『観心本尊抄』の「但し彼は脱、此れは種なり」の解釈。 大石寺系統の教団では、「法華経二十八品は釈迦在世の弟子達を解脱させる為めの経であって、末法衆生の為めには、下種結縁の役に立たない。下種結縁を受けなければならない末法の衆生には無益の経である。脱益の経を説いた釈迦は脱仏で、役済みの仏である。 釈迦は妙法五字を説かなかった。妙法五字を説いたのは日蓮大聖人であって、日蓮大聖人は下種の教主である。 日蓮大聖人はすべての仏法の根源である妙法をもともと所持されていた御本仏である。」 と云うような事を主張して、釈尊をないがしろにして「日蓮大聖人こそ御本仏だ」と言い張っています。 こうした大石寺系統の教団の誤った主張は 『観心本尊抄』の「但し彼は脱、此れは種なり」の文を誤って解釈していることに起因しています。 そこで、「但し彼は脱、此れは種なり」についての正しい解釈を少し述べてみます。 「但し彼(釈尊在世)は脱、此れ(末法)は種なり」 とありますが、これは大判(大まかな判定)であって、釈尊在世は脱益のみでもないし、末法も必ずしも下種結縁を受けるべき人達だけではありません。 「また(釈尊の)在世に於いて、始めて(本門の)八品を聞く人天等、或いは一句一偈等を聞いて下種となし」(昭定714頁) との文があります。 釈尊在世に於いて、一品二半を中心とした本門八品、あるいはその中の一句を聞いて、下種結縁を受けた者が居ると云う文意です。 (一品二半とは、涌出品の後半部分と寿量品と分別功徳品の前半の事) 釈尊在世にも下種結縁の益を受けた者が居ると云う事です。 末法の初めは、とくに過去の宿縁(下種結縁)無き逆縁謗法不信の者が大半ですが、宗祖の弟子、信徒などのように素直に信受できた順縁の機も少数ではありますが居たわけです。 順縁の機根の人たちは下種と同時に熟・脱の益を受ける場合があるわけです。 宗祖が妙法五字による即身成仏を強調されたのも、妙法五字が下種益のみならず、熟・脱の益があることを確信されていたからです。 日蓮宗の一般的解釈では、 「在世の本門と末法の初めとは、一同に純円の教を被る所の時・機なり。所行の法体は同一で純円である。但し同一純円教を被る中に就いて、しかもその時や機の上に、種脱の異なりがある。 機に約し時に約すれば、彼(釈尊在世)は脱で、一品二半であり、此れ(末法)は但だ題目の五字である。これは所行の法の相の別異である」 とか、あるいは、 「題目は一品二半の所詮肝要であって、一品二半は舒(の)べた品、五字は巻(まい)た要(かなめ)と云う関係で、彼は脱益の機・時なるが故に、舒(の)べた一品二半を便とし、今は下種の機・時なるが故に、巻(まい)た所の要法五字を便とするのです。すなわち同一法体の上に、時・機の宜しきに依って、相の異なりがあるだけで、一品二半と妙法五字とに法体の勝劣があると主張している文ではない」 と解釈しています。 また、 「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては」(本尊抄昭定712頁) 「南無妙法蓮華経と申すは一代の肝心たるのみならず法華経の心なり体なり所詮なり、」(曽谷入道殿御返事・昭定1409頁) 「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ」(四信五品抄・昭定1298頁) とあるように、法華経の肝心、言い換えれば要法が妙法五字と云うことですから、一品二半と妙法五字とに法体の勝劣があるわけはないと云うことになります。 また釈尊が一品二半において、末法の衆生の是好良薬たる南無妙法蓮華経の五字を説かれたことが分かります。 『観心本尊抄』にも、 「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり此れ即ち己心の三千具足三種の世間なり迹門十四品には未だ之を説かず法華経の内に於ても時機未熟の故なるか。 此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては」(昭定712頁) とあるように、 本尊抄の四十五字法体段は久遠釈尊の証悟の世界であり、法華経本門の肝心・観心であるということです。それがそのまま妙法五字ということですから、久遠釈尊と法華経と妙法五字と切り離す事は出来ないわけです。 妙法五字は神力品において釈尊から上行菩薩に授けられた要法であり、その法体は本尊抄四十五字法体段に示されている久遠釈尊の証悟(法華経本門の観心)です。 顕本法華宗の永昌院日鑑上人(明治二年示寂)に『妙宗処中弁』(宗学全書第六巻)と云う著述があります。 日鑑上人が日隆門流の僧の論書を批判している著述です。 『観心本尊抄』の「在世の本門と末法の始は一同に純円なり、但し彼は脱、此れは種なり。彼は一品二半、此れは但題目の五字なり。」 についての日隆門流の僧の解釈に対しする日鑑上人の批判は、そのまま大石寺系統の批判になるので要旨を紹介します。 以下は『妙宗処中弁』(宗学全書第六巻326~331頁の要旨↓ 日隆門流の僧の「寿量の一品二半は脱益に限る」と云う見解に対して、 【「但し彼は脱、此れは種なり」の御判は、「多分・正意と云う観点から、釈尊在世は脱益が多分・正意で、末法は下種結縁が多分・正意である」と云う意味である。 釈尊在世にも下種結縁の益を受ける者が無いわけではない。しかし、過去世に於いて法華経・妙法五字の下種結縁を受けたが、その後、退転してしまった者達に、浅い教えから次第に深い教えを説き聞かせ、機根を調熟して、一品二半を説き聞かせ解脱せしめる事を、正意とした教導であったので、「彼は脱」と云われたのである。 末法にも解脱の益を受ける者も居るが、ほとんどの者が本未有善の者達であるから、下種結縁の益を正意とするので、「此れは種なり」と、云われているのである。 また、在世は脱益を受ける者が多く、末法は下種結縁を受けなければならない者が多い。 このように、正意と多分と云う観点から、一方づつを顕しているので、「但し彼は脱、此れは種なり」と云う表現を影略互現(ようりゃくごげん)の表現と云うのである。 また、釈尊在世の正機(釈尊の教導を信受する順縁の人達)と末法の通機(ほとんどが本未有善の人達である)とに、対弁して、且(しばら)く「彼は脱、此れは種なり」云われているのである。 末法の初め、日蓮聖人御出現以前は、一同に逆謗の者であった。しかし、日蓮聖人御弘通以後は順縁の人達も出てきた。いわゆる弟子檀那は順縁で、その他は逆縁である。 『法華取要抄』に、 「日蓮が一門は順縁なり。逆縁の為めには但、南無妙法蓮華経に限る」(昭定816頁) とあり、一門には、助行の読誦一品二半及び三大秘法を許されている。 『法華玄義1の19』に 「此の経は、仏の設教の元始を明かす。並に脱し、並に熟し、並に種すること、番番に息まず。大勢威猛、三世に物を益す。」 (国訳一切経7頁19行~8頁2行の略抄) と有り、妙楽大師が補釈して 「『並に脱す』等とは、多人に約して説く。彼に於いては是れ種、此に於いては是れ熟。互いに説くを知るべし。是の故に、『並び、及び番番に息まず』と。・・・故に更に涌出品の文を引いて迹の文を助顕す。故に大勢威猛等と云う。・・・故に世世時時念念に皆な種(熟・脱)等の三相が有る故なり。」 と説明している。 三千塵点劫や五百塵点劫の過去世に下種を受けた者が調熟され、さらに本門の教えを受けて脱益(解脱を得る)を得た、と云う説明だけに拘泥して、一品二半は脱益の為めだけに説かれたと、思い込んでしまっている。 天台大師が「並に脱し、並に熟し、並に種えて、番番に息まず。」と判釈しているが、「並びに」とは「過去にも三益有り、現在にも三益有り、未来にも三益有って、三世九世、世世番番に息まざる義」である。 故に妙楽大師も 「彼に於いては是れ種、此に於いては是れ熟。・・・世世時時念念に皆な種(熟・脱)等の三相が有る」 と説明しているのである。 それなのにどうして「在世はただ脱、末法はただ種」など云うのであろうか。 簡単に、在世にも種が有り、末法にも脱が有ることを示そう。 『本尊抄』に 「又在世に於て始めて八品を聞く人天等或は一句一偈等を聞て下種とし或は熟し或は脱し」(昭定714頁) 『法華文句1の八』 「また次に今世を種と為す」(国訳一切経5頁14行) と有る。此等は在世にも種益が有る証文である。 日蓮聖人が単信口唱の人の称歎していることは、成仏得脱を勧める為めである。 諸御書には現在及び霊山往詣の成仏を勧めている事が明白である。末法にも脱益が有ることの証文である。 『法華文句1の八』に 「今世を種となし、次世を熟となし、後世を脱となす、未来得度の者これなり」(国訳一切経5頁14行) と有り、妙楽大師が 「未来脱と云うは、是れ皆な、滅後及び末法脱益の者を示す」 と補釈している。 何ぞ、「末法単種」などと云えようか。】 さらに続いて、日隆門流の僧の「在世は脱に局り、末法は種に限る。故に彼は脱、此れは種と云い、また寿量品は脱にして種に非らず、故に御義口伝に寿量品は末法の要法に非らず、と有る」との見解に対しては、 【華は果と成り、果は華と成る。因は果となり、果は因と成る。況や因の中に果、果の中に因有り。華果同時、因果不二にして、前無く後無し。故に蓮華でなければ妙法に喩えられない。 蓮・華は、則ち因・果である。則ち種・脱である。このように種脱一雙であるのに、彼の門徒は因を貴んで果を賤しみ、種を重んじて果を軽んじ、あまつさえ、「法体脱して空蝉の如くなると、故に脱は種とならず」などと云っている。 日蓮聖人が「彼は脱、此れは種なり」と云っているのは、機根に約して(対応して)、云っているのであり、「彼は一品二半、此れはただ題目」と云っているのは、法体に約して云っているのに、彼の門流は機法を混乱して、種脱を各別にしてしまっている。それでは、妙法でないし、蓮華で無い。 種脱一雙の文証は、 『法華文句』に、 「過去に法華を聞くを種と為す。今日法華を聞いて得脱する。之れを待時と云う。これは仏の本意なり」(国訳一切経142頁11行取意)との旨を述べてある。 (法華の下種、法華の得脱なので)これ正しく種脱一雙を示している文である。 『観心本尊抄』に 「過去の結縁を尋れば大通十六の時仏果の下種を下し進んでは華厳経等の前四味を以て助縁と為して大通の種子を覚知せしむ、此れは仏の本意に非ず但毒発等の一分なり、」(昭定713頁) と有る。この文の「仏果の下種を下し」と云い、「大通の種子を覚知せしむ」と有るが、これは、種脱一雙で有ることを示している。 また、 「二乗凡夫等は前四味を縁と為し漸漸に法華に来至して種子を顕わし開顕を遂ぐるの機是なり、」(昭定714頁) と有る。文中に「種子を顕わし、開顕を遂ぐる」とあるが、これも種脱一雙で有ることを示している。 久遠に寿量の一品二半を聞いて種と為し、今日また寿量の顕説を聞いて解脱するのだから種脱一雙で有る。 『法蓮抄』に 「法華経の自我偈を聴聞してありし人人、信力よはくして三五の塵点を経しかども今度釈迦仏に値い奉りて法華経の功徳すすむ故に霊山をまたずして爾前の経経を縁として得道なると見えたり」(昭定950頁) と有る。これは、過去の法華下種の機が発動して、開顕の解を得て得道したと云う事である。いずれにしても下種を開顕しなければ得脱しないと云う事は種脱一雙と云うことである。 『観心本尊抄』に 「寿量の法門は滅後の為に之を請ずるなり、寿量品に云く『或は本心を失える或は失わざる者あり乃至心を失わざる者は此の良薬の色香倶に好きを見て即便之を服するに病尽く除癒ぬ』等云云、久遠下種大通結縁乃至前四味迹門等の一切の菩薩二乗人天等の本門に於て得道する是なり、(是れ則ち心を失わざる人の為めには脱益の良薬、脱益の寿量品と言う経釈なり。沈思すべし) 経に云く『余の心を失える者は・・・本心を失えるが故に此の好き色香ある薬に於て美からずと・・・是の好き良薬を今留めて此に在く・・・遣わして還つて告ぐ』・・・今の遣使還告は地涌なり是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり、・・・、「今留在此」とは「於此好色香薬而謂不美」の者を指すなり。・・・此の時(末法)地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ(日本国の逆機)『因謗堕悪(折伏毒鼓)必因得益』とは是なり、」(已上の御書は此れは是れ失心の人の為めには下種の良薬となり、また、下種の寿量一品二半と成る経釈なり。熟案すべし)(本尊抄716~719頁抄出) と有る。 当に知るべきである。唯一の良薬が、機根に随い、時に随って、種と名づけ、脱と名づけるのであって、法体は全く一である。 そして、種・脱は倶に寿量の妙法に局ることは経釈に彰かである。 釈尊と日蓮聖人とが末法の種法は寿量の良薬に局(かぎ)ると決判されているのに、一品二半は在世の脱益の者の為めの経法であって、去年の暦であるなどと言う見解は、恐るべき妄見である。】 以上↑で要旨終わり。 大石寺日寛の反論 日蓮宗側の「菓と種とは別体ではない。その体は同じである。故に脱益の一品二半の法体をもって、末法化導の下種の法体とする。種脱の法体は異なることはない」と云う見解に、対する反論として、次のように述べています。 【 糟(もろみ・かす)を脱した(精米した)ものを米と云い、脱しない(精米しない)状態のものを籾(もみ・稲穂から落としたままで、外側のからを取り去っていない米)と名づける。 米は命を養うが種と成らないが、籾は種となる。 米は文上脱益の一品二半に当たり、籾は文底下種の題目の五字に当たる。糠米(こうべい・ぬか米)は種にならない。その他の穀物も同様である。また、瓜(うり)などの例で考えてみれば分かる。瓜の実は種子とならない。瓜の核が種子と成るのである。 瓜の実は、文上脱益の一品二半に当たり、瓜の核は文底下種の題目の五字に当たる。故に仏は、一品二半の瓜の実をもって、在世の衆生に与え無明の熱を除き法性の喉を潤す。 瓜の核が種子と成って能く、菓を生じるのである。 ゆえに仏は、妙法五字の瓜の核をもって本化の菩薩に付嘱し、末法の衆生の信心の畑に下す。故に「彼は一品二半、此れは但題目の五字」と言うのである。 もし、瓜の核を種子としなければ、どうして菓を得ることができようか。 菓肉は人が食べるところとなり、種子は能く菓を生じるものである。梢に実った柿の核は果肉ではないし、柿の実は種子ではない。もし、体一と言うならどうして柿の核を食べないのか。どうして柿の実は菓を生じないのか。 伝教大師が 「子(たね)能く、果(このみ)を生ず、果(このみ)能く、子(たね)を生ず等と云々」と言っている。 柿の核は柿を生ずから、「子(たね)能く、果(このみ)を生ず」と云うのである。 柿の実が能く、柿の核を生ずるから「果(このみ)能く、子(たね)を生ず」と云うのである。是れ即ち柿の実が熟すれば、柿の核も随って生ずるからである。 もし、体一と云うなら、果即子を成ずと表現すべきである。「果(このみ)能く、子(たね)を生ず」と云う表現をしないはずである。 学者能く宜しく之れを思うべし。(取意)】(富士宗学要集4・277~281頁) と法体同・種脱一雙説に対して反論しています。 しかし、 「問うて曰く誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや、答えて曰く寿量品の一品二半は始より終に至るまで正く滅後衆生の為なり滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり、」 (法華取要抄・昭定814頁) と有ります。 もし、寿量品の一品二半が在世の信徒の脱益だけの働きだけしかなかったら、「正く滅後衆生の為なり」との教示はあり得ないでしょう。 『観心本尊抄』に 「地涌千界の大菩薩を召して寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめ給う、」(昭定716頁) 「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり、」(昭定717頁) とあります。 「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字
」 と云うことは、一品二半の肝心・肝要が、妙法蓮華経の五字
と云うことです。 故に一品二半の法体と妙法蓮華経の五字の法体とは同じと云うことです。 不適当な譬えを並べて、一品二半と妙法蓮華経の五字との法体が別であり、法体そのものに勝劣があると主張することは、上記「本尊抄」の教示に反しています。 一品二半と妙法蓮華経の五字との法体は同じであると云う譬えには、豆類が適切でしょう。豆類の実は乾燥されて、そのまま種子になるからです。 日寛上人が 「籾ではない米(一品二半)は命を養うが、種と成らない。瓜の果肉(一品二半)は種子とならない。」と云っていますが、これも 『観心本尊抄』の、 「在世に於て始めて八品を聞く人天等或は一句一偈等を聞て下種とし或は熟し或は脱し」(昭定714頁) との文、即ち「在世にも、一品二半をもって下種益を得た者があった、即ち一品二半が種となった」と云われている事に反しています。 上記の「大石寺日寛の反論」はshamon さんのホームページ「法輪のBBS」に投稿したものですが、 shamon
さん(=顕本法華宗の土屋信裕上人)が補助説明をしてくれました。 土屋信裕上人の補助説明を以下にご紹介します。 以下は土屋上人の補助説明です。 【創価学会が拠り所とする日蓮正宗・日寛上人の屁理屈について、川蝉さんより御紹介頂きました。端くれさんが仰るように、日蓮聖人は種脱相対などという馬鹿げたことは説いていませんね。 創価学会がよく根拠にするのは、真蹟の無い大石寺蔵「上野殿御返事」を切り抜きした「今、末法に入ぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。」ですね。 これを以て彼等は、釈尊の説いた妙法蓮華経は、日蓮聖人の南無妙法蓮華経の題目より劣る、去年の暦と同じで役に立たないとデタラメなことを信じさせるわけです。 さて、まずこの文章のすぐ前には、「南無妙法蓮華経と申は法華経の中の肝心、人の中の神のごとし。」と述べられています。 他の真蹟御遺文から、法華経の肝心とは法華経(寿量品中心の一品二半)への「一念信解」であることは明確です。 だからこそ、「帰命し奉る(南無)妙法蓮華経」と「信」を唱えるのが、常識的な本来の理解でありますね。 そして、前にも何度か述べましたが、真蹟である「法華取要抄」には「逆縁のためにはただ妙法蓮華経の五字に限るのみ。我が門弟は順縁。」と日蓮聖人は説かれています。 ですから、ただ南無妙法蓮華経の題目が優れ一品二半は劣るという輩は逆縁(謗法の輩)であって、日蓮聖人の門弟ではありません。 即ち、真蹟から上記の上野殿御返事を解釈するならば 「末法の逆縁の輩には、調熟益を与える余経も解脱益を与える法華経も詮(せん)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。」との正しい意味となりましょう。 つまり逆縁には、その大事な法華経の内容を説く必要はない。本仏釈尊の三世の妙化を顕かにした(開迹顕本)本門の法華経こそが最高の教えであると、不軽菩薩の如くただ相手に唱え続けて下種すれば宜しいと云うことです。 ちなみに、法華経法師品にも 「この経はこれ諸仏の秘要の蔵なり。分布して妄りに(信なき)人に授与すべからず。」とありますから、日蓮聖人も釈尊を謗る逆縁の輩には「法華経を説いても、詮(せん)なきこと。」とお考えになったのかも知れません。
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