久遠本仏の実在と日蓮教学
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『現代仏教』掲載山崎斉明師の所論について-

仏界は実在の久遠釈尊

驚くべき山崎斉明師の一念三千論解釈

過日、法友の来訪が有り、談話中、『現代仏教』に、山崎斉明師の論が掲載されている事を聞きました。
私は『現代仏教』を購読していないので、知りませんでした。数日後、法友がPDFで山崎斉明師の所論を送ってくれました。
一読したところ、山崎斉明師は、
【氏(花野充道氏)の学位論文刊行本『天台本覚思想と日蓮教学』(以下『花野本』と略す) には、「日蓮聖人の宗教には、心を離れて仏はないという思想と、心の外に客観的相対的な他者の存在を認める思想がある」 (花野本、四六〇一 頁)という旨の記載がある。
しかしながら、摩訶止観巻五に、
「それ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具す、百法界なり。 一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。 此三千は一念の心に在り、若し心無くんば而已なん、介而も心有あらば即ち三千を具す。(中略)ただ心は是れ一切の法、一切の法は是れ心なるなり。(中略)所以に称して不可思議境と為す。意ここに在るなり。」(岩波文庫・上286頁、大正53C)とあるとおり、「心すなわち一切法」であり、心のほかに他者はない。
妙楽の金剛べいにも、
「阿鼻の依正は、全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は、凡下の一 念を逾えず。」
とあり、一念を超えて依正や一切法はない。故に、天台妙楽の法華教学からすると、心や一 念のほかに身土・ 依正・ 一切法は無く、心の外に客観的相対的な他者はない。】
と論じている箇所がありました。この箇所の解釈から推すると、山崎師は、「久遠釈尊は我が心が造った仏であって、実在する仏では無い」と言う見解のようです。とうてい首肯出来ない見解なので、少々反論を書きます。

山崎師の『金?論』の誤解釈

山崎師は『金?論(こんぺいろん)』の文を根拠の一つとして、「一念を超えて依正や一切法はない。故に、天台妙楽の法華教学からすると、心や一 念のほかに身土・ 依正・ 一切法は無く、心の外に客観的相対的な他者はない。」と断言しています。この断言は言い換えれば、「他者的実在の久遠釈尊は存在しない」旨の主張といえます。
果たして、『金?論』の文が山崎師の見解の根拠になり得るか検討してみましょう。
『本化聖典大辞林』では、
「 無間地獄の依報の国土(衆生所依の国土の果報)と正報の衆生(衆生が業因によりて正しく所依の国土の中に生を受け来たる自身の果報)も、ともに至極の聖人たる仏陀の御心の中に処(あ)りて、少しも離れず。毘盧法身の極仏の身と国土も、凡夫下地の衆生の一念の中を越却して存在するものにあらずとて、一念三千の義を強く定めて、華厳宗等の権大乗にて、仏の心には悪なしといふ義を破して性悪不断」(仏心には修悪とて悪を実行することはなけれども、実行せば実行し得らるべき、悪の性は存す、若しこれを存ぜざれば、仏菩薩の普現色身を出さるる根拠なしとなり)の断論を為れたる時の名言なり。」(86頁)
と解説しています。
この解説によれば、仏の性悪不断を語っている文であり、同時に、衆生にも毘盧法身の極仏の正報・依報の性が備わっていると語っている文です。

先学の御遺文講義を見ると、
「されば妙楽大師は金?論に「無間地獄の依報も佛の身に備ってをり、毘盧遮那法身の依法も正法も凡夫の一念の中にある」と云はれておる。」(松野殿御返事。日蓮聖人遺文全集講義第19巻52頁)

「金?論に『無間地獄に堕つるといふその依報も正報も全く仏それ自身に備わったものであり、毘盧遮那法身を成ずる依報も正報も凡夫の一念に存在して居る』といはれて居る。」(松野殿御返事。日蓮聖人御遺文講義14巻425頁)
と、『本化聖典大辞林』の解説と同趣旨の解釈をしています。

これらの解説によれば、『金?論』の文は、一念三千の義、仏にも九界が備わり、凡夫衆生にも仏性(仏界)が備わっていると言う意味であって、仏も性悪不断であるから、普現色身と言って、九界の種々の色身を現じて衆生に応ずる事が出来きるのであり、また衆生も仏性を具備しているから成仏可能であることを語っている文です。「他者的実在の久遠釈尊は存在しない」との見解の根拠などにはならない文です。

自己のみならば十界互具論は成立しない

「此の十種の法は、分斉同じからず。因果隔別し、凡聖に異なり有るが故に、之れに加ふるに界を以てするなり」(法華玄義巻第2上・国訳一切経39頁)とあります。十界は「分斉同じからず。因果隔別し、凡聖に異なり有る」すなわち、それぞれ別存在的(外境)に存在しているのです。十界互具論は、それぞれ他の九界の性を具していると云う教説です。
別存在的(外境)他の九界が存在しなければ、十界互具論は成立しません。

「此の十法、各々の因、各々の果、相混濫せず。故に十法界と言う。又此の十法、一一の当体、皆是れ法界なり。故に十法界と言う云々。
十法界通じて陰入界と称すれども。其れ実には不同なり。三途は是れ有漏の悪の陰入界なり。三善は是れ有漏の善の陰入界なり。二乗は是れ無漏の陰入界なり。菩薩は亦有漏亦無漏の陰入界なり。仏は是れ非有漏非無漏の陰入界なり。・・・十種の所居を通じて国土世間と称するは、地獄は赤鉄に依って住し、畜生は地水空に依って住し、修羅は海畔海底に依って住し、人は地に依って住し、天は宮殿に依って住し、六度の菩薩は人に同じく地に依って住し、通教の菩薩の惑未だ尽きざる者は人・天に同じく依って住し、惑を断じ尽くせる者は方便土に依って住し、別円の菩薩の惑未だ尽きざる者は人・天・方便等に同じく住し、惑を断じ尽くせる者は実報土に依って住し、如来は常寂光土に依って住す。・・・土土同じからずが故に、国土世間と名づくるなり。」(国訳一切経摩訶止観巻第五上163頁)
と、地獄は地獄の法界で悪の陰入界、天は天の法界で善の陰入界というように不同であり、所住の国土も不同であると説明し、「此の三十種の世間は悉く心従り造る」と結び、続いて、十如いかんに由って、十界のいずれかの境遇を得ることを説明する部分が続きます。
『摩訶止観』の「介而も心有あらば即ち三千を具す。(中略)ただ心は是れ一切の法、一切の法は是れ心なるなり。(中略)所以に称して不可思議境と為す。」の文意は、「十如すなわち心がけ行いに由って、性具している十界の内のいずれかの身体・境遇が現出する。だから心は自己の身体と環境であり、自身の身体と環境は心と云える 」との意味です。
『摩訶止観』のこの部分は「心が不思議な境であると観ずる」項なので、Aと言う者の現在得ている依正はAの心が造ったもの、と言うようA個人に視点を置いて説明していますが、Aと別人のBやCなどは非存在であると言うのではなく、BやCの心造の依正でもあるのです。この意味合いを山崎師は忘却しているようです。
「心すなわち一切法」を、山崎師は「Aただ一人のみ存在し、客観的相対的な他者はAの心の幻影である。他者として実在する教導主久遠釈尊などいない」と主張しているようなものです。

本化妙宗の高橋智遍居士が『高橋智遍全集第九巻』に於いて、
「本化菩薩の本地が本佛だといたしますと、まことに困ったことが出来てくるのです。それは十界がなりたゝなくなるのです。久遠の佛界は本佛としてあっても久遠の菩薩界が無くなってしまいます。そうしますと、開目抄の
『九界モ無始ノ佛界二具シ、佛界モ無始ノ九界二備ハリテ、真ノ十界互具・一念三千ナリ』の御遺文の『無始ノ九界』がないことになってしまうのです。」(23~25頁)
と論じています。本仏と別存在的な本有菩薩界(本化菩薩)が無いとすると真の十界互具・一念三千が成り立たないと論じているのですが、十界は互具平等でありながらも別存在的ものでなければ、十界互具・一念三千が成り立たないとの意味があるのです。
高橋智遍居士はまた続いて
「如来寿量品を中心にして、 一、永遠の佛陀としての久遠本佛
 二、永遠の菩薩としての本化菩薩の根本「人格」が厳然として存在することが明らかにせられました。
われわれが「生きて存在している」と同じように、宇宙法界と同体の大霊優者として「佛陀」や、また「菩薩」が、存在しまします
久遠本佛も本化菩薩も、ともに霊的存在であって、1メートル五十センチとか、六十キロとかいう身長も形量もない存在であります。それを「霊的存在」といいます。・・・久遠本佛は本来・本有・根本よりの覚証者として、宇宙法界の全体の実相を覚証し、つねに迷妄の衆生界を化導しつつある霊的人格の活動体です。」(67~72頁)と、久遠本仏は実在的教導者である旨を論じています。

天台大師も仏を実在者として仰信

『法華玄義』に
「次に応を明かさば亦三義と為す。一には応は是れ赴の義なり。既に機に生ずべきの理有りと言ふ。機微にして将に、動ぜんとするに聖人之に赴かば、其の善生ずることを得べし。故に赴を用いて応を釈す。二には応は是れ対(たい)の義なり、人の交関して、更に相ひ主対するが如し、一(ひと)りは売らんと欲するとも、一(ひと)りは買わんと欲せざるが若し、則ち相(あい)主対せず。若し売買両(ふたつ)ながら和すれば、則ち買易交決して、貴賤悔い無きが若し。今、衆生を以て買(ばい)に譬へ、如来を売に譬ふ。機に就いて以て関を論じ、応に就いて以て対を論ず、故に対を以て応を釈するなり。」(国訳一切経・法華玄義202頁)
と論じています。「買い手と売り手とが相対して売買が成り立つすると同じように、仏と衆生が相対して感応関係が成立する」旨を論じています。衆生だけが居るだけで無く、衆生に対応する他者的な仏が居なければ教導が成り立たないのです。

天台大師は『法華三昧懺儀』に於いて、
「ただ願わくは、わが本師釈迦牟尼世尊、多宝如来、分身の諸佛よ。大慈大悲もてわが奉請を受け、道場に来到したまえ。
大乗の妙法蓮華経なる真浄の法門よ。哀愍し覆護して、わが奉請を受け、道場に来到したまえ。
文殊師利菩薩、弥勒菩薩、下方上行等の菩薩、普賢菩薩等、妙法蓮華中の一切の諸大菩薩摩詞薩よ。大慈大悲もてわが奉請を受け、道場に来到したまえ。舎利弗等の一切の諸大声聞よ。ことごとくみな慈悲をもてわが奉請を受け、道場に来到したまえ。
一切の十方三宝よ。憐愍し覆護してわが奉請を受け、道場に来到したまえ。
一切の天竜八部等よ。ことごとく哀愍を生じてわが奉請を受け、道場に来到したまえ。」(天台宗教聖典2・887頁)
との勧請文を記しています。
他者的教導者としての仏菩薩等の実在を確信していたからこそ、こうした言上文を書いているのです。

日蓮聖人も久遠釈尊を実在者として仰信

『開目抄』に
「本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶて、本門十界の因果をとき顕わす。これ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備て、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。・・・その外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終はとけども応身報身の顕本はとかれず」(昭定552頁)
と有ります。文意は、「寿量品の発迹顕本によって、釈尊が無始久遠より教導活動を続けている実在の仏であることが明かされ、無始より活動している仏界と無始より活動している九界の互具が成り立ち、真の十界互具・一念三千の教理が確定した。久遠釈尊は法身・応身・報身とも無始無終の仏である」との趣旨です。
無始より教導活動をしている三身円具の仏である久遠釈尊は無始より存在している実在仏です。無始の九界即ち衆生と別存在として無始より存在している仏と云う事です。ゆえに無始本有の十界互具関係が成立するのです。

『十法界事』に、
「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、当に知るべし四教の四仏則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず又無始色心常住の義無し但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして是れ過去常に非ざるなり、本有の十界互具を顕さざれば本有の大乗菩薩界無きなり、故に知んぬ迹門の二乗は未だ見思を断ぜず迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず六道の凡夫は本有の六界に住せざれば有名無実なり。」(昭定142頁)と有ります。文意は、「本門は本覚本有の十界互具を明かしているから本無今有の欠点がない。爾前・迹門に於いては無始久遠の本仏の存在を語っていない、仏界の無始無終常住不滅の義を欠くので、九界も無始の存在、仏界(久遠釈尊)も無始の存在した本来本有の十界互具説が説かれていない」との趣旨です。
たとえば、人界の一人Aの他に、仏界(久遠釈尊)も無始より実在していると言う事です。
他者的教導主釈尊が実在するから、
「日蓮流罪に当れば教主釈尊衣を以てこれを覆(おお)いたまわんか。」(『真言諸宗違目』昭定641頁)
「当に知る、 釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏、上行・無辺行等の大菩薩 大梵天王・帝釈・四王等 此女人をば影の見にそうがごとくまほり給らん。」(『日妙聖人御書』昭定647頁)
「霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等、梵・釈・日月・四天等、冥に加し顕に助け給はずば、一時一日も安穏なるべしや。」(『撰時抄』昭定1061頁)
等との言葉を吐露されているのでしょう。

田中応舟氏の十界互具・一念三千解説

田中応舟著『日蓮聖人遺文講座』が有ります。優れた御遺文講義として常々参考にしています。
長文引用ですが、『開目抄』の「仏界も無始の九界に備(そなわり)て、真(まこと)の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。」の部分の解釈で、「仏界も無始よりの実在となって、十界がことごとく無始の存在となる・・・十界の実在とは、上は本仏の人格実在より、下は地獄、餓鬼、畜生界の人格実在までのことを言うのであって」と述べて、本仏の実在をも語るのが、日蓮聖人の十界互具・一念三千論の重要点である旨を論じています。
以下に、田中応舟氏の説明を紹介します。
【 寿量品によって中間的仮相の仏界が吹き払われ、真実々在の久遠本仏、すなわち無始の仏界が顕われて、ここで始めて九界が無始であるばかりでなく、仏界も無始よりの実在となって、十界がことごとく無始の存在となる。前(第四章第三節)にも述べたように、十界とは、この全宇宙の全生命界を、精神的な面からみて十の種類に分けて説いたのであって、つまり、十界という語は、宇宙の全生命を指しているものであるから、無始の十界互具ということは、有限でない、無限絶対の存在者の互具ということである。この全生命はけっして抽象的な、漠々たる理念的なものではなく、活きている生命そのものであり、意志を持ち目的を持っている人格そのものである。ここがとくに大事な点であるから、銘記しておかなければならない。十界の実在とは、上は本仏の人格実在より、下は地獄、餓鬼、畜生界の人格実在までのことを言うのであって、この生きて大活動している人格的大生命体が、十界互具と言われる真実の状態である。また、この十界の人格が無始より実在していることを、十界事常住の法門と呼ぶのである。この仏界と九界とが常住(本来無始より生き続けているもの)であり、その生命と生命、人格と人格とが通っており、一体になっているのであって、ここに始めて宇宙一貫の大真理、真実の一念三千が成り立つのである。さらに言い換えると、このように寿量品の顕本の説(本仏の根本人格を顕わす)によって、無始であり、したがってまた無終(終り無く無限に続く)である。十界事常住の真理が現われ、われわれ人間は無始以来、本仏と一体であり、本仏の広大な大慈悲に抱かれ、知恵力に照らされ、護念力によって導かれ、われらの心もまた完全に本仏の御心に通い、それに溶けこんでいることの真実相(われら人間の真実の相や在り方)が明瞭になるのである。(中略)以上のようにして無始の十界互具が成り立ち、真の宇宙観も確立するのであるから、これを宇宙観である全宇宙法界(真理の世界)の面から眺めるならば、この法界は、広大無辺な一大本仏に包まれた法界であり、本仏が自在無凝の大活動をなし、大神通力を発揚している活舞台であることになる。本仏の告勅(命令)のまま全宇宙、十方法界に活躍しておられる諸仏菩薩をはじめとして、その他一切の九界の生きとし生ける者、ことごとく本仏の大全命海中に全存し、その本仏の大慈悲力、大知恵力、宇宙法界統一の支配力に、すなわち本仏の宇宙大の主師親三徳の大人格性に、包容され、生かされ、導かれながら存在しているものとなる。これが本仏の仏眼に照らされた宇宙の実相(真実の在り方-真理)であり、法華経寿量品の宣示する真の宇宙観である。これが本仏を中心として見た仏界縁起の法門と言うのである。すなわち本仏界の大因縁のなかに生存し、育成され、活動している全宇宙のあらゆるものの在り方、さらに言い換えれば、全法界は主師親三徳の本仏の胎内に起伏し、活動しているものであることを、このように表現したのである。この仏界縁起という法語を、よく記憶しておいていただきたい。
宇宙の実相は、まさに上述のとおりである。そこで今度は、われわれ自身を九界(迷界)の代表者とし、その眼をもって宇宙を観じ、本仏を仰ぐならば、もともと十界互具が真理であるのであるから、本仏の大全命、大知恵、大神通、とくに毎自作是念(毎に自ら是の念を作す)の大慈悲が、こんこんとわれらの生命に流れ入り、互具していることがわかり、われらは無始よりこのかた、本仏の大人格と一体不二であって、ここに無始よりこのかた本仏と同時存在のわれであり、本仏の子であり、本仏の大精神を継承する値うちのある大菩薩、われであったことを了承し得るのである。ここに、迷える人間のまま仏となり得る原理(成仏の原理)が保証されているのである。法華経信仰の重大意義は、まさにこのようなものであって、「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に具って、真の十界互具、百界千如、一念三千なるべし」と述べられている聖訓は、永遠に燦として、われらが頭上に輝いているのである。 】
(田中応舟著・日蓮聖人遺文講座・開目抄上224~232頁抄出)
以上、引用終わり。
山崎師のように「心の外に客観的相対的な他者はない。」などと言って、他者的教導主としての久遠釈尊の実在を否定する事は、天台大師・日蓮聖人の教えに全く外れた事です。

本覚と始覚

また、山崎師は、私の如来蔵観とか本覚観を、所謂、修行無視当体全是の中古天台亜流の本覚思想と短絡的に同一視しているようです。そこで、当宗の先師が語るところの本覚始覚観を検討し、それに基づく私の本覚観が、修行無視当体全是の中古天台亜流の本覚思想と同一でないことを述べ、また常住不滅の久遠本仏の実在を認めることが日蓮教学の根底であることを検討します。

綱要導師の本覚始覚観

【凡そ迹門の意は、能説の教主釈尊、既に伽耶城を去ること遠からず道場に坐して始めて正覚を成じ玉ふ故に、所説の法門も亦た是れ一心三観を以て理性の三徳を研き因より果に至って、始めて三身の覚体を成ずることを明す。是れを迹門の始覚の三身と云ふ。】
(祖書綱要巻第十・法華学報11号4~6頁)
と、「迹門の立場では、教主釈尊は一心三観を修して理性としての仏性を研き、法報応の三身の覚体を成就したのであるから、迹門の始覚の三身と云える。」と指摘し、
【次に本門本覚とは、即ち是れ本来自覚の義なり。謂く、前の迹門に成ずる所の始覚の三身を以て本覚無作と明す。・・・是れ始覚の三身即(ち)無始本覚(なり)と顕はすなり。『観心本尊抄』(十六)に云く、「五百塵点、乃至所顕の三身にして、無始の古仏なり」と。『法華真言勝劣抄』(内の三十五の八帋)に云く、「諸経には始成正覚の旨を談じて三身相即(の)無始の古仏を顕はさず。(乃至)寿量品に此の旨を顕はす」と。・・・明らけし。報身を立て五百塵点の始めと為さざること、豈に本来自覚の義に非ず乎。・・・是れ豈に本来自証の釈尊を以て本覚無作の三身如来と為すに非ずや。而も此の本覚を以て本門の円果と為す。故に知りぬ。衆生在纏の理性には非ざることなり。】
(祖書綱要巻第十・法華学報11号6頁)
と、「始覚とは本覚であることを覚ることであって、始覚の円因を修して本門本覚の円果を感ずるのである。その本覚とは、『観心本尊抄』『法華真言勝劣抄』等によれば、[無始の古仏]と表現されているから、五百塵点劫という成仏の初めがあるもので無い[本来自覚][本覚無作の三身如来]と云える。迷いの衆生が理性的に有している仏性ではない。」と論じ、本覚とは衆生在纏の理性(天台で云う所の理性としての仏性)ではないと解説しています。
また、
【又『記』の七(廿九、会の十九の十二右)に「果中の勝用は迷中の実相に由りて立す」と云ひ、『金鉾論』に「果地の依正融通することは、並に衆生の理本に依る」と曰ふは、皆な是れ理具に由りて、方に事用有るの法相にして迹門の理性所具の一念三千の法門なり。此の事具は是れ本無今有の事具にして本有常住の事相互具には非ず。】(綱要巻第十第十七本覚顕本への難問に会答することの章・法華学報11号16頁)
と、「迹門の理性所具の一念三千の法門」について「果地の依正融通を得るのは、行業如何によって十界の依正を現出する一念三千の理に則っているからである。仏の勝れた働きは、衆生が則っている一念三千の実相に由って得たものである。すなわち事実としての仏界は元々有ったもので無いので、事実的存在の十界が互いに具し合っていると語っていても、本無今有の事具にして本有常住の事相互具ではない。」と指摘しています。
天台の本無今有の事具(十界互具観)に対し、当宗は本有常住の事具(無始本有の十界互具観)であると主張する理由は、
【『法華真言勝劣抄』(内の三十五の八帋、遺の八の四十左)に云く、「諸経には始成正覚の旨を談じて三身相即無始の古仏を顕はさず。本無今有の失あれば、大日経の如来は有名無実なり。寿量品に此の旨を顕はす」と。又(十一、遺の八の四十一左)に云く、「法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之れを破したる五百塵点なり。大日経等の諸大乗経には全く此の義無し」と(已上)。
是れ則ち五百塵点劫の譬えを挙げて、諸経に破せざる伽耶の始成を破するに由りて、三身相即無始本覚の古仏を顕はすことを得るなり。・・・ 明らけし。五百塵点劫の譬は、是れ能顕にして、無始本覚の古仏は是れ所顕なること、『本尊抄』(十六、遺の十四の四十二左)に「寿量品に云く、然我実成仏已来無量無辺百千万億那由他劫等云云。我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」と云ふは、其の意なり。能顕の五百塵点(=文上)を以て所顕の無始本覚(=文底)を妨ぐ可からざるなり。】
(綱要巻第十第十七本覚顕本への難問に会答することの章・法華学報11号27頁)
と有るように、『法華真言勝劣抄』『本尊抄』を基に、寿量顕本五百塵点劫の譬えを、無始本覚の古仏であることを顕す譬えであるとし、その無始本覚の古仏を本覚としています。
また、
【『本尊抄』(十六)に本門の十界本有無作の尊形(本尊)を明すに就いて爾前・迹門を総じて身土無常に属す(せしめ)る、是れなり。応に知るべし。当家本門の所談は、事相の十界、本来本有にして、互具融妙不可思議なるを、本有妙法蓮華経本門の上の法門なりと云ふ、是れなり。・・・無始本有の十界互具に由るが故に、凡夫の当体(は)無作の三身、妙法当体の蓮華にして、寿量品の教主釈尊・自受用身の仏なり。・・・応に知るべし。本化付属の本門の所談は、凡夫の当体(は)久遠実成の当初証得の妙法蓮華にして、寿量品の教主釈尊なりと。】(綱要巻第十第十七本覚顕本への難問に会答することの章・法華学報11号24~26頁)
と述べ、「『本尊抄』等の教説から云えば、事実として差別相を示しながら存在している十界は、十界とも本有の存在で、かつ互具融妙している。無始本有の十界互具の存在であるから、衆生の当体は無作の三身寿量品の教主釈尊と見るのが、本化付属の本門の所談である。」と、天台の本無今有の事具に対し、当宗は本有常住の事具であると論じています。衆生は仏界を具しているというより、進んで、本覚すなわち衆生の当体(は)無作の三身、妙法当体の蓮華にして、寿量品の教主釈尊・自受用身の仏なりと語って居ます。

優陀那日輝師の本覚始覚観

「本覚を覚る(顕出する)のが始覚」と云う解釈は、優陀那日輝師も採っています。
『妙経寿量品宗義抄・上』に、
【此の三身は開悟の時、始めて得るものに非ず。人々の生得の果報なるを本有無作。無始久遠の三身と云うなり。】(二紙右)
(文の取意=この三身は開悟して初めて得るというものでなく、衆生は元々のところ、本有無作、無始久遠の三身であって、開覚の時に初めて得るという仏身ではない)
とあるので、「始覚はと云っても、生得の果報なるを本有無作・無始久遠の三身を覚ることであるとの見解です。
綱要導師と同じく、衆生は仏界を具しているというより、進んで、衆生の当体(は)本有無作無始久遠の三身であると見ています。
優陀那日輝師は『綱要正義』に、【今典の妙は、正に十界常住に在り、然るにもし塵点久成の説無くんば則ち仏界常住未だ顕れず。】(祖書綱要刪略正義会本153頁)
と、「塵点久成の譬説によって釈尊が無始の古仏であることが明かされてこそ、ば仏界常住が成り立つ」と云っていますが、釈尊が本有無作・無始久遠の三身の仏であると確定すれば、当然衆生所具の仏界は本有無作・無始久遠の三身の仏であることになります。そこで「人々の生得の果報なるを本有無作。無始久遠の三身と云うなり。」(妙経寿量品宗義抄上・二紙右)と云っているわけです。
優陀那日輝師は、
【経文は但だ有始に約して無始を談じ一仏に約して法界を顕すのみ。】とし、【台家、之れを覆相する故に有始を談ずるのみ。而るに両重に義を成す所以は、経、並に像末に投ず。故に如来巧説して、随他始覚の義を帯びるのみ。】(祖書綱要刪略正義会本152頁)
と、「天台家は真実義を覆う故に有始仏としている。文上随他・文底随自の二義を経文より見いだせるのは、法華経が像法末法にも宣説されるので、如来の巧説として、像法弘宣法門の為めに随他始覚の義を帯びているからである」と、天台大師と日蓮聖人との寿量品解釈の違いを指摘し、『妙経寿量品宗義抄・上巻』には、無始本覚を実義とする理由として、
【(経)文は久遠の始成を説くと雖も、無始本覚の義に結帰せざるときは、諸仏に新古高下ありて、隔歴の果となり、仏界尚を未だ融せず。況んや九界に於いておや。竪に隔異を成ぜば横もまた隔歴し、一身一念遍於法界の理に契わず。三千唯一の義成ぜず。】(六紙右)
(上記の文の取意=無始本覚の仏としないと、諸仏に新古高下の別が有ることになり、竪に三世の諸仏、横には十方の諸仏の仏果が共通しないことになる。法界全体が即ち仏の身と心であるとの理と矛盾するし、三千はただ一念であるとの義が成立しない)

【また、新成の仏は本化の弟子無く、分身の応化無く、多宝の願に契わず、化境の広狭、体用の優劣、永く不同を成じ、戯論の謗り何ぞ免るることを得んや。】(六紙右)
(文の取意=成り立ての仏には久遠の昔に弟子となったという本化の弟子は無いことになるし、まだ分身を十方に現していないので、分身の応化は無いことになる。さらに分身集合して身を現すという多宝の誓願にも応じることが出来ない。他の諸仏と化境の広狭や優劣、仏格の不同があることになり、どの仏が勝れているか論じる戯論を生じる事になる)

【また、前品に『如来、今諸仏の智慧、諸仏の自在の神通の力、諸仏の獅子奮迅の力、諸仏の威猛大勢のちからを顕発宣示せんと欲す』と云い、今品に『諸仏如来、法皆な是の如し』と云い、後品に『願はくは我未来に於いて長寿にして衆生を度すること今日の世尊の如く、寿をとくことまた是の如くならん』と云う。三身の寿量、諸仏に通ずること文義必然なり。況んや、『我れ然灯仏等と説き、またまた其れ涅槃に入ると言いき、是の如きは皆な方便を以て分別せし』と云う。三世の諸仏、実体無二。文義必然なり。故に宗祖『灌頂抄』に『且立塵点』と云い、『本尊抄』に『五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり』と宣べ給へり】(六紙左)
(文の取意=『涌出品』の『今欲顕発宣示 諸仏智慧・・・』や『寿量品』の『諸仏如来 法皆如是』の文、また『分別功徳品』の『願我於未来 長寿度衆生 如今日世尊・・・説寿亦如是』との文によれば、三身の寿量は諸仏共通であること確実であり、また釈尊が過去世に於いて然灯仏等として応現したとあるので、三世諸仏の実体は無二であることが確実である。故に日蓮聖人も『灌頂抄』や『本尊抄』において久遠始成を能顕として無始の古仏であることを説いて居ると教示している)
と論じ、
【今経は台家に約すれば、過去久遠なれども猶を有量なり。今家は寿量品にて過去の無始を実義とする故、報身の寿命、過去未来倶に無量なり】(八紙左)
(文の取意=台家の解釈では、釈尊の過去久遠を云うが、久遠時の始覚を云うので、過去は有量である。今家(日蓮聖人)の解釈では、無始を実義とするから報身も無始無終の寿命である)
と、寿量品は釈尊が無始の古仏である事を説いていると見るの実義であるとしています。
優陀那日輝師は『妙経寿量品宗義抄・上巻』に、
寿量品の所顕は無始本覚の三身であるが、必ず五百塵点、久遠の始覚に寄せて説かれている理由として、四つ挙げています。
【一に、久遠の始成を談ぜざる時は、久遠の弟子を論ずるを得ず。別頭の人を挙げざれば別途の法を立するを得ず。何を以てか後五広布別命の大法を顕すを得んや。是の故に久遠の始成を談ずるなり。】(四紙左)
(文の取意=久遠始成を語り、久遠以来の教導を明示しないと、昔に教化した本化の弟子が居ることを論じられないし、本化の弟子に大法を付属する事などを顕せない)
【二に、単に無始を談ずる時は、法身常住の義を成ず。縱ひ三身無始と説くと云うとも、聴者は必ず性得三身の解を為す故に、修得の非実を顕すに由し為し。修得の果を破せずんば、永く生仏隔異の見を破するを得ず。則ち無始の仏界、非始の妙果顕れず(是れ一)
また九界全く本果が家の九界なること顕れず、十界同体の義究竟せず。(是れ二)
また仏界、本より九界を具するの義顕れず(是れ三)
則ち事具の三千究竟の実相顕れず。是の故に必ず遠成の始覚に寄せて無始を談ずるなり。】(五紙右)
(文の取意=始覚を云わないで直ちに無始仏であると談じると、単に真理の常住を説くだけと思われたり、理具の性徳三身のことだと解されやすい。そのように解されてしまうと、修得の三身でなく本来から自覚の三身である事の説明が理解し難くなる。修得の三身でなく本来からの自覚仏である事が顕さないと無始の互具平等が成立しないから衆生と仏とは隔異しているとの見解を破ることが出来ない。無始十界互具・十界同体の義が徹底しないと事具三千の実相を顕す事が出来ない)
【三に、遠成を以て近成を破する故に、始覚虚なりと雖も、而も全く廃すべからざる事を知る。則ち本覚必ず始覚を借りて顕れ、始覚必ず本覚に会するの義顕れ、本より迹を起こし、迹に依って本を顕す。不二の体用、本迹倶実の妙旨顕わるる事を得。是の故に必ず遠成の始めを談ず。】(五紙左)
(文の取意=近成を破する為めに遠成が説かれるたのであって、遠成の始覚も実ではないが近成を破する為めに廃すべきでないのである。本覚は始覚説を借りて説き顕すことが出来るし、始覚は必ず本覚三身を顕現するという義が顕れ、本覚身より迹身を応現し、迹身に依て本覚身を顕すことになるから、体(本覚身)と用(迹身)の不二であること、本迹は倶に実であることの妙旨を顕すことができる。この故に遠成の始めを談ずるのである)
【四に、久遠の始覚を論ぜずんば、世世番番、三世益物、非生現生、非滅現滅の仏なることを顕すこと能わず。非滅現滅を談ぜざれば、滅後の弘経、持経修道の功用、必ず常住の仏身を見るの義顕れず。則ち流通の大益隠没すべし。是れ最も本門興起の大事なり。是の故に必ず久遠の始覚に託して、無始本覚の能顕とする所以なり。】(五
(文の取意=久遠の始覚を云って、現身に開覚し説法し入滅する仏としないと、世世番番に出世し、三世益物し、滅に非ずして入滅を現じる仏で有る事を顕すことが出来ない。滅に非らざる入滅をしないと、入滅後弟子の菩薩が仏に代わって弘経する必然性や弘経の功徳を明確に説けないし、如説修行の功徳によって常住の仏を見奉れると云う事も説けない。以上の様な理由から、必ず久遠の始覚を通して無始本覚を説く必要がある)
と、以上の四つの理由があって、久遠の始覚を能顕として無始本覚を説いて居るのであると論じています。

日受師の本覚始覚観

日什門流の日受師の『本迹自鏡編下巻余之一』に、
【そもそも我等、釈尊事成の本覚の徳を具すと雖も、不覚を以ての故に、流転すること已に久しくして無始なり。而るに今日始めて本覚の妙法を信ず、此れは始覚の最初にして、冥に本覚に契う。もし、昇進すれば則ち分に本覚を顕し、いよいよ昇進すれば則ち修顕得体す。是れ則ち始覚の終わりにして、全体、釈尊同体の本覚と成り、即時に始本不二の妙体なり。】(宗全65頁)
と、「迷者である凡夫が妙法を信行し始め、そして修行が増進し、本来具足している釈尊事成の本覚の徳を顕わせば、釈尊と同体の本覚と成る」と、同様に、
【釈尊もまた修顕得体の時には、必ず先仏同体の本覚と成るべし。
其の先仏も、またまた斯の如くにして、前前古仏相続して本、断ゆること無き。則ち是れ報応各三、無始事常住の覚体、無始の本因本果、無始の始覚本覚、事の一念事の三千の妙体なるなり。】(宗全65)
と、「釈尊も修行成就して開悟したときには、先仏同体の本覚を顕し終わった身と成ったので、始覚即本覚であるから、始覚でありながら無始の本覚の仏であると言える」と説明しているので、始覚とは因行によって本覚を顕出するとし、衆生は釈尊事成の本覚の徳を具すと見ています。「事成の本覚の徳」「事の一念事の三千の妙体」と云っているので、本覚は、天台で云う理性としての仏性よりも、具体的なものと捉えています。

日鑑師の本覚始覚観

日鑑師は『本迹立正義』に、
【次に本門事観の大意を辨ず。抑も我等は釈尊久遠実成の時の釈尊の本因本果の佛徳を具す、然りと雖も迷て知らざる故に流転すること已に久して無始なり、然に宿福甚厚の幸有て釈尊本覚の妙法を信受し奉る、是則我等が始覚の最初にして冥に釈尊の本覚に契ひ、信念若し昇進すれば分に釈尊の本覚を顕し、彌昇進すれば即修顕得体す、是則我等が始覚の終にして全く釈尊同体の本覚と成て、即時に釈尊と我等と始本不ニの妙体と成るなり、】(宗全第六巻271頁)
と、始覚とは本覚を顕出することとしています。
また、日鑑師は『断疑生信録・十八 本門事観』に、
【本門の本尊とは・・・釈尊及び無始の古仏の修顕得体の本尊なり、我等も斯の如きの本尊を無始より已来、己心に具足すと雖も、悪業無明に覆われて不覚不知にして無始無終なり、・・・当に知る、事の一念三千の御本尊は己心の本具なる事明白なり。本尊抄に云はく『今 本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏すでに過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化以て同体なり。これ即ち己心の三千具足、三種の世間なり。迹門十四品には、いまだこれを説かず。』と。
此の本具の本尊を信念に依って顕し奉るを事の即身成仏と云うなり。内卅七・廿九(真間釈迦仏供養遂状)に云はく『釈迦仏御造立の御事。無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏、造り顕しましますか。はせまいりてをがみまいらせ候わばや。欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来は是也。』と。所造の釈尊は能造の施主が無始本具の古仏なりと示し、而も唯本の二文を引いて是れを証明し玉へり。本尊抄に云はく『「しかるに我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」等云云。我等が己心の釈尊、五百塵点、乃至、所顕の三身にして無始の古仏なり。』と。】
と、御本尊は己心の本具、無始の古仏は衆生本具の仏であると述べています。本覚を、本門の本尊・無始の古仏と具体的に捉えています。
日鑑師は『本迹立正義』に、
【今理性と云ふは迹門の理性とは異也、且く釈尊の修顕得体に対し、己顕を以て未顕を奪て理と名け性と名く、文字に泥んで濫すべからず、】(宗全第六巻271頁)
と、「理性と表現していても、迹門で云う所の理性としての仏性とは意味合いが違う、本門の場合は所具の無始の古仏(本覚)が未だ顕出されないうちを理性と云うのである。理性と云う同じ言葉を使うからと云って、迹門思想で云う理性と本門思想で言う理性とを同じてはいけない」との旨を述べています。

啓蒙日講師の本覚始覚観

啓蒙日講師も『録内啓蒙』の「巻之五」に、
【凡そ生死の無始を沙汰するに、事無始、理無始の異あり。今、十界を論じるに就いても、迹門は理性無始、本門は事成無始なり。】(45紙)
と、迹門は理無始、本門は「事無始」すなわち十界の存在は無始で、事に即して理法もあると云う十界互具観であると指摘しています。
また、
【一代説経の中に、釈尊より久しき仏なければ、これに託して無始仏界本有の深旨を談ずる時は、十界三千の依正さながら無始の覚体と顕れ、我等の如き迷位の衆生の色心、全く釈尊と同等なり。】(巻之五・41~2紙)と論じています。文意は、「釈尊は無始本覚を顕出したのであるから、釈尊は無始本覚の仏である。無始の釈尊の身土に攝っせられた法界は本有無始の仏界なので、その中の衆生の色心は釈尊と同等である」との意味です。
「衆生の色心は本来、釈尊と同じである」と云う表現は、理性として仏性を具していると云うより積極的表現です。

田中智学居士の本覚・始覚観

本化妙宗の田中智学居士は『日蓮主義教学大観巻第三』において、比較的平易に解説しています。
【「始覚」とは、今日まで迷って居たのが今始めて覚るをいふので、造作を経る方である、「本覚」とは、これ不迷不覚である、未だ曾て迷はないものは、始めて覚ることは要らないやうに、其の体本来明了なるゆゑに始覚に對して本覚といふ、本来自覚の義、迷はず覚らざる本来自然覚ともいふのである、・・・始覚本覚は猶これ因果の法門なれば一体の法門なる旨を仰せられてある、「十法界抄」の御判釈は、よくこの始覚本覚の関係を拝することができる、即ち『一切衆生の始覚を名づけて円因と云ひ、一切衆生の本覚を名づけて円果と云ふ』とある、】(1186~7頁)
【一切衆生本覚を具足すれども、始覚の因なきが故に果に住せず、と云うことになる、されば本覚本覚といふて、始覚を軽んずるは、当家の真面目ではない、始覚なき本覚は、何の役にも立たぬ、】(1195頁)
と本覚と始覚の関係を述べています。
以上検討したように、先師達は、始覚は本覚を顕出すること。本覚の顕出には修徳(因行)が必須としていますが、その本覚を、天台で云う理性としての仏性より、より実体的具体的に「本覚無作の三身如来」「無始の古仏」「一念三千の御本尊」等と表現しています。
十界互具における仏界を実在し活動している久遠本仏とみる本門思想から云えば、衆生所具の仏界は、単なる理性でなく、未顕現ではあるが具体的実体的なものという事になります。

実在仏を外しては真の一念三千は成立しない

田中智学居士が『日蓮主義教学大観巻第三』において、迹門(天台)と本門の違いについて説明しています。
【迹門では九界に仏界を性具して円融するが理円である、本門で本有の仏界が九界に体遍して十界円満具足せるが事円である、】(1196頁)
【迹門における能所は、能具は「九界」、所具は「仏界」である、(迹門は)潜在的の理性の上から、九界に仏界を具するといふのである即ち迹門の具の相は(相からは仏界を具しているとは云いにくいので)理に約して「具」を論ずるものである、故に「具の相」に約しては「迹門は理具」といふのである。】(1230頁)
【迹門には理性の面よりして具を論じてあるが、・・・所具の仏界が、未免無常の有始有終の仏、本無今有の仏であっては、危険な話といはねばならない、能具の九界も、所具の仏界も、ともに無常を免れないとあっては、やはりもとの木阿弥で、贋の墨付きをもらったようなものになって了ふ、・・・折角の迹門性具も、殆ど何の役をもなさぬことになる、かうなるとさよういふ無常の仏界を所具としている能具の九界そのものも、幻影のやうなものだとなって、結果は、十界ともに妄に帰して了ふ、これ迹門理真事妄の法門の止む得ざる所である。】(1233頁)
と、潜在的の理性の上から、九界に仏界を具すると云っていても、所具の仏界が常住不滅の実在的仏で無ければ、大きな欠陥が生じる旨を論じています。
【本門はぐわわりかはりてその反対である、まず能所をいふときは、「能具」は仏界、「所具」は九界、である、而もこの仏は本無今有未免無常の仏でない、本時成道久遠本果の仏である、この仏の功徳につりあげられた九界、この仏の中に含められた九界であるから、九界そのものも功徳化せられた本有のものとなる、・・・・
已上の如く迹門は性の方から「具」を説く、中に潜める力に約する、本門は、相の上から直に「具」を論ずる、相とは現象界である、その現象の相に即して実体に具をいふのである、これに對すると、迹門は、性よりして、用を論ずるといふことになる。
相は現象である、体は実在である、九界の相が、佛界の体に具して居る、そこで佛界の体もただちにこの九界の相の上にあらはれて居るとなって、よくわかるのである、三身常住の実体の上から、十界常住の実相を明すのである、迹門は無常の九界に佛界を性具して居るのだから、その所具の佛また無常である、本門はかくの如く三身常住といふ、不変の実在体の上から、九界を摂するのであるから、九界も無始の佛界に具はり、佛界も無始の九界に具はりてまことの十界互具一念三千が成立するのである、この相違の点は大いに研究を要するところである、・・・斯の如く、相に約し体に約して具を論ずるゆえに、本門は、これを事具といふのである、約言すると、本門は、無始久遠の本仏を能具とし、無始の九界を所具とす、久遠実成、常住不滅の本仏は、功徳荘厳の事体なり、随って本仏の国土は常住にして、所具の九界の相亦た功徳化せらたる常住の事相なり、ゆえに本門の十界互具は、事的実在体に、事的現象の相の具を論じて体相ともに事的に常住なるを明かすに在り、・・・迹門は仏(性)は九界に潜在せる力(用)であるといふ返から「具」をいふのである。本門は、九界(種々の相)は、これ功徳化せられたる寿命長遠の仏界の妙(体)に顕現せる本有実相なりとして「具」をいふのである。此のゆえに本門でいへば、九界の衆生は、久遠実成せる本仏の娑婆世界に居ながら、『衆生は劫尽きて大火に焼かると見』とあって、迷いのために苦を感ずるのであるが、実はその九界の相のまま、仏界の体に即せるものぞといふのでる。】(1235~8頁)
と、「九界を具した仏界は、本無今有未免無常の仏でない、本時成道久遠本果の仏、即ち久遠実成、常住不滅の本仏で功徳荘厳の事的実在体である」旨を述べ、「十界互具・事の一念三千は、本時成道久遠本果の常住不滅の仏と云う功徳荘厳の事的実在体を置かなければ成立しない」と旨を語っています。
日蓮教学に取って、久遠本仏という実在仏を置くことが極めて重要であり必要であることが、田中智学居士の解説によっても、よく解ります。
『現代仏教』に於いて、山崎斉明師は、
【ところが、花野氏は、後述(三)「先師の教学」において、「日蓮聖人が図顕された本尊(大曼荼羅)は、決して空ではない。久遠の本仏・本法の当体であるから、それは実体である。本仏・本尊という実体を立てる」(二六五頁)と述べ、(五)「生命論」において、「天台大師の究極は本迹不二の法身(三諦円融の理)であるから、実体を立てないが、日蓮聖人の究極は本迹勝劣の本仏報身であるから、究極の実体を立てる。(中略)密教と同じように本尊という実体を立てる」と述べておられる。氏のいう「実体」の意味は「円融三諦とは異なった実体を立てる」「密教と同じように本尊という実体を立てる」というのであるから、花野氏のいう本尊義は実体論である。これは実に由々しい問題で本尊論以上の大問題である。なぜならば、円融三諦と異なる実体を肯定するということは、仏教思想の基本である空思想に反する。空思想に反するということは縁起の否定であり、空仮中思想の否定である。】(『花野充道氏の書評を読んで』101頁)
と論じて、花野博士の見解は「円融三諦と異なる実体を肯定」「空思想に反するということは縁起の否定」であると反論しています。
しかし、花野博士が「日蓮聖人が図顕された本尊(大曼荼羅)は、決して空ではない。久遠の本仏・本法の当体であるから、それは実体である。本仏・本尊という実体を立てる」と記している意味が、「大曼荼羅御本尊は、空無ではない実在者としての久遠本仏ならびに本仏所証の本法を表したものである。日蓮教学では、本仏・本尊を実在実体的であると観る」との文意であるならば、本化妙宗の高橋智経師が著書『本門本尊入門』に於いて、
【一、大曼陀羅の本体は、久遠本佛・本門の教主釈尊であります。「本尊抄」と同送状に、『寿量の佛』・『此の佛像』・『三佛の顔貌』と大曼陀羅の本体をあげられています。
この久遠の本佛は、三十二相・八十種好という一般大乗の諸佛の尊貴なお姿を超脱してしまわれた「出尊形の佛」であって、時間的に観れば三身常住・三世益物であり、空間的に観れば、法界同体・十方普遍の大宇宙と一体化した一大霊覚体であり一大生命体として常恒不変に存在しているものですから目に見ることが出来ません。
二、大曼陀羅の体性は、南無妙法蓮華経の題目であります。この体性の内容法体をばこの「本尊抄」では、『今、本時の娑婆世界は………己心三千具足三種の世間なり』といわれ、如来寿量品の本佛の大覚妙証に映じた三千世間、本佛の佛心にてらされました三千世間であり、本佛の一念三千であります。(中略)
三、大曼陀羅の形相は、久遠本佛の体性を八品の儀相によって示されたのです、ですから「本尊抄」に『其の本尊の体為』とあり虚空会八品の儀相をもって本尊の『体為』だとされました。体為とは体相であります。体相とは「本体の形相」の義です。
以上まとめてみますと、大曼陀羅本尊は、本佛・本法と体性とを形相にしたものであるということが解ります。】(76~7頁)
と論じている趣旨と、花野博士の「日蓮聖人が図顕された本尊(大曼荼羅)は、決して空ではない。久遠の本仏・本法の当体であるから、それは実体である。本仏・本尊という実体を立てる」との趣旨と同じでしょう。
もしも、山崎斉明師が「久遠本仏は実在的存在では無い。常住不滅の実在者と云うような久遠本仏を立てる者は、円融三諦や空思想、縁起に反する者だ」と主張しているのならば、それこそ日蓮教学を逸脱した見解です。

外道の因中有果説と同一視することは不可

『灌頂撰・観心論疏』に、
【「若し定んで一念の心に万法を具含する、是れ如来蔵と謂はば、即ち迦毘羅外道の因に先ず果有るの計に同ず。若し定んで心に萬法無く、之れを修して方に有りと謂はば、即ち?樓僧伽外道の因中に果無きの計に同ず。・・・所以に心に万法を具足する是れ如来蔵なりと聞いて、?の沙を盛るが如しと謂ひ、心に萬法無しと聞いて即ち兎角の如しと謂ふ。斯れ並に永く邪見に執するの人、何ぞ道を論ずき者ならんや」と。】( 觀心論疏卷第二 )
と有りますが、これは、如来蔵の教説を聞くと「袋に砂が入っているようなものだ」と単純に解釈したり、「外道の因中有果論だ」と短絡的に決めつけるのも両方とも邪見で有ると注意してある文と云えます。宗門先師の本覚観を、もしも「外道の因中有果論と同じだだ」と主張する人は、『観心論疏』の此の注意に触れる人で有ると云えます。

山崎斉明師は、『現代仏教』掲載において
【(花野氏の)前文には、「久遠の本仏・本法の当体であるから、それは実体である。本仏・本尊という実体を立てて、それに南無と帰命し」云々とある。この短い文の中に「本仏」「本法」「妙法蓮華経」「本門の本尊」「久遠の本仏」「本法の当体」と、日蓮教学の重要語句が列挙され熱っぽく畳み掛けられると、ただそれだけで読者は「花野氏のいうことは正しいのか?」とか「本尊という実体を立てるのは正しいのか?」と思う人が出てくるかもしれない。だが、花野氏のいう「本仏」「本法」「妙法蓮華経」「本門の本尊」「久遠の本仏」「本法の当体」「実体」という語は、天台妙楽の法華思想を踏まえた義ではなく日蓮聖人御遺文に背く意味で語られている。氏は「密教の曼荼羅本尊に親しく」と述べており、(五)「生命論(業論)」で「日蓮聖人は、密教と同じように本尊という実体を立てると述べている。つまり、これらの重要語句は、「日蓮聖人の教えが真言密教の義と甚だ近い」という意味で語られているのである。】(100頁)
と花野師の文章を解釈していますが、花野師の文章の文脈から解釈すると、前に述べたように、「花野師は『日蓮聖人は久遠の本仏を常住不滅の実在的な教導救済主と仰ぎ、本尊としている。密教が本尊の実体を実在的教導救済者と仰信しているのと形態的には同じだ』とを云わんとしている 」と解釈するの妥当でしょう。
山崎師の此の部分の酷評を見ると、「本尊・久遠釈尊を実体的実在の教導救済者として仰信する者は、外道の実体論者と同列であり、天台の空仮中三諦思想に反する者だ」と山崎師は主張しているように思えます。

天台大師は久成釈尊を常住不滅の実在と見る

久遠釈尊を実在的教導救済者と見ることが天台大師の思想に反しているかどうか検討します。
【『法華』は略して常を明かし、『涅槃』は広く常を明かす。・・・此の経は過去の久成を以て宗と為せば、点塵を以て界を数ふる文は則ち多し、未来の常住は其の文、則ち少なし。若し多に従ひて小を棄つるときは、頭破れて七分と作し、阿梨樹皮の如くならん】(法華文句巻第九下・昭和新纂580頁)
【経に、『久しく修業して得る所の寿命無数劫なり』と云ふは
神通延寿に非らざるなり。何となれば、仏は円因を修して初住に登る時、已に常寿を得たまへり。常寿は尽きがたし、已に上の数に倍す、況んや復、果をや。・・・譬へば、太子の時の祿も已に尽すべからず、況んや尊極に登りて祿用、寧ぞ尽すべけんやなるが如し。明文?に在り。】(法華文句巻第九下・昭和新纂602頁)
【『常在霊鷲山』とは、此れ実報土を謂ふなり。】(法華文句巻第十上・昭和新纂615頁)
等の文から窺えば、天台大師は「久成釈尊を未来常住不滅の仏で有ることを否定する者は、頭破れて七分と作し、阿梨樹皮の如くなるであろう」「(久成釈尊は)常寿を得たまへり。常寿は尽きがたし」と断言し、「霊鷲山すなわち実報土に常在している」としています。河村孝照著『天台学辞典』によれば、「報身仏は滅する終わりのない広大の身、仏の真実身である。殊勝なる相好を具えており、その仏の所居を実報土といい、」と説明していますが、「久成釈尊は、霊鷲山すなわち実報土に常在している」と説明している天台大師は久成釈尊を実在仏であるとしていたことが確かです。
『大般涅槃経』にも、
【仏は是れ常法、不変易法なり。】(長寿品第四・昭和新纂69頁)【善男子、汝今、如来何れの処に住し、何れの処に行じ、何れの処に見、何れの処に楽しむと思うべからず。善男子是の如きの義、汝等が知り及ぶ所に非ず。・・・善男子、如来も亦爾かなり。其の性常住、是れ不変異なり。智慧眼無ければ見るを得る能わず。彼の闇中に樹影を見ざるが如し。凡夫の人、仏の滅後に於いて、説きて「如来は是れ無常法なり」と言ふも亦復是の如し。】(長寿品第四・昭和新纂72頁)」
【善男子、譬へば男女灯を然すの時、灯器の大小悉く中に油を満つ。油在ること有るに従ひて其の明かり猶を存す。若し油尽き已らば、明かりも亦倶に尽くるが如し。其の明かり滅するは煩悩滅を譬へ、明かり滅尽すと雖も灯器猶を存す。如来も亦爾かなり。煩悩滅すと雖も法身常存す。】(四相品第七之上・103頁)
【我今、諸の声聞の弟子の為めに?伽羅論を説き、如来常存無有変易と謂ふ。若し人有りて如来無常と言はば、云何ぞ是の人、舌堕落せざらん】(四相品第七之下・107頁)
【復次に善男子、譬へば金師の好真金を得、意に随って種々の諸器を造作するが如し。如来も亦爾かなり。二十五有に於いて悉く能く種々の色身を示現す。衆生を化し、生死を抜かんが為めの故なり。是の故に如来を無辺身と名づく。復種々の諸身を示すと雖も、亦常住にして変易有ること無しと名づく。】(菩薩品第十六・232頁)
等と、釈尊の常存・不変易であること、すなわち実体的実在である事を説いています。
山崎師に云わせると「天台大師も涅槃経も、空思想に反するものだ、外道の実体論者と同列であり、天台の空仮中三諦思想に反するものだ」と言う事になるようです。

空について

武邑尚邦著『仏教思想辞典』に於いて、空について次のように平易に解説しています。
【ところが、存在の実相を空と示す場合は、これらとはちがって、空とは存在をそのままことらえ、無自性空のままで縁起として有であり、縁起として有でありながら、そのままで空無自性であるというように、存在の実相を空とおさえる場合である。空が諸法の実相であるといわれるのは、この場合である。といって、この空はまったくとらわれのない心のうえに、存在の実相が現われるということではない。ここでは、諸法(=諸存在)がそのままで空であるということである。すなわち、諸法は本来空であるというのである。このように空ということは、主観的には辺見(かたよった考えかた)を捨てさせるために説かれ、客観的には諸法のあるがままを受容してゆく点でいわれる。その意味で、空とは単に存在の無をいうので
はない。諸法実相が空であるというのは、存在は単独者や自存者でなく、常に関係において存在者たりうるということをいうのである。・・・ 空は単なる有でも無でもない。しかし、有でも無でもあるものなのである。いっさいの存在は本来空であるということは、どのようなものでも、それはそのものとして単独者ではなく、それが存在であるのは、お互いの関係においてのみ存在者でありうるというのである。このような存在のすがたが縁起といわれる。そこで空のままで縁起の有であり、縁起の有でありながら、そのまま空であるといわれるわけである。・・・すなわち、私は私自身としていつでも空である。ところが、この空である私が空である他人と関係の中にあらわれる時、私は私として、他人は他人として、お互いに存在者となりうるのである。これを空のまま有、有のままで空というのである。このような点て、空ということばは仏教の根本立場を示すものである。】(156頁)
武邑尚邦教授の以上の解説によっても、空思想は実在的存在は無いと見る思想で無いことが解ります。「久遠釈尊と云う実在的教導救済者が居る」と云う見解に対して、短絡的に「空思想に反する」と主張することこそ空思想に反すると云えます。
『法華玄義巻第七』に、
【本因妙とは、経に云はく、「我本菩薩の道を行ずる時、成ずる所の寿命」とは、慧命は即ち本時の智妙なり。我本行とは、行は是れ進趣にして、即ち本行妙なり。菩薩道時は是れ因人なれば、復位妙を顕す。・・・本果円満して久しく昔に在り、今の迹成に非ず。】(昭和新纂359頁)
とあるように、境妙に適った智妙により修業し、本果円満して常住不滅の実在的教導救済主と為ったわけです。すなわち智妙と行足の縁として仏果と云う果を得たのだから、縁起の法に則っているのです。武邑尚邦教授の解説に随って表現すれば「空のままで縁起の有であり、縁起の有でありながら、そのまま空であるといわれるわけである。」と云うことになります。だから 「久遠釈尊と云う実在的教導救済者が居ると云う見解」は、空思想に反するものではありません。

円融三諦思想とは

次に、常住不滅の釈尊の実在は天台の円融三諦思想と反するものでないことを検討します。先ず、円融三諦思想の正しい意味合いを把握してもらうために、福田堯穎著『天台学概論』に在る円融三諦の解説を長文ですが紹介します
【先づ空諦とは、吾人凡夫は一切萬法に對して自己の主観的認識に依り、此れは堅い此れは柔い、此れは美である、彼れは醜である等と、種々に其の物の自性差別を認めるけれども、若しも吾人が自己の主観的の認識尺度を毫も用ひず、客観の事物其のままを如実に観察したならば、果して如何であろうか。
例せば吾人は石は堅い物、豆腐は柔い物として居るが、之は吾人が自己自身の指頭の触感を、在来の経験に基いて判断した丈けの事で、若しも吾人の指頭が金剛石の如く堅かったならば、石も柔い物と感ずるであろうし、又もし指頭が豆腐よりも幾層か柔いものであったならば、豆腐も堅い物と感ぜられるであろう。斯くの如きは少しく極端な仮定と思はれるかも知れないが、併し、人々個々について、その鍛錬の如何に依って、甲乙の認め感ずる所が同一物に對して必ずしも同じで無い事は、吾人の日常恒に見聞する所であろう。又甲に價値ある物も乙には無用の長物である揚合があり、人間に黄金は貴くとも、犬猫の世界には一切れのパンにも値しないと云ふ如く、人間の認める物の價値は、相對的相関的のものであって、何も物の自性では無い。其の他一切の事物は皆斯の如きもので、少しも自己の主観的認識を加へず、外界に存在する其の儘を観察すれば、一切諸法は一として、限定せられたる本性を持って居るものは無く、悉く無自性である。同一無自性なるが故に、一切諸法は一相平等であって、不平等なるものは一微塵も存在しない。かく他に不平等なものが絶待に無いとすれば、隨って一相平等と云ふ事も立ち難いのである。実を究めて言へば、宇宙萬物の真実相は絶待無相であり、此の絶待無相なる所を強ひて名づけて空諦と云ったものである。
次に仮諦を説明すれば、前述の如く一切諸法は、吾人凡夫の情量を以て認めるが如き限定せられたる個性の存する者では無く、本来無自性なるが故に、能く其の時と場合との周囲の事情に順応して自在に変化し、種々無量の形貌を現はす事が出来る。譬へば水には水の自性が無い故、気候の変化に依って雨ともなり、雪ともなり、或は叉熱を加へれば湯とも蒸気ともなるが如くである。
斯くの如く總べて隨縁の諸法は、千差萬別各々、異なる姿を現して居る處を仮諦と名付けるのである。換言すれば、仮諦は真空の上に現れたる妙有であり、宇宙萬有は本来無自性であるから、千変萬化種々無窮の活動を無始無終に続けて居る、此處を仮諦と云ふ。
次に中諦とは、一切の諸法は無自性の空諦であるから隨縁差別の仮諦の活動が起るのであり、又仮諦差別の当處其の儘が、本来無自性の空諦であって、空即仮、仮即空で、元来空と仮とは不二一体のものであり、二者相待的のもので無い所が、所謂絶待の中道である。要するに空と仮との両面を統一して居るのが中諦なるものである。上述の如く現象界の萬法も一々三諦圓融ならざるは無い。故に宋朝四明尊者は観音玄義記に、隨縁の諸法が總べて三諦なる事を述べて、
「其の千法、皆な因縁生なるを以ての故に、趣に一を挙ぐるに性相得難し、故に空なり、縁起宛然の故に仮なり、性待對を絶するが故に中なり、一法既に然り、千法皆な爾なり」と、
故に如何なる微物と雖も、苟くも法の存するものあらば、仮令それが色法であろうと、心法であろうと、必らず法爾として三諦を具するものである故、決して三を引き離し得可きもので無い。かく一塵一香の当處に三諦圓融する事を、一境三諦と云ふ。・・・
最後に更らに、真如実相が三諦なる故、真如実相の隨縁により現れたる現象界の萬法一々が、三諦なる道理を譬へて云って見るならば、今、黄金を以て一匹の獅子を造ったと仮定すると、黄金は三諦圓融する真如実相に比す可く、獅子は隨縁の萬法に較ぶ可く、此の獅子の五体は何れを押しても皆黄金であり、乃至一筋一筋の毛に至るまで悉く黄金ならざるは無い。此れ本体が三諦(黄金)であれば、隨縁の諸法も叉必ず三諦である事の道理を表明して居ると思ふ。・・
前節の三諦実相論の下で述べた如く、本体界の真如実相も現象界の森羅萬象も、皆悉く同一空仮中である。同一空仮中なるが故に一切萬法は互に融け合ひ具し合ひ、圓融無礙である。この法々圓融無礙なるを表現したものが、三千圓融の教理である。・・・
而して、この十界悉く即空即仮即中の三諦実相である故、十界互に通渉して、十界各々他の九界を具して居る故に、
六祖荊渓大師は
「阿鼻の依正は全く極聖之自心に処し、毘盧之身土は凡下之一念を逾えず」と云って居られる。
故にもし向上解脱の過程に約して云へば、地獄の衆生も、一念善心発起して漸次修証し、向上解脱の道があるのは、元来善心を本具して居るが為めである。又向下堕落の返から云へば、人間、天上と雖も、貪瞋痴の三毒熾盛なれば、妄業を造作して、地獄餓鬼に堕する事あるは、由来、性悪を本具して居るが故であるとする。】(214~8頁抄出)
福田堯穎大僧正のこの説明によれば、「現象界の森羅萬象も、皆悉く同一空仮中すなわち円融三諦である。同一空仮中なるが故に一切萬法は互に融け合ひ具し合ひ、圓融無礙であり、その円融無礙を、さらに語って居るのが三千圓融の教理すなわち十界互具一念三千の教理である」と云う事です。
円融三諦・十界互具だから、行業云何で仏にもなれば地獄の衆生にもなると云う教理が成り立つのです。
天台の円融三諦・十界互具の教理から云えば、釈尊が常住不滅の実在的教導救済主としての仏果を成ぜられたのも、「円融三諦・十界互具が実相で有ればこそ」と云う事です。
だから、もしも、「釈尊を常住不滅の実在的教導救済主とするのは天台の空仮中三諦思想に反する」と主張するのであれば、脱線見解と云わざるを得ません。

性徳修徳と本覚

天台教学の泰斗と讃えられた福田堯穎師の『天台教学概論』に、三因仏性を修性不二に絡めて説明しています。
【修徳ちは吾人の心性に本来具して居る本有の理である。(此の心性本具の理は空仮中三諦、理具三千、真如、仏性、中道、如来蔵等名付けらるるものである)而して修徳とは転迷開悟の修業であって、之れに智と行との二がある。・・・修性一如、修性不二と云って、修と性とは本来融即して一体不二なるものとして説くのが円教の所談である。
即ち修徳修徳を修二性一に分かち、修の二(智行)を能顕とし、性の一(理)を所顕とするな別教と同一であるが、併し円教では此の能顕の修徳と所顕の性徳とは一体不二であって、本来相即円融すると説く。何んとなれば別教に於ては、性徳の理、即ち佛性は其の体霊妙であるが、極めて超越的のものにして、九界の諸法とは全然没交渉である故に、吾人の日常生活とは少しも関係交渉をもたぬものであった。故に別教所談の性徳は吾人に転迷開悟の修徳を発起せしめる事は出来ず、修徳は性徳の外に新らたに発起し薫修するものであるとなすのである。
然るに円教では吾人本具の性徳の理に、本来三千の事用を具して居って、此の性徳の三千が外に現れたものが、吾人凡夫の日常生活の総てであると説くのであるから、今日吾人が転迷開悟の為めに薫練する所の修徳の智と行とは、全く性徳の理から顕れ出たものである。斯くの如く本有性徳の理を全うして修徳の智行を起すを全性起修と云ひ、又性徳を全うして起した修徳であるから、修徳智行の全体は本来是れ性徳の理である事を、全修在性と云ふ。
又円教所談の性徳修徳の関係は、恰も燈火と燈光との関係の如く、燈火(性徳)は常に燈光(修徳)を放ち、燈光は却って燈火の体を見せておるが如しである。以上は修二性一の法相に約して、修と性との二徳が相即圓融する事を述べたのであるが、・・・而してこの道理を三因佛性、三徳涅槃の語に置き換へて見るならば、正、了、縁の三種は体別にあらずして、ただ是れ一法性の徳用の義説であり、正は了、縁を具し、了は正、縁を具し、縁は正、了を具し、三種相融相具して居るのみならず、又性中の三は恒に作用を発し、智、行の修作是れ性の顕はれに外ならず、故に性徳の本理は全体修徳の中にあり、修徳の智行は恒に性徳の内に具し、修性一如にして、而も所顕となる辺を性と云ひ、能顕となる辺を修と云ふ。故にその修は性具無作の妙行である。】(231~35頁抄出)
と、「円教では、修徳の智と行とは、全く性徳の理から顕れ出たものであって、修徳智行の全体は本来是れ性徳の理である。性徳修徳の関係は、恰も燈火と燈光との関係の如く、燈火(性徳)は常に燈光(修徳)を放ち、燈光は却って燈火の体を見るような関係にある。智・行の修作は性としての了・縁仏性の顕れである。修性一如だから、修によって顕れる面を性と云い、顕す働きを修と云うのであるが、その修も、もともと具しているものである」旨を語って居ます。
修性不二の思想を素地にして論理を進め、因行に由って顕した仏果と仏性とは同等だから、所具の仏性を本覚と表現するようになったと云う推論も成り立ちます。

円教思想と本覚

また、花野博士の「日本の天台本覚思想は、円頓章に説かれる円教理論と円頓止観がきわまって成立する云々」との論述を、山崎師は否定して、「摩訶止観円頓章に凡夫即仏の義はない」と断言していますが、福田堯穎師の所説を見ると、花野博士の推測は充分可能性があるようです。その理由は福田堯穎師が次のように論じているからです。
【第一項 修徳と性徳。
吾人が現に生存しつゝある此の世界は、之を本体上から(理具三千論)論究しても、叉之を現象上から(事造三千)観察しても、畢竟する處、三千圓融する一大真如界であって、吾人は無始より此方、此の一大真如界中に生活しつつあるのである。・・・故に吾人が認めて生老病死の苦しみとなし、貪欲瞋恚等の悩みとなして居るものは、実は隨縁真如(事造三千)が千態萬状の活動をなす其の活動の片鱗の現れである。故に法華経の方便品には「是法住法位世間相常住」と説き、
叉摩詞止観の序にある有名なる円頓章は
「陰入皆如なれば苦として捨つべき無く、無明塵労即ち是れ菩提なれば集の断ずべき無く、辺邪皆中正なれば道の修すべき無く、生死即涅槃なれば滅の証すべき無し、苦無く集無し、故に世間無し、道無く滅無し故に出世間無し。一純実相にして、実相の外更に別の法無し」
と喝破して居る。慧澄和尚の止観講義には此れに註して、「陰入の下より滅の証す可きものなしまでは、理に十界(三千)を具すれば迷悟修証の論ず可き事無きを以て、無作の四諦を明す。苦なく集なくより下、別法無しまでは、唯だ法の本有に住するを以て圓頓の行を結す」と言はる。
斯くの如く、三千圓融の教理に依れば迷悟不二であって、別に棄つ可き生死煩悩無く、生佛一如であるから別に顕はす可き佛界も無い道理である。併し乍ら、道理上かくの如く生死も無く煩悩も無い筈なるに関わらず、何故に吾人は、現に生死の果報を感じ、日夜に煩悩を起し、迷ひ苦しんで居るのであろうか。
蓋し此處に所謂、法の手前より論ずる場合と、人の手前より論ずる場合との、二つの別ある事を知らなければならぬ。もし法の手前に於て見る時は、挙げて是れ三千実相の隨縁以外のもので無い。吾人の三毒煩悩も実に隨縁の用を出でぬ。かく法体論よりすれば迷悟倶に真如縁起の法なる故、その間に取捨選択の論ず可きものが無いとする。かゝる立場を、性徳の上からの論と云ふ。然るに、もし人の手前、即ち吾人の現実に立脚する修門論からすれば、吾人は現に迷って居る。迷へるが故に真と妄とを隔てて之を而二と見て居る。而二に見て居るのは迷であるから、吾人は圓頓止観の修行に依って真妄を而二と見て居る迷を離れて、真妄不二の理を悟って本有の妙理に称はなければならぬとする。此處に翻迷開悟が必要となり、断惑証理か論ぜられる。かゝる立場を修徳の上からの論と云ふ。
 性徳ー法体(法の手前)ー情智迷悟の不同なし
 修徳修門(人の手前)情智迷悟の不同あり
斯く法の手前では迷も悟も本有なる事を妨げず、何んとなれば、迷も悟も倶に三千実相の徳用であって、吾人の本性に本来法爾として具すと云ふ。】(227~29頁)
この論説を読むと、「円頓章」の思想には、迷悟不二・迷悟本有とする三千圓融の教理が説かれていることが解ります。
「迷悟倶に、吾人の本性に本来法爾として具す」と云う考えが「円頓章」から演繹されることが解ります。
そして「迷悟倶に、吾人の本性に本来法爾として具す」とい云う考えを、さらに進めれば「吾人は悟を本来法爾として具す」と云う如来蔵・本覚の概念が生じ得るでしょう。ですから、花野博士の「日本の天台本覚思想は、円頓章に説かれる円教理論と円頓止観がきわまって成立する」との推論を、山崎師ように頭から否定するのは「円頓章」思想の不理解があるからでしょう。

円教教理も相即門は衆生即仏

『法華文句記ー不軽品』に
「若し衆生に具に因果の性有りと云うは、則ち五仏性は皆衆生に在って一切処に遍す。但因に住するの日は果の性を因と名づけ果に在るの時は因を攬って果と名づく。名は互いに得ると雖も其の法は恒に如なり。」(天全2501頁)
と、「因とての五仏性と果としての五仏性とは同じであるから、『衆生に具に因果の性有り』と云うのである」との旨を語って居ます。
「因果の性有り」の「果」を強く打ち出せば、如来蔵・本覚の理念に進むでしょう。
故に『証真私記』には「若し分別門は迷悟差別す。衆生は但だ因性有り、仏界は則ち果性有り。若し相即門は迷悟一如にして、衆生即仏なり、故に衆生に於いて亦た果徳を具す」(天全2502頁)と注記しています。相即門(福田師の表現では「法の手前から云えば」)からは、「衆生即仏であり衆生は果徳を具す」と証真も云っています。「果徳を具す」とは、如来蔵・本覚に通じます。
証真は教相を重視した学匠として、また本覚思想を批判した人として知られていますが、その著『天台真言二宗同異章』には、「本来自覚仏が肯定的に捉えられている箇所が見られる」と三浦和浩氏が『印度学仏教学研究Vol/55』発表論文で、次のように指摘しています。
【「問ふ。真言教に云く、法界宮中の本来自覚の大日如来、本覚法身は因果を遠離す。天台の云く。久遠実成修因得果と。寧ぞ是れ同なるや。答ふ。若し事に約して論ぜば、真言も亦た修因得果と云ふ。故に金剛頂経に云く。
久しからずして頓成すと。大日経に云く。我れ昔し道場に坐すと。義釈に云く。大日昔誓願して漸次に悟入す等。若し理に約して論ぜば、天台も亦云く、無始無終等と云云」(天台真言二宗同異章・大正74-422頁下)
ここでは、真言宗の本来自覚の本覚法身たる大日如来と、天台宗の修因得果の久遠実成の仏とは同じではないという問いが設定されているが、それに対して、まず『大日経』の「我昔道場に坐す」の文や『金剛頂経疏』・『大日経義釈』を引いて、事に約した場合は、毘廬遮那仏といえども、むしろそれを修因得果の仏(報身)として捉える証真の立場を明らかにしている。・・・しかし、その一方で、理に約して論ずるならば、天台大師もまた「無始無終」(法身)を顕すことに言及するのだとして、部分的ではあるが「本来自覚仏」を肯定的に捉えている。・・・
例えば『法華玄義私記』には、
「既に衆生心の体を指して名づけて本覚と為す。別に仏有に非らず。又本覚に依りて不覚有るが故に。是れ在纏なり」(仏全21-286頁下)
と述べ、また、
「若し性徳を本覚と名づくれば。別教にも尚ほ。本有の仏性を明かす。」(仏全21ー287頁上)
とも述べて、衆生心の体である「本覚」は、いわゆる「仏性」のことであり、これは別教で既に明かされるところのものであることを示している。
このことについては、『同異章』(「行同の難を遮す」)においても、証真の見解がうかがえる箇所がある。
「問ふ。真言行者は心の月輪・八葉白蓮を観じ、炳らかに種子・三摩耶の尊形を現じ、本尊等と為る。行者即ち本尊身等と成る。此等の深観は天台は都て之れ無し。云何。答ふ。此も亦た向の有相方便の如し。心に形色無し。豈に胸に実に月輪・華等有らんや。但だ是れ心性本浄なり。故に浄月の理性萬徳本来具足するに類す。故に満月と為す。本覚の仏性は煩悩の為に染汚せられず。故に白蓮と為し、亦た肉心の八葉に寄す。故に亦た八葉と云ふ。性徳に於いて修徳を起すに従うが故に、種子変じて仏と為る等と云うことを得。顕教には直ちに理具を説くのみ。」(大正七四-四二一頁中)
ここでは、「月輪」や「八葉白蓮」は三密行と同様に有相方便であり、実には「本覚の仏性」のあることを述べ、その性徳において修徳を起こすに従って、種子変じて仏となるのだと答えている。これによれば、「本覚の仏性」はあくまでも衆生に内在する性徳であって、それを「変じて仏となる」ためには修徳を起こさねばならないという成仏論を展開しており、これは『法華玄義私記』と同じ理解であることが分かる。
では、この文の最後に「顕教には直に理具を説くのみ」と説かれているのは何を意味するのであろうか。この文脈から、これは必ずしも「性徳の仏性」を指すものではなく、むしろ天台においても「月輪」や「八葉白蓮」が約理の立場においては心に具される、ということを示していると理解すべきではなかろうか。すなわち、円密一致の立場から仏身論において約理の法身を正意としたのと同様に、証真はこの本覚仏性に関しても、約理の立場(=天台でも月輪などを心に具すこと)を採用することで、真言の事相との同一性を証明せんとしているのである。・・・約理の強調が、理の側面から「本覚」の肯定につながりやすいという方向性を示しており、その意味で、『同異章』における証真の「本覚」理解は、理としての本覚を決して潜在的な意味でなく、むしろ「宗の正意」として積極的にのべたものであったと言えるだろう。】
以上、長文の引用ですが、証真は、衆生に内在する性徳(本覚の仏性)は修徳によって「変じて仏となる」としていますが、約理の立場(相即門・福田師の表現では「法の手前」から云えばとの意味)から、「浄月の理性萬徳本来具足しているから満月に譬え、本覚の仏性は煩悩の為に染汚されないので白蓮或いは肉心の八葉と表現される」旨を述べています。証真がかく述べている事実をもっても、円教思想には本覚の理念の素地が在ると云えます。もしも、円頓章即ち円教理論と本覚の理念とが相反するものであったら、証真は「相即門は迷悟一如にして、衆生即仏なり、故に衆生に於いて亦た果徳を具す」(天全2502頁)などと述べなかったでしょう。

山崎師はに於いて、
【このような凡仏一元論は、霊断師会の斉藤朋久や村田征昭師と全く同じで、修徳法門の考察が完全に欠如している】云々と書いてあります。私は、凡夫と仏とは迷悟の差別は現に有るが、十界互具から云えば本質的には平等であるとか、仏の証悟から見れば(釈尊の視点に立てば)、いわゆる「故に荊溪の云く。三千果成ずれば咸く常樂と稱す。又云く、一佛成道すれば法界は此の佛の依正に非らざるは無し」(知禮述觀音玄義記・大正34)や「一仏成道観見法界草木国土悉皆成仏」との意味から、全体が仏の世界である旨を述べましたが、修徳無用などと論じた記憶は有りません。
山崎師は相手の論述を理解出来ないのか、或いは、わざと相手の見解を歪曲化して紹介し、批判を加えて、自らを正とする傾向があるようです。

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