如来蔵思想と日蓮教学

「如来蔵思想は正統仏教思想に非ず」説を肯定して日蓮聖人の思想を語ることの非。

未了義の無我論

 春秋社刊「大乗仏教とは何か1」の第八章担当の桂 紹隆教授が、「六 如来蔵・仏性思想は仏説か否か」に於いて、

【「無我論」を徹底して、「ひと」(プドガラ)だけでなく「一切法も空である」と説き、龍樹に始まる中観派を生み出した般若経に対して、同じように「人法二無我」の立場に立ちながら、時には「アートマン」(我)という語も用いて、何らかの究極的存在を積極的に主張する大乗経典が出現するようになった。その際たるものは「大乗涅槃経」である。】

と大乗思想に二潮流ある事を指摘し、大乗涅槃経についての下田正弘教授の見解の要旨を

【〈原始大乗涅槃経〉ではその独自の「常楽我浄」の解釈において「我」すなわち「アートマン」は「仏」と等置される。そして、「一切法無我」の教えは世間の人々の間違った「アートマン論」(我見)を否定するために説くのであり、「一切法無我」というのも実は正しくはない。「アートマン」とは「真実」であり、「常住」である、と言われる。涅槃経の基本的教義とされる「仏常住思想」である。これに対して、より発展した涅槃経では、「アートマン」は「如来蔵」と等置される。そして、「仏性」(すなわち、如来蔵)は一切衆生のなかにあるが、煩悩に覆われているために衆生には知られない。世間の人々の間違ったアートマン理解を正すために「一切法無我、空」と説くが、その結果、我見驕慢が無くなったものには「如来蔵が存在する」と説く、と言われる。ここに、涅槃経のもう一つの基本教義である「如来蔵・仏性思想」が登場するのである。さらに下田の分析に従えば、仏と等置されるアートマンは無為なるものであり、衆生の輪廻とは関わらない出世間のものであるが、一切衆生に存在するとされる如来蔵と等置されるアートマンは有為るものであり、「輪廻の主体」と考えることも可能である。】

【涅槃経の「アートマン」の議論に、「バラモンーヒンドウー哲学の影響をまったく無視するのは、いかにも行き過ぎであろう」と言いつつ、「しかしまた同時に、ここに説かれたアートマン説を、バラモン哲学に説くアートマン説と全く等置するのも行き過ぎである。涅槃経は、仏教の伝統的な経典解釈法により、無我説は未了義であり、「アートマン(=仏)説」は了義であると解釈している。】

と紹介し、

【したがって、下田は、あくまでも如来蔵・仏性思想は仏教説であると主張しているように見える。その場合、伝統的な無我説は、仏説ではないとされないものの、説明の必要な不完全な教理ということになる。】

と下田教授の涅槃経観の要点を述べ、さらに、

【涅槃経は、すでに見たように、仏教の無我説は世間の、つまりバラモン教徒たちの間違ったアートマン論を否定するためであり、彼らの説く「アートマン=如来蔵/仏性」こそが真実であると言う。さらに、『入楞伽経』になると、対告者であるマハーマティは「本性清浄で、三十二相を備え、一切衆生に内在すると説かれる如来蔵は、非仏教徒たちが説くアートマンと同じではないか」と明確に設問し、これに答えて、世尊は「如来蔵とアートマンは同じではない」と答えているように、アートマンと等置される如来蔵が仏説、すなわち「無我説」に違背するのではないかという疑問は、この思想が登場したときからあったに違いない。】

と述べ、さらに、「九 むすび」に於いて、

【最初期の仏教徒たちは、・・・「自我意識」が我執・我所執の原因であり、苦の根源であると考えて「無我」と説いたが、・・・般若経をはじめとする大乗経典が登場すると、・・・「一切法は空」と説いた。・・・ここに如何なる意味でもアートマンやプドガラを認めない厳格な「無我説」に立つ中観派が確立された。一方、超越的自己を追求する伝統は、ウパニシャッドのアートマンと酷似する、大乗涅槃経の「仏性」や「如来蔵」の思想を生み出す。・・・仏教内部に厳格な無我説をとる伝統と何らかの人格主体の存在を認める伝統とが、互いに論争しながらも共存していたのであろう。この対立関係がインド仏教思想史の大きな枠組みを形成した、と筆者は考えるものである。したがって、単に無我説だけが「仏説」であるという主張を承認するものではない。】

と論じています。

桂 紹隆教授が、松本史朗教授は「縁起説」から必然的に導出される「無我説」が仏教であるという立場から、如来蔵思想は仏教ではないと断罪していると指摘していますが、「仏説=無我説」とし松本史郎教授の「如来蔵思想・本覚思想は仏教にあらず」との見解をもとにして、山崎斉明師は、「仏性は真実の我であるから主我(主体的自我)と表現し得る」と云う私を指して「有我論者」だと非難していました。

仏性は真我

「仏性は真実の我であるから主我(主体的自我)と表現し得る」と述べた根拠は、『大般涅槃経如来性品第十二』には、「我とは即ち是れ如来蔵の義、一切衆生悉く仏性有り、即ち是れ我の義なり。」(新国訳大蔵経大般涅槃経295頁)

「仏性・真我は」(301頁)

とあり、

『四倒品第十一』には「世間の人も亦我有りと説き、仏法の中も亦我有りと説く。世間の人有我と説くと雖も、仏性有ること無し。是れ即ち名づけて無我中に於いて我相を生ずと為す。是れを顛倒と名づく。仏法有我は則ち是れ仏性なり、世間の人仏法無我と説く。是れを我の中に無我想を生ずと名づく。若し『仏法必定無我なり、是の故に如来、諸の弟子に勅して無我を習修せしむ』と言はば、名づけて顛倒と為し、是れを第三の顛倒と名づく。」(293頁)

と有って、仏法で言う有我は仏性を指すのであるから、仏法は必定として無我を説く主張するのは顛倒であると説明してあり、

『如来性品』には「一切を度せんが為めに諸の衆生に無我の法を修するを教ふ。・・・世間の妄見を除くが為めの故に、世間に出過するの法を示現するが故に、復世間の計我虚妄にして真実に非らざるを示すが故に、無我法を修して身を清浄にするが故なり。譬へば女人、其の子の為めの故に苦味を以て乳に塗るが如し。如来も亦爾かなり。空を修するが為めの故に、説きて『諸法悉く我有ることなし』と言ふ。彼の女人、乳を浄洗し已りて、而も其の子を喚び、還って飲ましめんと欲するが如し。我今も亦爾かなり、如来蔵を説く。」(297頁)

と、無我説は如来蔵を説く為めの準備の教説で有ると説いています。

また「善知識に親近することを知らざるが故に、如来の微密宝蔵を識らずして無我を修学す。・・・無我を修学して亦復無我の処を知らず。尚自ら無我の真性を知らず、況んや復能く有我の真性を知らんや」(299頁)と、無我に拘泥し有我の真性すなわち仏性を有する事を修学しない者の非を説いている経文を根拠にしています。

 仏性は真実の我であるから仏性を主我(主体的自我)と表現し得るとの見解に対して、部派仏教の無我説を根拠に「それは有我説・外道思想で有る」旨の反論を受けても頷くことは出来ません。

 

如来蔵は涅槃経の基本教義

 

日蓮宗は本来、「法華涅槃を醍醐味」との天台の教判を肯定する立場です。涅槃経の基本教義である如来蔵・仏性思想や本覚思想を「仏教にあらず」と断罪する松本史郎教授の見解をもって日蓮教学を説明する事は無理でしょう。

 『迦葉菩薩品第二十四之二』においては

「善男子よ、衆生の仏性は有に非ず無に非ず。所以は何ん。仏性は有なりと雖も、虚空の如きに非ず。何を以ての故に。世間の虚空は無量の善巧方便を以てすと雖も、見ることを得可からざるも、仏性は見る可ければなり。是の故に有なりと雖も、虚空の如きに非ず。仏性は無なりと雖も、兎の角に同じからず。何を以ての故に。亀の毛・兎の角は無量の善巧方便を以てすと雖も、生ずることを得可からざるも、仏性は生ず可ければなり。是の故に無なりと雖も、兎の角に同じからず。是の故に、仏性は有に非ず無に非ず、亦た有にして亦た無なり。云何ぞ有と名づくるや。・・・善男子よ、若し有る人が、『是の種子の中に果有りや果無きや』と問わば、応に定答もて「亦た有にして亦た無なり」と言うべし。何を以ての故に。子を離れて外に果を生ずること能わず、是の故に有と名づく。子が未だ牙を出ださず、是の故に無と名づく。是の義を以ての故に、亦た有にして亦た無なり」(新国訳954~955頁)

等と、仏性は「亦た有にして亦た無なり」であって、無と云う場合でも、亀の毛・兎の角のように全くの無存在では無く、善縁によって顕現するのだから有と言えると説明しています。

「亦た有にして亦た無なり、善縁によって顕現する」仏性のあり方を「無相密在」との造語で表現しえるとの私の見解に「それは外道の因中有果説である」と批判する事は、仏性の在り方を「亦た有にして亦た無なり、善縁によって顕現する」と説明している涅槃経の教説をも「外道の因中有果説」と貶すことになります。

『如来性品第十二』では、「我れ今普く一切衆生に所有の仏性、諸の煩悩に覆蔽せらるるを示す。彼の貧人の真金蔵有れども、見るを得ること能わざるが如し。如来今日、普く衆生の諸の覚蔵を示す、所謂仏性なり。・・・真金蔵とは仏性なり」(296頁)

「大力士有りて、其の人眉間に金剛珠有り。余の力士と角力相撲す。而かも彼の力士頭を以て之れに触るるに、其の額上の珠、尋いで膚中に没し、都て自ら是の珠の在る所を知らず。・・・彼の力士、宝珠の体に在れども呼びて失去すと謂ふ。」(299頁)

と、所有の真金蔵や体に陥入して存在する宝珠に譬え、積極的に、如来蔵的な説明をしています。

 

天台の性具思想も如来蔵思想

 

本化妙宗の高橋智遍居士が、「天台大師は、十界互具説に立って人間も仏性を所具すると説き、仏界すなわち仏性をよび出す方法を摩訶止観に説いた。『二十五方便』→『四種三昧』→『十乗観法』であり、いわゆる『理の一念三千』の立場で、『仏性の理を出してゆく観法』です。(取意)」(高橋智遍全集5・261頁)

と説明しています。

高橋智遍居士が「天台大師は是の偈文(心・仏・衆生、是三無差別)を止観第五・観不思議境の劈頭に採用されました、一念三千の観心の『基礎原則』としていられます。経文は『心は工みなる画師の如し、種々の五陰を造る、一切世界の中に法として造らざることなし。心の如く仏も亦爾り、仏の如く衆生も然なり、心と仏と、及び衆生と、是の三差別なし』と、「心造」とあるのを天台大師は「心具」と法華経の精神で解釈されています。」(六難九易の法門261頁)

と解説しているように、天台大師は「五百塵点・久遠実成の有始の釈尊のような仏になる可能性を性として(理として)有している」との考えであったと言えます。

「法華文句記・釈不軽菩薩品」の「則ち五仏性は皆衆生に在って一切処に遍す」の箇所について証真私記に、

「問う、縁了は果に至って方に菩提涅槃と名づく。如何が迷位に縁了の外に別に二果あるや、故に疏に云はく『果性・果果性は当に之れを得べし』と。

答う、若し分別門は迷悟差別す、衆生は但だ因性有り、仏界は則ち果性有り。若し相即門は迷悟一如にして衆生即仏なり、故に衆生に於いて亦果徳を具す、仏即衆生の故に仏地に於いて亦因性を具す。此の義に由る故に、衆生は即ち仏界の十如を具す、(如是)果・(如是)報の二如は即ち是れ果性・果果性なり。

問う、云何が衆生に即ち果徳を具するや。

答う、若し一如に約せば衆生即ち是れ中道実相なり、豈に具に仏の万徳有らざらんや。若し理性に約せば衆生は本より三千世間を具す、故に仏の十如を本来具足す。若し果得に約せば、一切処に遍ず、菩提涅槃は九界に遍ずるなり。故に一切処に遍ずと云う」(大日本仏教全集22ー754頁)

と、注釈し、「故に衆生に於いて亦果徳を具す」「理性に約せば衆生は本より三千世間を具す、故に仏の十如を本来具足す。」と衆生は仏の果徳を性具していると解説しています。

「性具」の思想は如来蔵的な思想です。上に引用した迦葉菩薩品第二十四之二の文の趣旨である「仏性は『亦た有にして亦た無なり』であって、無と云う場合でも、亀の毛・兎の角のように全くの無存在では無く、善縁によって顕現するのだから有と言える」と言う仏性観と同じです。

 

仏界所具論も如来蔵思想の範疇

 

日蓮聖人は『観心本尊抄』に「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏」と有るように、衆生所具の仏界を本有の三身円具の古仏釈尊としています。

『開目抄』にも「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備りて」と、衆生は無始本有の仏界をもともと具していると云っています。

また『真間釈迦仏供養遂状』にも「釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか」と、衆生己心の仏は釈迦仏であると説明しています。所具の仏界は具体的な仏であると考えていたと云えます。天台大師に比べると、日蓮聖人は、仏性をより如来蔵的に見ていたといえます。

 

己心所具の仏界についての先師の理解

 

日什門流の日鑑上人が『断疑生信録』に、恵心僧都の「観心略要集」の「弘決に云はく『当知身土一念三千故成道時称此本理一心一念遍於法界』と。無明住地の惑を尽くして本覚真如に帰する時、只だ是れ本より三千有ることを顕す。始めて果位の万徳を得るに非ず。爰に知んぬ。我等が一念の心性に無始より已来三身の万徳を備ふといふことを。」との文を引用し、「今随義転用せば当家の心は、能具の心は理と云い性と云えども、迹の理性に濫ずべからず。釈尊の実の修徳に対する故なり。所具の法体は事の一念三千なり。」と、当家では所具の仏界は、迹門の立場で云う理性的な仏性ではなく、釈尊の実徳、則ち釈尊証悟(事の一念三千)として具体的な仏性仏界であると述べ,
また「吾等も斯の如き本尊を無始より已来、己心に具足すと雖も悪業無明に覆われて不覚不知にして無始無終なり。・・・当に知るべし事の一念三千の御本尊は己心の本具なる事明白なり、・・・内卅七に云はく『釈迦仏御造立仏の御事、無始広劫より未だ顕しましまさぬ己心の一念三千の仏を造り顕しましますか、馳せ参りて、おがみ参らせ候ばや欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来は是れなり』と。所造の釈尊は能造の施主が無始本具の古仏なりと示し」と、衆生は御本尊、釈迦仏を本具していると述べています。

同じく日什門流の日受上人は、『如実我此土安穏義』に、「既に生仏不二を以ての故に、但だ釈尊の一体を挙れば則ち我等が当体全く釈尊の体内に在り、故に更に我等無し。若し但だ我等が一体を挙れば則ち釈尊の当体全く我等が体内に在り。」と、衆生所具の仏界は釈尊の当体そのものであるとの述べています。

日隆上人『四帖抄』に「四、止観は性徳の十界に約して本理の一念三千を論じ、観心抄は修徳の十界に約して事の一念三千を明かす、不同の事。」の項に於いて「止観一部の肝心、本理の三千と云うも、性徳本具の三千なり。華厳経の『心は工なる画師の如く種々の五陰を造る』の文も、性徳の十界の意なり。・・・次に日蓮宗の諸御抄並に観心抄の意は、顕本事円の三千をもって下種を論ずる故に、修徳の十界に約して、一念三千を論ずべきなり。」(法華宗全書日隆1・265頁)と有ります。『四帖抄』難解なので私には解釈しきれませんが、引用箇所の文意は、「天台は理性として仏界を具しているとする性徳本具の立場であるが日蓮聖人は修徳実成の本果位釈尊を具しているとする立場である」との意味で、日受・日鑑上人と同じ考えのようです。

安国院日講上人も「この妙法蓮華経は己心本覚の総体なればこの理を信じて此の名を唱うれば、彼のさとりの法体おのずから呼び顕され」(発心即到記)

と、己心の本覚すなわち「さとりの法体」を己心に本具していると云う考えです。

日蓮宗の北尾日大師も『本化宗学綱要』の「第九章台当異目」に於いて、「()理具事具顕体異。 台家は、我等凡夫の心中の理性に、本有常住に仏性乃至十界三千の諸法を具有するとす。当家は、吾等凡夫肉身の当体、本来本有として仏身乃至十界三千の諸法を具備すとす。理具事具顕体の巧拙知るべし。」(266頁)と述べているように、本来本有として仏身を具すとする日蓮聖人は天台大師に比べると、より進んだ如来蔵的思想の立場であると言えます。

『法華仏教研究第10号・本の紹介』において花野充道博士が「続・九識霊断説の問題点」について所感の文中で、

【山崎師は、龍樹菩薩の空の思想、天台大師の三諦円融の思想、松本史朗氏の如来蔵思想批判、袴谷憲昭氏の本覚思想批判に基づいて、日蓮聖人の思想を解釈しようとされているようであるが、日蓮聖人の思想の本質は空ではない、と私は思っている。日蓮聖人が図顕された本尊(大曼荼羅)は、決して空ではない。久遠の本仏・本法の当体であるから、それは実体である。本仏・本尊という実体を立てて、それに南無と帰命し、信心即成仏(唱題即成仏・受持即観心)を説くのが日蓮聖人の思想であるから、天台大師の己心を観じて諸法の実相(円融三諦)を悟る理の一念三千とは、「本迹、天地、水火の相違がある」と述べられている。日蓮聖人の「体」は、天台大師のような「実相」(三諦円融の理)ではない。

「体」とは、本仏であり、本法であり、妙法蓮華経であり、本門の本尊である。日蓮聖人の思想と宗教は、実は聖人が口を極めて批判した法然上人の称名念仏や密教の曼荼羅本尊に親しく、常楽我浄の如来蔵思想や本覚思想の思想的土壌の上に成り立っている。】(265頁)との所感に私は大いにうなずけます。

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