宗門先師の「本因妙抄」「百六箇相承」批判。

執行海秀先生の「興門教学の研究」に於いて、日蓮正宗や創価学会等が相承書として重んじる「本因妙抄」「百六箇相承」を偽作と判じている四人の先師(了義日達・合掌日受・永昌日鑑・一妙日導)を挙げています。

しかし、各先師が偽作と判じた理由を述べる部分を紹介していません。そこで、各先師が理由を記している部分を抜き書きしました。

什門の日受上人の両相承批判。

そもそも向来(コウライさきより)、示す所の真の一念三千の如きは、則ち是れ吾が祖の骨髄にして、所弘の首題の法体なり。

しかるに、彼の徒、此の骨髄を知らず。ゆえに「本因妙抄」「百六箇抄」を偽造し、種々に巧説し、諸人をして惑乱せしむ。

予(自分)かって、彼の書を熟覧(ジュクラン詳しく読む)するに、其の文言、ただ録内に類せざるのみに非ず、また其の義趣、「観心本尊抄」等に背く。

もし彼の書を以て、之を録内に比すれば、則ち天地雲泥の如し。其の偽造なること、自ずから推知すべし。

『雪謗書(四巻の最末)』に、略して彼の書を駁議(バクギせめだだす)す。

私に(日受上人)云く。

彼の書(本因妙抄)においては、則ち専ら、『牛頭決』に依憑(エヒョウよる)す。

しかるに、この『牛頭決』は伝教大師の真書に非ず。

南光坊大僧正、之を以て偽書と定む。

邪僧の真迢もまた偽書と定めて、以て吾が祖、御引用の義を難ず。

(舜統真迢「禁断日蓮義第二巻」の「十一」に於いて、修禅寺決を「是れ偽説なり」「修禅の決は偽書なるが故に」と、記している。)

(「本因妙抄」が依憑しているのは「三大章疏七面相承口決」であるが、日受上人や日鑑上人は、「本因妙抄」は『牛頭決』に依憑すると記している。当時、修禅寺決や七面相承口決などの血脈書を、総称して、牛頭決と称していたものか?。本来、牛頭決とは、「牛頭法門要纂」を指し、また「頂戴牛頭法門」は五部血脈を指す。)

予も、また年来、此の『(牛頭)決』を信ぜず。

近頃、日勇この『(牛頭)決』を駁議す。

しかるに、吾が祖、此の『(牛頭)決』を用いたまうことは、当時、台徒に専ら此の決を信用する有り。

所以(ユエ)に、吾が祖、口唱の事行と、『牛頭決』に謂うところの口唱の事行と、彼此(ヒシ)類同す。之に依って、吾が祖、敢えて其の真偽に拘わらず。以て之を引用す。(十八円満抄に修禅寺決を引用している)

しかるに、御引用の素意は他なし、理行に堪えざる機類に対して、「此の易修の口唱の事行の如きは、則ち、台祖と及び予とまた同一の事行なり」と勧むるに在るなり。

しかるに、冨士門流は、此の素意を察せず、「宗祖事行の如きは、則ち其の根源、『牛頭決』より起こる」と謬解(ビュウゲ)し、あまつさえ此の決を仮借(カシャク借り用いる)し、以て、両書を偽造する者か。

今、試みに駁議せば、謂()はく。

彼の書に曰()わく。

「寿量の品の文底等とは、久遠実成名字の妙法は余行に亘(ワタ)らず。直達の正観、事行の一念三千。(略抄)」

此の文義の如きは、則ち直ちに本因妙の位に、下種する所の唱題の事行を用って、以て直ちに文底とする義なり。

私に云く、

彼の書の義は、「吾が祖所弘の口唱の事行の如きは、則ち全く釈尊本因下種最初口唱の事行を模(ウツ)す。此れは是れ倶に、口唱の事行なるを以ての故に、ただ行に約して、之を以て、事の一念三千と」謬解(ビュウゲ)す。

所以(ユエ)に、彼の書は、「釈尊未聞下種以前の自己の本覚の体と、無始の古仏本覚の体と、全体不二にして、凡夫自己の本覚の当位、即ち是れ本来事常住無始の古仏、事の一念、事の三千の妙体なること」を了せざるなり。

また、復(マタ)此の妙体、凡聖一なりといえども、しかも、其の之れ顕れざる下位の名を本因と曰()うに、其れ已に之れを顕す高位の名を本果と曰()う。

しかるに、汝等は「下位の本因は勝れ、高位の本果は劣る」と曰()うは、鳴呼(アア)、天地の高下を知らざる者に似たり。

当(マサ)に知るべし。もし、本覚の妙体を用て、以て其の高下の当位を推するときは、則ち因果の妙体に於いて、毫(ゴウ)も勝劣無し。

しかりといえども、もし、高下の当位を用て、以て因果の妙体を推するときは、則ち自ずから勝劣有り。

猶(ナオ)し、荘厳法身は素法身に勝るるが如し。

また復(マタ)、須(スベカラ)く知るべし。

もし、無始の古仏の本覚の体に対望すれば、則ち久成の本果は是れ迹用なりといえども、しかも本果所顕は則ち無始古仏一体の本(ホン)と成るに由るを以ての故に、宗祖の曰く「乃至所顕の無始の古仏」と。

また復(マタ)、本化上行等、本果妙を尊信して、誓って曰く「真浄大法受持読誦」と。

況や、本果妙の五重玄を用て、以て上行等に付嘱す。

宗祖も亦(マタ)本因妙の下位をして、本果妙の高位に登らしめんとして、身命を惜しまずして、本果妙の玄題を勧すむ。

将(マタ)本果の仏像を造る者に対して、造仏の功徳を称歎したまへり。

もし、しからば、本果妙は則ち本因妙に勝るるなり。

また復(マタ)、汝等、「無始以来本因本果、実に前後無く、本果に本因を具し、本因に本果を具し。将(マタ)、始覚の常修常証と本覚の常満常顕と、あたかも車の両輪の如し、始本不二、本有常住なること」を了せず。

所以(ユエ)、汝等、「本因妙は必ず是れ先なり、本果妙は必ず此れ後なり」と、偏執し、粗忽(ソコツ)に反(カエッ)て、「本因妙は則ち本(ホン)にして勝れ、本果妙は此れ迹にして劣り、及び造仏堕獄等」と謂うことは、吁吁(アア)悲しむべし、抜舌の罪人なることを。

今、彼の書を畜(タクワ)えざる者の為めに、略して、彼の肝要三五の文を挙ぐべし。

彼の書に曰く。

「本覚本門常住」

「自証不思議の体、我が内証寿量品の事行の一念三千」

「本門を事の一念三千と云い、下種の本門法華は独一の本門、是れを不思議の実理の妙観と申すなり」

「実理の「妙法蓮華経の観」

「本門首題の理を取って是れを事行に用いよと」

「観行理観の一念三千を開して、名字事行の一念三千を顕す」

「口唱首題の理は造作無し」

「本理の実理なり。日蓮聖人一期の大事」

「久遠元初の自受用報身、無作本有の妙法を直ちに唱う。問う、寿量品の文の底の大事と云う秘法は如何。答えて曰く、唯密正法、秘すべし秘すべし。一代応仏の域を控えたる方は、理の上の法相なれば、則ち一部倶に理の一念三千、迹の上の本門寿量品ぞと、得意せしむる事を、脱益の文の上と申すなり。文底とは、久遠実成名字の妙法を余行に亘(ワタ)さず、直達の正観、事行の一念三千南無妙法蓮華経是れなり。権実は理なり。本迹は事なり。(全文)」

彼の書の全編、皆是の如きの義なり。

すべからく知るべし。彼の書まれに事の一念三千の名有りといえども、実には、その法体を知らず。

直ちに口唱の事行を以て、ただ行に約して之れを以て、事の一念三千の義なるのみ。

所以(ユエ)に彼が謂う所の法体の如きは、則ちただ、無始無作本有の実相の理体を取るの義なり。

また、彼の書、ただ久遠元初自受用報身等と曰(イッ)て、しかも報応無始事常住の義を語せず。則ち彼の書の如きは畢竟、釈尊下種の法体は即ち是れ、無始以来の古仏の事常住、事の三千の本果妙の法体なることを知らず。

是の故に終に、一致者流所依の理本事迹の重、理の一念三千の義に堕する者なり。

(以上は、本迹自鏡編巻上。宗学全書第六巻71~74頁)

永昌院日鑑上人の批判。

「本因妙抄偽書顕然」

此の抄、全く伝教大師の『牛頭決』を根拠として偽造する者なり。

『牛頭決』は南光坊、之を糾して偽と為す。また、舜統院日迢も偽と為し、また、予が門の先哲、存・道・勇師、『牛頭決難字考』一編を述して偽と為す。

しかるに宗祖、何が故に之れを用い給うとならば、爾()の時、台徒、多く之れを用いる故に、宗祖、しばらく彼に付傍して、伝教大師の唱題は日蓮が唱題と全く一なりと云って、返って彼の徒を誘引せんが為めなり。

根本既に倒れたり。『本因妙抄』誰が之を信ずべきや。(是一

また同じく『牛頭決』に依っても高祖の『十八満抄』の如くならば、人皆、用うべし。何となれば、全く伝教大師の本意の如く相伝して、「是れは像法の正行なり。末法には無益なり」と云って、「末法には題目を正行とすべき」旨を示し給う故なり。
(是二)

また云く「一代応仏の寿量品は迹なり。内証の寿量品を本と為す云々と。

これは勿論の重なり。是れ則ち前に示す「約時の本迹」なり。

「法体に約する」に非ず。法体に約すれば、久遠よりただ一体の寿量品にして二品三品有る事なし。

故に『釈籤七』に「経に約すれば是れ本なりといえども、今世迹中に本を指して(名づけて本門と為す)」と云うは、法体に約すれば、世世、本なりと云う事なり。

汝等、予が門流は迹中の寿量品を読む、冨士門流は内証の寿量品を読むと云うは笑うべし。(是三)

今問う

「もし今日の寿量品の外に別に、内証の寿量ありと云はば、結集者は誰ぞや」

「また、梵語か、漢語か、対告衆は誰ぞや」

石徒等、無知文盲にして、『本尊抄』に「内証の寿量品」との給うを幸いに種々の誑言を吐くなり。

それ内証とは外用に対する言にして、釈尊本地自証の本法なり。此の重位には「我が法は妙にして思い難し。常に自ら寂滅の相。言を以て宣ぶべからず。無分別の法なり」と。

此の大法は上行等の大士も知り給わず。『立正観抄』に云く

「本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず云々」と。

石徒争か之れを知るべけんや。(是四)

妙玄一』に云く

此の妙法蓮華経とは本地甚深の奥蔵なり。文に云わく、是の法示すべからず。乃至、無上道を説く」と。

『釈籤』に云く、

「文に云くの下、迹を引いて本を証す。自証の辺に約すれば、法として説くべき無し。次に文に云わくの下、正しく経を説くを明かす。乃至、内証を以ての故にしかも他の為めに説く。已上」と。

内証の寿量は既に、是の法示すべからずと云う。

しかるに、本化の為めに第一番成道の時に初めて内証の寿量を説明するなり。

仏に於いては、内証の寿量、所化に於いては化他の寿量なり。

また、仏に於いては本、機に於いては迹なり。

その中間今日世世番番の所説の寿量品は仏に於いては内証の寿量なり、故に本なり。機に於いては赴機の寿量なり、故に迹と云うなり。(是五)

石徒等、他を破して「迹門の寿量」或いは「理上の法相」或いは「理の一念三千」等と罵しれども、汝等が所談、皆台家の理本事迹の法門なり。

『本因妙抄』の内、一二を出さば、

「実理の妙法、実理の妙観、本門首題の理、首題の理は無造作天真独朗の即身成仏、不思議一」と。

 

『百六箇』の中にも、「皆な理体事用、或いは、彼は理上の理。此れは事上の理」など云えども、所詮、事の一念事の三千の事を知らざるゆえなり。

此の事(じ)とは、報応無始事常住、十界無始色心事常住の事にして、本門の冲微、寿量の極談なり。

石徒、口唱事行の事の一念三千と云うは笑うべし、笑うべし。(是六)

問うて云く、

『兄弟抄』に云く、

「法華経の極理南無妙法蓮華経云々」と。

『四信五品抄』に云く、

「廃事存理とは、戒等の事を捨てて、題目の理を専らにす云々」と。

『当体義抄』に云く、

「能証所証の本理を顕し給へり」と。

高祖、理を正意とし給うに非ずや。

答えて云く、

『兄弟抄』は台家に准じ給う故に、理の題目と云うなり。

『当体義抄』は義に随う故に、本理と云うなり。所詮、事無始・事無作・事本覚・事一念三千等の事を、高祖は事を体とし理を徳とし給うのみ。濫ずべからず。(是七)

 

また云く「権実は理なり。(今日の本は迹)、本迹は事なり(久遠の本迹は事)、また、権実は智に約し教に約す(一代応仏の本迹)、また、本迹は身に約す(久遠本迹)位に約す(名字即)」已上。

細註は石徒が相承なり。

当に知るべし。高祖、台判を用い給うに多くの仔細あり。或いは開顕に約し、或いは上行の知眼に約す。或いは台祖の内鑑に約す。

或いは直ちに随義転用等なり。

今の細註の如き文盲の至りなり。

すべからく知るべし。

権実は開顕に約するが故に理なり。

本迹は顕本に約す故に事なり。

権実は権実二智・権実二教に約すなり。

本迹は身に約すれば本地垂迹なり。

また位に約すれば本高下迹・本下迹高等なり。

石徒が註は更に文理に応ぜざる愚談なり。誠に台祖を謗し、宗祖を蔑する邪曲の口伝なり。痛むべし、痛むべし。(是八)

(金剛亀羊辨巻下。宗学全書第六巻408~410頁)

 

「文底秘沈祖敵相承」

問う。

「『本因妙抄』に云く。寿量品文底の大事と云う秘法如何、答えて云く唯密の正法なり秘す可し秘す可し一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば一部共に理の一念三千迹の上の本門寿量ぞと得意せしむる事を脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり、乃至、雖脱在現具騰本種といへり、釈尊久遠名字即の位の御身の修行を末法今時日蓮が名字即の身に移せり、理は造作に非ず故に天真種智円明の故に独朗と云うの行儀本門立行の血脈之を注す秘す可し秘す可し。」已上。

此の義如何。

答えて云く。

明白の偽書なり。一致勝劣の先哲、偽と為す云々。歯牙に係けるに立たずと雖も、いささか偽とする所以を辨ぜん。

謂()はく。
ただ、文上文底と云って、其の文を出ださざるは何ぞ。争か文無くして文底あらんや。(是一)

一部共に理の一念三千・迹の寿量品とは何と云う譫語(センゴ・たわごと)ぞや。思うに石徒、無学文盲にして、『(法華)玄七(三十一紙)』に云く

「乃至、寿命を聞いて、増道損生するは皆是れ迹中の益なり。」と。

『(釈)籤七(二十三紙)』に云く。

「増道損生等とは、経に約すれば、是れ本門なりといえども、既に是れ今世迹中に本を指して、名づけて本門となす。故に知んぬ。今日は正しく迹中の益なり」已上。

此の文に依るならん。

此れは是れ時節に約する本迹なり。所謂、久遠を本と為し、本成已後を迹と為すなり。

もし法体に約すれば、今日の寿量即久遠の本門寿量なり。

彼れ(石徒)、「迹中に本を指して」と云う故に、一部共に迹と云い、理と云うは生盲の至りなり。また、迹と云えば理と心得たるは彌暗(ますますくらき)なり。
(是二)

『(法華)玄七(三十二紙)』に云く、

「本証より已後の発迹顕本は、還って最初を指して本と為す。中間の発迹顕本も、また最初を指して本と為す。今日の発迹顕本も、また最初を指して本と為す。未来の発迹顕本も、また最初を指して本と為す。三世は乃ち殊(コト)なれども、毘盧遮那の一本は異ならず。百千の枝葉、同じく一根に趣く」已上。

文の心は、爾前迹門は枝葉の如く、寿量品は一根の如く、世世番番に機に趣き、寿量の一根より爾前迹門の枝葉を垂施し、また寿量に帰すと云う義なり。世世は替わるといえども、寿量の一根は替わる事なし。何ぞ理と云い迹と云うや。深く考うべし。
是三)

「久遠名字の妙法を直達正観する事の一念三千」とは何の寝語(ねごと)ぞや。

思うに、石徒が心は、口唱の事行を事の一念三千と心得たるなるべし。事の一念三千の事とは、左様の浅近なる義にあらず。

釈尊の名字の時は、妙法は釈尊に在っては因果不二の本因妙なり。法体に約すれば、即ち先仏の因果不二の本果妙なり。

今日下種の妙法も機に在っては不二の本因妙なり。仏に在っては不二の本果妙なり。

故に上行付嘱の題目、如来一切所有の法等の四句、倶に如来と云う。如来豈()に本果に非らずや。故に伝教大師も果分一切所有の法等と四句倶に果分の言を置き給う。本尊抄の如し。

石徒が因勝果劣、微塵と成り畢(オワン)ぬ。(是四)

また「雖脱在現具騰本種」の釈、義理も辨えず悉く珍重するは文盲の至りなり。

此の釈の心は、爾前迹門の菩薩(が)、爾前及び今日の迹本に来たって得脱すれども、其の本(モト)は久遠の本種に依ると云う事なり。故に『曽谷入道許御書』に云く

「問うて云く、華厳の時、別円の大菩薩(乃至)観経等の諸の凡夫の得道如何。答えて云く、彼等の衆は時を以て之を論ずれば、其の経の得道に似たれども、実を以て之を勘うるに三五下種の輩なり。」と。

その証拠には涌出品の「是諸衆生」等の文、及び此の釈を引き給う。ただ脱は今日にあれども、種は久遠にありと云う義なり。

即ち今日寿量の事の一念三千の題目を指すなり。(是五)

また「天真独朗の法門」は迹の止観、迹の境智、迹の定慧にして天台大師の己証なり。末法のには一向無益なり。故に『十八円満抄』に云く、

「問うて云く、天真独朗の法門、滅後に於いて何れの時か流布せしむべき。答えて云く、像法に於いて弘通すべきなり。(乃至)末法に入りて、天真独朗の法を弘めて、之れを正行とす者、必ず無間大城に堕すこと疑い無し」と。

石徒が千金莫伝の「本因妙抄」堕無間の業因なる事、高祖の決判なり。哀れむべし、哀れむべし。(是六)

また「応仏のいきを控えたる理の上の法相」と云うは笑うべし。寿量の教主は単の応身にはあらず。倶体倶用、事無作、事常住の三身なり。何ぞ迹仏と云うや。石徒が如く談ずる時は寿量永異の能開の功能を害す。(是七)

(金剛亀羊辨巻下。宗学全書第六巻403~406頁)


「百六箇条無益本迹」

問う、石徒が『百六箇条』は実に高祖の相承なりや。

答えて云く、

百六箇条・宗要抄・本尊相承・産湯等、狂人の寐語(ネゴト)、一向台当の判教宗教宗旨をも辨えざる短識愚僧の作なること疑い無し。・・・文章浅薄事理鄙昧(ヒマイいやしくおろか)なる体、紛紜(フンウンみだれたる様子)周諄(シュウジュンこまかく、くりかえす)たる様、全く同じきが故に、かようの相伝は幾千万有りとも羨ましからず。(是一)

また『百六箇条』の如き、幾千万列ねるとも際限有るべからず。高祖御自行の誦経唱題及び日課の御講談、況や流通勧化の御繁務の中、何の暇有って周諄たる本迹を列ね給うべけんや。委しくは達師の『本迹雪謗』に破するが如し。(是二)

此の『百六箇条』遂一に難破すべきといえども尽きる期無し。不狂,狂を逐うの譏りを恐るる故に、之れを略す。
ただ一二之を難ずべし。

第一に、初めの題目は三国に比類無き標題なり。高祖争か是の如き無益の?慢多言したまうべけんや。偽を隠さんとして還って偽を訟(ウッタエ)ること笑うべし。

高祖自ら本因妙の教主本門の大師ジャの、本因本果自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕本門の大師ジャのと云う慢凌(マンリョウ)あるべきや。権者は内証を顕さずと云うが世尊の警めなり。録内の御書に上行菩薩の再誕など云う御文なし。録外は玉石雑乱の故、まま之れ有り。もし上行菩薩にして法身の後身ならば、何程の大難を忍び「兼知未萌」なりとも不思議とするに足らず。称歎せんとして返って高祖の御徳を減ずる者なり。(是三)

また云く「釈迦多宝(乃至)三界諸有の諸天本朝大小神祇六老中老下老等を証人として、日興を嫡嫡相承の総貫主と定め、日蓮入滅の導師として方便寿量を始めたてまつるべし。」と。

此の文に依って思うに興師は能く能く不徳の人と見えたり。何者(ナントナレバ)御臨終の導師役を蒙りながら、日昭上人鐘を鳴らして方便寿量を始めと云う諸伝記明白なり。昭師に導師を取れ、また、身延別当の遺付(イイツ)けを向師に取られたり。さてさて役に立たぬ人ジャナ(是四)

また云く「日蓮入滅第七回忌已後、此の血脈を開いて、上首等に之れを拝見せしむべきか。一覧の後は本の如く之れを納むべき者なり。」と。

難じて云く、既に上中下の老僧を証人として付与し給う血脈を何故に七回忌まで隠すや。前後矛盾にあらずや。(是五)

有る人の云く、「何故に七回忌まで披露せざるや」

予云く、左様に申さざれば録内録外に入らざる事を他門より難ずる故なり。彼等が浅計、掌中を見るが如し。また本の如く封じ置くは、他門に見られると恥ずかしきからジャ。(是六)

押しつけ、上行菩薩は賢臣となり、無辺行菩薩は賢王となり、浄行菩薩は関白となる、其の時に富士山本門寺上行院に戒壇が立ち、六万坊たつや、もはや四五年の内ジャ時を待って参詣有るべし。呵呵(是七)

(金剛亀羊辨巻下。宗学全書第六巻406~407頁

 

「人法体一凡聖不二」

問うて云く、

石徒の云く

「人法体一とは南無妙法蓮華経は蓮祖の御魂、即御身の当体なり。『経王抄』に云く『日蓮がたましいを墨にそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり。日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし』と。

『御義口伝下』に云く、『去れば無作三身とは法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり』と。

この御文既に南無妙法蓮華経は大聖人の宝号なり。

『法華肝心抄』に云く『妙法蓮華経は名にはあらず、我が身の体なり。我が身法華経にて法華経は我が身をよび顕し給うなり(略抄)』と。

此の御文は妙法蓮華経高祖の御身当体なり。余門流は我が身とあれば我等凡夫の事に取り用うるなり。是れは不相伝の故なり。当門の意は我が身と云うは蓮祖の御事と云うが第一の相伝なり云々」

と、この義しかるべきや。

答えて云く、

第一に『経王抄』を評せば、

題目と法華経と各別と心得たるは文盲至極なり。総別の不同なり。法華経を離れたる題目なく、題目を離れたる法華経なし。もし法華経なき題目は袋なき宝珠なり、もし、題目なき法華経ならば、宝珠なき宝蔵の如し。

『記一(本六)』に云く

「妙法の唱えはただ正宗のみに非ず、二十八品倶に、妙と名づく故に、故に品品の内、咸く体等を具し、句句の下通じて妙名を結す」と。

二十八品即ち妙法蓮華経に非らずや。(是一)

また『一代大意抄』に云く

「一部八巻(乃至)一一の字の下に皆妙の文字有るべし。是れ能開の妙なり。」と。

能開は宝珠の如く、所開は万宝の如し。

『法華題目抄』に云く、

「妙とは具足の義なり。具とは円満の義なり。法華経の一一の文字に余の六万九千三百八十四文字を納めたり。たとえば海の一滴の如く如意宝珠の如し(略抄)と。

御文分明なり。辨ずるに及ばず。あに法華経と題目と各別ならんや。

仏の御心は法華経、日蓮が魂は題目との給うは、ただ文の彩なり。

(是二)

次に『御義口伝』を評せば、

無作の三身とは末法の法華経の行者と判じ給う。大聖人御一人に局しむる事、浅ましき次第なり。円融不思議の妙法をして、還って権教隔歴の麁法に同ずるや。石徒等未だ無作三身の奥義を知らずと見えたり。

当に知るべし。無作三身とは狗猫及び桜梅桃李の当体即ち無作三身如来なり。是れを説き顕すを妙法蓮華経如来寿量品と云う。いわゆる、如来秘密神通是れなり。

是れを指して法体法爾(ホッタイホウニ)の三身とも、本地三仏とも、無作三身とも云うなり。

爾前迹門に之れを説かざる故に、『文句九』に云く、

「仏三世に於いて等しく三身有り、諸経の中に、之れを秘して伝えず」と。

万法無作の覚体と説き顕す是れを妙法と云うなり。しかるを高祖御一人に限ると云わば、妙法還って麁法と成るに非らずや。(是三)

第三に、『法華肝心抄』を評せば、

「妙法蓮華経は我が身も体なり」と遊ばすは、十界己己の当体、即ち妙法蓮華経の体と判じ給うなり。

石徒が如く、ただ高祖御一人に局しめば、法華経に背き御書に乖(ソム)く。

方便品に云く「如是相性体(乃至)本末究竟等云々」と。是れ則ち十界各々の十如是なり。ただ有情のみに非ず、草木国土にもまた十如是を具す。

故に『本尊抄』に云く「百界千如一念三千は非情の上の色心の二法十如是れなり」と。

石徒既に一念三千を殺す。妙法何(イズ)くにありや(是四)

『当体義抄』に云く、

「問う。一切衆生皆悉く妙法蓮華の当体ならば、我等が如き愚癡闇鈍の凡夫即妙法の当体なりや。答う。(乃至)実経の法華経を信ずる人即当体の蓮華、真如の妙体是れなり。」と。

また、云く、

「所詮、妙法蓮華の当体とは法華経を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是れなり。(乃至)無作の三身本門寿量の当体の蓮華仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり。」と。

御書明らかに日蓮一人に限ると仰せられず。もし限ると仰せあれば妙法にあらず、麁法なり。(是五)

石徒一部に通ぜず、台当の判教に暗らし。故に強ちに、機を上げて還って経を謗ずるに成るを知らず。

四信五品抄』に云く

「爾前の円教より、法華経は機を摂す、迹門より本門は機を尽くすなり。教弥実位弥下の六字に心を留めて之を案ずべし。」と。(是六)

予が門流は日蓮法華宗なる故に阿鼻の依正、妙法の当体と談ず。況や我等衆生をや。石徒は魔王の相伝宗なる故に蓮祖御一人に局らしめ、仏法の深義を破壊するのみ
(是七)。

(金剛亀羊辨巻上。宗学全書第六巻391~394頁)

京都本圀寺・了義日達上人著『本迹雪謗』に於ける批判。
予たまたま彼の『本因妙抄』及び『百六箇』等の抄を獲て、之れを電矚(デンショクさっと早く見る)するに、勝(あげ)て論ずるに足らず。謀計偽作なり。

彼の抄の初めに云う、

「伝教入唐して仏立寺の大和尚に値い。大唐貞元十四年五月三日に三大部に各七面七重の口決有ることを伝受す。」最末に至るまで此の文底の問答有り。
「弘安五年太歳壬午十月十一日本因妙の行者日蓮之を記す」と。

今、謂(い)はく。

汝が輩つらつら之を案ずべし。高祖十月十三日に入滅したまう前へ十一日に之を記すと。高祖何の閑暇有ってか、煩わしく沙石を数えるが如く鎖細(ササイ)の名目を記したまわんや。

大概、修善寺決にならうて、その面目を替えるのみ。

録内録外の書に於いて全く此の体例無し。

また「百六箇抄」の如き、即ち百六箇条の本迹の数量を記せり。それ物に本末有り、事に始終有り。もし此れを以て本迹に名づけば則ち無尽の本迹有らん。何ぞただ百六箇のみならんや。

其の多数を列ねて何の詮か有るや。

また高祖録内外諸御書に於いて広く本迹の起尽を記したまう。其の文甚だ夥(オオ)し。

何の子細有ってか入滅の際に臨んで特(ヒト)り寿量品の文の底の文に於いて、自ら料簡を設(モウク)るや。

 

況やまた「応仏の域を控えたる辺は理の上の法相なれば則ち一部共に理の一念三千脱益の文の上」とは、知んぬ、其の文の底は応に是れ一部の意、事行の南無妙法蓮華経なるべし。

もししからずんば文の上と文の底と甚だ不対を成す。何ぞ文の上は是れ一部共に理の一念三千なり、文の底は是れ唯だ本門事行の題目なりと言うや。

 

彼の「本因妙抄」に云く

「もし末法に本迹一致を修行し所化等に教えるは、我が身五逆罪をまぬがれず無間に堕ち、其の随従せる輩も阿鼻に沈まんこと、疑い無きものなり」と。

もし其れ高祖入滅の時に臨んで此の厳誡有らば、則ち諸の弟子檀那

、誰が一人として本迹一致を修行するもの有らんや。

然るに日昭日朗を上首として諸の弟子等、都(スベ)て是れ本迹一致なり。今に至って門流全く異轍(イテツ)無し。しかも日興聖人もまた御義口伝の如く、六老一同にかって本迹勝劣僻見無し。故に知んぬ。本因妙抄百六等は後世の妄作なり。

(法華本迹雪謗巻第四)

一妙日導上人『祖書綱要(巻の二十)』に於ける批判。

『本因妙抄』に云く、

「もし末法に於いて本迹一致と修行し、所化等に教える者は、我が身も、五逆罪を造らずして無間に堕し、其れに随従せし輩も阿鼻に沈まん事、疑い無き者なり」と。

予、此の文を見て大いに疑惑を生ず。此の書もし我が祖の真書ならば、則ち我が祖、先ず阿鼻に堕ちたまわんか。

何となれば『観心本尊抄』の正宗分の大旨、向(サキ)に已に辨ずるが如く、在世迹本転入の教相を借りて、像法の迹門過時の不思議一を簡(エラ)び、神力嘱累両品の付嘱に依って、在世本門脱益の不思議一を択(エラ)び、本化付嘱の観心の法体、生仏本来一体の妙法を連(ツ)れて、用の迹本開結十巻を引き下して、以て、御五百歳始の観心の不思議一を顕し、寿量品の教主釈尊と法華経開結十巻と受持の行者の肉身と、全く不思議一体の三法なりと示して、唱題の行者をして、受持成仏の信心を決定せしめたまう。

是れ則ち「応受持斯経是人於仏道決定無有疑」の経意なり。

「御義口伝」二百八十七箇の口決も、詮ずる所、久遠実成の釈尊と法華経開結十巻と唱題行者の肉身と全体不思議の一法なることを示したまうに在り。

是れ則ち高祖、親(マノア)たり、六老僧に対して受持成仏の本意の修行を伝えたまうなり。

「生死一大事血脈抄」に、最蓮房に対して、

「久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三は全く差別無しと解して、妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事血脈と云うなり。此の事、ただ日蓮が弟子檀那等の肝要なり、法華経を持つとは是れなり」

と示したもうと、全く同意なり。

此の如く六老及び諸弟子檀那に対して、本迹不思議一の修行を教えて、或いは「日蓮当身、一期の大事」と云い、或いは「日蓮が本意末代の亀鏡なり」と示し竟(オワッ)て、しかして後に弘安五年入滅の際に至って、「本因妙抄」を撰述して、「もし末法に於いて本迹一致と修行し、所化等に教える者は、能所倶に阿鼻に堕せん事、疑い無し」等と記して、しかも竊(ヒソカ)に、興師一人に付嘱したまわば、吾が祖還って阿鼻に堕ちたまうべし。

五老僧並に諸弟子檀那を教えて、諸人をして、久遠実成の釈尊と法華経開結十巻と受持行者の肉身と、全く不思議一の法にして毫(ゴウごくわずか)も三の差別無しと信解して、南無妙法蓮華経と唱へせしめたまうが故なり。

(祖書綱要巻の二十の二十三~二十四)

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