法華題目和談絵抄巻上

妙法二字の事。

それ妙法の二字を天台大師、玄義
(げんぎ)に理(こと)わりて曰(のたま)わく。
「言う所の妙とは、不可思議に名づくるなり。言う所の法とは、十界十如、権実の法なり」
と云へり。

この理
(ことわ)りの心は、妙と申すは不可思議と申すことなり。不可思議と申すは不可思、不可議と云うことなり。

不可思と申すは、心を以ても思案工夫ならざること。
不可議と申すは、言辞(ことば)を以ても言われぬ事なり。

此の注
(ちう)をさして、言語道断、心行所滅と申すなり。言語同断と、言語の二字ともに言辞(ことば)とよむ字なり。

道断の二字は道断(みちたゆ)ると読むなり。道筋のある程は、いかほども行くものなれども、道の末になりて、底ふかく幅広き河などあれば、其の道絶えて往かれざるものなり。
その如く妙法の重は言辞
(ことば)にのせて中々申し尽くし難し。言辞の道も絶え果てたるところを言語道断と名づけたり。

さて、
心行所滅の二字は、滅する所と読むなり。心に思案工夫することも、随分なるほどはする者なれども、妙の重をば、いかなる智者上人も尽くして思案工夫にのらざる故に、心も滅し果て、絶え果ててならざる所を心行所滅と申すなり。

十界十如具足の事。

その言語同断、心行所滅の妙の体
(たい)と申すは、何ものなりや。
これ則ち十界、十如、権実の法なちとあり。
十界と申すは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏界。これを十界と名づくるなり。

この十界の一界一界毎
(ごと)に相、性、体、力、作、因、縁、果、報、等と申し、十如を具足す。

是の法門は法華一乗に限りて、四十余年の経々にこれなし。

かるが故に宗祖大士も、
『当体義抄(とうたいぎしょう)
「問う、妙法蓮華経の体、なにものぞや。答へて曰(いわ)く、十界の依正、則ち妙法蓮華経の当体なり」
といへり。また
「法華経はいかなる体ぞや。答へていわく、諸法実相を体とす」とも判じ玉へり。

(たの)もしきかれ。我も人も、此の妙法を信ぜば、人界の苦は、とりもなおさず仏界に到ると御心(みこころ)にのせさせたもうべし。

権実の事。

一、権実(ごんじつ)と申すは、権はかりとも読むべし。実はまことと読む字なり。
心は十界の中に、地獄界より菩薩界までの九法界は、暫く仮にあるものにして、遂に一度は第十番めの仏界は元品の無明、煩悩の大根を切り尽くし給へり。
況や見思塵沙の無量無辺の煩悩を断じ、逆妄の根を枯らしたまえり。

さてまた、智徳を備えたまへることは、一切の智慧といふ。智慧を尽くして得たまはずといふことなし。
故に一切極まりて転倒なく、常住不滅の所なるゆへに、第十番めの仏界を指して、実と名付けたり。
実は真実まことと申すことなり。

此の十界十如権実の法が、則ち妙不思議の法ぞといふ心をもって、妙法とは申すなり。

さて十界十如権実の法が、妙不思議と云わるる謂
(い)われは、十界互具と申すことあり。
互具の二字は互いにそなふると読む字なり。
十界の一界一界毎
(ごと)に、また互いに余の十界を倶(そな)へもつことなり。
地獄界にも余の九界を備えもち、第十番めの仏界にも、余の九界をそなへもちて、十界の一界一界毎
(ごと)に、咸(み)な余の九界を倶(そな)へ持ちたるを十界互倶と申すなり。

人間界に十界ある事。

一、其の中に、人間界に十界を備え持ちたる事を申せば、先ず腹を立つるは、我が心法に本来本有として、倶
(そな)へ持ちたる地獄界の外へ現れ出でたるものなり。

財宝などを人に勝れてほしがり、貪欲の念の起こるは内心具足の餓鬼界、外へ萌(きざ)し出でたるものなり。

物の理非を弁えず、善悪を知らず、愚癡なるは、内心具足の畜生界、
現れたるものなり。

邪智諂曲
(じゃちてんごく)の心、発(おこ)り、瞋恚強盛(しんにごうじょう)の腹悪(はらあ)しきは、心法に倶(そな)へ持ちたる修羅界、現れたるものなり。

かの四つの心、発
(おこ)らざる平らかに応容(おうよう)なる心は、もとより内心具足の人間界、現れたるものなり。

喜びの心あるは、内心具足の天上界現れたるものなり。

諸法常になく、みな有為転変
(ういてんぺん)の無常ぞと合点し、無常の心おこるは、心法に倶(そな)へ持ちた声聞縁覚の二乗界、現れ出でたるものなり。

妻子を育
(はぐく)み従類(じゅうるい)を憐(あわ)れみ、一切に慈悲心あるは、内心具足の菩薩界仏界現れ出でたるものなり。

人来たりて打つとも切るとも腹立てじ。木の中に花の種なくんば、春の陽気来るとも咲かじ。燧
(ひうち)の中に元より火の因(たね)を具え持(も)たずんば、石来たりて打つとも火出(いで)じ。
水に氷るべき道理なからまじかば、寒さ来るとも氷らじ。
火は氷るべき道理なき故に寒さ来たりても氷らず。

実に知んぬ。本来、我が一心の中に十界となるべき道理ある故に、現れ出(い)づるとなり。

人間界既に此の如し。余の九界の 一界一界毎
(ごと)に、また十界を倶(そな)へもちたる事も、是れに比べて知(しろ)しめすべし。

十界に十界互倶する事。


一、さて十界の一界一界毎
(ごと)に、少しも数の増減もなく、みな十界を倶(そな)へもちたる道理はいかん。
十界の根本の性は二つも無く、一法性なる故に、数の増減も無く、十界の一界一界に、また十界を倶(そな)へたり。

此の十界の性を名づけて一法性とも、一理の性とも名づけてり。
万法広しと雖
(いえ)ども唯一つの法性の性を離れて別に性なく、万法の元来、根本の性は二つは無く、唯(ただ)一つの法性をもって、性とするものなり。

雨風雪霜・虫・木艸
(きがや)石瓦(いしかわら)に到るまで、心法一つ持ちたる物の事は云うに足らず、塵芥(ちりあくた)まで根本の性は、そつとも変わりなく、二つと無く、唯一つの性を以て性とする故に、その性より出来(いでき)たりたる十界なれば、内心に十界を倶(そな)へもつこと、また、そつとも変わりなく、十界の一界一界毎(ごと)に十界を倶(そな)へたり。

万法一法性の事。

一、さて其の万法を倶
(そな)へもちたる十界の根本の性たる法性の性は、万法を面々格々差別して倶(そな)へ持てりやと申すに、左には非ず、本来万法を、ただ平等(いちまい)にとかし融(ゆう)して、そつとも差別なし。

大海の水に、天竺震旦、我が朝の川の水、流れ入って、ただ平等にうち混じて、一つの潮
(うしお)の味わいとなりたるが如し。

万法の根本の性たる一法性は万法うつ混じたる性にして、そつとも面々格々差別なし。

水晶の玉に火の性、水の性あれども、玉のうちにして、水の性と火の性と面々格々に差別して、眼に見えて有るものに非ず。
玉の性のところは、水の性と火の性と、玉一ぱいに融して、水の性ながら則ち火の性、火の性ながら則ち水の性なり。

一法性の所もまた斯
(かく)の如し。万法は平等(いちまい)にして、そつとも差別なし。その十界の万法うち混じて、融通融即の一法性、則ちそのまま、我と出来(いできた)りたるが故に、また我等心法に倶(そな)へたる、十界の万法も、そつとも面々各々なる差別なく、唯平等(いちまい)に融して、心法に 倶(そな)へもちたり。

(たで)からし菜は辛(から)き性より出来(いできた)る故に辛(から)し。梅干しは酸(す)き性より出来(いできた)る故に酸(す)し。

雉子
(きじ)の卵(かいご)を潰(つぶ)して、戸板(といた)の上より流すに、鷹(たか)の鈴を鳴らせば、忽(たちま)ちに流れ止(とど)まるものぞと云へり。余の鳥も鷹には懼(おそる)るなれども、とりわけ雉子(きじ)は鷹におそるる物なるゆえか。
(おそ)るる性より出来(いできた)りたる卵(かいご)なれば、何心なき卵さえ斯(かく)の如し。

虎膽
(こたん)というは虎の膽(きも)なり。香炉に火をいけ、中に竹を立てて、此の虎膽を焚(た)くに、その煙、竹を巻いて昇るると云へり。虎は竹をすき好む性あり。其の性より出来(いできた)りたる膽(きも)なれば、干乾(ひから)びても、斯(かく)の如し。

万法の根本の性は、十界の万法をうち混じて、差別なき性なる故に、我等が身も心もその性を、すぐに其の儘
(まま)我が身と心になす故に、我が心に倶へたる十界に、またうち混じて、そつとも差別なし。

仏と凡夫差別の事。

十界みな、唯一つの法性より出来
(いできた)らば、少しも劣り勝れあるまじき。何ぞ迷いの凡夫、悟りの仏あるや如何(いかん)
これ皆外
(ほか)の縁に因るものなり。

彼の一法性は万法円備の大徳と申して、一切の法を収めたれば、悟りの性もあり、迷いの性もあり。而も迷いの性と悟りの性と、うち
混じて差別なし。

水晶の玉の中に水の性と火の性とあれども、水火の差別無く、ただ玉一ぱいに混じて有るがごとし。

迷悟の性うち混じて有りながら、然
(しか)も外(ほか)の縁にああうとき、種々様々の形姿、憂喜苦楽等の不同、現わるるものなり。

かるが故に、修行などのよき縁にあへば、迷悟混じて差別無き彼の性のところより、悟りの性現れて仏となり、妄想転倒などの悪しき縁にあへば、迷いの性、現れて凡夫となるなり。

水火の性玉一ぱいにうち混じて差別無しろいへども、月天子の縁にあへば、水を出し、日天子の縁にあへば、火を出すがごとし。
法性はただ一つなれども、外の縁に依って外へ出でては明
(あきら)にと、迷い悟りの違いあり。

悟りと迷いの事。

もし然らば、外へ現れては、既に迷ひと凝
(こ)りかたまり、悟りと凝(こ)りかたまれる故に、迷いははいつまでも迷い、悟りはいつまでも悟りたるべしや。

水火の性、玉の中にしては、うち混じて差別なしといえども、既に日月の縁に依って外へ現れ出でては、水と火と明らかに差別して、水はいつまでも水にして、火とならず。火はいつまでも火にして水とならざるが如くなるべしや、如何
(いかん)

答えて曰
(いわ)く、大河の水、流れ入りて、唯ひとつの塩の味わいとなりて、加茂川の水、河野川の水などと云ふて、大川(おおかわ)の中にして、汲み分けて、とり出すべきよう更(さら)になし。

然れども、風の縁に依るといえども、共に其の体、別のものに非ず。
ただ一つの海の水なり。ただ濁り水の、風の縁止みぬれば、その儘
(まま)澄み水となり、濁り水離れて別に澄み水なし。澄み水則ち濁り水、濁り水則ち澄み水なり。

また妄想の縁に従りて迷悟差別なき一法性より、凡夫と現るるとき、元来
(もとより)迷悟差別なき、一たいの性なれば、悟りの性とて、跡に残し置くべき道理無く、迷いの性とうち連れそうて立つが如し。

(ただ)妄想顛倒の風止みぬれば、我が身、我が心そのまま悟りの仏となる。凡夫を離れて別に仏なし。濁り水の外に澄み水無きが如し。何ぞ迷いはいつまでも迷い、悟りはいつまでも悟りと凝(こ)り塊(かたま)りて各別なるべきや。

修徳顕現の事。

不審
(ふしん)して曰(いわ)く、それ法性は善悪をはなれず、常住なるものなり。此の法性に因縁、仮に和合して、凡夫と謂(いつ)しものなり。其の法性の玉をみがき現わすを仏と云い、迷うを凡夫といふ。然(しか)はあれど、妄想の風止みぬれば、凡夫そのまま仏となると云へり。もしその如くならば、悟りの仏も迷悟の性うち混じて差別なき処より現われたもうが故に、迷いの性とて、あとに残し置くべき道理も無し、迷いの性も悟りの性と引別(ひきわか)れず、うち連れだちて悟りの仏となるべしや。もし然らば仏重(かさ)ねて妄想顛倒の悪しき縁にあひ玉(たま)わば、悟りの仏その体そのまま、迷いの凡夫と成り玉ふべしや、如何。

答えて曰く、是れに付いては修徳顕現、不修徳顕現と申すことあり。
修徳顕現と申すは、修行し顕わすことなり。
不修徳顕現と申すは、未だ修行し顕らわさざることなり。

仏も万法の根を極め理を尽くして、よく知ろし召し、悟り玉ふがゆへに、修徳顕現の人なるに非らずや。
(ひと)たび悟り極むれば、もはや二(ふた)たび迷わざるなり。

然れども仏にも心内に凡夫の性は倶へ玉へり。かるが故に四苦同身と申して、九界の衆生を誘導
(みちびき)玉ふに、もし地獄のすがたにて教化利益なされたきおりは、地獄のかたちにもなり、餓鬼畜生の姿にて利益なるべき折節(おりふし)は餓鬼畜生の形容(かたち)ともなり、人間天上のかたちにて教化利益のなるべき折りからは、人間天上の形姿(かたちすがた)ともなり玉へり。

もし仏も迷いの性を倶へ持ち玉わずば、何ぞかようの迷いの九界の形をしめし玉わんや。

然りといえども悟りの上に自由自在を挙動(ふるまう)とき、かようの事と業(わざ)あり。其の事と業(わざ)は悟りの上にあり。悟りの上におさまりては最早(もはや)再び迷いのものと為らず。

夜るくさり縄を婦
(ふ)みて蛇と思い、おじ恐れしに、夜の明けて見れば縄なるゆえに、二(ふた)たび蛇と思う迷いの心ざし、何ぞ一(ひと)たび悟り究めたる後(のち)、迷悟の性うち混じて差別なしと云いて、悟りの仏の凡夫の迷いの者になり玉ふべしや。

 法華題目和談抄巻上終



 法華題目和談抄巻中

妙法は当体即是なる事。

しかれば則ち我等は、いまだ修徳顕現して万法の理をば極わめねでも、さりとては此の身の外に別に悟りの体なし。
かるが故に地獄の冥火
(みょうか)苦しみも、そつとも換わらず変ぜず、いつまでもその苦しみに非ず。能(よ)き縁に遇うふとき、その体そのまま悟りの仏となり、総じて餓鬼も畜生も修羅も人間も天上も、十界の万法その当体、動(うご)かず働(はたら)かず、座を去らず、そのまま仏となる。ここに知られたり。

十界十如権実の法、妙不思議の法ぞと云うことなり。かるが故に十界十如権実の法をさして妙法と申すなり。

荘子夢に胡蝶となる事。

往昔
(むかし)(もろこし)に、荘子と申す人ありき。まどろめるうちに、百年の間、蝶になり、野山を飛びかけると夢に見たり。さて覚(さめ)て我が身を見けるに、蝶にもならず元(もと)の荘子なり。所も本の所にして野山にも非ず。羽をうちかわし友を争(あら)そひて、苦しく思いし事も、みな偽(いつわ)りとなりて跡形もなし。此の事、古歌に
「百(もも)とせは、花に宿りて過ごしてし、思えば蝶の夢にぞ有りける」

今、吾が身も生死流転の迷いの凡夫とばかり思うは、夢に荘子が蝶になりしと思うが如し。まことに是れは、まことなき僻思
(ひがおも)い。夢に蝶となりし時も、蝶にもならずして本の荘子なり。

今、生死迷いの凡夫ぞと思いし時も、そつとも凡夫にあらず。此の身そのまま、本覚の真仏なり。さめて荘子となりし時も別の荘子に非ず。元よりの荘子なり。

迷いの眠り覚めて仏となる時も、余のもの仏になるには非ず。元よりの一心に倶
(そな)へ持つ所の法性が仏となりたり。

(また)寒気(さむさ)来たりて和(やわ)らかなる水、そのまま変じて水氷となり、陽気来たりて其の氷、また水となる。氷を離れて水無く、水をはなれて氷なし。
仏を離れて衆生なく、衆生をはなれれて仏なし、是れに知られたり。

十界の万法みな妙の法なりという事を。ここに心得あり。
十界の万法、兎の毛の先ほども残らず妙法なれば、あいあうものに向かいて、心には妙法と合点し、口に妙法を唱え、頭
(こう)べに妙法を頂き、此の身と心と口との三つに、妙法の修行をなさば、なんぞ本体の妙法の悟りに合(かな)い、もとずかざらんや。

また、妙法に付いて、相対妙、絶待妙。迹門の十妙、本門の十妙などと申して、合わせて百二十の妙あり。まだもくわしく申せば無量無辺の妙あり。

十界の万法みな妙なり。ただ本体の一妙の上に、功徳について其の品(ひな)を分(わく)るとき、妙の品々
(ひなじな)これあり。

道理深く解意
(とくこころ)高かし。繁(しげ)きゆへにこれを略す。

心仏衆生三法の事。

一、さて法にもまた無量無辺の品
(ひな)あり。しかりといえども心・仏・衆生の三法と申すことあり。
衆生法と申すは法界の一切衆生のこと。
仏法と申すは仏の御事
(おんこと)
心法と申すは別して我等行者の一念の心法の事なり。

此の心・仏・衆生の三法と、十界十如権実の法と、只
(ただ)総と別との違いまでにして、その体、全く不同なし。総じて束(つか)ねて申せば、心仏衆生の三法なり。

この三法を別して、とりわけ品
(ひな)を委(くわ)しく申せば、十界十如権実の法なり。
かるが故に十界十如権実の法と心仏衆生の三法と、其の体全く違いなし。
此の心仏衆生の三法は妙不思議の法なる故に妙法と申すなり。

先ず衆生法の妙なる事を経に説いていわく、
「欲令衆生開仏知見、欲示衆生仏知見、欲示衆生悟仏知見、欲示衆生入仏知見道」
と説き玉へり。

知見と申すは、知は、しると読む字にして、一切のことをよく道理をきわめて知ることなり。
見は、みるとよむなり。一切のことを、よく道理をきわめて見る事なり。

仏は十界の万法の根を究め、理を尽くして、よく見究め知
(し)ろし召(め)し玉へり。是れを仏の知見というなり。

しかるにその仏知見を衆生本来本有として備え持ったり。この知見を開かしめ、悟らしめ玉わんために、仏は世間に出で玉へり。

一水四見と申して
、但
(ただ)一つの水を、魚は宮殿楼閣の家と見て住居(すまい)をなし。人間は水と見て水の所用に用い、天人は甘露と見て、甘露の所用に用い玉うに、其の水甘露になる。餓鬼は炎(ほの)ふと見て、飲めば咽(のど)焼燃(やけもゆ)るなり。

唯一つの水なれども、果報の浅深
(せんじん)業感の不同によりて、大いにかはれり。
其のごとく吾等は、松をばただ松とばかり見、竹をばただ竹とばかり見る故に、もとより備え持
(もち)たる仏の知見顕わるる事なし。

仏、諸法実相、万法一如と知見し玉ふ故に、三悪四趣の道体も、そのまま寂光浄土なり。衆生は未だ仏の知見をば開かねども、さりとては本来本有として、仏の知見の徳義を備え持ちたり。

是れ則ち衆生法のうへ、妙にあらずや。

さて仏法の上の妙の事は申すに及ばず、彼のかくれて備え持ちたる仏知見、妙法の縁によりて、外へ顕れ出
(いで)たる故に、目に見えて自由自在をふるまい玉ふ。衆生利益の日は、一切の有情に身を現じ、声聞の為めには飛花落葉の相を示して教化し玉へり。

是れ御心に苦悩ありて、なり玉へるにも非ず。自由自在に化
(すがた)を現じ玉へり。

此の外、仏の神力妙の不測
(ふしぎ)あげて数(かぞ)ふべからず。

さて心法の事をば、如意宝珠に譬喩
(たとへ)たり。如意宝珠と申すは万宝をふらす宝の玉なり。此の珠の有所(ありところ)は竜宮界と、天上界とならではなし。
形ち芥粟
(けそく)の如しとなり。其の珠のなりかたち小さくして粟粒ほどの珠なり。此の珠の徳は、金銀等の七宝、山川河海、衣服、臥具、家室(かしつ)禽獣(きんじゅう)等に至るまで、一念欲しく思えば、その思いの止まぬ内に、はや降らすなり。一度ふらせるものをば、降らさぬといふ事もなく、一切のものをば、夜昼未来まで降らしても、芥子ばかりも、後の尽くると云う事もなし。

是れ此の珠の徳義として、万宝を備え持ちたる故なり。もし備え持たずんば何としてふらさんや。

吾が一心法また斯
(かく)の如し。華厳経に曰く「心如工画師、種々造五蘊」一切 世間の中に法として造らずと云う事なしと説けり。

画のたぐい、ひとつの手さきより、竜虎の勢い、修羅の勢い、春の花、秋の月までも、すがたを模
(うつ)し、眼に見えぬ鬼神(おにがみ)をも筆に和(やは)らげ、佛菩薩の殊勝なるかたちをも書き出(いだ)し、種々様々の物をひとつ手の先より書き出(いだ)すが如く、唯一つの心法より、十界の形容(なりかたち)を造り出(いだ)すなり。

元より十界の心法を備え持たずんば何ぞ造り出
(いだ)さんや。
其の心法具足の十界、心内にして悪業の妄執、和らぐ時は、微妙不測の空仮中の三諦なり。当に知るべし。我が心法すなわち妙の法なりと云うことを。妙法二字の理
(ことわ)り、ただ利益して、かくの如し。

蓮華二字の事。

一、次に蓮華の事。蓮花に
当体の蓮花と譬喩の蓮華と二(ふた)つあり。先に譬喩の二字は共にたとへと読むなり。十界の有情、非情ひとつも残らず、其の体とりも直(なお)さず三諦の妙法なれども、下根下智は其の重を其のまま直ぐに合点する事為らず。かるが故に下根下智の人の為めに、世間の草花(そうか)の蓮花を、譬へによせて、妙法の体を合点なさしめ玉ふ時、世間の蓮花をもって妙法にたとへて、妙法の次に蓮花をあげて、妙法蓮華と申すなり。

さて当体の 蓮花と申すは、世間の蓮花を曾
(かつ)て用ゆるにてはなし。最前より妙法の当体をすぐに蓮花と名づけたり。世間の蓮花をかりて、妙法にたとへたるには非ず。ただ妙法の当体を直ぐに蓮花と申すなり。

譬喩蓮華の事。

先ず、譬喩の蓮華と謂
(いつ)ば、妙法の当体に種々様々の義理あり。しかれども下根下智は、法体の上を其のまま直ぐに合点する事ならざる故に、世間の草花(そうか)の蓮華をかりて、妙法に譬へたり。

先ず一つには、蓮花は縁に因りて生
(は)へ出(いづ)るものなり。堀や池に種子をくだして、五年十年 生(は)へ出(いで)まじと。間々鉄(くろがね)をその処へ入るれば、出(いづ)るものぞと云へり。

或いは古き袈裟衣を入れても、生
(は)へ出(いづ)るものぞといへり。

吾が心法に倶へ持ちたる妙法の仏性、修行の縁によりて現れ出づるに譬へたり。

次に大梵天王は蓮華の中より生じ玉へり。三十二相の仏は妙法の内より生じ玉へるに譬へたり。

○また次に蓮華は泥の中より生ずるものなり。妙法の悟りの、煩悩業障の泥の中より出生するに譬へたり。

○また次に蓮花は人間天上のもの見て能く愛をなして、喜びをなす。妙法の理を見るもの、仏に成るにたとへたり。

○また次に蓮花の少し芽ぐみ出でて、漸(ようや)く大きになるは、妙法の一礼一念等の、少しの修行かさなりて大きなる仏果を得るに譬へたり。

○また次に、蓮花は花果同時の徳と申して、花と中の蓮肉と、少しも後先になく、同時にある物なり。花の容(すがた)すこし、あるや否やに、はや蓮肉も中にありて、花と実と一同にあり。妙法の法体に因果の二徳を同時に収めたるに譬へたり。
因と申すは迷いのこと、果と申すは悟りの仏なり。因は花の如く、果は蓮肉の如くなり。妙法の法体は迷悟うち混じて、因果の二徳を備えたるに譬へたり。

○また次に、蓮華は泥の中にあれども、其の泥水に染汚(そみけが)されず、清きものなり。妙法仏性の煩悩業障の中にいながら、それに染汚(しみけが)されざるに譬へなり。

○又次に、蓮花は昼開き夜はしぼむものなり。縁にあへば妙法開き顕われ、縁なければかくれ埋(うづ)もれて居るに譬へたり。

○また次に、蓮花は一切の花の中に勝れて、仏のほめ玉ふなり。法華は一切経の中に第一なるに譬へたり。

此の外、蓮花を妙法に譬へたるに、其の義理無量無辺にして、山の如く、海の如し。
委しく天台大師玄義七の巻に御訳
(おんわけ)なされし。今心を取りて之を題(だい)す。

当体蓮華の事。

一、当体の蓮華と申すは、世間の草花の蓮花を妙法に譬へたるには非ず。世間の蓮花の曾
(かつ)て以てなき大以前より、妙法の法体を直きに蓮華となづけたり。

妙法の法体は清浄無染にして、そつとも不浄穢れたるものに非ず。其の所を直に蓮花となづけたり。

また法体の所は迷悟不二、邪正一如にして、因果同時の徳あり。其の所を直に蓮花と名づけたり。上に申したる義理とも、みな法体の上直
(うえじき)にあり。其の重を直に蓮華と名づけたり。

世間の草花の蓮花を曽
(かつ)て以て譬へにするに非ず。結句、世間の草花に蓮華と申す名を付けたるは、法体の蓮花より付けたるものなり。

此の世界初まりし時は、一切のものなし。しかるを蜘
(くも)が糸を引いて、ひためぐりに廻(めぐ)りて、巣を造りしを見て、夫れを見習いて網をつくり初め。また木の花の落ちて風に吹かれて彼方此方と、運び歩行(ありく)を見て、夫れに見倣うて車を造り始め。また浮き草の水にうかび流れありくを見て、夫れに見倣(なら)いて船を造り初め。また鳥の足跡を見て、文字を造り出せり。

如斯
(かくのごとく)それぞれ見習ふて一切の道具を作りたるといえども、それぞれに、また、なにとも名を付くべきやうなし。
しかるを仏菩薩、衆生済度のために、仮に人間に生まれ来たり、それぞれのものに名を付けたまう時、妙法の法体に、とつくと心を止めて眼を付けて、其の法体にならふて、一切の物に名を付け玉ふ時、世間の草花に泥水より生じて、しかも泥水に染汚(そめけが)されず、また花の実と同時にある草花あり。此の草花は妙法の法体に煩悩業障に染汚
(そめけが)されぬ能徳と因果同時の徳とあるところを、蓮と名づけたるに、能く其の心の似たる花なる故に、此の草花を蓮花と名付けうずると有りて、其の時初めて蓮花といふ名を、世間の草花に付け玉へり。

(よろず)の物に初めて名を付けたまう事、皆妙法の法体より教えられ習ふて付け玉へり。妙法の当体、直(じき)に蓮華と名付けたり。

妙法は蓮華と云う事。

一、上件
(かみくだん)にも書きつけ申すが如く、十界の諸法、芥子(けし)ばかりも残らず、皆、妙法にして、其の妙法を直(じき)に 蓮花と云うが故に、十界の諸法、石瓦(いしかわら)(ちょう)蜻蛉(とんぼ)の類(たぐい)まで、その体、其のまま蓮花ならざるもの、誠に兎の毛の先程もこれなし。

当に知るべし。蓮花の修行によりて、蓮花の悟りを開くべし。何ぞ蓮花の外の修行をなして、蓮花の台(だい)にもとづきかなうべしや。

此の故に天
親菩薩、法華論に曰わく
「一切の仏菩薩、皆蓮花の行に依って、蓮花の国土を得玉へり。当に知るべし。仏菩薩は其の身も蓮華なり。心も蓮花なり。国土も蓮華なり」
と云へり。
当体の蓮花の義理かくの如し。

○しかれば経にある妙法蓮華の蓮花は当体の蓮花、譬喩の蓮花 、二つの蓮花ともに収(おさ)まれり。

上根上智の人の上にては、当体の蓮花なり。下根下智の人の上にては、譬喩の蓮華なり。
法華の心は、上中下の三根
(さんこん)として、普(あまね)く等しく、仏に為し解脱せしむるが故に、ただ一つの蓮花を挙げて、二つの蓮花の義理を収めたり。

法華題目和談抄巻中終

 法華題目和談抄巻下

経の字の事。

さて、経と申す心は、一つには経の字は、由の字の義理なり。
由の字は、思意
(しい)をばよると読む字なり。
経は仏の御口に由りてあるゆへに経と云ふ。経はよると読む。由の字の義理なり。

○また次に、経は緯(ぬき)の義なり。世上の錦金襴などを織るに、たて横よりあいて、牡丹唐草などの紋を織りつけ織り出すものなり。
仏の経は緯
(ぬき)の如く。菩薩また其の経を根本として、論と云うを作り玉へり。菩薩の論は横の如く、仏の経はたての如し。
此の仏菩薩の経と論とによりて、一切衆生得道するは、たて横より合
(あわ)せて、錦などの紋を織りつくるが如し。

○また次に、経は契(がい)の字の義理ないり。契(がい)の字はかなふと読む字なり。経はそれぞれの衆生の気に篤(とつ)くと、かなひ、また一切の道理義理に篤(とつ)くと、よく合(かな)ふたる故に、経と申すは、かなふとよむ。契(がい)の字の義理なり。

○また次に、経は法本(ほうほん)申して義理あり。仏一句を書き出し玉ふに、其の一句一句が根本となって、無量無辺の法門を説き出し玉へり。一句一言が無量の法の根本となりしが経なれば、経は法本と申す義理なり。

○また次に、経は微発(みほつ)と申す義理なり。微発(みほつ)とは少し現れ発(おこ)るといふことなり。仏、四弁八音(しべんはちおん)の御声を以て、すこし説き顕し玉ふより、漸漸(ぜんぜん)に其の義理深くなる事、大海は入るに、次第次第に深きが如し。

○また次に、経は涌泉(ゆうせん)と申す義理なり。涌泉と申すは、わくいづみと読む字なり。
仏、経を説き玉ふ其の義理、尽くることなきこと、涌泉の如し。

○また次に、経は縄墨(じょうぼく)と申す義理なり。縄墨とは、なわすみと読む。大工の墨なわを引きあてて、曲がれる木を切り削り、真直(まっす)ぐにするが如く、仏の経は一切衆生の顛倒邪曲を、すぐになおすゆへなり。

六塵を以て経とする事。

また次に、六塵
(ろくじん)をもって経とする義理あり。六塵(ろくじん)とは、色声香味触法。この六つを六塵といふ。
始めに色と申すは、一切の目に見ゆるほどの、色形ちあるものの事なり。
声と申すは、一切の耳に聞こゆる程の声音
(こえね)のことなり。
香と申すは、一切の鼻に入るほふぉの善き香
(にほ)ひ、悪しき香(にほ)ひのことなり。
味と申すは、一切の舌のうへに載せらるるほどの味わいのことなり。触
(そく)と申すは、一切の我が膚(はだ)に触れあつるほどの物の事なり。
法と申すは、総じて一切の諸法のことなり。此の色声香味触法の六塵
(ろくじん)が、則ち経となるなり。

其の子細は、経と申すは、よると申す義理なり。何物に由りてなりとも、悟りを開きさへすれば、則ち経なり。

昔し飛花落葉を見て、其のまま悟りを開きし人あり。飛花落葉と申すは、花の散り葉の落つるを見て、万法みな無常生滅の法にして、一法として常住の法ならずと合点し、悟りて悟道す。
此の人のためには、花これ経なり。

○花は色形ちありて目に見ゆるものなるゆへに、色塵と申すなり。経はよると申す義理なれば、色形ちある色塵の花によりて悟道するゆへに、一切の色塵みな経なり。
此れに由りて悟道することも、物の香
(にほ)ひを嗅いて、悟りを開くことも、物の味を嘗(な)めて得道するも、一切のものを膚(はだ)へに触れて悟道するも、皆同じ御事なり。

ただ同じくば、月を詠
(なが)め、花を見る時も、心を止め、眼をつけて、三諦即是の妙法ぞと見るならば、遊参(ゆさん)花山(かさん)其のまま、悟道の種(たね)となるべし。
暮れゆく空の雲の色、有明がたの月の光りまでも、心を催す思いなり。事に触れ折りに付けても後世を心にかけ、風騒ぎ村雲まよう夕
(ゆう)べにも忘るるひまなく、妙法をとなへ奉(たてまつ)らんこそ、今生の名聞、後世の弄引(ろういん)なるべけれ。ただ心に忘るる事なかれ。妙法の流れふかく、蓮花の花ぶさ尊く、経の糸すじ直(すを)うして、其の理(ことは)り絶えず。いま拙(つたな)き筆にいわせて、五字の略釈のみ。

釈迦如来大恩ふかき事。

とてもかくても、此の妙法を持
(たも)たせて、釈尊に少しも違(ちが)わぬ三身究竟の仏になさんと思(おぼ)すが故に、またもまたも世に出で玉ひて化度し玉ふ。

此の御恩の厚く深きこと、恒河の砂の数よりも、なお繁し。譬喩品に、此の三界は我がもちるなりと説かせ玉へば、まさしく衆生の為めの主君なり。次の文に、其の中の衆生は悉く是れ吾が子なりと説
(とかせ)玉へば、衆生の為めの父なり。寿量品には、何をもってか衆生をして無上の道に入れしめさせんと説き玉ふは、元来(もとより)此の法華に衆生を引き入れしめんがため、種々に教えをなし玉ふ。是れまた衆生のための師なり。

此の三つの徳を備え玉ふ。かかる有縁の御仏に背き、よしなくも縁なき余所(よそ)の土の弥陀薬師大日等の仏を恃み願う人は、父に不孝の子なり。君に不忠の臣下なり。師に背く弟子なり。

此のつみ甚だ重し、悪所のがるべからず。慎
(つつし)むべし、 慎(つつし)むべし。

是れはこれ其の大意をのぶるものなり。この外ふかき御恩、経論釈等にのせられたり。挙げてかぞへべからじ。

華厳経縁起疏に十恩をあげられたり。
曰く、
第一発心普被(ほっしんふひ)の恩。
これは善人悪人の隔
(へだ)てなく、衆生に普く恩を蒙むらしめ玉ふにより、心に菩提を起こす御恩なり。

第二、難行苦行恩。衆生の為めに御心を苦しめ、あるときは鳩(はと)の秤(はかり)に御身(おんみ)をかへられ、また或る時は飢(う)えたる虎に餌食となり。提婆品に説き玉へる「無有如芥子許捨身命処」と申して、芥子粒ばかりも衆生の為めに、御身を捨て玉わずといふ所なしとかや。斯(かく)のごとく、難行苦行し玉ふ御恩なり。されば爾前経には、此の御恩を仏の果を得玉ふ本因とするほどの御事なり。

第三、垂行六道恩。六道界のそれぞれに一々御形ち変じ、地獄にしてはじごくの形ちとなり、餓鬼界もまたおなじ。乃至、人間天上もまたまたかくの如くにして、苦しみを救わせ玉ふ御恩なり。

第四、一向為他の恩。かようにし玉ふ大慈大悲は全く自らの御為めに非ず。ひたすら衆生のためにし玉ふ御恩なり。

第五、随逐衆生恩(ずいちくしゅじょうおん)衆生の願いに随って法を説き、済度し玉ふこれなり。

第六、大悲深重恩。衆生の苦しみをぬき、助け玉ふ事。深き重きなり。

第七、隠勝劣の恩。少しにても勝れたるを先ず隠し、劣れるを顕して、浅きより深きに至らしね玉ふこれなり。

第八、隠実顕権の恩。はじめは爾前等の権門を説き、次は大乗の実理を説き顕し玉ふこれなり。

第九、示滅令慕の恩。仏ながく世におはしませば、衆生はいつものように思い奉り、心たゆみ悪業のみ、いやまし、仏道になおなお疎(うと)くなるゆへに、かりに涅槃の相を示して衆生に仏を恋いしたわしめ、仏道にしたしましめ玉ふこれなり。

第十、悲憐無量恩。そうじて常に衆生を悲しみ、憐れみ玉ふこと、量りなき御恩なり。

以上これを十恩とす。
とりわけ重き御事なり。すべて三世の諸仏の仏なりし玉ふも、みな此の久遠実成の釈尊の御恩ならざる無し。

横に十方、竪に三世の仏達、いづれが釈尊の御身を、わけ玉わざるやある。
およそ此の三千大千世界にあらゆる、山も海も、石瓦草木のたぐひまでも、皆釈尊の御慈悲よりおこれり。

此の故に有情非情草木国土悉皆成仏とは説きたまへり。
そもそも此の釈尊は何故
(なにゆえ)かかる類(たぐい)なき仏にはならせたまふや。是れこの妙法蓮華経によってなり。
今末法の凡夫もまた斯
(かく)の如し。
ただただこれをたのむ所は信の一行怠るべからず。あらたのもしやたのもしや。

臨終大事の事。

御書に
「賢しこきも老いたるも、若きも定めなき習いなり。先ず臨終の事を習ひて後、他事を習ふべし」
また御書に
「日蓮若(わか)かりし時 より、現世の事を祈らず。ただ未来、仏に成らんと思うばかりなり」
とぞ。
誠にかげろうの夕べを待たず、夏の蝉の春秋を知らぬに比
(くら)ぶれば、人ばかり久しきはなしなど、吉田の法師が書きしは、さることなれども、其の人とても、出(で)る息、入る息を待たず、ただ今、後に死の来るをも知らぬ身として、ながき後の世の事、怠り勝ちなるは、愚かの中のおろかなり。

必ず死ぬるならひは誰も人も知り顔にして知らず。朝露のみ消えやすく余所のように思ひつづくる心ざしなれど、無下に敢
(あへ)なし。
惜しめどもとまらぬ月日に、いつしか老いさらばひて、うるわしき姿と見えしも、髪しろく腰縮まり、それとも見えぬ面影とのみ変わりゆき、尊き人の頭なりとても、年の積もれる雪は消える事をゆるさず。かかるはかなき世に心を留めんは、返すがえすも、はかなし。力の及ばぬは命の使いなり。

これに付けても、今日の如来は久遠の昔より以来
(このかた)今に至る迄、死に玉ふという事なく、生まれ玉ふといふ事もなく、三世常住なる御身なり。今、法華の行者は此の如来をたのみ奉り、かかるめで度(たき)仏と平均(ひとしう)ならんは、ひとへに妙法の御力なり。
此の時はいつの比
(ころ)ぞや、臨終の夕べなりと、常に心に絶えず、これを思うべきなり。

此の度、願いはづれなば、また、いつの時か。人の姿にうかび出て此の妙法に遇い奉らん。朝夕、心にかけて、ただ今もや、ただ今もやと、臨終の思いをなし、立つ時も居(すわ)るときも、妙法忘するべからず。
いかなる前の世のむくひありてか、いかなるつらき病ひを身にうけ、臨終、心に任せずして、死せんもしれぬは人の行く末なり。
正法念経には、臨終の時、断末魔の苦しみ有りとぞ、説かせ玉へる。刀を以て身肉を切られ、或いは臼
(うす)やうの物にて粉(こ)にはたかれ、または、砥石(といし)を以て身を磨(とが)るるようなる苦しみを得るを断末魔とは申すとかや。

一番に眼識
(げんしき)滅すとて、眼先ず死して物を見ず。二には耳根絶すとて、耳死して聞こえず。三には鼻。四には舌。五に身と。かように次第次第に命のさきがけして、皆かなはず。ただ意(こころ)の一つのみ残りて、上件の苦しみを受くるなり。

此の時、心に
四つの愛をなす。
一には此の身に愛着をなして命を惜しむ。
二には妻子けんぞく等に愛執ふかく、命を惜しみ。
三には財宝につながれて、心にはなれず。
四には未来其の人の行くべき三悪道を見るに皆、おのれおのれがむくひによればなり。
時に其の有様を見て、はやはや行かんと、はや其の所に執心をなす。これらの執着、また三界流転のたすけとなりて、迷わするなりと説き玉へり。

此の時に至りては、いかなる信者行者も此の悩みにたぶらかされては、一大事を忘れつべし。かるが故に、他念の臨終とて、常に心にかけよと、先師たち教へ玉へり。

ただ此のおりに至りては、年比
(としごろ)唱へ頼み奉る妙法は只今(ただいま)なりと、心に念じ極めて、彼の四つの愛執おこらば、天魔来たれりと心に、いましめ、三大秘法の大曼荼羅にうち向かい奉り、御契約たがへ玉ふなとの一筋に、日蓮大菩薩を仰ぎ、如説修行抄に教え玉ふように、錐(きり)を以て身をもまるるとも、足には、ほだしを打たるるとも、さらさら、いとわず、たとへ舌こわばって、口に叶わぬ極みならば、心にとなへ奉り、命の通わんきわは、事の一念三千たる寿量品の南無妙 南無妙と唱へ、臨終し奉るならば、煩悩生死と見えしも、昨日(きのう)の夢とあめ、菩提涅槃と聞きしも今日の現(うつつ)となりて、枕の下は其のまま寂光なるべし。

是人於仏道、決定無有疑は此の時なり、此の時なり。

再刻 法華題目和談抄巻下 終。

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