妙法五字と釈尊

 

「法華経は釈迦如来の書き顕して此の御音を文字と成し給う仏の御心はこの文字に備れり、たとへば種子と苗と草と稲とはかはれども心はたがはず。

釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし、」(四条金吾殿御返事・昭定666・学会版1122・興師写本)

 

「仏の御意あらはれて法華の文字となれり、文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり、」

(木絵二像開眼之事・昭定792・学会版469)

 

「今の法華経の文字は皆生身の仏なり」

(法蓮抄・昭定950 曽存・学会版1050)

 

「妙の文字は三十二相八十種好円備せさせ給う釈迦如来にておはしますを我等が眼つたなくして文字とはみまいらせ候なり」

(妙心尼御前御返事・昭定1748・学会版1484)

等とあります。

これらの遺文によれば、日蓮聖人は法華経は釈尊の意(こころ)であると見られていたことがわかります。

また、

「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ」

(四信五品抄・昭定1298・学会版342)

 

「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於いては」

(観心本尊抄・昭定712・学会版247)

 

「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字」

(観心本尊抄昭定716・学会版250)

 

と有ります。

法華経の意・寿量品の肝心である妙法五字は、当然、「仏の御意」と云うことになります。

また

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、」

(観心本尊抄・昭定711・学会版246)

 

「 此妙の珠は昔釈迦如来の檀波羅蜜と申して身をうえたる虎にかひし功徳鳩にかひし功徳、尸羅波羅蜜と申して須陀摩王としてそらことせざりし功徳等、忍辱仙人として歌梨王に身をまかせし功徳、能施太子尚闍梨仙人等の六度の功徳を妙の一字にをさめ給いて末代悪世の我等衆生に一善も修せざれども六度万行を満足する功徳をあたへ給う、今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子これなり、我等具縛の凡夫忽に教主釈尊と功徳ひとし」

(日妙聖人御書・昭定644・学会版1215)

 

「仏は法華経をさとらせ給いて六道四生の父母孝養の功徳を身に備へ給へり、此の仏の御功徳をば法華経を信ずる人にゆづり給う、例せば悲母の食う物の乳となりて赤子を養うが如し、「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」等云云、教主釈尊は此の功徳を法華経の文字となして一切衆生の口になめさせ給う、赤子の水火をわきまへず毒薬を知らざれざも乳を含めば身命をつぐが如し、」

(法蓮抄・昭定944・学会版1046)

と有って、法華経・妙法五字は釈尊の積まれた功徳の結晶であると教示しています。

 

ついでに云えば、

大石寺の祖の日興上人も『引導秘訣』に

「二十、位牌を立てる心持ちの事。・・・題目を書く事は釈迦の智慧を顕すなり。・・・

二十一、総勘文。・・・妙法蓮華経の五字は十方諸仏の内証を、五百塵点より観顕し玉ふ釈迦観法の妙法なりと心得て、無二の信心を励ます処が即ち当宗真実の観心なり」(日興上人全集280頁)

と、妙法五字は「釈迦の智慧」「釈迦観法の妙法」と教示しています。

もっとも、『引導秘訣』は偽撰とされているようですが、興門派にも、古くは、こうした題目観があったことが分かります。

 

このように釈尊と密接不可分の妙法五字であり、受持唱題行によって、釈尊の因行果徳の功徳を譲与されるのに、「妙法五字は釈迦と関係ない。釈迦は妙法五字を説かなかった」などと、主張する大石寺系の教団は日蓮聖人の教示に反するものです。

 

そもそも大曼荼羅は法華経本門虚空会の儀式を基に図顕されています。その本門虚空会の様子を日蓮聖人が『曾谷入道殿許御書』に

 

「大覚世尊仏眼を以つて末法を鑒知し此の逆謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたもう、所謂法華経本門久成の釈尊宝浄世界の多宝仏高さ五百由旬広さ二百五十由旬の大宝塔の中に於て二仏座を並べしこと宛も日月の如く十方分身の諸仏は高さ五百由旬の宝樹の下に五由旬の師子の座を並べ敷き衆星の如く列座したもう、四百万億那由佗の大地に三仏二会に充満したもう・・・爾の時に下方の大地より未見今見の四大菩薩を召し出したもう、所謂上行菩薩無辺行菩薩浄行菩薩安立行菩薩なり、・・・・爾の時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したもう、其の所属の法は何物ぞや、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄なり、」

(曾谷入道殿許御書・昭定902・学会版1030)

と記されています。

釈尊が久成の根本仏であると正体を顕わして宝塔内に座し、特に末法の衆生を救わんが為めに、法華経の肝要である妙法五字を説き、本弟子である本化四菩薩に末法弘通を命じている儀式そのものです。

大曼荼羅に於いては、釈尊が無始久遠の根本仏であることが示され、日蓮聖人の本地身の本化上行菩薩等はその無始久遠本仏釈尊の弟子であることが示され、また妙法五字は塔中の無始久遠本仏釈尊が末法衆生救済の為めに説かれた法華経の肝要(名体宗用教の五重玄の妙法五字)である事が示されています。

本門虚空会に於いては、三身円満の無始の根本仏であると正体を明かした釈尊その人が、宝塔中に座して居るのです。

本門虚空会の諸尊の中で、一番中心で尊い教主・救済主が宝塔中の釈尊なのです。

以上の様な光景の本門虚空会の儀相を基にしている大曼荼羅を本尊としていながら、「釈尊は役立たずの仏・日蓮大聖人こそ本仏だ。釈迦は妙法五字を説かなかった」などと釈尊を軽視・侮蔑している大石寺系統の教団は、大曼荼羅に背くものです。

 

大曼荼羅は中央に大きく「南無妙法蓮華経」が書かれていることから、

「『本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし、』(報恩抄・昭定1248・学会版328)

との文にある『本門の教主釈尊』とは、中央に大書されている『南無妙法蓮華経』のことで、釈迦多宝諸仏は脇士であり、『南無妙法蓮華経』が体の仏で、釈迦はその用の仏である。」

とか、または

「中央の『南無妙法蓮華経』が本仏で、釈迦・多宝は智と境の冥合を表している」

と解釈する学者も居ますが、

「報恩抄」の上記の文は

「本門の教主釈尊を本尊とすべし。本尊たる本門の教主釈尊は大曼荼羅をもって表したものである」

と解釈すべきでしょう。

そして、中央の題目は、塔中の無始久遠本仏釈尊が末法衆生救済の為めに説かれた法華経の肝要(名体宗用教の五重玄の妙法五字)で

あると解釈すべきであろうと思っています。

 

大石寺系教団では、

 

【(1)「法華経の題目をもって本尊とすべし」(本尊問答抄・昭定1573)

(2)「釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、」(諸法実相抄(偽書論有り)・昭定723・学会版1358

との御書を文証として、中央の題目が本仏であり、さらに、

(3)「無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(御義口伝巻下(偽伝論有り)・学会版752)

(4)「仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事(真無)・昭定751・学会版1124

とあるから、中央題目は法華経の行者日蓮大聖人を表している。故に日蓮大聖人が本仏である。】

と云う論理で日蓮本仏論を主張しています。

 

(1)の御書については、

法華経の題目は真蹟重要遺文によれば、法華経の意であり、釈尊の因行果徳の籠もったものであるから、釈尊と無関係・遊離した題目などでありません。

 

(2)の御書については、

「諸法実相抄」の前半は偽書の疑いが濃いとされています。実相の理を本として釈尊を迹とする体用本迹は真蹟重要遺文では採用していない。「諸法実相抄」のこの文は確しかなる文証にはなりません。

 

(3)の御書については、

法華経を行ずるものは、本質に具している無作三身如来を分分に発現するようになる。その点を強調している文であって、日蓮本仏論の文証にはなりません。

 

(4)の御書については、

「釈尊の御意は説法の最終目的の法華経であり、その法華経虚空会において説き示された法華経の肝要の妙法五字を我が命として宣布に打ち込んでいる。この御本尊も日蓮が全身全霊をかけて書いた、

との意味です。

彼らが引用する上記の御書は、いずれの文も、「本門の教主久成釈尊より日蓮の方が本当の本仏である」と云う意味など含んでおりません。日蓮本仏論の文証にはなりません。

 

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