日蓮正宗・創価学会の種脱観への批判

 

日蓮正宗や創価学会では、【脱益の一品二半は末法には用なしであり、脱益の一品二半を説いた釈迦は脱仏で、末法には用なしであり、法華経読誦など行にならない。方便品などは所破の為めに(否定するため)に読むのだ】などと、とんでもないことを主張しているのです。

一妙院日導上人が『祖書綱要』(巻の二の四十~六十四)に、こうした日蓮正宗の種脱についての考え違いを詳しく批判しているので、日蓮正宗の種脱観に対する日導上人の批判の要旨を以下に紹介します。

 

 

【他門の中に、種脱相対に約して勝劣の義を立てる者がある。彼等は

一に、寿量品の文底の法門を知らないから、在世脱益の一品二半を寿量品の文上として、題目の五字のみを寿量品の文底であるとして、勝劣の義を立てるのである。

しかし、在世の一品二半と末法題目の五字とは倶に、文底の法門である。故に、「在世の本門と末法の始めは一同に純円なり」と云っているのである。倶に純円なのだから勝劣は云えないではないか。

 

二には、今の寿量の一品を天台大師所弘の法華経であると思って、勝劣ありとしてしまっている。

迹化所属の随他本門五百塵点の遠本は寿量品の文面であって、「一念三千殆ど竹膜を隔だつ」である。在世脱益の寿量品の随自本門は、寿量の文底に正しく顕説されている事の一念三千の正説である。

 

三には、種脱相対とは正説と流通との違目である。

在世脱益の寿量の一品二半を以て、無作三身の当体蓮華の正説分として、末法下種の題目の五字を当体蓮華の流通分とするのである。

 

在世脱益の寿量の一品二半を本化付嘱の正説分とするのは、在世脱益の寿量の一品二半に於いて、正しく無始の十界互具百界千如一念三千を顕説しているからである。

そして、この一念三千因行果徳の宝珠を妙法五字の金剛不壊の袋に入れて、上行菩薩等の四大菩薩に、後五百歳末法の初めに流通せしめると云うことである。

故に、末法下種の題目の五字を流通分とするのである。これは正宗分の法門を滅後に流通すると云うことであるから、正宗分は劣り、流通分が勝れていると云うことは出来ない。

 

寿量品の説を聞いて、等妙の脱益を得た者は、寿量品の文底の常住一体の三宝を信じるがゆえである。

この一体の三宝は即ち是れ寿量品の三大秘法である。此の三秘を合して題目の五字と作して、之を上行菩薩等に授与して、末法の逆謗に下種するのである。

 

在世脱益の要品の正説である常住一体三宝の極理の外に勝法はない。この常住一体三宝の極理の勝法の外に末法下種の法と成るものはない。

このような訳で、種脱相対に勝劣の義を立てることは日蓮聖人の意に背くことである。

 

況や、種脱は一雙である。例えば果実を其の種子とすると同じであるから、脱益の一品二半は劣り、下種の題目は勝れると云う理は無い。

故に、「本尊抄」には、正宗の一品二半を簡んで流通の題目の五字を取るために、先ず其の法体同を示して「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり」と云っているのである。「一同に純円」に於いて勝劣浅深を立てることは出来ない。

 

種脱相対の判の目的は、在世と末法との得益が不同である故に、要法の異を簡ぶことにあって、其の法体に浅深勝劣を論ずる為めではない。

 

本尊抄に、「此れは但だ題目の五字なり」とあるのは、末法の初めの謗国逆化の大体に約して、下種の要法を選択しているのである。「逆縁には但だ妙法蓮華経の五字に限るのみ、」と云う意味である。

日蓮聖人の門弟などの信順の人たちに約せば、この題目即ち事行の題目で、末法の正行である。一部読誦は助行なのである。

故に、「御義口伝下」にも

「廿八品は用なり廿八品は助行なり題目は正行なり正行に助行を摂す可きなり云云。」とある。

 

本門の本尊は、崇重礼拝する順縁の者のためで、逆縁に与えるものではない。本門の戒壇も「王臣帰依の時」を俟つとあるので、逆縁の為めのものではない。読誦広略の助行も正行さえ修さない逆縁には関わるものでない。

 

そこで、末法の初め一国謗国逆機の為めに、仏大慈悲を起こして妙法五字の金剛不壊の袋の内に釈尊の因行果徳、法華経の文文句句の功徳を裏んで、但だ妙法蓮華経の五字と作して、日本国の逆縁に下種し、「因謗堕悪必由得益」せしめることが下種の益相である。

 

「此れは但だ題目の五字なり」と有るが、文意には、題目の五字に連れて末法の助行の一部八巻二十八品悉く南無妙法蓮華経なるものを撰取する意があるのである。

「御義口伝下」に

「法華経一部は一往は在世の為なり再往は末法当今の為なり、・・・品品の法門は題目の用なり体の妙法末法の用たらば何ぞ用の品品別ならむや。天台の『綱維を提ぐるに目として動かざること無きが如し』等と釈する此の意なり」

と有るように、題目の五字は体、迹本二門二十八品は此の五字を顕説するの用である。

妙法蓮華経とは久遠証得の当体蓮華にして是れ体であり、所詮である。本迹二門は此の当体蓮華の五字を顕説するの用である。

後五百歳末法の初めに流通させる体の題目が末法流通の要法なれば、則ち用の二十八品もまた別ではない。

たとえば「綱維(こうい)を提(あ)ぐるに、目として動かざること無く、衣の一角を牽くに縷(る)として来らざること無きが如し」である。

所以に仏重ねて法華経一部を本化に嘱累して、末法に流通せしむる故に、「法華経一部は一往は在世の為なり再往は末法当今の為なり」と有るのである。

 

法華経一部を末法流通の経と云っても、本門を面と為し正と為し、迹門を以て裏と為し傍と為し、かつ本門の意を以て迹門を用ちいて、以て末法正意とするのである。

この故に、迹本二経と題目の五字と倶に引き下して末法流通の経とされているのである。これが我が門流において読む所の一部の経である。

 

弘安元年四月の「上野殿御返事」に、

「今末法に入りぬりば余経も法華経もせんなし、但だ南無妙法蓮華経なるべし、」(昭定1492頁)

と有る。

一部広略の読誦を許さないと云う文意であるとする者がいるが、この文は、正像流布の爾前経や法華経迹門を撰び捨てて末法の正行を採る事を「但だ南無妙法蓮華経なるべし、」と云っているのである。正行に助行を摂しているのであって、末法の助行を遮っているのではない。

 

建治元年七月の「高橋入道殿御返事」に、

「我が滅後の一切衆生は皆我が子なりいづれも平等に不便にをもうなり、しかれども医師の習い病に随いて薬をさづくる事なれば我が滅後五百年が間は迦葉阿難等に小乗経の薬をもつて一切衆生にあたへよ、次の五百年が間は文殊師利菩薩弥勒菩薩竜樹菩薩天親菩薩に華厳経大日経般若経等の薬を一切衆生にさづけよ、(以上は正法一千年の小乗権大乗経の弘通、嘱累品の余深法中示教利喜の付嘱の意)我が滅後一千年すぎて像法の時には薬王菩薩(天台伝教と示現する)観世音菩薩(南岳・聖徳と示現する)等、法華経の題目を除いて余の法門の薬を一切衆生にさづけよ、(以上は像法一千年流布の迹門法華経なり。神力品の時、妙法蓮華経を以て已に上行菩薩に付嘱し終わって、嘱累品の如来の智慧を信ぜん者には、此の法華経を演説すべしと云う。故に、題目を除く余の法門の薬と云う)末法に入りなば迦葉阿難等(正法の初めの五百年。小乗経弘通の四依なり)文殊弥勒菩薩等(正法の後の五百年、権大乗経能弘の四依なり)薬王観音等の(像法の迹門弘通の四依の南岳、天台等なり)ゆづられしところの小乗経大乗経並びに法華経は(像法の中末に薬王観音等の南岳天台等と示現して、流布する所の迹門法華経なり)文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、所謂病は重し薬はあさし、其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(昭定1084頁)

この文は全く「上野殿御返事」に同じである。

 

故に「上野殿御返事」の

「今末法に入りぬりば余経もせんなし」

とは、正法千年の中に迦葉阿難等竜樹天親等の流布する所の小乗経権大乗経を指し、「法華経もせんなし」とは、像法の中末に観音薬王等南岳天台等と示現して、迹門を面と為し本門を裏として弘める所の迹門法華経を指すのである。

 

故に、次の「但だ南無妙法蓮華経なるべし」とは、末法の正行を指し、しかも此の正行の中に自ずから助行の一部を摂しているのである。二十八品悉く南無妙法蓮華経の法門なるが故である。「御義口伝下」の「廿八品悉南無妙法蓮華経の事」を往見すべし。

 

「四信五品抄」には、末代無智の行者には読誦の助行を許されていないが、末法の中の無智浅信の者に約して末代の位階と用心を教示しているので、読誦の助行を許していないのである。一分有智の行者は助行を用いてよいのである。

「報恩抄」に

「一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだひろまらず」(昭定1248頁)

との文は、「有智無智倶に読誦等の他事を許さない」との文意ではない。此の文は、正像及び佐前に於いて「智者は一念三千の妙理を観じて直ちに実相の深理に会し、愚者は声色の近名を唱えて実相無相の極理に至る」と云っている事に対する故に、「有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだひろまらず」と云っているのである。

是れはいわゆる正行に助行を摂しているのである。智者が「二十八品及び円頓止観は悉く題目の用の法門である」と解して、之れを修して唱題の正行を助けることを遮する文意では無い。

日蓮聖人が既に毎日一巻づつ十日で十巻、法華経開結十軸を助行と為し、また、毎日方便品寿量品等の要品及び撰法華経を助行として読誦され、最蓮房に対しても方便寿量の二品の読誦の得意を示し、また日課として撰法華経読誦を勧めている事からも、有智の者には助行読誦を許されることが分かる。】

 

以上が日導上人の批判の要旨です。

 

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