日蓮本仏論文証の検討

 

大石寺系教団では、

①「法華経の題目をもって本尊とすべし」

(本尊問答抄・昭定1573)

 

②「釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、」(諸法実相抄・偽書論有り・昭定723・学会版1358

 

③「無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」(御義口伝巻下・偽伝論有り・学会版752)

 

④「仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事(真無)・昭定751・学会版1124

 

⑤「教主釈尊より大事なる行者」(下山御消息・学会版363)

 

⑥「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり。」(観心本尊抄・学会版249)

 

⑦「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す」

(観心本尊抄・学会版254頁)

 

⑧「本因妙の教主・本門の大師・日蓮」(百六箇抄・偽書・学会版854)

等の文を主な文証として、

 

「大曼荼羅御本尊の中央の南無妙法蓮華経のお題目が本尊である①。→  妙法蓮華経は本仏である②。→  南無妙法蓮華経は末法の法華経の行者の宝号である③。→ 日蓮大聖人は法華経の行者である③。→  日蓮大聖人の魂は南無妙法蓮華経である④。→  釈迦は在世の弟子を脱益させるための法華経一品二半を説き役目を果たした脱益、抜け殻の仏でり、日蓮大聖人は末法の衆生に下種益を与える題目の五字を説く為めに出現した末法下種益の本仏である②③④⑤⑥。→  観心本尊抄に釈迦を脇士となすと有る⑦。→  日蓮大聖人は、釈迦より大事な末法の教主・本仏である⑤⑧」

 

と云う論理で、日蓮本仏を主張し、また大曼荼羅御本尊中央の題目は、法華経の行者日蓮大聖人を表していると主張しています。

 

以下、彼らの恣意的誤釈を指摘し、彼らが文証として用いる上記の御書の文には、「日蓮聖人が本当の本仏であり、釈尊は本仏に非ず」などと云う文意は全く無い事を検討します。

 

①の「法華経の題目をもって本尊とすべし」について。

法華経の題目は真蹟重要遺文によれば、法華経の意であり、釈尊の因行果徳の籠もったものであるから、釈尊と無関係・遊離した題目などでありません。

 

「法華経は釈迦如来の書き顕して此の御音を文字と成し給う仏の御心はこの文字に備れり、たとへば種子と苗と草と稲とはかはれども心はたがはず。釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし、」(四条金吾殿御返事・昭定666・学会版1122・興師写本)

 

「今の法華経の文字は皆生身の仏なり」(法蓮抄・昭定950 曽存・学会版1050)

 

「妙の文字は三十二相八十種好円備せさせ給う釈迦如来にておはしますを我等が眼つたなくして文字とはみまいらせ候なり」

(妙心尼御前御返事・昭定1748・学会版1484)

等の文があって、これらの御書によれば、日蓮聖人は「法華経は釈尊の意(こころ)である」と見られていたことがわかります。

 

また、

「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ」

(四信五品抄・昭定1298・学会版342)

 

「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於いては」

(観心本尊抄・昭定712・学会版247)

 

「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字」

(観心本尊抄昭定716・学会版250)

と有って、法華経の意・寿量品の肝心である妙法五字は、当然、「仏の御意」と云うことです。

 

また

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、」

(観心本尊抄・昭定711・学会版246)

 

「寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」

(観心本尊抄・昭定711・学会版251)

との教示もあって、釈尊の因行果徳の功徳の結晶、釈尊が説かれたところの、寿量品の肝要・良薬である名体宗用教の南無妙法蓮華経なのですから、釈尊と不離一体なのです。

故に、「法華経の題目をもって本尊とすべし」とあっても、釈尊と遊離した、釈尊と無関係な題目ではないのです。

 

日蓮聖人の花押は「この御本尊は日蓮が図顕したものである」という署名印なのです。ですから、日蓮花押が中央の題目の直下に書かれていない御本尊も沢山あります。

 

日蓮宗においても、

「報恩抄の『本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし、』との文にある『本門の教主釈尊』とは、中央に大書されている『南無妙法蓮華経』のことで、釈迦多宝諸仏は脇士であり、『南無妙法蓮華経』が体の仏で、釈迦はその用の仏である。」

とか、または、「中央の『南無妙法蓮華経』が本仏で、釈迦・多宝は智と境の冥合を表している」と解釈する学者も居ますが、いずれにしても、中央の題目と釈尊とを密接不離の関係にあると解釈しています。

大曼荼羅御本尊の座配を見ると、日蓮聖人の本地とされる上行菩薩は釈尊の脇士の位置に書かれています。

大石寺系統教団の主張通り、日蓮聖人が根本本仏ならば、日蓮聖人の本地身の上行菩薩は当然、本仏である事になりますが、ところが、その上行菩薩が釈尊より一段下がって釈尊の脇士として配されている事は、大石寺系統教団の主張と矛盾しています。

大石寺系の「釈尊は本仏に非らず。大曼荼羅御本尊の中央の南無妙法蓮華経及び日蓮聖人花押は日蓮大聖人の事であり、日蓮大聖人が本仏であることを示して居る。」などとの主張などは全く成り立ちません。

 

②の「釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、」について。

 

「諸法実相抄」の前半は偽書の疑いが濃いと指摘されているので、前半部分に有る此の文は、第一資料となりませんが、一応検討すると、「諸法実相抄」には、提示の文の前部分に、

「日蓮末法に生れて上行菩薩の弘め給ふべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給ふべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏、迹門宝塔品の時涌出し給ふ多宝仏、涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等をまづ作り顕はしたてまつる事、予が分斉にはいみじき事なり。(諸法実相抄・学会版1359頁8行)」

と有ります。

この部分の文意に、日蓮聖人は上行菩薩の応生であると義示され、釈迦仏は本門寿量品の古仏であると明示してあります。

なお、「諸法実相抄」には、

「此の釈に本仏と云ふは凡夫なり、迹仏と云ふは仏なり。然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依て。倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり。(学会版1359頁2行)」

との文が有りまが、この部分の文意は、「仏は仏としての用(働き)を完全に発揮されている倶体倶用の(体だけでなく、働きを発揮した)仏であり、凡夫は体としては(本質的には)仏であるが、まだ仏としての用(働き)を発揮していないと云う大きな違いが有る」事を述べられています。

故に、「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ(諸法実相抄1358)」の部分の意味を、大石寺系のように「凡夫や日蓮聖人の方が釈尊より本当の仏だと云う意味である」と解釈することは誤りです。

 

妙法蓮華経の実相とは、十界互具・互具平等(一念三千)と云うことです。だれでも十界互具の体です。

仏界を顕現して、釈尊と云う仏に成れたのは、十界互具の実相が基である、と云う事で、「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ。」と表現していると解釈すべきです。

ですから、「釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ。」とあっても、釈尊が根本教主に非らずと云う意味ではありません。

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり」

の文意を先学が、

「凡夫は迷っていて未だ三身の妙用は起こしていないけれど、理性の本体の三身は衆生に具わっていて滅せず、仏果に到っても増せず。すなわち衆生と仏は一体(生仏一体)であって、仏はこの本体の三身(十界互具の中の仏界)より、迹用を起こして仏となったのであると、凡夫が仏と成れる根拠を強く示す為に体門に約して凡夫を本仏、諸仏を用の迹仏と云われているのである。

本有の妙体(仏界)の隠れると顕れる事について云うと、衆生は隠れているまま、仏はすでに顕出したと云える。

ゆえに衆生は体の三身のみで、用の三身が欠け、仏は用(働き)を完全に現している倶体倶用の仏である。

仏の仏果としての力、救済力は、もともと理性としての本有の体の三身の徳が顕れたものであるので、体に約し理に約し性に約すれば凡夫は本なり体なり性なり、仏は迹なり用なり事なり修なりと云う事がいわれる。故に凡夫が仏に恩を蒙らしむ等とも書かれているのである」

と、的確に説明しています。

「かえって仏に三徳をかうらせ奉るは凡夫なり」との意味を、さらに砕いていえば、教導を受ける衆生がいるから仏が救済主・教主と成ることが出来るので、凡夫が居て初めて仏に三徳者の資格が生じるのだから、「かえって仏に三徳をかうらせ奉るは凡夫なり」と書かれていると理解すべきでしょう。

まして、「諸法実相抄」の後半部分には、

「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊の久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云く「我従久遠来教化是等衆」とは是れなり」(学会版1360頁6行)

との文があり、日蓮聖人と門下は地涌の菩薩であり、釈尊の久遠の

弟子であると明言されてます。

「諸法実相抄」は、「釈尊は本仏に非らず、日蓮聖人が本仏である」などと教示は全くありません。

 

③の「無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」について。

 

法華経を行ずるものは、本質に具している無作三身如来を分分に発現するようになる。その点を強調している文であって、日蓮本仏論の文証にはなりません。

 

④の「仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」について。

 

「釈尊の御意は説法の最終目的の法華経であり、その法華経虚空会において説き示された法華経の肝要の妙法五字を我が命として宣布に打ち込んでいる。この御本尊も日蓮が全身全霊をかけて書いた

との意味であって、「本門の教主久成釈尊より日蓮の方が本当の本仏である」と云う意味など有りません。日蓮本仏論の文証にはなりません。

 

⑤の「教主釈尊より大事なる行者」との文について。

『下山御消息』にある「教主釈尊より大事なる行者」との文が「日蓮本仏の文証だ」とは、切り文脱線解釈もいいところです。

『下山御消息』を最初から全文を読むならば大石寺系の解釈が大間違いであることが、直ぐ解ります。

「如来は未来を鑑みさせ給いて我が滅後正法一千年像法一千年末法一万年が間我が法門を弘通すべき人人並に経経を一一にきりあてられて候、・・・(迹化菩薩である薬王菩薩等が応現して法華経迹門十四品の法門を弘めたのは)地涌の大菩薩末法の初めに出現せさせ給いて本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり、所謂迹門弘通の衆は南岳天台妙楽伝教等是なり、今の時は世すでに上行菩薩等の御出現の時剋に相当れり」(346頁)

とあって、「すでに末法に入った今の時代は、釈迦如来の指示に随って本化菩薩の上行菩薩等が本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を弘めるために出現する時剋である」と述べています。

現に、本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を弘宣している日蓮聖人が上行菩薩の応現であると云う事を暗に教示しているのです。

 

また続いて読んで行くと

「そもそも釈尊は我等がためには賢父たる上、明師なり聖主なり、一身に三徳を備え給へる仏」(348頁)

と述べています。

さらに続いて読んで行くと

「 自讃には似たれども本文に任せて申す余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり、一には父母なり二には師匠なり三には主君の御使なり、経に云く[即如来の使なり]と」(355頁)

と述べ、「慈悲をもって間違いを教え正していると云う点から言えば、日蓮も親・師匠・主君の使いとしての三徳を備えている」と云っています。ここにも御自身を「主君の御使、すなわち釈尊の御使い」だと明言しています。主君である釈尊の指示で末法に使わされた御使いとは本化菩薩の上行菩薩等を指すことは明白です。

ここにも「日蓮こそ上行菩薩の垂迹である」ことを教唆しているのです。

さらに

「剰へ親父たる教主釈尊の御誕生後入滅の両日を奪い取りて、十五日は阿弥陀仏の日、八日は薬師仏の日等云云、一仏誕入の両日を東西二仏の死生の日となせり是豈に不孝の者にあらずや逆路七逆の者にあらずや・・・人毎に此の重科有りてしかも人毎に我が身は科なしとおもへり無慚無愧の一闡提人なり、法華経の第二の巻に主と親と師との三大事を説き給へり一経の肝心ぞかし、其の経文に云く「今此の三界は皆是れ我有なり其中の衆生は悉く是れ吾が子なり、而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す」等云云、」(361頁)

と、教主釈尊を軽んじ阿弥陀仏や薬師仏を尊ぶ者を「不孝の者・逆路七逆・無慚無愧の一闡提人」と強く誡め、法華経譬喩品第三の「今此の三界は 皆是れ我が有なり(主徳) 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり 而も今此の処は 諸の患難多し 唯我一人のみ 能く救護を為す(親徳) 復教詔すと雖も 而も信受せず(師徳)」との文を引用し、教主釈尊こそ主師親三徳の仏であると強く教誡しています。

 

このように御自身を釈迦如来の差配指示に従って、末法において本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を弘めている釈尊の使いであると認識しているところの日蓮聖人が「わしの方が釈尊より偉い本当の仏だ」などと下克上・大慢心で「教主釈尊より大事なる行者」などとの言葉を吐く道理など有りません。

また「大事なる行者」と有って、「法華経の教えを行じる者」だと云われて居るではありませんか。「教主釈尊より偉い本当の仏だ」との意味で「教主釈尊より大事なる行者」などと云っている道理など有りません。

「教主釈尊より大事なる行者」との表現は「法華経法師品第十」に基づいた言葉である事は間違い有りません。

「法師品」には、

「若し能く後の世に於て 是の経を受持せん者は 我遣わして人中にあらしめて 如来の事を行ぜしむるなり 若し一劫の中に於て 常に不善の心を懐いて 色を作して仏を罵らんは 無量の重罪を獲ん 其れ 是の法華経を読誦し持つことあらん者に 須臾も悪言を加えんは 其の罪復彼れに過ぎん 人あって仏道を求めて 一劫の中に於て 合掌し我が前にあって 無数の偈を以て讃めん 是の讃仏に由るが故に 無量の功徳を得ん 持経者を歎美せんは 其の福復彼れに過ぎん」

と、「法華経受持し弘める者を誹る罪は如来を一劫の間罵る罪より大でり、また釈尊を讃仏する功徳より、持経者を歎美する功徳の方が大である」と説いて、「法華経受持し弘める者を尊び大事にせよ」と教誡している文に基づいて、「教主釈尊より大事なる行者」と表現しているのです。

「教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き散して散散に踏みたりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ」(363頁)との文意は

「法師品には、釈尊を罵り辱める罪より法華経の行者を辱め打つ罪の方が遙かに重罪であると説かれ、法華経の行者を大事にすべしとの釈尊の大慈悲が懸けられているところの行者を、法華経の第五の巻を以て打ち罵った罪の報いは、現世に於いても未来世に於いても逃れがたいであろう」との意味です。

「教主釈尊より大事なる行者」の文意を「日蓮の方が釈迦より偉い仏との言葉だ」などと言い張る大石寺系の解釈は、切り文脱線横転解釈であると云わざるを得ません。

 

⑥の「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり。」の文意について。

 

大石寺系教団では、この文を文証として、

「法華経二十八品は釈迦在世の弟子達を解脱させる為めの経であって、末法衆生の為めには、下種結縁の役に立たない。

下種結縁を受けなければならない末法の衆生には無益の経である。脱益の経を説いた釈迦は脱仏で、役済みの仏である。

釈迦は妙法五字を説かなかった。妙法五字を説いたのは日蓮大聖人であって、日蓮大聖人は下種の教主である。

日蓮大聖人はすべての仏法の根源である妙法をもともと所持されていた御本仏である。」

と云うような事を主張します。

しかし、この文の意味は、「題目は一品二半の所詮肝要であって、一品二半は舒(の)べた品、五字は巻(まい)た要(かなめ)と云う関係で、釈尊在世は脱益の機・時であったので、舒(の)べた一品二半が適していたが、今は下種の機・時なので、巻(まい)た所の要法五字を用うべきである。しかし、一品二半と妙法五字とに法体の勝劣は無い」と、先学が解釈している通りです。

その上、要法の五字は、法華経二十八品の、特に、寿量品の肝心・本門の肝心なのです。釈尊が説き、そして法華経に説き留め置かれた要法なのです。

「仏の滅後に迦葉、阿難、馬鳴、龍樹、無著、天親、乃至天台、伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法、経文の面に現前なり。」(撰時抄・272頁)

「迦葉、阿難等、龍樹、天親等、天台、伝教等の諸大聖人知りて、而も未だ弘宣せざる所の肝要の秘法は法華経の文赫赫たり。論釈等に載せざること明明たり。生知は自知るべし。」(曽谷入道等許御書・1037頁)

等とあるように、日蓮聖人の弘通された三大秘法は、釈尊が法華経に説き留められていた法門です。

 

「法華取要抄」にも

「寿量品の一品二半は始めより終りに至るまで、正しく滅後の衆生の為なり。滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり。」(334頁)と教示されています。

此等の御書が有る以上、大石寺系教団の

「法華経二十八品ないし一品二半は釈尊在世の弟子信徒だけに説かれたもので、末法の衆生に役立たない無用の経である。ゆえに法華経二十八品ないし一品二半を説いた釈迦も末法には役立たない無用の脱仏と云って抜け殻の仏である。釈迦の説かなかった妙法五字を説いた日蓮大聖人こそ末法の教主であり本仏である」

と云うような主張は、まったく日蓮聖人のお考えに背くものだと云わざるを得ません。

 

⑦の「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す」について。

 

「観心本尊抄」は原文が漢文です。

「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す」と訓じる大石寺系教団の読み方はまったく間違いです。

「地涌千界出現して本門の釈尊の脇士と為りて」と訓読するのが正しいのです。

簡単に指摘しますと、この文がある前の部分に

「地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり」(247頁)

 

「釈尊の脇士上行等の四菩薩」(247頁)

 

「我が弟子、之を惟え、地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」(253頁)

等とあるので、大石寺系統教団の読み方(訓読)は間違いであることが明白です。

 

⑧の「本因妙の教主・本門の大師・日蓮」について。

 

この文がある「百六箇抄 」は偽書なので、まったく文証になりません。

日蓮聖人の真蹟存や曽存の重要御書などには、ご自分が「本因妙の教主」などと云う言葉はまったく使用されていません。

その外に、大石寺系では「御義口伝」の「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり」との文を日蓮本仏の文証として挙げる場合もあります。

しかし、この文は、十界互具平等であるから、本質的には寿量仏と同じである事を強調した文で、久遠釈尊は末法になると本仏の資格が無くなってしまうなどと云う文意など全く有りません。

なお、「国府尼御前御書」の

「釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間・ねんごろに供養し奉るよりも・末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳は・すぐれたりと」との文を挙げて、大石寺系では「釈迦より日蓮大聖人の方が勝れているから、釈迦より日蓮大聖人を供養する方が功徳が勝れると書かれているのだ」と主張したりします。

 

「国府尼御前御書」のこの文は、

「法師品」に、「滅後の持経者は、如来の使、如来の所であるから、毀罵する者は釈尊を毀罵する罪より重い罪であり、また、持経者を歎美する方が仏を歎美するより、功徳が大きい」との旨の教説に、もとづいています。

天台大師の「法華文句巻第八上」に

「此の中の罪福は福田の濃痩を論ぜず、ただ初後の心に約してその軽重を明かすのみ。」と解釈しています。どういう意味かと言うと

「ここに説かれている罪福の軽重は、布施し信奉することによって幸福をもたらす対象、すなわち福田としてどちらが優れているか(福田の濃痩)について論じている部分でない。ただ、初心の者と充分修行をすでに為し終えている者の心に約して軽重を明かしているだけである・・・初心の修行者はまだ煩悩を具し迷いやすいので、もし妨げを加えれば修行を止めてしまう。故に初心の者を罵る罪は重いのである。仏は毀誉褒貶を超越する平等心を獲得しているので、罵りなどの悪にも動じることがない。妨げが通じない。故に罵っても罪が軽いと云うのである(取意)」との意味です。

仏より持経者の方が勝れていると説いている経文などではないと解釈してあるのです。

 

ですから、「国府尼御前御書」の文は、日蓮聖人が自分の方が釈尊より偉い本仏などと云う意味で書いた手紙などではありません。。

この手紙の文を、「日蓮聖人の方が偉い、本仏だ」などと云う文証に使うことは許されないことです。

 

大石寺系統教団では、その文の前後に述べられている趣旨や、真偽論のない重要御書の趣旨とに照らし合わせないで、無理に日蓮本仏論の引証に使います。いわゆる「切り文文証(引証)」なので、以上のように検討すると、全く正しい説得力のある文証ではないのです。

 

追加。

大石寺系が日蓮本仏論の文証として、

 

1,『撰時抄』

「此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず只偏に釈迦如来の御神我身に入りかわせ給いけるにや我が身ながらも悦び身にあまる法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり、」(学会版288頁)

 

2,『乙御前御消息』

「抑法華経をよくよく信したらん男女をば肩にになひ背におうべきよし経文に見えて候上くまらゑん(鳩摩羅・)三蔵と申せし人をば木像の釈迦をわせ給いて候いしぞかし、日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給いぬ昔と今と一同なり、各各は日蓮が檀那なり争か仏にならせ給はざるべき。」(学会版1221頁)

 

3,『寺泊御書』

「法華経は三世の説法の儀式なり、過去の不軽品は今の勧持品今の勧持品は過去の不軽品なり、今の勧持品は未来は不軽品為る可し、其の時は日蓮は即ち不軽菩薩為る可し、」(学会版953頁)

 

などを挙げる場合もあります。しかし、何れも日蓮本仏論の文証などになりません。

 

1の『撰時抄』の意味は、

【この三つの大事は、日蓮が勝手に言ったことではない。ただ 

ひとえに大恩教主釈迦如来の御神がこの日蓮の身に入りかわせられ、このような言を出させられたものではないであろうか。わが身ながらも悦び身にあふれるしだいである。・・・法華経の一念三千という大事の法門は、このことをいうのである。すなわち寿量品に光顕された無始無終の絶対人格の本仏、その実在の本仏釈迦如来の生ける御神が、我等の凡心と一体であり、通い合っているという、この大真理の実証的現実的の証明こそ、この三度の高名、三つの大事の根本の理由なのである。・・・われわれの心が本仏に通い、本仏の心がわれ等の心に通じ、いわゆる感応道交、入我我入(仏の心が我が心に入り、我が心が仏の心に入る)すれば、万物万象のあらゆるものの因果の全てが、ことごとく正しくわが心に清明に映るのである。いま日蓮が三つの大事を予言し、それがそのとおり間違いなく実証されたということも、この一念三千の法門によるのである。】(田中応舟著『日蓮聖人遺文講義・撰時抄』353頁)

と云う解釈が正当なものです。

 

切り文恣意的解釈をしないで撰時抄全体を読んで文意を理解しなければいけません。『撰時抄』の他の箇所には

「仏の御使として南無妙法蓮華経を流布せんとするを或は罵詈し或は悪口し或は流罪し或は打擲し弟子眷属等を種種の難にあわする人人いかでか安穏にては候べき、」(265頁)

 

「されば日蓮が法華経の行者にてあるなきかはこれにても見るべし、教主釈尊記して云く末代悪世に法華経を弘通するものを悪口罵詈等せん人は我を一劫が間あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべしととかせ給へり」(265頁)

 

「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(266頁)

 

「問うて云く正嘉の大地しん文永の大彗星はいかなる事によつて出来せるや答えて云く天台云く「智人は起を知り蛇は自ら蛇を識る」等云云、問て云く心いかん、答えて云く上行菩薩の大地より出現し給いたりしをば弥勒菩薩文殊師利菩薩観世音菩薩薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人人も元品の無明を断ぜざれば愚人といはれて寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたるとはしらざりしという事なり」(284頁)

 

「霊山浄土の教主釈尊宝浄世界の多宝仏十方分身の諸仏地涌千界の菩薩等梵釈日月四天等冥に加し顕に助け給はずば一時一日も安穏なるべしや。」(292頁)

 

「仏滅後に迦葉阿難馬鳴竜樹無著天親乃至天台伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり、此の深法今末法の始五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべきやの事不審極り無きなり」(撰時抄272頁)

などの文があります。これらの文は

「久遠釈尊の命を承け法華経に説かれてある所の妙法五字を弘通する上行菩薩の再誕であり、法華経の行者である」と教示しています。『撰時抄』には「日蓮本仏論、釈迦末法無益・役立たず論」の思想など微塵も無いことが分かります。

 

2,『乙御前御消息』の文は、

『録内啓蒙』に、

「日蓮が頭には等とは是れ則ち龍口の死刑の難を不思議に逃れ玉ひたることを遊ばせり。かくの如く霊験あらたかなる祖師の檀那となる人は成仏掌をさすが如くなる故に、各々は日蓮が檀那なり等、強く、つのり玉へるなるべし」(巻二十五31紙)

とも解釈しているように「仏はよくよく信じた男女を肩に担い、背に負うべしと法華経にとかれているばかりでなく、実際、木像の釈迦がクマラエン三蔵を背負ったということである。日蓮が龍口で頭刎ねられようとした時には釈尊が身代わりに立たせられたのである。昔も今も同じである。あなた方はこの霊験あらたかな日蓮が信者である。どうして仏にならないことがあろう」(日蓮聖人御遺文講義12・42頁)と解釈されている文です。

故に日蓮本仏論の文証にならないものです。

 

3,『寺泊御書』の文は、

「方便品に説かれてある通り、過去・現在・未来の三世の諸仏は、皆な共に必ず最後に法華経を説く。説法の順序や弘経の方法は今の法華経と変わりはない。それゆえに、過去の威音王仏の時の不軽品は、今の釈尊の勧持品の教えであるし、同時に今の釈尊の勧持品の教えは未来の仏の時は過去の不軽品となって、正法弘通の手本となるのである。今の釈尊の勧持品が、未来の世に於いて、過去の不軽品と仰がれる時になると、日蓮は過去の不軽菩薩として、正法弘通の手本と仰がれるであろう。日蓮が過去の不軽菩薩と仰がれることは、今の世に、過去の不軽菩薩が折伏修行の聖者として仰がれるのと同じであろう。その事は決まった『儀式』であるから間違いのないことである(日蓮聖人御遺文講義2・390頁)」

との意味です。『寺泊御書』のこの文は、日蓮本仏論の文証などになりません。

 

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