唱題の論理。
「唱題はいかなる経証に基づくのか」とか「受持唱題によって釈尊の因行果徳が譲与されると云うが如何なる道理に立って云うのか」とか「禅思三昧にどうして代わり得るのか」などという質問を受けることがあります。この小論は、それらの質問への応答を書き直したものです。また同様の質問に対しての先師の応答を抄出しました。

 
一 法華経の力用

「ために実相の印を説く」(方便品)
  
(この法の本性の目印(実相印)を説くのである。植木雅俊訳)
「この妙法は 諸仏の秘要なり」(方便品)
  
(このことはあなたにとって秘要[の教え]であるべきである)
「いまし大智を教えたもう」(信解品)
  (
ブッダの知を与えられます・植木訳317頁)
「この経はこれ諸仏の秘要の蔵なり」(法師品)
  (
如来にとって、これは己心中の法として秘密にしているもので、如来の力によって保存されており・植木訳13頁)
「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆な此の経に属せり」(法師品)
  
(衆生たちのこの上ない正しく完全な覚りは、この法門から生ずるのである・植木訳17頁)
「法華経を聞かずんば仏智を去ることはなはだ遠し・・仏の智慧に近づきぬ」(法師品)
  
(この経を聞かずにいて、繰り返して修行することがないときには、そのようなそれら[の菩薩たち]は、ブッダの智慧の遠くにいるのである・・・ブッダの智慧のすぐ近くにいるのである・植木訳21頁)
「如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す。」(神力品)
  (
私は、この法門において、すべてのブッダの法(真理の教え)、すべてのブッダの威神力、すべてのブッダの秘要[の教え]、すべてのブッダの深遠な領域を要約して説いたのである・植木訳395頁)
 等の文によると、法華経は仏の証悟・大智・実相の印・仏陀の全てを説いたもの。それらを内蔵したもの。それらは法華経を媒介としてのみ知られ得るものと云う経意が窺えます。

 経題によって、経の教理を説明する解釈は、中国仏教で始まったことかも知れませんが、経題解釈によって、その経典の思想を示しえるので、「一題を開いて一部と為し、一部を合して一題と為す」(法華統略)と云う見方が中国にあり、また日蓮聖人も、「其経の中の法門は其経の題目の中にあり。」(曽谷入道殿御返事・真無・昭定一四〇七頁)と受け止めています。
「其経の中の法門は其経の題目の中にあり。」であるから、法華経本文の力用と同様に経題も「仏の証悟・大智・実相の印・仏陀の全てを説いたもの。それらを内蔵したもの。それらは経題を媒介として知られ得る」と云う力用があるという思想が成立します。

『四信五品抄』に「題目に万法を含むや」との問を設け、それに答えて、『法華玄義・序王』の章安大師の「蓋し序王とは経の玄意を叙す玄意は文の心を述す文の心は迹本に過ぎたるは莫し」との解釈を引用し、「濁水心無けれども月を得て自ら清めり。草木雨を得て花さく豈に覚あらんや。妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其義に非ず唯だ一部の意のみ。初心の行者其心を知らざれども而も之を行ずるに自然に意に当るなり。」と、「題目に万法を含むや」の問いにたいする答えの結びとしていますが、これも「仏の証悟・大智・実相の印・仏陀の全てを説いたもの。それらを内蔵したもの。それらは経題を媒介として知られ得る」と云う思想に基づく教示でありましょう。

  
二 題目の力用

 経題は「仏の証悟・大智・実相の印・仏陀の全てを説いたもの。それらを内蔵したもの。それらは経題を媒介として知られ得る」と云う思想を端的に述べているのが「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」(昭定七一七)との言葉と言えます。

 日蓮聖人の「釈尊の因行果徳は妙法蓮華経に具足する、受持すれば自然に譲与される」との教示の根拠の一つは、「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」(昭定七一七)と有るように、「妙法蓮華経は名・体・宗・用・教の五重玄義を具している」という確信だといえましょう。

 五重玄義具足とは、達意的に云えば、妙法蓮華経の五字は、仏の証悟が説かれており(体)、仏因仏果が説かれておおり(宗)、疑いを断ち切り信心を生じさせる力用(用)が備わっていて、かつ、妙法蓮華経と云う名に体・宗・用・教の四つが包摂されると云うことです。

 妙楽大師が名玄義を補釈するの中で、「声色の近名を尋ねて無相の極理に至らしむ。」と述べています。「妙法蓮華経と云う名によって実相(無相の極理)を証悟せしむる事が出来る」と云う思想が妙楽大師にもあった事が分かります。
 こうした天台大師や妙楽大師の思想を承けて、五重玄具足の題目を三業に受持すれば、断疑生信の益を得、仏因の修行が出来て仏果を具現できると日蓮聖人も確信されたのだろうと思います。

『観心本尊抄』において、「釈尊の因果の功徳が自然に譲与される」と明言する前の文段に『無量義経』の、
「善男子、第四にこの経の不可思議の功徳力とは、もし衆生あって。この経を聞くことを得て、もしは一転、もしは一偈ないし一句もせば、勇健の想いを得て、いまだみずから度せずといえども、しかもよく他を度せん。
  もろもろの菩薩ともって眷属となり、諸仏如来、常にこの人に向ってしかも法を演説したまわん。この人聞きおわってことごとくよく受持し、随順して逆らわじ。うたたまた人のために宜しきに随って広く説かん、善男子、この人は譬えば国王と夫人と新たに王子を生ぜん、もしは一日もしは二日もしは七日に至り、もしは一月もしは二月もしは七月に至り、もしは一歳もしは二歳もしは七歳に至り、また国事を領理すること能わずといえども、すでに臣民に宗敬せられ、もろもろの大王の子をもって伴侶とせん。王および夫人、愛心ひとえに重くして常に与みし共に語らん。ゆえはいかん、稚小なるをもってのゆえにといわんがごとく、善男子、この持経者もまたまたかくのごとし。
諸仏の国王とこの経の夫人と和合して、共にこの菩薩の子を生ず。もし菩薩この経を聞くことを得て、もしは一句、もしは一偈、もしは一転、もしは二転、もしは十、もしは百、もしは千、もしは万、もしは億万恒河沙無量無数転せば、また真理の極を体ること能わずといえども、また三千大千の国土を振動し、雷奮梵音をもって大法輪を転ずること能わずといえども、すでに一切の四衆・八部に宗み仰がれ、もろもろの大菩薩をもって眷属とせん。
深く諸仏祕密の法に入って、演説するところ違うことなく失なく、常に諸仏に護念し、慈愛ひとえに覆われん、新学なるをもってのゆえに。善男子、これをこの経の第四の功徳不思議の力と名づく」(十功徳品第三)
 との文の要点部分を引用して、法華経・題目が仏の三身を生ずる仏種で有ることの経証として挙げています。

法華経・題目によって仏の三身が生じる、すなわち成仏するということは、仏の因果の功徳が具現すると云うことなので、この文は、自然譲与の経証としても挙げられているのでしょう。
「釈尊の因果の功徳が自然に譲与される」と明言する文段に、経証として、同じく『無量義経』の、
「善男子、第七にこの経の不可思議の功徳力とは。もし善男子・善女人、仏の在世もしは滅度の後において、この経を聞くことを得て、歓喜し信楽し希有の心を生じ、受持し読誦し書写し解説し説のごとく修行し、菩提心を発し、もろもろの善根を起こし、大悲の意を興して、一切の苦悩の衆生を度せんと欲せば、いまだ六波羅蜜を修行することを得ずといえども、六波羅蜜自然に在前し、すなわちこの身において無生法忍を得、生死・煩悩一時に断壊して、菩薩の第七の地に昇らん。・・・」(十功徳品第三)
 との文の要点部分である「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」
との文を挙げています。

『無量義経』を受持読誦する功徳に、「六波羅蜜自然に在前す」と云う功徳・力用があるのだから、いわんや法華経の肝心妙法蓮華経を受持読誦する、すなわち受持唱題の功徳に於いておや、と云うお考えで無量義経の文を経証に使われているのでしょう。
 また、『法華経方便品』の「具足の道を聞かんと欲す」を経証として挙げています。日蓮聖人はこの文をもって、法華経、妙法五字が円満具足の大法であるとし、故に三業受持すれば心具の仏界を具現出来る、すなわち「釈尊の因果の功徳が自然に譲与される」と教示されたのだと思います。

  
三 宗門先師の唱題の論理

 江戸時代の真迢が「およそ成仏と云うは観行によるなり、但だ、口に題目を唱えて成仏すと云うことは全く道理も証拠もなし」等と、幾条かの批判しています。
 これに対する日蓮宗側からの反論書である観妙日存上人(~一六七一)の『金山抄』と蓮華日題上人(一六三三―一七一四)の『中正論』。ならびに本圀寺日達上人(一六七四~一七四七)が唱題行の根拠を挙げているので抄出します。

  
『金山抄』における唱題の論理

答う。法華の普賢品に云わく、「もし人有って、法華経を受持し読誦する者を見ては、応に是の念を作すべし。此の人、久しからずして当に道場に詣して諸の魔衆を破し、阿耨菩提を得べし」と。
既に五種の行の中に但だ(受持・読・誦の)三種を挙げて、思惟観念と説かず。解説を挙げず。
何ぞ、此の経文に背いて、成仏は観行によると云うや(是一)。
受持読誦あに唱題にあらずや。「当に道場に詣して、三菩提を得べしと。」あに成仏に非らずや(是二)。
『秀句』下に云わく、「当に知るべし。如来の滅後後五百歳に法華経を受持し読誦する者は速やかに仏果を成じて衆生を度脱す」と。
伝教大師殊に末法後五百歳の法華の行者を指して「速やかに成仏すと」決せり。
末法の受持読誦の行者とは、唱題正行一部助行の者なり。経文ならびに伝教大師の未来記、あに、はずれんや(是三)。
また『普賢観経』に云わく、「仏の滅度の後、仏の諸の弟子若し悪不善業を懺悔することあらば、但当に大乗経典を読誦すべし。此の方等経は是れ諸仏の眼なり。諸仏は是れに因って五眼を具することを得たまえり。仏の三種の身は方等より生ず。是れ大法印なり、涅槃の海に印す。此の如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は人天の福田、応供の中の最なり。其れ大乗方等経典を誦読することあらば、当に知るべし、此の人は仏の功徳を具し、諸悪永く滅して仏慧より生ずるなり。」と。
「読誦大乗」あに唱題に非らずや。「仏慧より生ずる」は、是れ法華の譬喩品の「仏口より生じ、仏口より生ずる所の子なり」の文と同じ。あに、成仏に非らずや。経文釈書一つならず、何ぞ道理証拠全く無しと云うや(是四)。
等と反論しています。

 また、さらに、「経文には、読誦法華経、大乗を誦すべし。と有って、題目とは云っていない。故に唱題の文証にならない」との問に対して、次のように反論しています。

答う。『疏記』の一に云く、「句句の下に通じて妙の名を結す」と。
『弘決七』に云く、「一代の教法は首題の名字なり。名は一部の部内の義を該(か)ね、大小時節因果を兼ぬ」と。
此等の文のこころ、惣じて一代説教は但だ題号の名字肝要なり。
華厳経は大方広仏華厳経と云う題号に、華厳一部の功徳を具足し、部内の一切の義を含摂せり。・・・
故に、『観経』に云く、「命終わらんと欲する時、善知識の為めに大乗十二部経の首題の名字を讃ずるに遇って、是の如くの諸経名を聞くを以て、千劫の極重の悪業を除却す」と。
諸経の題目、尚しかなり。況や三説超過の法華の題目に於いておや(是五)。
故に法華は諸経と大いに異にして、法華一部の文文句句には、悉く皆妙法の名を結し、一部の体宗用は悉く皆な妙法蓮華の題目の中に具足せるなり。
ただ、法華経を読誦する功徳、なお久しからずして成仏す、いかに況や一部の功徳深義を円(まどらか)に具足せる題目を唱え信ずる人においておや・・・(是六)。
また、唱題の一行に五種の妙行を具することは、前の百四十三条に示すがごとし。・・・(是七)。
また、もし但だ観行を以て成仏の行とせば、経文に何ぞ受持読誦法華経と云えるや。和漢両朝に、観行をこらさずして、但だ法華を読誦して現に六根清浄の位に登る人、いくばくぞや。具に諸伝の如し。一部読誦の人、なおしかなり。況や一経の肝心、本地甚深の妙法の唱えをなす人においておや。すでに文証現証あり。何ぞ道理証拠なしと云うや(是八)。
等と反論しています。

 さらに、「題目は名である。名は理ではない。理は名字を離れたものであるから、何ぞ但だ名を唱えるだけで理を観じないのでは成仏できないであろう」との批判に対して、次のように反論しています。
答う。名理各別はこれ法華以前の四教の中に、三蔵別教の所談なり。通教の中にすら、なお、色即是空、空即是色を明かす。況や昔の円に於いておや・・・故に『止観』の二に云く「名即ち理なるが故に、止観は三徳に通ず。理は即ち名なるが故に、三徳は止観に通ず」と。
止観の名のところ即ち是れ三徳の妙理にして、名の外に理無し。三徳の理は即ち名なるが故に、理の外に別に名無し。能通所通の別有るに似たれども、能所一体にして、名理不二なり。真迢、此の旨に暗くして、名の外に理観を求めること、天台を学すといえども、彼の小乗三蔵の人に同ずる者なり(是九)。
また、『弘決』の三に云く、「故に知んぬ。諸の名は理に法(のっとっ)て立つ。既に理に法(のっと)る。理また名に因る。故に、妙の名を仮(かっ)て、以て、妙の理を詮す。・・・」と。
此の文のこころは、世間の名とは、本と是れ出世の聖人、本より迹を垂れて、能く理を観じて、その理にのっとって名を立つるところなり。
故に、妙の名は本と事理具足、権実体一の妙法の理にのっとって立つるところの名なれば、妙の名を離れて別に妙体妙徳なし。
世人これを知らずして、但だ、無言無名をたっとぶは、但だ理にそむくのみならず、また、言説の道理にも背く故に、事理ともに取りはずせり。・・・(是十)。
等と答え。

 さらに、「もししからば、但だ唱題の行のみにして、観法を修せずして成仏すべしや?」との質問に対して、次のように答えています。
答う。二類有るが故に、経に二説あり。前に引く『普賢品』の文に
「受持読誦法華経」と説いて、思惟観念を挙げざるは、これ一類の機類の得道の為めなり。
また、『普賢品』に「修習思惟正臆念」と説くは、これ一類の機の為めなり。もしは修習の力、もしは持誦の力、共に仏恵を開覚して、速やかに仏果を成ずるなり。故に「是人不久当詣道場、得三菩提」と説けり。
等と答えています。

さらに、「無智唱題の人は能く悟りを開いて成仏することは出来ないのではないか?」との質問に対して、次のように答えています。
答う。無智を尊ぶと云うには非ず。無智の者は見罪を生ぜず。信心ある故に速やかに成仏すと云うことなり。
信心は直ちに能く理を顕すこと、水中の月の如く、愚に即して速やかに開覚す。
多知の者には見惑有って、正信薄き故に、妙理に遠く隔てること、袋の底の玉のごとし。邪見を翻(ひる)がえさざれば、開覚することあたわず。
名字初心の人、五品六根の位に上って、観法を成就することも、初心唱題の功力に依って成ず。修するところの観智、また外にあるに非ず。
唱うるところの妙法の名の中に体宗用の三を具足し、迹本二十の妙境妙智等を含摂すること、如意珠の中に、一切の勝宝を収めたるが如し。
まさに知るべし。妙解、妙行、成仏得脱、果後の応用に至るまで、初心始行の一辺唱題の中に具足して、自己の色心の性体を顕す故、此の性にかなう行を仏因として、此の行、成ずる時を仏果とするなり。
等と答えています。

さらに、「題目を唱うべしと云う証文有りや?」との質問に対して、次のように答えています。
答う。第三巻二百七十六条に、天台妙楽の諸文を引くが如し。今また、経の現文を引かん。同本異訳の正法華経に云く「もし此の経を聞いて、名号を宣持せば、徳量りあるべからず」と。名号とは、法華の名号題目のこと。宣持とは、此の題目を弘宣し受持せよと云うこと。徳とは 功徳。仏の智慧を以てもはかるべからざる大功徳なり。
また、同醍醐味の『涅槃経』の三に云く、「もし、善男子善女人有って、是の経の名を聞いて、四趣に生ぜば、是の処(ことわり)有ること無けん」と。
一(ひと)たび 大涅槃経と云う題目を聞く者、なお、地獄餓鬼畜生修羅の四悪趣に永く生ぜず、況や三説超過の法華の名を聞く者をや。
但だ聴聞の功徳かくのごとし。況や聞法の上に受持読誦する者をや。況や如説に修行する者をや。
等と答えています。

  
『中正論』の唱題の論理

答。一には、題名受持の功徳無量なるが故なり。
陀羅尼品に云く「受持法華名者福不可量云々」と。此の文に古来より両義あり。名義相対と題号入文相対となり。
何れにても、法華の名字を持つ功徳、無量無辺にして籌量(ちゅうりょう)すべからずとなり。既に功徳に際限なし。此の無量の功徳を尽形(形尽きるまで)修習せば、あに一生に成仏を期せざらんや。
涅槃経の第十(南本)に云く、「仏、迦葉に告げたまわく。もし是の経の名字を聞くこと有らんに、所得の功徳は、諸の声聞、辟支仏等の能く宣説する所に非ず。唯、仏のみ能く知ろしめせり。何を以ての故に。不可思議にして是れ仏の境界なればなり。何に況や経巻を受持し読誦し通利し書写せんをや」と。
同醍醐味の涅槃聞名の功徳、かくの如し。況や醍醐正主の法華の功徳をや。
二には、小善成仏の経なるが故なり。
方便品の中に、小善成仏を明かすに多類あり。其の中に、一称南無仏の小善成仏の文に云く、「もし人、散乱の心に、塔廟の中に入って、一たび南無仏と称せし、皆已に仏道を成じき。云々」と。
昔日の 一称南無の小善すら、今日、法華の開会に預(あずか)って皆已に仏道を成ず。何に況や、直ちに法華の題名を唱うる功徳、争(いかで)か仏道を成ぜざらんや。
僅(わず)かに仏名を散心口称する、なお開会に依って仏道を得たり。況や勝れたる妙名を多時不退に深心称念せば、あに成仏せざらんや。
もし小善成仏を信ぜざらんは、則ち法華を毀謗するになるなり。
故に法華の小善成仏を信ぜば、能開絶妙の唱題成仏、更に疑いあるべからず。
三には、一句一偈受持の功徳、広大なるに准ずるが故なり。
薬王品に云く、「若し復人あって、七宝を以て三千大千世界に満てて、仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養せん。是の人の所得の功徳も、此の法華経の乃至一四句偈を受持する、其の福の最も多きには如かじ。」と。
天台大師、法華文句に釈して云く、「七宝を以て四聖に奉るも、一偈を持つにはしかず。法は是れ聖の師なり。能生・能養・能成・能栄、法に過ぎたるは莫(な)し。故に人は軽く法は重きなり云々」と。
此の経釈の如んば、法華の一偈一句を受持するは満三千界の七宝を以て、四聖に供養するに過ぎたりとなり。是れ則ち法華は是れ諸仏、師とする所の法体、諸経超過の妙理なるが故なり。
既に一偈一句受持の功徳、なお、しかなり。況や六万九千三八四の文字功徳を包含する題名受持の功徳をや。
さればかくの如きの広大の功徳を積習するもの、争(いかで)か一生に仏道を成就せざらんや。
世人、もし満三千界の七宝を以て四聖に供したらんものを見ては、是の人は必ず成仏すべしと思うべし。然るに此の功徳に万億倍勝れたる法華唱題の行者をば、鎭(とこしえ)に是れを見聞するといえども、信楽することもなく、決定成仏の人とも思わず、かえって軽賤憎嫉(きょうせんぞうしつ)するなり。あに、あさましきことに非らずや。
法師品には、「一句一偈皆当作仏」と宣(のべ)たり。況や題名称念の行者をや。
輔行の七に云く、「一代教法の首題の名字は名に一部を該(か)ね、部内の義、大小時節因果を兼ね、互いに形(あらわ)せり。云々」と。
記の八に云く、「略して経の題を挙げ、玄に一部を収む云々」と。
諸経の題号に分々に一部の功徳を該羅(がいら)すること一代教法の常なり。
故に法華の題名を唱えるは必ず法華一部の功徳を受持するになるなり。
知んぬ、一偈一句受持の功徳、広大なるに准(じゅん)ぜば、一部の功徳を含摂する題名受持の功徳は、いよいよ辺際なきが故に、成仏更に疑いなし。
四には、聞き難きを聴く、其の功、莫大なるが故なり。
一乗要決の中に云く、「およそ衆生の機は、多く流転に順ず。設い出離を求むるとも、また、多く権機なり。故に法華に云はく、『諸仏世に興出したまうこと、懸遠(けんのん)にして値遇(ちぐう)すること難し。正使(たとい)世に出でたまうとも、是の法を説くこと、また難し。無量無数劫にも、是の法を聞くこと、また難し。能く是の法を聴く者、斯の人また復難し云々』と。
則ち知んぬ。円機難きが故に仏説是れ難し、法深重なるが故に、仏証明を願(おこ)す。慈氏の化儀、理もまたしかるべし」と。
法華の行者、多時の修行をからず一念成仏の理なくんば、あに労(わずらわ)しく、此の聞法難、能聴難を説き玉わんや。ききがたきを能く聴くの輩、争(いかで)か成仏せざらんや。
安楽行品に云く、「是の法華経は無量の国の中に於いて乃至名字をも聞くことを得べからず。何に況や見るを得て受持し読誦さんをや云々」と。
法華の名(みな)を聞くことの希有なること金言かくのごとし。然るに今、飽くまでに是れを聞き、是れを唱え受持読誦すること、あに小縁(おぼろげ)ならんや。
知んぬ、唱題の功徳、莫大にして速やかに仏道を成ぜんことを。
五には、諸経超過の妙名なるが故なり。
其の故は小乗の四諦の名を囀(さえず)る鸚鵡(おうむ)、なお天に生じ、三帰ばかりを持つ買客すら大魚の難を免れたり。其の旨、賢愚経、大悲経に出でたり。小乗、権大の利益、なお、かくのごとし。何に況や法華実大の妙旨をや。・・・
六には、名は必ず体を顕す功あるが故なり。
釈籤の一に云く、「声色の近名を尋ねて、無相の極理に到らしむ。故に此の妙法の名を以て、実相の法に名づけて妙機の当に実に入るべき者に施設す」と。但だ妙法の名を唱えて無相の極理に到る義なくんば、あに此の判釈あらんや。
もし、必ず観行成就して極理に到るのみといはば、声色の近名の施設、由なきに似たり。知んぬ。近名を唱えて実理に達到することあることを。
誰か此の判釈を見て、観念によらざれば成仏せずと云う義を許さんや。名詮自性の義は下に弁ずるが如し。
七には、妙法の名に観解の徳を備えるが故なり。
顕戒論の上に云く、「天台の道遂和尚、慈悲を以て一心三観を一言に伝え、菩薩円戒を至信に授く」と。
此の文に一言と云うは、正しく妙法の一言なり。既に妙法の一言に一心三観を具足せり。故に一たび妙法の名を唱える者、三観を備足すること疑いなし。
天台大師の灌頂玄旨血脈に云く、「一言の妙旨、一教の玄義云々」と。
伝教大師の註血脈に云く、「それ一言の妙旨とは、両眼を開いて五塵の境を見る時は、隨縁真如なるべし。五根を閉じて無念の心に住す時は、なお不変真如なり。故にこの一言を聞いて、万法茲に達し、一代の修多羅一言に含す」と。
文の如くんば、天台大師の血脈相承最要の法とは妙法の一言にあり。妙法の一言に三観円備すること師資の血脈、いささか違うことなし。
是の旨、具に吾が祖の立正観抄に弁明せるが如し。
真迢、既に妙法の観解に由って成仏することを許す。しからば何ぞ妙法の一言に三観を円備するを弁えずして、唱題成仏の義を妨(さまた)ぐるや。
解脱上人の魔界回向の法語に云く、「魔界を遠離するに、二つの方便有り。一には慈悲。二には空観なり。今、いささか思う所、是れ慈悲の方便なり。空観に於いては、旦く先ず大乗経典秘密神呪等を読誦す。皆是れ第一義諦、甚深の空法なり。若し文言を唱えれば、能く空理を顕すなり。云々」と。
経を誦し文を唱えて空理を顕すことは、真迢も非すべからず。
知んぬ。妙法を唱えるもの争か三諦三観を顕さざらんや。
唱題成仏の義は、古哲の評量(ひょうりょう)繁多なりといえども、旦(しばら)く七義を記するのみ。煩わしく書せず。学者よく上来の七義を識了せば、真迢が唱題不成仏の義は法華不信の過(とが)なることを知るべし。
もし強いて彼が如く、成仏得道は必ず観行成就に限るといはば、何ぞ法華の明文ならびに祖師の判釈に聞法得脱、受持読誦の成仏を論じ玉へるや。
法華薬王品に云く、「宿王華、汝若し是の経を受持することあらん者を見ては、青蓮華を以て抹香を盛り満てて、其の上に供散すべし。散じ已って是の念言を作すべし、此の人久しからずして、必ず当に草を取って道場に坐して諸の魔軍を破すべし。是の故に仏道を求めん者、是の経典を受持することあらん人を見ては、応当に是の如く恭敬の心を生ずべし。」と。
普賢品に云く、「普賢、若し如来の滅後後の五百歳に、若し人あって法華経を受持し読誦せん者を見ては、是の念を作すべし。此の人は久しからずして当に道場に詣して諸の摩衆を破し、阿耨多羅三藐三菩提を得、法輪を転じ法鼓を撃ち法螺を吹き法雨を雨らすべし。」と。
如来、既に滅後末法の衆生、法華を受持読誦して成仏すると、の玉へり。
観行なきものは成仏せずとは、の玉はず。真迢何ぞ如来の玄鑑を信ぜずして成仏は必ず観行成就に依ると云うや。是れ破法不信の罪なり(是一)。
また、経文に既に受持読誦の者を不久詣道場と等(ら)宣(のべ)玉へり。不久の言は成仏の期、近きにあること隠れなし。
しかるを観行なきものは浄土に生ずることはあるべし、速やかに成仏することはあるべからずと云うは、是れ真迢が経文の不久の語を抉(くじ)く大罪なり(是二)。
涅槃経の六に云く、「或いは衆生有り、是れ仏弟子、或いは非弟子、もしは貪怖に因り、或いは利養に因りて、是の経の乃至一偈を聴受し、聞き已りて謗ぜずば、当に知るべし。是の人は則ち已に彼の彼の阿耨多羅三菩提に近しと為す」と。
文の如くんば、当説の涅槃経の一偈を聞いて謗心を生ぜざる者、なお、得近菩提の義あり。況や深心に三説超過の法華を受持読誦せん者、争か速やかに菩提を成ぜざらんや。(是三)。
弘決の一に云く、「もし三道即是三徳なりと信ずれば、なお、二死の河を渡る。何に況や三界をや云々」と。
祖文、分明に若信と等(ら)判じて、法華の妙理を信受するものは二死の愛河を度して三菩提の果を得ると決せり。
真迢、いかなれば聞法信受の成仏を拒むや。是れ祖敵の罪なり(是四)。(『中正論』巻の二十・20左~27左)より抄出)

  
『鷹峰群譚』における唱題の論理

 『鷹峰群譚』の「唱法華題目」の項に於いて「高祖が唱題成仏を談じているが、唱題の言が何れの経にでているのか?」との問を設け、
諸経を説き給ふに(仏)自ら其の経の題目を唱ふること有り。
①且つ金光明経の如き曰く『是の如く我れ聞く是の時に如来無量甚深法性に遊び給ふ。諸仏の行処、諸の菩薩の所行清浄なるに過ぎたり。是の金光明は諸経の王なり。』と。是れ即ち如来深法性に遊びたまひ、便ち、自ら経題を唱えて是の金光明は諸経の王なりと曰ふ。此れ正しく是れ仏自ら題を唱へたまふ典拠なり。
②法華経に曰く『仏、此の妙法華経を以て付属すること在らしめんと欲す』と。此れ復、仏付属せしめんと欲して自ら題を唱へたまふなり。
③又、法華文句第一に云く『仏話経に明かさく、文殊結集するとき先ず題を唱へ、次ぎに如是我聞と称す。時の衆皆な悲号す』と。即ち是れ菩薩、題を唱へたまふの依憑なり。
④又、智者大師、天台を出でて乃ち石城に至り、徒衆に謂ひて曰く『吾が命、此処に在り、故に前進せず、』と。石像の前に於いて滅を取りたまふ。弘決第一に云く『三衣を索(さが)して命じて掃灑(そうしゃ)せしめ、法華感無量寿二部の経題を唱へしめ、兼ねて讃嘆し畢んぬ』と。斯れ復、諸の弟子の題を唱ふるの立処なり」(『鷹峰群譚』巻第一・唱法華題目)
と4根拠を挙げ答えています。

 しかし、①②③は仏あるいは菩薩が経の題目を名付けた文拠であって唱題の直接的文拠ではないように思います。『金光明経』の場合は「僧愼爾耶薬叉大将品第十九」の「此の経中に於いて、乃至一四句頌を受持し、或は一句を持し、或は此の経王の首題名号、及び此の経中の一如来の名、一菩薩の名を発心称念して、」の文の方が称題の文拠になると思います。

 さらに唱題に効験あることを『鷹峰群譚』巻第一の「称題功徳」において、
法師品に云く『一偈一句を聞いて、一念も随喜せんに、皆な受記を与ふ』と。又曰く『須臾も之れを聞けば、即ち究竟の三菩提を得る』と。宝塔品に云く『此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は則ち為めに疾く無上仏道を得る』と。前の品に相続いて乃ち今妙法華経を聞いて、浄信信敬すと説くことを得る豈に一念信解を隔てんや。故に一期の一唱も亦た其の中に在り。
涅槃経第三名字功徳品に云く『もし善男子善女人有りて、是の経の名を聞いて四悪趣に生ずと云はば、是の処り有ること無し。』と。・・・涅槃聞名なお悪に堕せず。況んや法華の題をや。・・・
同経(涅槃経)第七・四諦品に云く『もし能く如来常住変易有ること無きを知り、或は常住の二字の音声を聞く有りて、若し一たび耳に経(ふ)れば、即ち天上に生ぜん。後に解脱の時、乃ち能く如来常住にして変易有ること無きを証知す』と。・・・一には涅槃経はわずかに常住の二字を聞くすら、なお悪趣を離れ不動国に生ず。況んや此の妙法蓮華経は是れ五字七字なり。聞いて而して唱ふる者、何ぞ不退に至らざらんや。二には彼れ(涅槃経)は如来常住無有変易の二句八字の中に但是れ二字なり。此の妙法の題は一経の枢要にして玄(おくふか)く一部を収む。三には彼は(涅槃経)は常住の二字の音声を聞いて只だ一たび耳に経(ふ)るのみ。況んや此れは妙法蓮華経を聞いて復、浄心に信敬す。悪趣を離れ不退に至ること何の疑いか有らん。・・・五には彼は(涅槃経)常住の二字只だ一たび耳に経(ふ)るるに、此れは妙法の題を聞いて心に信じ、口に唱ふ。是れ一念なりと雖も、既に三業相応せり。
等と、涅槃経の経名や如来常住不滅の言葉を聞くことの功徳に例して妙法題目の音声を聞く功徳を証しています。

さらに、「火を喚ぶ時に焼けず水を喚ぶ時に渇止まず」の項において、「火火と喚ぶといえども手に触れなければ火傷することもなく、水水と喚んでも実際に口に飲まなければ渇きや止まない。ただ南無妙法蓮華経の題目を唱えるだけで義趣も解さないのに悪趣を免れることなど出来るのだろうか?」との問を設け、それに対して、
名の法に即する者有り、名の法に異する者有り。名の法に異なりとは則ち所難の水火の譬えの如し。名の法に即する者とは則ち師子の筋の意無くして而も音声、即ち余の絃を絶し、また梅酢の声を聞いて口に噛まざれども而も口中潤うが如きなり。世間の質礙の物なお名の体を召すの徳あり。況んや妙法の題は名の妙極なり。実相深理は虚通無礙なり。妙体は応じ、妙法は体を召す。是の故に、妙名を唱へて必ず実相に至る。況んや妙体不二にして名の外に体無く、体の外に名無し。文字即解脱なり。故に玄義一に云く『云う所の妙とは不可思議の法を褒美す。又た妙とは、十界十如の法なり。此の法は即ち妙、此の妙は即ち法にして、二無く別無きが故に、妙と言うなり』(私序王)と。此の二釈は初めは妙の名は法体に応ずるを釈す。次ぎは妙体不二にして妙名の外に更に別法無きことを釈す。・・・世間の奇特是の如し。何に況んや妙法の名、滅悪生善の功用を備へざらんや。涅槃経第九菩薩品に云く『譬えば人有って雑毒薬を用いて太鼓に塗り、衆生の中に於いて撃ちて声を発(いだ)さしむ。心の聞かんと欲する無しと雖も、之れを聞かば皆な死す。是の大乗典大般涅槃経も亦復是の如し。在在処処の諸行の衆生、声を聞くこと有る者は。あらゆる貪欲、瞋恚、愚癡悉く皆な滅尽す。其の中、心に思念する無き有りと雖も、是の大涅槃因縁力の故に、能く煩悩を滅して而も結自ら滅す』と。大凡(おおよそ)毒薬或は触れ、或は嘗むれば則ち方に死すべし。而も鼓の声を聞いて即ち死する所以は其の毒、其の声に寓するに由るを以ての故に、聞く者皆な死す。以て大涅槃の経用に譬ふ。況んや此の妙法蓮華経は三説超過の経王、諸仏証得の妙法なり。故に、唱題の音声、自然に滅悪生善の妙用を備足す。是れを以て義趣を解せざれども一たび妙名を唱へれば、能く衆悪を滅し、速やかに実理を証すること仰いで信ずべし。
等と、妙体不二の妙名であるから唱へ声を聞けば、滅悪生善・実相証得の妙用を備えている、と論じています。

「火を喚ぶ時に焼けず水を喚ぶ時に渇止まず」の項に於いて、古書に有る体験談的な話しも挙げていますが、現在の人に対して唱題の効力功徳を証する実話にはならないでしょう。日達上人の唱題の論理も先に挙げた先師と同じく経力、題目の功徳力を基にしたものなので、経証や題目の功徳力を信じない人には説得力は無いかも知れません。
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