮い立つような勢いの姿を見せるブッダの三昧である。
このように菩薩の側からブッダを観察するための三昧とブッダの側から姿を表すための三昧などがあり、大乗仏教では肉眼で見えないブッダを三昧の中で見て、諸仏がどんな説法をしているかを聞き取り、それを文字に表記したのが、大乗仏教の経典である。(略出) 》
(大蔵出版刊「仏性とはなにか」111~112頁)などの説が有り、また村上専精博士が『仏教統一論』において
「大乗非仏説といっても、大乗非仏教・大乗非仏意ということではない。歴史的立場からと教理的立場から論ずべきで、大乗非仏説といっているのは、歴史的立場からだけのものであり、教理的立場からすれば、大乗は仏説としなければならない」と力説しているとのことです。
要は、法華経は釈尊在世中の直接説法の記録ではないが、釈尊の教えを語っている経典であると云う事が共通認識であると云えましょう。
別の五時が経典成立史に合致しないからとの理由だけで、霊断師会は短絡的に、「五時八教判全体は現代には通用しない」と考えていないと思います。
だから「霊断師会は五時八教や五綱を捨てろ」と主張しているなどと云う批判は、単なる中傷の部類に入るでしょう。
『新日蓮教学概論』は、
「釈尊御在世中に、最初に華厳経、次いで阿含経、次いで方等経(一般大乗経)、次ぎに般若経、次ぎに法華・涅槃経を順次に説いたとする時系的五時判を認めない仏教学の立場を無視しないで会通し、日蓮聖人の教学を顕揚してゆく必要がある」と言う考えだと思います。
「五時八教判」は、別の五時の経典成立の時系列順序を説いて居るだけでなく、通の五時とか、また「化法の四教」といって、経典の教理を蔵・通・別・円の四種に分け、華厳経には別教と円教。阿含経には蔵教。方等経には蔵・通・別・円。般若経には通・別・円の教理。法華経には純円の教理。涅槃経には蔵・通・別・円が説かれていると教理の内容分析をし部として法華経最勝を謳っています。
また大乗経典が仏滅後に成立したとしても、各経典の教理内容から、諸経を擬宜(ぎぎ)・誘引・弾呵・淘汰・開会の働きに配して、純円教である法華経が教理的に諸経を統一開顕する最も優れた経であるとの主張をなし得ると思います。
『天台学辞典(国書刊行会)』には、
「天台では、三種教相が有るか無いかで、純円教であるかどうかを判じている(取意)」と、解説していまが、こうした天台大師の教理分析 は、現在の仏教学といえども否定出来ない教理考察と思います。
『無量義経』の「四十余年には、未だ真実を顕さず」また、『法華経』の
「已に説き、今説き、当に説かん。而も其の中に於いて此の法華経、最もこれ難信難解なり」(法師品第十)との断言は、けっして根拠のない無意味の大言壮語でないと思っています。
『無量義経』や『法華経』に於いては、天台大師の『法華玄義』や『法華文句』のように、蔵・通・別・円の化法の四教の面から諸経を比較して、法華経が諸経を統一開顕する最も優れた経であると詳論されていませんが、『無量義経』や『法華経』の編纂者(成文者)は他の諸経の教理と、比較検討した上での断言に違いないと、私は確信しています。
霊断師会の立場は、方法論としては「日蓮教学には、現在の仏教学といえども否定出来ない教理があるのだから、その面を闡明し会通していくべき」と云う立場であろうと推測します。
山崎師は
「日蓮宗宗学も天台教学に依存する限りその影響を免れないが、整識観及び日蓮教学原理に立てば何等の影響を受けないばかりでなく、反て近代仏教学に依って日蓮仏教の性格が明らかになり、新鮮味を加え光彩を放つことになる。(『霊断師会摘要』(二七頁」)を再掲して
【 「九識霊断の教学である「整識観」を使用すれば、「何等の影響を受けないばかりでなく、反て近代仏教学に依って日蓮仏教の性格が明らかになり、新鮮味を加え光彩を放つことになる。」と言っている。・・・五時八教や五綱教判が欠如した教学が「真正目蓮教学」であろうはずがない。 】と批判していますが、
「整識観を使用すれば、五時八教や五綱教判が欠如しても良いと霊断師が主張している」と読者に誤解をあたえる記述だと思います。
『新日蓮教学概論』や『霊断師会摘要』の執筆者は、天台教学の、近代仏教学による経典成立史に反する部分は、そのまま依用出来ないと考えているのでしょうが、現代にも通用する部分までひっくるめて依存すべきでないという考えではないでしょう。
五綱教判についても、教判は釈尊御在世中の直接説法の時系列から法華経を最勝経典と選定する天台教学をそのまま踏襲している部分は会通をする必要が有ると考えているのでしょう。蔵・通・別・円の教理検討から法華最勝とする天台教学の観点まで「捨てろ」などと主張してないと推測しています。
ただし、上掲の『霊断師会摘要』のように「整識観及び・・」と書き加えるまでの価値が整識観に有るかな?と思って居ます。
山崎斎明師が指摘しているように、『新日蓮教学概論』は、解りにくい言い回しの箇所が多々あり、その云わんとしている事が解らない文章が多くあります。
また、例えば『九識霊断説の問題点』の50頁に挙げているような、高佐師著『観心本尊抄を語る』にあると云う「この一品二半下種の五字。お釈迦様程の大聖者が何でこれ分からなかったんだろう。云々」とのような、批判されて当然な「エッ」と思う論外な言葉もあります。
しかし、同時に山崎師の批判理由にも疑点を感じる箇所があります。重箱の隅をほじくるようですが気になる点を指摘したいと思います。

『九識霊断説の問題点』に
【 天台が前提とする大乗仏説という意味は、歴史的事実として一代五時の説法があったという意味ではない。・・・成道直後の華厳経の説法などを、歴史的事実として一代五時の説法があったと天台が認識したわけではないことは誰でにでも分かることである。 】47頁)
とありますが、天台大師は経典にある年数などを証として別の五時の時系列を論証しているので「別の五時は釈尊御在世一代の中に順次説法された」と見ていたと云うのが学者の共通認識であると私は理解しています。
勿論、増補が有ったであろう事や偽経の存在は御存知であったでしょうが、天台大師は、大乗経典を釈尊御在世中の説法と認識していたと見るべきでしょう。

『九識霊断説の問題点』に
【 大乗は教理的には連続的関係にあり寿量開顕で全仏教が統一される説である。大乗仏教は仏教徒が讃仰して止まぬ教主釈尊への思慕の情から次第に仏陀観を発展したと見る大乗仏教発展説は、小乗と大乗は歴史的に分断され教理的にも分断的に見る傾向が強いから、芳しくない49頁取意) 
と言っているので、山崎師は大乗仏教発展説を斥ける立場のように思えます。しかし、大乗の起源は部派仏教の仏塔を中心とした僧俗の信仰・思想から始まったと仏塔考古学(碑文研究)の面からも言われています。
この仏塔中心に始まった釈尊を敬慕しその存続実在を信じることに始まった思想信仰運動が深化発展して、大乗経典の成立に至ったと、考えられています。
かかる大乗思想の運動の発展説を「小乗と大乗は歴史的に分断され教理的にも分断的に見る傾向が強いから、芳しくない」と否定去ることは出来ないと思います。
『九識霊断説の問題点』54頁の「註4」において
【 近代仏教学を利用して五時八教を否定する高佐師や霊断説には霊断説に法華最勝の義はない。「涅槃経は法華経の後で出来ている(中略)近代仏教学の立場から、そういう結論になっている」と高佐師は言うが、そういう解釈は天台や日蓮聖人の教えではない。 】と批判しています。
『天台四教義』では、法華涅槃を同醍醐味同時の経とされていますが、時間的前後を厳密に言えば涅槃経は、法華経の直ぐ後、入滅前の説法とされています。経典成立史についての現在の研究成果では、法華経編纂より後に涅槃経は編纂されたと認識されています。「そういう解釈は天台や日蓮聖人の教えではない。」などと経典成立研究成果を無視したり否定する事は頑迷の謗りを受けてしまいます。現在の研究成果としての経典成立史を認めつつ、法華経最勝極説で有る事を解明して行くべきとの霊断師会の方針そのものは批難出来ないと思います。
高佐師が「法華経の延長である」と言っている意味は、「涅槃経は追説追泯的教説である」ことを表現した言葉であろうかと推測します。
すでに前に指摘しましたが『新日蓮教学概論』では「五時八教」の全てを否定などしていないようです。【高佐師や霊断説には霊断説に法華最勝の義はない】との事ですが、『新日蓮教学概論』を読む限り、そんなことはないように思えます。
【 教主釈尊に依って教えられた真の仏教を確立する為、大聖人は教相の権実判の上から、これを糾明し、末法時機相応の新仏教の立場を明らかにされたのである。末法に於ける新仏教とは「されば正法には教、行、証の三つ倶に兼備せり。像法には教行のみありて証なし。今末法に入ては教のみ有りて行証なく、在世結縁の者一人もなし。機実の二機悉く失せり。此特は濁悪たる当世の逆謗の二人に初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華を以て下種と為す。「是好良薬今留在此汝可取服勿憂不差」とは是なり」(教行証御書五三一)
の祖意のごとく、下種から出発するのである。過去の仏教とは全く立場を異にする新仏教を闡明にされたのである。これは、同じ教主釈尊の仏教ではあるが、正法と像法の二段階を抛棄して、末法時機相応の良薬(救護の教法)が現われる末法相応の仏法の登場ということである。
近代仏教学に於いて、仏教の経過を捉えてみると、密教は剽窃せる仏教で、例せば著作権侵害、登録侵害的な意味の偽仏教であり、禅は、達磨の手法を釈尊の手法のごとく偽作して、しかも釈尊を教主と仰ぎつつも教えを悉く否認するという、極めて悪質な詐欺行為の偽仏教であり、浄土門は大乗仏教の仏陀観と浄土観の特定の一部分を極出して、現実の娑婆世界に適用されるべき設計図を、既にでき上っているもののごとく誤解し、存在しない浄土と、存在しない仏とに憧れる、夢遊病的観念仏教であり、更に最も大切な現実の娑婆世界に於ける浄土建設を抛棄し、しかも成仏と浄土を来世の極楽往生に求めて現世から衆生を逃避させる麻薬的な副作用を伴う危険な宗教として成立しているのである
(『新日蓮教学概論』130頁) 】
【 以上、五綱教判は総合して日蓮仏教成立の由来を明らがにするものである。現代の新義に於いては原始仏教は諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の哲学的構成に終り、宗教的成立を見るに至らなかったこと、後に発達した大乗仏教は、法華経に到達して大成を見たが、実際の宗教としては、聖道、浄土、禅、密教に分裂し、その本来的帰趨を見失ってしまったこと、この時に当って日蓮大聖人は、仏教の正統教理を質し、教主釈尊を中心として、しかも南伝仏教のごとき単なる教団の歴史的延長に止まらず、北伝仏教の発達せる大乗仏教系の全教理を収め、しかも下根より上根に至るまで、化導の対象として洩れること無き完成せる宗教としての仏教を成立させたと見るべきである。(『新日蓮教学概論』170頁) 】
とある「第四章 五綱教判」を読んでも、『新日蓮教学概論』は五綱判を全面的に否定していないし、法華最勝の義に立って居ることは確かのようです。

『新日蓮教学概論』の第九識(神秘識)に関する文章は、難解で意味を忖度できない、また不審な箇所が多く有りますが、それは置いといて、各文段の結語的部分を抽出すると、
(1)【第九識は神秘識・仏性である。・・・それが「主我」と称する「意識主体」であり、「自分そのもの」である。】(81頁)
(2)【人類全体を「今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是吾子」と見る仏陀や神の意志と等しい境に巡り着くが、これこそ第九識の面目であり、主我の本質である。】(83頁)
(3)【七(本能)・八(理性)両識を属性として帯同し、個々の生命体に即して第七識を具え、宇宙の大生命に通ずる社会性に即して第八識を具え、両者の調和に依って究竟目的を満足せんとして活動することである。】(83頁)
(4)【日蓮大聖人は、人間心理の奥底に位する第九識をもって神とし、本仏とする思想である。釈迦牟尼仏もその神を覚悟し、自他彼此の境界を超越して、生命一体の原理を現実生活の上に表現した「有相顕在の神」に他ならない。】(89頁)
(5)【第九識は、人間の心識に於いては主我であるが、その本質は愛を生命とする仏性である。同時に、現象世界を顕現せしめる本体界である。】(89頁)
等が列記できます。
(3)は、高佐師独自の九識観であり、(5)の「(九識は)現象世界を顕現せしめる本体界である。」との部分は、綱要導師と酷似の思想で問題があります。
山崎師は
(1)の【それが「主我」と称する「意識主体」であり、「自分そのもの」である。】との九識観(仏性観)に対して、「アートマソ(我)を認める外道と同じ」「霊断説は、仏教の無我説に反旗を翻した正真正銘の有我思想である。」
と批難しているように思われます。
しかし、もしも「仏性を真実の我」と言う意味で九識を、『新日蓮教学概論』が「主我」「意識主体」と称しているならば、「霊断説は、アートマソ(我)を認める外道と同じ」と批判する事は出来ないだろうと思います。
その理由は、櫻部 建教授著『阿含の仏教』に、
【 「無我」が「我ならざるもの」を意味するか、あるいは「我を有しないこの意であるか、その「我」とはいかなる内容を含むか、それらの点について初期仏典の古層の叙述と新層の叙述との間にはいかなる差違を見出せるか、について近時の研究は左のように結論す。
 《 仏教の最も初期においては、an-attanは「アートマン(我)な らざるもの」を意味する名   詞であった。この場合アートマンとは『本来の自己』の意である。のちに、an-attanが形容詞として「アートマンを有せず」という意味に解せられることは多くなったが、その場合は「アートマンに従属せず」すなわち「主宰的統一者に従属せず」という意味であったようである。
さらに後世の仏教では、アートマンの意味を「それ自体」「自性」と解し、一切の事物の中に存する固定的な不変の実体を指してその語を用いたから、「諸法無我」とは一切の事物にはそのような固定的実体は存しない、の意であると解された。しかし、現存の原始経典の古層について見る限り、an-attanを「常住にして固定的な本体を有しない」という意味に用いる例は見当らない。
結局、初期の仏教では、けっして「アートマンが存在しない」と説いてはいない。
むしろ独自の実践的倫理的なアートマン(本来の自己)論を展開している。ただ、ウパニシャッドの哲学が、ややもすればアートマンを形而上学的実体視しているのに対し、仏教はそのような見解をはっきり拒否した、 》と(中村元選集第13巻『原始仏教の思想 上』208ー210ぺージ、取意)。
また、逆に
 《 仏陀はウパニシャッド的アートマンを否定したのではない。逆に、人が〔誤ってアートマンでないものを〕アートマンであると思い込むことを否定しながら、間接的にそれを肯定したのである》
として、ニカーヤに見える「我(attan)」の観念をウパニシャッド的アートマン観に結びつけて解しようとする主張も見られる。 】
(『阿含の仏教』59頁~61頁)と論じ、「無我」は本来「非我」の意味で「本来の自己に非らざるもの」の意味であると論じています。
中村元博士は『原始仏教』(NHKブックス)に於いて、
【 初期仏教においては、アートマンを否認していないのみならず、アートマンを積極的に承認している。まず道徳的な意味における行為の主体としての自己(アートマン)を行為の問題に関する前提として想定している。例えば『自己の義務を果す者』(1)であるべきことを教え、自己(アートマン)が善悪の行為の主体であると考えている。修行者は己れを励まして修行に努める人なのである。そして『自己をあるがままでなくて、異なって誇示する人』(2)は斥けられるのである。さらにまたアートマンならざるものをアートマンと解することが排斥されているのであるから、アートマンをアートマンと見なすことは、正しいことなのではなかろうか。聖典自身は明らかにこの立場を認めており、原始仏教においては自己を自己として追求することが正しい実践目標として示されている。すなわち真実の自己を求むべきことを勧めているのである。 】83頁)
と論じ、初期仏教においては、「真実の自己」たるアートマンを否定してないと論じています。
『大般涅槃経巻第八・如来性品第十二』に、
「我とは即ち是れ如来蔵の義、一切衆生悉く仏性有り、即ち是れ我の義なり。是の如きの我の義、本より已来、常に無量の煩悩に覆はる。是の故に衆生、見ることを得ること能わず。」(昭和新纂国訳大蔵経経典部第六巻174頁)
と説かれています。
また、下田正弘著『涅槃経の研究』にも、
【(如来性品第十三には)さらに続けて、《諸世間の者たちの間でアートマンは、芥粒大であるとが米粒大であるとが親指大であるとか妄想してしまうが、真実ならざる妄想である。出世間の理解は、仏性が存在すると理解することであり、勝義諦の理解なのである。……例えば鉱脈の生じる穴の検索法を知っている人は、鍬や他の工具で鉱脈を掘れば、石や瓦礫は粉々に砕いてしまうことができる、金剛はたとえ僅かでも砕くことはできない。一切の武器をもってしても金剛宝は切断することはできないのである。同様に、善男子よ。衆生のアートマンである如来蔵は、何千万の天・魔が一切の武器でもっても断することはできないけれども、積聚性は石や瓦礫のように粉々に砕くことができるのである。寿者である如来蔵は金剛宝と同様である。》と述べている。ここでは如来蔵=アートマンが寿者として明確に位置づけされ、それは金剛に讐えられるもので、けっして破壊されることがないという。ここまで来ればまさしく「輪廻中の不壊なる本質」として理解してよいであろう。
こうして、ここまでに説かれた如来蔵・仏性は、「衆生の内なるアートマン」であり、また「寿者jiva」であり、真実には破壊されることはあり得ない「輪廻の主体」として、肉体・煩悩に覆われた現象世界の中の「本質存在」といった様相を担うものとして捉えられていることが分がる。】
277頁)
と、如来蔵・仏性は、「衆生の内なるアートマン」であり「本質存在」と説かれていると指摘しています。
初期仏教においての、「真実の自己たるアートマン」が『大般涅槃経』の「仏性が我の義」「衆生の内なるアートマン」とする思想につながったのだろうと推測されます。
故に仏性である第九識は「真実の自己たるアートマン」であり、「我の義」「衆生の内なるアートマン」であるので、それを高佐師が、「主我」「意識主体」「自分そのもの」と表現を変えて記したのであれば、「高佐師はアートマン(我)を認める外道と同じ」とか「高佐師や霊断が言う『主我』なるものは、そもそも仏教では否定されるべき迷妄である。」と、批判する事は出来ないだろうと思います。
山崎師は
【 要約すると、『新日蓮教学概論』でいう「三法印」とは、
  「諸行無常」→滅び行く肉体と、それに即する六識以下の心理。
  [諸法無我]→肉体を使用して生命の運営を楽しむ意識主体の第九識と、その属性である七識八識。
  「涅槃寂静」→主我を肉体に固着させる錯覚妄想の外に出て、普遍的な生命の運営者たる自己を発見すること。
と言っているのだろう。霊断説は「主我」を前提としており、「普遍的な生命の運営者たる自己を発見しするのが霊断の「法印」らしい。 】

と『新日蓮教学概論82頁』の文を要約し、
【 故に、霊断のいう「諸行無常」は、「無常にして実には諸行常住」。霊断のいう「諸法無我」は、「主我を前提としている故に、諸法有我」。霊断のいう「涅槃寂静」は、「永遠の輪廻を肯定するか故に涅槃不寂静」と言えるだろう。 】 (『九識霊断説の問題点』87頁)
と読み取り、「霊断説では、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印に背いて、諸行常住・諸法有我・涅槃不寂静を法印にしている(取意)」

と批難しているように見えます。
『新日蓮教学概論』では「整識観から見た時」と条件を付け断った上で、「滅び行く肉体と、様々に生起し消えている六識が諸行無常に配当される」との意味を述べていると思われるのに、どうして山崎師はこれを「霊断説は諸行無常を諸行常住としてしまっている」旨に変えてしまうのだろうかと思います。
また、前回指摘しましたが、高佐師の言う「主我」の意味は『大般涅槃経』の「仏性が我の義」「衆生の内なるアートマン」を表現した言葉と推測出来るので、「霊断説の諸法無我は諸法有我である」すなわち「外道の諸法有我思想と同じである」と、単純に批難出来ないと思います。
また、『新日蓮教学概論』の「普遍的な生命の運営者たる自己を発見すること」の意味は、「九識(仏性)を育成顕現し真の自己を確立すること」の意味のように取れます。なので、山崎師がどうして、是れを「永遠の輪廻を肯定するか故に涅槃不寂静」と読み取ってしまうのか、理解出来ません。
山崎師は
【 次に、霊断のいう「空観」とは大胆にも「創造主的秘密の名を「空」をもって呼ぶ」(『新日蓮教学概論』増補改訂版八二頁)と定義している。このようなことがまごとしやかに語られていることは由々しいことである。さらに、高佐日煌師の『観心本尊抄を語る』でも、大乗は、この諸法無我のもう一つ奥に切り込んで入った。それが所謂「本体界」であって、空観というのは、何にもないということは、物の形を越えると云うことであって、実在していないと
いう事とは違うんである。物の形を越えることを空というのである。したがって無相である。(中略)つまり、無相の密在の状態より有相顕在の状態に発展せるものを名づけて「実相」とする。二九七5八頁)と言っている。仏教において「空」とは「自性がない」という義であり、この自性とは我のことであるから無自性を無我という。高佐師や霊断において「空」とは、「実在する主体を原因として発生し千変万化消滅を繰り返す創造主的秘密の名を『空』と呼ぶ」のであり、高佐師や霊断がいう「空」は「根源実体説」「本体発生説」そのものである。日蓮宗だけでなく宗派のいかんを問わず仏教では、霊断がいう「創造主的実体発生説」を「外道」という。 】
(『九識霊断説の問題点』8788頁)と批判しています。
山崎師の指摘通り、高佐師は、九識を人格的意志をもった万物発生の根源としているようです。
前に言及しましたが、「九識を人格的意志をもった万物発生の根源」と考えているのは高佐師だけではなく、綱要導師も『祖書綱要』に
「真言宗は、元と寿量文底の本仏を盗取して大日如来本地の身と為し、毘盧遮那本地の常心を以て諸法生起の本源と為す故に、当家の九識本覚の義に同じ」(巻第十)
と言って、九識本覚仏を「諸法生起の本源と為す」ものと考えているようです。
また、清水龍山師も
【 故に法界一法として、此の本仏の妙体ならざるはなく、三千一塵として此の本仏の妙用ならざるはなし、本仏即法界、法界即本仏にして、法界は不変真如の本仏・本体・実在界より随縁縁起したるものにして、随縁真如の法界三千の現象界は、即是本仏の全体起用なり、 】(清水龍山著作集・第一巻39頁)
と、「法界三千の現象界は不変真如の本仏・本体・実在界より随縁縁起したるもの」と論じています。
ただし、私は既に前に述べましたが「人格的善意志目的をもって万物を発生させている根源的存在が有る」と言う考えには首肯出来ないで居ります。
しかし高佐師の「大乗は、この諸法無我のもう一つ奥に切り込んで入った。それが所謂「本体界」であって、空観というのは、何にもないということは、物の形を越えると云うことであって、実在していないという事とは違うんである。物の形を越えることを空というのである。したがって無相である。(中略)つまり、無相の密在の状態より有相顕在の状態に発展せるものを名づけて「実相」とする。」と言う説明部分だけに限れば、特別反仏教的な考えでないと思います。空観とは、「全てのものは縁によって生じ存在すると観る」ことと言えましょう。縁を加えても、性として(無相的に)元々無ければ生起することは出来ません。
たとえば仏性も性として具えてなければ発現しません。しかし、仏道修行の善縁を加えなければ全く影も形も無いので、涅槃経に於いては「因中有果」でも無いし「因中無果」でもないとか、仏道修行によって顕現するのだから「有」とも言えるし、仏道修行の善縁がなければ顕現しないので「無」とも言えると説明しています。
高佐師の表現を借りれば、仏性は無相的密在の状態と言えるでしょう。
仏性の無相的密在の状態と善因縁に因って仏性顕現すると云う関係に合わせて考えると、例えばビックバン後に多くの銀河が出現し、現在の地球が出来上がり生物が生じたの事実は、宇宙のチリの中に諸縁が調えば、現在の銀河ないし生物が生じる可能性があったからだと言い得るわけで、その可能性の状態を無相的密在の状態と言えるでしょう。
『大般涅槃経・巻第二十七』に
「我れ此の経に於いて是の偈を説く『本有りて今無く、本無くして今有り、三世有法、是の処有ること無し』と。」(国訳一切経涅槃部二・464頁)
と有りますが、山崎師のように、性として有る(無相的密在的に在る)事を否定する事は「本無くして今有り」を認める因果無視の邪見に同ずることになると思います。
山崎師は、
【ここで、霊断は「仏教の仏陀の観念は、人間釈迦の人格の敬慕と研究に出発しているので、自覚・覚他・覚行円満を内容とする条件に叶った完成せられたる人格者を仏陀という」と定義し「成立している仏教の実際は、いずれも仏陀を『神』とし、神変不可思議な力の所有者と考えている」と大乗仏教の仏陀観を神変不可思議な所有者と断定している。 仏教や目蓮聖人の教えは、こういう神変不可思議な所有者と「如我等無異」(方便品)の仏に成る教えなのか。もし、そうであるならば、即身成仏は絵にかいた餅ではあるまいか 】(『九識霊断説の問題点』95頁)と記していますが、文勢からは、山崎師は「釈尊入滅後釈尊の神格化が始まり大乗経に於ける釈尊は神格化された釈尊である」との仏教学上の共通認識を否定したいように受け取れます。
『観心本尊抄』にも、
「教主釈尊は[此れより堅固に之を秘す]三惑已断の仏なり又十方世界の国主一切の菩薩二乗人天等の主君なり行の時は梵天左に在り帝釈右に侍べり四衆八部後に聳い金剛前に導びき八万法蔵を演説して一切衆生を得脱せしむ是くの如き仏陀何を以て我等凡夫の己心に住せしめんや、又迹門爾前の意を以て之を論ずれば教主釈尊は始成正覚の仏なり、過去の因行を尋ね求れば或は能施太子或は儒童菩薩或は尸毘王或は薩・王子或は三祇百劫或は動喩塵劫或は無量阿僧祇劫或は初発心時或は三千塵点等の間七万五千六千七千等の仏を供養し劫を積み行満じて今の教主釈尊と成り給う、・・・果位を以て之を論ずれば教主釈尊は始成正覚の仏四十余年の間四教の色身を示現し爾前迹門涅槃経等を演説して一切衆生を利益し給う、所謂華蔵の時十方台上の盧舎那阿含経の三十四心断結成道の仏、方等般若の千仏等、大日金剛頂の千二百余尊、並びに迹門宝塔品の四土色身、涅槃経の或は丈六と見る或は小身大身と現じ或は盧舎那と見る或は身虚空に同じと見る四種の身乃至八十御入滅舎利を留めて正像末を利益し給う、本門を以て之れを疑わば教主釈尊は五百麈点已前の仏なり因位も又是くの如し、其れより已来十方世界に分身し一代聖教を演説して塵数の衆生を教化し給う、」 (昭定707頁)と有るように、法華経の教相上では釈尊は「神変不可思議な所有者」とも言い得ましょう。
法華経に出てくる観音菩薩・薬王菩薩等も「神変不可思議力の所有者」です。況んやその師の釈尊をやと言うことになります。
「即身成仏は絵にかいた餅ではあるまいか。」との疑念には、『妙法尼祖書』等にある、「白粉の力は、漆を変じて雪のごとく白くなす、須弥山に近づく衆色は皆、金色なり。法華経の名号を持つ人は、一生乃至過去遠遠劫の黒業の漆、変じて白業の大善となる。いわうや無始の善根皆変じて金色となり候なり。 しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経と唱えさせ給いしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給う。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり。かかる人の夫妻にならせ給へば又女人成仏も疑なかるべし。」(昭定1537頁)等の教示を信じる外ないでしょう。
江戸時代の日導上人(綱要導師)が著書『即身成仏義』において、
「およそ成仏というは、神通自在の身を得て、あまねく衆生を利益するを仏と云う、しかるに我等、朝夕に南無妙法蓮華経と唱え持つといえども、身もいまだ自在ならず、一分の智慧も無ければ、衆生利益は思いもよらず、やはり元の凡夫なり、成仏とは云い難し。この疑いすべて晴れ難し。これをいかが心得べしや。」との問いを設け、経文・祖文を挙げて答えています。
日導上人の答えの要旨は、「受持唱題によって釈尊の功徳を譲与されるのであるから必ず成仏出来る。ただし下根の受持唱題の信者は、喩えると未だ幼稚な王子のようなもので、まだ仏智を十分には発揮できない。しかし臨終の際には、必ず智解が発揮され神通自在の身になれる」と言うものです。
また、日蓮宗を脱宗した真迢の「即身成仏と云うは、現生の内に、仏の相好を具足し、成道説法するを云うなり。今時の人の及ばざることなり。しかるに今時の人、即身成仏すと云わば何ぞ現在の内に仏の相好顕れざるや」との批判に対し、江戸時代の先師、日題上人が『中正論』の中で、下記のように答えています。
【 即身成仏と云うは、必ずしも三十二相を現ずるものでない。相好を現じることは化他の為めであるから、八相成道して相好をしめすことは、機縁が調った場合だけである。提婆品の龍女は竜宮において法華を聞いて三因開発してすでに即身成仏しているのであって、南方無垢世界で三十二相の妙果を顕したのは、機縁が熟したからである。応身の成道のみをもって即身成仏であると限定することは誤りである。即身成仏には、凡位と聖位との二種がある。
慈覚大師の『蘇悉地経疏の一』に「成仏において二種の義あり。謂く凡位の成仏・聖位の成仏なり。凡位成仏とは、如来の智慧を得、未だ惑を断ぜずといえども、依報の二報、解に随って融通す。ただし凡情の麁劣なるを以て都見すること能わず、ただ仏のみ能く見たまう。是れを凡位の成仏となすなり。次に、精進にして懈り無く、昼夜に修習して惑障を断除し、彌増顕現し、上聖・下凡、同じく見ることを得、是れを聖位の即身成仏と為すなり。」と有る。
この文に依れば、成仏の相好を顕さない凡位の成仏はただ仏のみ知見するところで、外面だけしか見えない凡人には識見出来ない。また、成仏の相好を具さない生身得忍の位を即身成仏とする場合もある。(生身得忍=現実の身に、真実の理を悟った心の安らぎ)
(取意) 】
等と答えています。

宇宙を創造し司っていると妄想している大梵天王に、釈尊が次々と質問し、梵王の思いこみを正し、この世界の出来事は縁起によって動いている事を納得させたと言う『大悲経巻第一(梵天品第一)』があります。
【 その時三千大千世界の主 大梵天王、仏所に至り已て、頭面作礼し、仏に白して言さく、「唯だ願わくは世尊、我に云何が住し云何が修行せんかを教勅せられよ。」と。
是の語を作し已るや、如来即ち大梵王に言わく、「梵天、汝今、実に是の如き念言を作ざるや。我は是れ大梵天、我能く他に勝る、他は我にしかず、我は是れ智者なり、我は是れ三千大千世界の中の大自在主なり、我れ衆生を造作し衆生を化作す、我れ世界を造作し世界を化作す」と。
大梵天の言く、「是の如し婆伽婆、是の如し修伽陀。」
仏、梵天に言まわく。「汝は復、誰れに作られ、誰に化されるや。」と。
時に彼の梵天、黙然として住す。仏、梵天の黙然として住するを見る故に、復問うて言まわく。
「梵天、有る時に三千大千世界劫火に焚焼せられ炎熾洞然なり、意に於いて云何、是れ汝が所作、是れ汝が化する所なるや。」と。
時に彼の梵天、黙然として住す。
仏、梵天の黙然として住するを見る故に、復た問うて言わく。
「梵天、有る時、三千大千世間劫火の為めに焚焼炎熾洞然す。
意に於いて云何。是れ汝が作す所、是れ汝が化する所なるや。」と。
時に大梵天、白して言さく。「いななり世尊。」
仏、梵天に言まわく。「此の如き大地は水聚に依りて住し、水は風に依りて住し、風は虚空に依る。是の如き大地、厚さ六百八十萬由旬にして、裂けず散ぜず。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所なるや。」と。梵天の言わく。「いななり世尊。」
仏、梵天に言まわく。「此の三千大千世界の百億の日月の流転の時、 梵天、意に於いて云何。是れ汝が化する所なりや。」と。 梵天の言わく。「いななり世尊。」仏の言まわく、「梵天よ、有る時、日月天子宮殿に在らず、宮殿空虚なり。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言まわく、「是の如き春夏秋冬の時節、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」
「是の如き水鏡、蘇油摩尼頗梨、及び余の浄器の、諸の色像いわゆる大地・山河・樹林・園苑・宮殿・舎宅・聚落・城邑・駝驢・象馬・ひょう鹿・鳥獣。日月星宿・声聞・縁覚・菩薩・如来。釈梵護世・人非人等種々の色像を現ずるは、梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言まわく、「是の如き山崖深谷、大小諸の鼓・歌舞等の戯や、ひょう鹿・鳥獣・人非人等の出す所の音声。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言わく、「諸の衆生、其の夢中に於いて、種々の色を見、種々の声を聞き、種々の香を嗅ぎ、種々の味を嘗め、種々の触を覚し、種々の法を知り、種々の戯れを作し、種々に啼哭、呻号し、怖畏苦楽等を受くるが如き。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言わく、「四姓の人の端正醜陋、貧窮巨富・福徳の多少や善戒悪戒、善慧悪慧なる。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言わく、「一切衆生のあらゆる怖畏・苦切悩害。所謂、水・火・刀・風・崖岸・毒薬・悪獣怨讐・人非人の畏れ。及び種々の加害。他に於いて常に怖畏有り。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや」と。梵天の言さく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言わく、「衆生のあらゆる種々の疾病、所謂、風冷。熱病及び諸雑病、時節代謝の四大相違、若しは他の所作、若しは先業の報、いわゆる眼耳鼻舌身の病。若しは復、衆生種々の心意の熱悩等の苦あり。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言さく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言わく、「衆生のあらゆる広野嶮・賊・水・災等の難。或いは復、中劫の刀兵・疾病・及び飢饉あり。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言さく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言わく、「衆生のあらゆる愛別離苦、いわゆる父母兄弟宗親善友との別離の苦。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言さく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言わく、「衆生作す所の種々の悪業。いわゆる生口・酒麹・紫鉱・油を押す具を販売する。若しは大海広野・険処に入り、諸方に遊行し、若しは諸仙の方術及び余の種々の断事の法など。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言わく、「衆生作す所の種々の業道あり。是の業因を以て地獄畜生餓鬼人天の報を受く。衆生のあらゆる身口意の善行悪行、及び世間のあらゆる十悪業道のごとき、諸の衆生に於いてすべて慈愍無く、諸の苦悩不利益の事、悪道に堕ちる因縁を作す。いわゆる殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪・瞋・痴・邪見なり。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言わく、「衆生のあらゆる種々の苦事。いわゆる斬首・その手足を裁る・耳鼻をジ(耳切)ギ(鼻切り)する。節節を支解する。熱油を灌がる。火炎にて熬(いる)煮(にる)さる。刀剣・鉾サク(ほこ)にて斫(き)り刺され、鞭打さる。牢獄に繋閉され、闘諍言訴す。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言わく、「衆生作す所の淫欲邪行。或いは母女姉妹、浄持戒者を淫する。および余の悪業あり。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言さく、「衆生のあらゆる種々の殺害、厭蟲・起屍の呪術、方薬、鬼魅に著せらる。および余の種々の悪業、断命の因縁あり。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言まわく、「世間に有る所の生老病死憂悲苦悩、無常法・尽法・変易法は、四姓の人に於いて忌難する所無く、能く一切の所愛、厭うことなく、種々の物敗壊し離散せしむ。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊」
仏、梵天に言まわく、「衆生のあらゆる貪・瞋・痴の障り、結使に纏縛せられ、および余の種々の苦悩に縛せらる。是の因縁を以て、諸の衆生をして、堅く著し瞋怒し心を迷惑せしむ故に、無量種々の業行を造作す。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言まわく、「あらゆる三悪趣、地獄畜生餓鬼、その処の衆生種々の事を為し諸の苦悩を受く。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」
仏、梵天に言まわく、「一切あらゆる若しは種子にて生じ、種子無くして生じる、樹木薬草。若しは水陸に生じる華菓香樹は、種々の勝味、甘苦鹹辛酸渋の味あり。諸衆生の喜び喜ばざるに随い損益を作すは、梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり世尊。」

仏、梵天に言まわく、「五道に流転し生死成壊するあらゆる衆生は無明に覆蓋され愛結と相応し、馳走流転すること始終を知らず。および未来にも生死流転し其の処を断ぜす。人天若しは魔、若しは梵・沙門・婆羅門、これらの世間は乱糸の纏縛するが如し。常に馳せ流転し彼此に往来す。此の諸衆生流転の中に於いて出づるを求めることを知らず。梵天、意に於いて云何。是れ汝が所作、是れ汝が化する所、是れ汝が加する所なるや。」と。梵天の言わく、「いななり婆伽婆。」
仏、梵天に言まわく、「汝、何の因に従って、是の念言を作すや。此の衆生は是れ我が作す所、是れ我が化する所、是れ我が加する所と。」
梵天の言さく、「世尊、我れ無智邪見、未だ顛動の心を断ぜざるを以ての故に、常に如来の所説の正法に於いて聴受せざる故に、我れ本、曾って是の如き悪見、是の如き悪説を作す。此の諸衆生は是れ我が作す所、是れ我が化する所、所有の世界は、是れ我が作る所、是れ我が化する所と。
世尊、我れ今、還って復、仏に此の義を問いたてまつる。所有の(あらゆる)世界は是れ誰れの作す所、是れ誰れの化する所、一切衆生は是れ誰れの作る所、是れ誰の化する所、是れ誰れの加する所、是れ誰の力にて生じるや。」
仏の言まわく、「梵天よ、あらゆる世界は是れ業の作るところ。是れ業の化する所なり。一切衆生は是れ業の作る所、是れ業の化する所、業力の生ずるところなり。何を以ての故に、梵天よ、無明は行に縁り、行は識に縁り、識は名色に縁り、名色は六入に縁り、六入は触に縁り、触は受に縁り、受は愛に縁り、愛は取に縁り、取は有に縁り、有は生に縁り、生は老死憂悲苦悩に縁る。故に是の如き大苦聚集有るなり。梵天よ、無明が滅すれば乃至、憂悲苦悩滅するなり。
更に作者・使作者・安置者無し。唯業有り法有るなり。和合因縁の故に衆生有るなり。」 】(大正蔵第十二巻946頁上段21行~947頁中段23行目までの訓読)
前置きの長い引文になり申し訳ありませんが、この問答は、宇宙の生成展開や人間の運命を司る創造者・絶対者の存在を否定する仏教の立場を端的に語っているので掲示しました。
故に、山崎師が『九識霊断説の問題点』に、
【高佐師がいうところの、
1,「一切を産み、一切をまとめる天地法界の一大生命の中心」
          (『心本尊抄を語る』一六三~七頁)
2,「無相密在の万能主」(「新日蓮教学概論」八七頁)
3,「本体界や万有の起源」(『新日蓮教学概論八七頁』
4,「万物の創造の意志」(『新日蓮教学概論』八九頁)
5,「全宇宙法界に君臨する神」(『十字仏教』一九五頁)
6,「全宇宙法界を指導する神」(「十字仏教」一九五頁)
7,「全宇宙法界の生み出せる神」(『十字仏教』一九五頁)
このような神を仏教では説かない。「万物の創造主」や「本体界」を想定することは、たとえそれを「仏」と呼ぼうと「九識」と名づけようと、もはや仏教思想ではない。 】(119頁。番号は説明便宜上付けました)
と批判が述べられていますが、5番・6番以外の高佐師の九識(本仏)観については、私も山崎師と同じく首肯出来ません。
ただし5番の「全宇宙法界に君臨する神」は、釈尊は三界の主、即ち主師親三徳の中の主徳の意味かも知れないし、6番の「全宇宙法界を指導する神」は、法界に周遍して衆生を教導する師徳の意味に通じるので、5番と6番は批判から外した方が良いだろうと思われます。
山崎師は、『十字仏教』の、
「宇宙の本体である大霊格者は、いろいろの立場に立ち、さまざまの教えを垂れて衆生を済度している。それは一本体の活動であるから何々仏、何々如来といっても、皆な仮りの名であって本体そのものには一定した名すはない。言を換えていえば、あらゆる仏陀は本体仏の分身散体にほかならない。今の釈迦牟尼仏の人格の内容は、実にかくの如きものであるという意味である。これは仏教の仏陀観に統一を与え、釈尊中心の体系を整えるために創作せられたものてあるが、更にその意味を拡げて考えれば、仏陀、如来、神という名称に躓かず、宗教の本質に立って、綜合した判断の出来る可能性がある。そうすることによって各宗教の信奉する神々は、いずれも宇宙の本体を仰いでいることにおいて変りはなく、たたその名称を異にずるたけである。という考え方が出来なければならない。・・・(『十字仏教』一二五~七頁) 」
との文を掲示し
【「宇宙の本体である大霊格者は、いろいろの立場に立ち、さまざまの教えを垂れて衆生を済度している」(『十字仏教』一二五頁)というのであるから、高佐師のいう宇宙の本体である大霊格者すなわち本仏は、さまざまな神として名を変えて邪見の外道思想を説くということになる。 】 (156頁)
と批判しています。
高佐師の言う所の「宇宙の本体である大霊格者」とは、「万象の根源・本体である九識(本仏)」を指すようなので、私も、そのような本仏観には首肯出来ません。高佐師の九識(本仏)観の問題点は置いといて、上記「十字仏教」の文に見える高佐師の説明は寿量品「六或示現」の教説に拠っていると推測出来ます。
しかし、高佐師の文章は、諸宗教の神観の未熟性(教理的不完全)をそのまま容認しているように読まれても仕方のない表現だと思いますし、また、仏教に対抗して新宗教を創設した開祖や、明らかに邪教的宗教の開祖までを仏・菩薩の方便化導的応現者と見る事は出来ないと言明している文言が記されてないので、高佐師の開顕思想に関する表現は不備というか、開顕思想を正確に伝えてない文章だと思います。
そこで、まさか高佐師は日蓮宗教師であるのだから、諸宗教の神観の未熟性をそのまま容認している筈は無いという予測をもって『十字仏教』を見てみると、
【 御本体の神様は御一体であるが、宗教の出た国や時期か違っているために、神に対する解釈か幾通りにも分れ、その名称も別々になっているのである。 】(114頁)
【 法華経寿量品の本仏観を、更に全世界の宗教の上にもたらして、信教互融の根本原理にせんとするのもである。 】127頁)
と記してあります。この箇所に、わずかですが
「諸宗教の神観は未完成で、寿量品の本仏観まで達していない。諸宗教とて真実の神観を探求して行けば、寿量品の本仏観に到達する可能性はある。信教互融が絶対的に不可能とは言えない」との意が窺えるように思います。
なので、高佐師も「世人・社会の善導に貢献した諸宗教の開祖は、開顕と言う視点から見れば本仏・大菩薩の応現者として、その価値を開することが出来る。ただし、諸宗教の神観は(教理は)未熟・未完成であって、寿量品の本仏観(神観)にまでには到達していない。しかし寿量品の本仏観(神観)に向かい改正向上する可能性は有る。」と言う見解なのだろうと推測します。いわゆる開顕思想を語っているものと思います。
上掲の山崎師の文の【本仏は、さまざまな神として名を変えて邪見の外道思想を説くということになる。 】(156頁)との批判は、山崎師が「開顕思想は否定している」と誤解を与えかねない表現のように思います。
なちなみに、以下に、宗門諸師の開顕思想の見解を列挙します。


高橋智遍居士の見解。
寿量品の本仏釈尊を、「三身常住・三世益物・十方普通・法界同体の一大霊格体」と見る本化妙宗の高橋智遍居士は「六或示現」の教説に拠って、
【 久遠本佛はたゞ単に三世の諸佛・十方の諸佛とあらはれて衆生を教化示導されるだけではないのです。 下は地獄界より上は佛界にいたるまでの、十法界のあらゆるところで、地獄身・餓鬼身・畜生身・修羅身・人間身・天上身・声聞身・縁覚身・菩薩身・佛身……と、およそ、われわれにむかッて、さとりのことを、何等かの意味で説いたり示したりしてゐるものは、全部これ久遠無始の唯一の本佛の、垂迹示現でないものは無い、のだといふのです。
それのみでありません。佛の国土の相、山河草木より土石にいたるまでが、佛さまの化現してゐるものといふのですから、これはもう、法界全体・天地宇宙全体・森羅三千の諸法全体が本佛の垂述示現だといふことです。
こうなりますと、寿量品にときあかされた久遠本佛は、たゞ佛教における三世十方の佛を統一するだけではありません。人類全体の文化のうへにあらはれた一切の宗教を統一するものです。
何等かの意味で、絶対界をといてゐるもの、絶対的存在を説いてゐるもの、さとりをとき示してゐるもの、それはひとり佛教だけでなしに、キリスト教でもマホメット教でも、儒教であッても、或はまた哲学・科学であッても、それがもし「本佛への道」をとき示し、暗示し、さゝやいてゐるものであツたなら、それらは皆、久遠本佛の垂迹示現であると云ふのです。
おどろくべき雄大な統一性ではありませんか。このような、佛教のみならず他の宗教及び文化にまでおよぶ統一を、かくまで明確・厳粛に示された経文を、私はこの寿量品の経文より外に、見たことがないのであります。ひとり佛典のみならず、バイブル、その他の聖典においても……。
さらに、それは佛教・他宗教・哲学・科学の文化だけではない。天地・山河・草木にいたるまで、その形体と運行が、おのづから私どもの感性や悟性・・・このように私どもの感性・悟性・叡知性に促々とせまり訴へるものは、みなこれ久遠本佛の垂迹示現である……といふことは、これを宗教学の方から考へたら何でしょう。これすなはち、万有神教の統一ではありませんか。 】
(『自我偈のはなし』88頁~91頁)
と解釈しています。


春日屋伸昌氏の見解。
また、春日屋伸昌氏の自著『法華経のこころ。寿量品を語る』(大蔵出版)に於いて、
【 また、「六或示現」の[本文]でわかるように、[経典]は必ずしも仏教に限りません。儒教や道教の「聖典」もキリスト教の「聖書」もヒンドゥー教の「ヴェーダ」も、すべて「経典」の中に入れて差し支えないし、むしろ入れて考えるべきです。ですから、このようか種々な教えを述べられる『如来』は、歴史上の人間釈尊を指しているのではなくて、釈尊の本地である久遠実成の釈迦牟尼如来です。その唯一絶対の久遠の仏さまが衆生の苦しみを救い、衆生
を悩みから脱せしめようとの慈悲心から、いろいろな相を取って世に現われて、いろいろな教えを説かれた、というのです。 】 (175頁~176頁)
と解釈しています。


飯島貫実師の見解。
また、山喜房仏書林刊・飯島貫実著『生きた法華経』にも、
【 「或は己身を説き、或は他身を説き」という古来の読み方を、敢て読み換えていることである。「説」という字は、「説く」とも読むが、「詩経」の中にもあるように「説る」とも読むが故に、この句の前後から判断し、又現存梵本に照らしたときに、「説る」と読むのが至当かと思われるからである。
かくて、字宙に遍満して活動する「仏性実現者」は、「仏陀」の相を示現して衆生済度をするばかりでなく、もっと位の低い者のスガタともなって出現するという。それは、世の聖人賢者と謂われる低さに於てであるばかりでなく、凡ゆる低さに於て、スガタを現わすのだと確言する。まったくその「出現救済」の逞ましさには、感嘆のほかはない。
されば、支那の孔子といい、ユダヤのイエスといい、アラビヤのマホメツドといい、さては人類に貢献した一切の思想家、一切の政治家、一切の芸術家、一切の科字者、一切の実業家、一切の労働者、そのすべてが、「一仏陀」の出現でなかったもりは無い!
これは、むしろ怖そるべき「仏性実現者」の表現である。カレは、一釈迦仏としてしか現われ得なかったというような、貧弱な「実現者」では、断じてなかったのである。カレが、真実「無限」の「仏性実現者」であるならば、当然「六或示現」となつて、活動せねばならないであろう。ここに至つて、一切の生きとし生けるもの、深くウチなるものを凝視すれば、必ずや「仏性実現者」の尊い「分身」でないものはなく、宇宙普遍実在の「仏性実現者」が、力強く、吾人の前に打ち出されるのである。
  「仏性実現者の実力を見よ!」
寿量品が、力をこめて、『普門示現』のスガタを高唱しているのは、ほかではない。「一仏性実現者」の、真に生ける相、無限の智慧を内に蔵し、無限の慈悲息むことなき『大実在者』の如実の相を、吾人に示さんとするばかりである。
されば人、「仏陀」のスガタを以て理解し難きに於ては、「菩薩」のスガタを以てし、「菩薩」のスガタを以て理解し難きに於ては、『教祖』のスガタを以てし、『教祖』のスガタを以て理解し難きに於ては、「普通人」のスガタを以てし、「普通人」のスガタを以て理解し難きに於ては『人間以下』のスガタを以てす。こうして「一仏陀」は、一切衆生同時救済の悲願を持つが故に、アラユル相に仮装して、衆生の前に出現する。
それは恰も、学校の過程とよく似ている。幼稚園の教課が低いから無意味だとはいえないように、「人間以下」のスガタを以て教化するから無意義だとはいえない。幼稚國が小学校のために必要であるように、如何なる低いスガタの教化も亦尊い。
たとえばニユーギニヤの人喰人種の中にある宗教でも、それが宗教であるかぎりは、必ずや、その人々を啓発善導しているのであつて、唯一仏性の究竟真理に向かつて、知らず識らずに、進みつつあるに違いないのである。
かくて、一切の宗教宗派は、「一仏陀」の方便示現であつて、「仏教」ならざるはなく、一歩一歩人間を向上せしめつつ、遂に、究竟の仏性へと導かないものはないのである。 】(369頁~370頁)
と解釈しています。

浅井円道教授の見解。
また、浅井円道教授が自著『私の開目抄』において、開目抄にある諸宗教開顕統一の教示について下記のように言及しています。
【 「或る外道云く、千年已後、仏出世す」。『涅槃経』の師子吼品です。それから「或る外道云く、百年已後、仏出世す等云云」。同じく『涅槃経』僑陳如品です。
「大涅槃経に云く」、『大般涅槃経』如来性品です。「一切世間の外道の経書は、皆是れ仏説にして外道の説に非ず等云云」。我々が小説を読んでいたり、テレビのドラマを見ていたりしていて、時々そう思うのですけれども、これは日蓮聖人がおっしゃっていることと同じことを言っているなというようなことがよくあるでしょう。部分的には、ああ、同じだと相通ずる。ということがなければ、仏法は世間から遊離していくんですね。世間のいろいろな善きエキス、悪きエキス、そういうのをくみ上げて、それを集合させたのが仏法の一部分になっておるということは事実ですよね。
『法華経に云く、衆に三毒ありと示し、又邪見の相を現ず。我が弟子是の如く方便して衆生を度す』ということが『法華経』の『五百弟子受記品』にある。「衆に三毒ありと示し」、三毒、貪瞋痴。自分は、衆生に対して三毒あるんだよと示し、「又邪見の相を現ず」。間違った物の考え方があると示す。しかし、それは方便だと。わか弟子かくのごとく方便して衆生を度す。「人のふりみて我がふり直せ」ということかもしれませんね。そのために変なふりをして見せるということもあるんじゃないですかね。『文句』あたりを読むと、
説明がなされているかもしれませんね。そこで終わりですけれども、インドの外道も内道に入る、最要だと。これはどうしてかというと、欣上厭下の観を修するからだと。現状のままじゃだめなんだといって、少しでもよりよい世界を築いていって、その中の一員になろうとするということは、仏法に入る最要だと。だから、儒・外・内とあって、儒教も道教も外道も仏法の入門だということですね。 】 (23頁~24頁)

茂田井教亨教授の見解。
また茂田井教亨教授も開目抄の同部分について
【 宗祖はよく、念仏は無間、禅は天魔と仰せられて、折伏をなさって、法華経一点張りで、他のものには目もくれない何か馬車馬みたいに脇を見ないで実に狭量で独善的であるように一般の人に見られるのですけれども、実は聖人の根本的お立場というのはそうではながったということです。これは絶待開会ということです。法華経は開会の教えと申しまして、全てのものを生がすという精神であります。そこで開会にも相待開会と絶待開会とがあるけれども、法華経は最後に来ますと全てのものを生かすのです。・・・開会の法華経に立ちながら、どこまでも一応は教相によって優劣・浅深を示され、その違いをはっきり示しておいて、最終的には法華経の世界において全てのものを生がしておられるのであります。前節では実は金光明経や『止観』等をお引きになって儒教を生がしておられ、そして今度は外道の法を述べられて、最後に一切世間の外道の経書は皆是れ仏説であり、捨てるものではないと仏陀の立場をもって生かしておられるのであります。
 こういう御精神を絶待の開会と申しますけれども、その絶待の開会の世界がら、実は『観心本尊抄』に「すべての諸経は寿量品の序分である」という、すばらしい序・正・流通の三段分別が出るのです。寿量品というものが根本であって、その精神を述べるべくあらゆる世界の教え・思想があるのであり、法華経寿量品の立場から見るならば、全てのものは序論として生かされて行くのだという考えが出て参ります。そういうお考えがここでも示されておるのです。 】 (『開目抄講讃・上巻』43頁~44頁)
と、日蓮聖人の開顕統一思想を解説しています。


目次に戻る