経題あれこれ

或る掲示板に、「少なくとも梵本法華には。法=如来という考えは窺えず、まして、法華題号にすべて含むなどという意図も窺えない」
と云うコメントが掲示されたことがあります。その事について考えてみました。

「ために実相の印を説く」(方便品)
(この法の本性の目印(実相印)を説くのである。植木雅俊訳)

「この妙法は 諸仏の秘要なり」(方便品)
(このことはあなたにとって秘要[の教え]であるべきである)

「いまし大智を教えたもう」(信解品)
(ブッダの知を与えられます・植木訳317頁)

「この経はこれ諸仏の秘要の蔵なり」(法師品)
(如来にとって、これは己心中の法として秘密にしているもので、如来の力によって保存されており・植木訳13頁)

「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆な此の経に属せり」(法師品)
(衆生たちのこの上ない正しく完全な覚りは、この法門から生ずるのである・植木訳17頁)

「法華経を聞かずんば仏智を去ることはなはだ遠し・・仏の智慧に近づきぬ」(法師品)
(この経を聞かずにいて、繰り返して修行することがないときには、そのようなそれら[の菩薩たち]は、ブッダの智慧の遠くにいるのである・・・ブッダの智慧のすぐ近くにいるのである・植木訳21頁)

「如来の一切の所有の法・如来の一切の自在の神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す。」(神力品)
(私は、この法門において、すべてのブッダの法(真理の教え)、すべてのブッダの威神力、すべてのブッダの秘要[の教え]、すべてのブッダの深遠な領域を要約して説いたのである・植木訳395頁)
等の文によると、法華経は仏の証悟・大智・実相の印・仏陀の全てを説いたもの。それらを内蔵したもの。それらは法華経を媒介としてのみ知られ得るもの。と云う経意が窺えます。
この経意から、
「舎利を安ずることを須いず、ゆえはいかん、この中にはすでに如来の全身います」(法師品)

「もしよく持つことあるは、すなわち仏身を持つなり」(宝塔品)

「この人は則ち為れ如来を頂戴したてまつるなり」(分別功徳品)

等の文に見えるような、法華経に即して仏を拝する云う思想があるのでしょう。
法華経に即して仏を拝する云う思想から、日蓮聖人の「仏の御意(みこころ)あらはれて法華の文字となれり。文字変(へん)じて、また仏の御意となる。されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思食(おぼしめ)す事なかれ。すなはち仏の御意なり。」(文永十年・木絵二像開眼之事・曾存・昭定792頁)
等の思想も出てくるのでしょう。
「実に法を見る者は我を見る。我を見る者は法を見る」との思想の線上にある観点といえましょう。
経題は、経典の内容趣旨を表そうとしている事はたしかでしょう。
経題によって、経の教理を説明する解釈は、中国仏教で始まったことかも知れません。経題解釈によって、その経典の思想を示しえるので、
「一題を開いて一部と為し、一部を合して一題と為す」(法華統略)と云う見方が中国にあり、また日蓮聖人の「其経の中の法門は其経の題目の中にあり。」(曽谷入道殿御返事・真無・昭定1407頁)と云う受け止め方が有るのでしょう。
このように受け止めれば、当然、「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其義に非ず唯だ一部の意のみ」(四信五品抄・真・昭定1298頁)と云う事が言い得るわけです。
また、法華経と題目にこうした関係があると受け止めれば、題目に即して仏を拝する云う思想も成り立つわけです。

或る掲示板に「題目に万法を含む」とどうして言えるのか?」との投稿が有った事があります。
『四信五品抄』に、「題目に万法を含むや」の問を設け、それに答えて、『玄義序分』の章安大師の追記の「妙法蓮華経の五字は法華経の幽玄なる意義を述べたものである。その幽玄なる意義とは法華経の文の肝心とするところで、法華経一部本迹二門の総てがその中に含まれている(趣旨)」との説明と、妙楽大師の『釈籖第十』の「法華経の肝心であるところの妙法五字によって、一代五十年の教々の優劣浅深を判定するのである(趣旨)」との両説明を挙げています。
両説明は、妙法蓮華経の五字は、法華経本迹二門と一代五十年の教々の優劣浅深を判定している所の法華経の題目であるから万法(法華経と一代五十年の教法)が含まれていると語っている文です。
すなわち、「題目に万法を含む」とは「其経の中の法門は其経の題目の中にあり。」と同じ意味です。
さらに『四信五品抄』には
「濁水心無けれども月を得て自ら清めり。草木雨を得て花さく豈に覚あらんや。妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其義に非ず唯だ一部の意のみ。初心の行者其心を知らざれども而も之を行ずるに自然に意に当るなり。」
と、「題目に万法を含むや」の問いにたいする答えの結びとしています。
これは、『法師品』にも「妙法華経の一偈一句を聞いて、乃至一念も随喜せん者は我皆記を与え授く。当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。
 仏、薬王に告げたまわく、又如来の滅度の後に、若し人あって妙法華経の乃至一偈・一句を聞いて一念も随喜せん者には、我亦阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く。」とありますが、妙法華経の一偈一句を聞いて、随喜する者は、やがて阿耨多羅三藐三菩提を得るであろうと云う経文に準拠した教示といえます。

妙法華経の一偈一句随喜がそのような功徳があるのだから、
「其経の中の法門は其経の題目の中にあり。」
「唯だ一部の意のみ」
の妙法五字に於いておや、という論理でしょう。
さらに、法華経・妙法五字に拠って釈尊の因行果徳の功徳を譲与されるのであると受け止めれば、
「六度の功徳を妙の一字にをさめ給ひて、末代悪世の我等衆生に一善も修せざれども六度満行を満足する功徳をあたへ給ふ。」(日妙聖人御書・真・昭定644頁)と云うことも出来るわけです。

経典の信受・供養・恭敬の功徳の思想は、法華経の先行経典である般若経にもある思想です。たとえば、『金剛般若経』には「この経を聞くことを得て、信心清浄ならばすなわち実相を生ぜん。まさに知るべし、この人、第一希有の功徳を成就せんことを」(岩波文庫・金剛般若経・74頁)
「よくこの経において、受持し、読誦せんに、すなわち、ために、如来は、仏の智慧を以て、悉くこの人を知り、悉くこの人を見、皆、無量無辺の功徳を成就することを得ん」(同82頁)
とあり、また『八千頌般若経』に「この知恵の完成(般若波羅密)を書きしるし、書物のかたちにして安置するとしょう。さらに、それに神々しい花、神々しい薫香、香料、花環、塗香、粉香、衣服、傘、幢、鈴、旗を供えて、恭敬し尊重し、奉仕し、賛嘆し、祈願するとしよう。
カウシカよ、この人こそ、かの二種(仏舎利供養と般若波羅密の供養)の良家の男子あるいは女子のうちで、より多くの福徳を得るであろう。
それはなぜかというと、カウシカよ、その良家の男子または女子は、全知者の知を供養したことになるであろうからである。
この知恵の完成を書きしるしたり、書物のかたちにしたりしたうえで、恭敬し、尊重し、奉仕し、賛嘆し、祈願し、また種々な供養を行うであろう良家の男子や女子、この人こそ、かの(仏舎利供養)人よりももっと多くの福徳を得るであろう。それはなぜかというと、カウシカよ、知恵の完成に供養を行うものは、全知者の知を供養したことになるからであろうからである」(中央公論社刊・大乗仏典2・85頁)とあります。
妙法華経の見聞・読誦・書写・供養・信受・受持の功徳大との説示や、一偈一句を聞いて、随喜する者は、やがて阿耨多羅三藐三菩提を得るであろうと云う説示は、般若経の経典重視思想とつながっているものでしょう。

或る掲示板で「妙法蓮華経とは羅什の恣意的翻訳だ」と貶す人がいました。
嘉祥大師『法華遊意』に、
「薩達摩分陀利修多羅の薩を竺法護は正と翻訳し『正法華経』と訳し、羅什は薩を妙と翻訳し『妙法蓮華経』とした。慧遠は正と妙の両方を使い、さらに真法・好法という二つの名を加えた」(菅野博史訳)
と述べ、さらに、妙と翻訳する事が良い理由を三義挙げています。
「第二に、妙は精細で深遠であることの呼び名である。妙は褒め讃える意味である。私の法は微妙であるから、凡夫・二乗・初心の菩薩には思い計ることができないと云う意味である。[私の法は正しくて考えることができない]と云うのは中国の言葉として巧みな表現ではなく、意味を表すのに都合がよくない」(菅野博史訳)
等と、妙の方が適切な訳であると述べています。
菅野博史氏は、「中国では幽微深遠なさまを形容する言葉として使われていたので、私たちの感覚、知覚で捉えがたいものを表現する言葉としの[妙]は、単なる[正しさ]よりも、中国人にとってはより深い関心を喚起するものであったのであろう。羅什もそのような状況を踏まえて、直訳とはやや離れる[妙]と漢訳したのであろう」と論じています(春秋社刊・法華とは何か・190頁)
「方便品」に「我が法は妙にして思い難し」とも、また、「無漏不思議の 甚深微妙の法を我れいますでに具え得たり」とも有るので「妙」と云う訳は恣意的訳とはいえないでしょう。
また天台大師が「法華玄義」の序に、「妙とは不可思議に名づく」
とした概念規定したことも、上掲の方便品の文から云えば、経意をはずしてないと云えましょう。
岩波書店刊「現代語訳・法華経」の解説に於いて訳者の植木雅俊氏が、「従来、『正しい教えの白蓮華』との訳が定着しているが、『白蓮華のように最も勝れた正しい教え』と訳すべきだ」と、サンスクリット文法を根拠に、見解をのべています。
紀元前5-4世紀のサンスクリット文法書とその注釈書とによると、白蓮華は最も勝れた華とされ、その意味を象徴的に込めた譬喩として、前半の語を比喩的に修飾するそうです。
そして、「鳩摩羅什の訳は語順に忠実に訳されてはいるが、『正』としないで『妙』としていることに注意しなければならない。・・・『白蓮華』に込められた『最も勝れた』という譬喩的意味を十分に汲み取って『妙法蓮華経』と絶妙の訳をしていたのである」(597頁)と解説しています。
羅什の題号訳が恣意的で無いことが分かりましょう。
また、或る掲示板に「原型が増広されて二十七品(二十八品)になったものであり、その最終段階で経題(サダルマ・プンダリーカ・スートラ)の付加されたことは、梵本を精緻な研究の結果、明らかになったことである。
ですから、方便品長行・寿量品では、まだ出来ていない法華経という経題は一度も使われていない。」と云うコメントがありました。

察するにこの投稿者は日蓮系教団が何れも題目を重視しているのでので、「梵本では本来、経題はそんなに重要なもので無かった」と水を差したい気持ちのようです。
この投稿者は勝呂信静教授や伊藤瑞叡教授や植木雅俊氏の「法華経は以前に考えられていたより、短期間に編纂された」と言う見解を知らないようです。
経題の付け方について、嘉祥大師が『法華遊意』の「釈名題門」に於いて、「第五に[名が経の]前[にあるか]後[にあるか]ということについての門について。天竺の梵本によれば、前にはみな題目がない。ただ悉曇と言うだけである。ここでは吉法と言い、また成就とも名づける。名をつけるのはみな経末においてである。ところが、後の[題を]前に移し変えるのは、思うに、経を翻訳する人が震旦の国のやり方にしたがって、名称の異なるものによって[経の]部類の区別相違を認識させようとするからである」(菅野博史訳)
と説明しています。なるほど経題は末尾に付いています。梵本の邦訳を見ると、たとえば方便品末尾には、「以上が、聖なる白蓮華のように最も勝れた正しい教え(妙法蓮華)という法門の中の『巧みなる方便』の章という名前の第二である」(植木雅俊訳)とあります。
方便品長行・寿量品が編纂された時、経末に経題が付けられていたと考えるのが妥当だと思われます。
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