天台ならびに宗門先師の九識観

天台大師の九識観


日蓮聖人遺文『日女御前御返事』(偽書論有り)に「九識心王真如の都」(昭定1276頁)とあり、宗門先師日導上人の『祖書綱要』には「所以に九識本法を指して、本覚法身と指す。」(法華学報第十一号7頁)等と衆生所具の仏界を「本覚法身」と称し、九識としているので、九識=仏性乃至仏界、本有無作三身と云う理解が有ります。そこで九識と仏性の関係を天台大師がどのように捉えていたかを小考して見ます。

道後の真如

天台大師は、『法華玄義』の「巻第五下」において、『摂大乗論』の九識観を
「九識は是れ道後の真如なり。真如は無事、智行の根本種子なり。皆、梨耶識の中に在り、熏習成就して無分別の智光を得て真実の性を成ず。是れ則ち理乗は本有、随得は今有なり。道後の真如は方に能く物を化す。此れ豈に縱の義に非ずや。」(天全玄義三・594頁)
と言って、「摂大乗論は、九識を道後の真如としている。真如は、修行前では惑に覆われて功用を起こせないから無事であるが、智行の種子は梨耶識の中に在って、修縁の智行を修して惑の垢を除けば、無分別の智光を妙用を顕す。これは、道前の真如は本有で、一切の行願の熏習によって真如と相応することは今有で、無分別智を得てから衆生を教化することが出来ると云うのであるから、是れは縱の義である」と、修性別無しとする円教の立場から批判しています。
痴空の『玄義講義』では「摂論は、真如は本理智相融し修性別無しと雖も、迷に在って未だ修練せざれば惑に覆るるが故に其の用を起こすこと能わず。若し縁修の智行之れを錬磨して惑の垢を除けば、本識の解性を資けて無分別智光を発し、理智修性を融じて功用の体と為すと明かす。是れ則ち因に在っては理は用を起こすこと能わざれば、起信論の真如迷に在っては縁に随って染用を起こすと明かすに異にして、やや唯識の真如無為は諸法を作らずと立つる似たり。・・・摂大乗は因は則ち理智修性別異にして、果に至れば則ち融通す」
(天全玄義三・595頁)
と、「摂大乗論」の立場が「修性別異・縱の義」であることを補釈しています。
大宝の『玄義講述』が「摂論の真如とは、真如無為にして全く随縁起用無し。是れを道前の真如と名づく。行願熏習して無分別の智光を得るときは則ち真如と相応す(理智融妙)。真如既に智光と相応するときは則ち能く化他の用を起こす。是れを道後の真如方に能く物を化すと云う。応に知るべし。道前の真如は則ち惑に隔てられて全く起用無し。道後の真如は則ち智と融して方に化用を起こす。是の故に因の時は理智隔異、果の時は理智融通す。」(天全玄義三・596頁)
と、「摂大乗論」は、果に至らない中は、真如と相応しないので、九識が働いていないとする立場である、と補釈しています。

天台教学では、摂大乗論の九識観について、因行中(修行中)には九識は働いていない、修行成就して始めて九識が働くとしていると
認識していたことが分かります。

理性・道中の真如

修性不異の立場である天台大師は、
「黎耶の中に此の智慧の種子有らば、即ち理性の無分別智光なり。五品は観行の無分別智光、六根清浄は相似の無分別智光、初住より去るは分真の無分別智光、妙覚は究竟の無分別智光なり。」
(天全玄義三・659頁)
とも述べ、「理性の無分別智光(理性の真如)」→「観行の無分別智光(道中の真如)」→「究竟の無分別智光(道後の真如)」と、仏性の顕現状態の段階を語り、凡夫所具の九識も「理性の無分別智光(理性の真如)」であり、名字即の位は仏性顕現の初めの状態で「道中の真如・道中の無分別智光」であるとしています。
「道中の真如・道中の無分別智光」は九識の全顕ではないと言えるが、九識(無分別智光)でないとは言えないと云う考えです。

日本天台の忠尋の『法華文句要義聞書・第五』に於いて、止観修行し初めの心意識が六識か九識かの問題を取りあげ、
「釈に云く、『中道を縁じて菩提心を発す。此の心を亦、中道理心と名づく。中道理心とは第九識なり。・・・止観の発心は初発心の時の意と波羅蜜と相応すと』文。既に最初発心の時、諸波羅蜜と相応す、諸波羅蜜相応は即ち是れ第九識仏心なり。」(大日本仏教全書16・119頁)
と云う見解を挙げていますが、天台教学においては、円教中道の修行に於いては、九識は因行中(修行中)にも働いていると認識していたことが分かります。

八識真妄論に対する立場

また、「地論」系と「摂大乗論」系との間に、第八識真妄の論義があり、それに対し天台大師は
「一人の心の如き、復た何ぞ定めん。善を為せば則ち善識、悪を為せば即ち悪識、善を為さざれば即ち無記識なり。此の三識何ぞ頓に水火に同じかるべきや。祇だ善に背くを悪と為し、悪に背くを善と為し、善悪に背くを無記と為す。祇だ是れ一人の三心なるのみ。三識も亦た応に是の如くなるべし。若し、阿黎耶の中に生死の種子有って、熏習増長して即ち分別識を成ず。若し阿黎耶の中に智慧の種子有って聞熏習増長して即ち依を転じて道後の真如と成るを、名づけて浄識と為す。若し此の両識に異なるは?だ是れ阿黎耶識なり。此れ亦た一法に三を論じ、三の中に一を論ずるのみ。摂論に云く、『金土染浄の如き、染は六識に譬へ、金は浄識に譬へ、土は黎耶識に譬ふ』と。明文茲に在り。何ぞ労はしく苦ろに諍そはん」(玄義第五下・天全玄義三・639頁・644頁)と、唯識思想に於ける第八識真妄論の執を批判し、一心に善・悪・無記の三性有るように、八識が分別識と成るも浄識となるも無記識と云われるのも一法に三識を論じるもので、別なものでない。土の染は六識に喩え、土が含有する金を浄識に喩え、土は梨耶識に喩えられると論じています。『証真私記』に「今家偏執して第九を立てず。何ぞ労はしく引証せん。若し偏に九識を立つれば即ち摂論師に同じ、云何が(地論と摂論とを)和諍せんや。故に玄文止観等に九識を明かし、浄名疏等には但だ八識を明かす。即ち第九を以て異説と為す。故に彼の疏に云く『梨耶を正因に喩ふと、真諦の云く第九識ありと云々』と。又、玄文には都て八識九識の論無し。但だ梨耶染浄の諍い有るのみ」
(天全玄義三・645頁)と、天台大師は第九識を摂論師のように偏立していない。玄文止観等に九識を明かしているが、『維摩経文疏巻第二五』の「仏道品第八」には「八識は是れ正因種、八識無くば則ち生死涅槃無きなり。真諦三蔵は更に第九識有り、是れ真識にして、八識は猶虚妄生死の種子と云う。」と云って、むしろ第九識説を真諦三蔵の主張であると論じている、と補注し、天台大師の八識・九識観は、「地論」系や「摂大乗論」系とは違うと論じています。

唯識の三身各別を批判

また、『玄義第五下』の「類通三識とは」の部分の妙楽の「釈籤」では、『唯識論』が「第八識を転じて大円境智と為し、第七を転じて平等性智と為し、第六を転じて妙観察智と為し、五識を転じて成所作智となす。大円境智は法身を成じ、平等性智は報身を成じ、成所作智は化身を成じ、妙観察智は三身に遍す」としていると指摘し、この配当は「彼は位果(果位)に居して三身仍を別なり。此れは因位に在って三身互いに融ず。即ち此の三身祇だ是れ三徳なり。三徳は内に拠り、三身は外に約す。今は初心より常に三徳を観ず。故に彼の義と雷同すべからず」(天全玄義三・631頁)
と、「唯識は三身各別である。天台では三道に即して三身を顕すとするから、理智修性の異が無いので三身互融である。三徳は内証の功徳に従って云い、三身は対機の面から云うのである。天台では三道に即して三徳なりと達するので、初心より三徳を観ずる立場である。唯識の三身観と大いに違いが有る」と指摘しています。

まとめ

道後の真如とともに理性・道中の真如も認め、第八識真妄の論義を調停し、第九識を偏立しない立場であること、また唯識の三身各別を批判していることなど、唯識の八識乃至九識観と天台の八識乃至九識観と違いが有る事が分かります。
その上、五種性を立て無性不成仏を主張する唯識思想は十界互具説・悉有仏性・皆成仏を標榜する法華経思想と大きな違いが有るので九識と云う用語を使用しないで、主に「仏性・三因仏性」の用語を用いたと思われます。

性種、乗種について

天台教学の仏性観


『法華文句』の
「仏種従縁起とは、中道無性は即ち是れ仏種なり。此の理に迷う者、無明を縁と為るに由るときは、則ち衆生起ること有り。此の理を解する者、教行を縁と為るに由るときは、則ち正覚起ること有り。仏種を起さんと欲して一乗の教を須う」(天全法華文句二・979頁)
の部分の『文句記』に、
「本無性を立て本性徳と為す(相を絶するを以て徳を具するを顕す)。故に知んぬ、今の種は即ち性が家の種なり(性具を以て種と為し修種を簡ぶ)。是の故に還って無性を立て本と為す。更に性が家の縁起を明かさんと欲するが為めに、種を以て之れを言う(経に無性と云い、仏種と云う意を示す)。種とは生の義なり。即ち前の十界界如の理性(此れ、性種の法体を示す)倶に性並びに種なり。」
(天全法華文句二・979頁・カッコは末注による)
と、本性徳(性具)としての「十界界如の理性」が性であり種であるとし、性具の十界を性種としています。仏果は性種としての状態では無相であるが、仏の徳は性具されていると言う考えだと言えます。
『法華文句』の「常不軽菩薩品」の『文句記』に「則ち五仏性は皆な衆生に在って」(天全文句五・2501頁)と補釈している箇所について、証真の『私記』に、
「若し分別門なれば、迷悟差別す。衆生は但だ因性有り、仏界は則ち果性有り。
若し相即門なれば迷悟一如にして衆生即仏なり。故に衆生に於いても亦た果徳を具す。仏即衆生の故に、仏?に於いて亦た因性を具す。此の義に由るが故に、衆生即ち仏界の十如を具す。果報の二如は即ち是れ果性・果果性なり。
仏界も亦た衆生の十如を具す。故に亦た善悪の法門有ることを得。
問う。云何が衆生即ち果徳を具するや。
答う。若し一如に約せば衆生即ち是れ中道実相なり。豈に具に仏の万徳有らざるや。
若し理性に約せば衆生本三千世間を具す。故に仏の十如を本来具足す。」(天台全集。法華文句五・2502頁)
と説明しているので、証真は「衆生は仏の万徳・果徳を具す」と考えていたことが分かります。
また、源信僧都の『観心略要集』には、『蓮華三昧経』『般若経』『華厳経』『法華玄義』『浄名経』の文を引用し、
「爰に知んぬ。我等が一念の心性に無始より已来、三身の万徳を備ふといふことを。・・・一心の中の万徳の性を指して名づけて仏性とし、法身と称するなり。」(昭和新纂国訳大蔵経・宗典部第一巻443頁)
と、衆生所具の「三身の万徳」を仏性・法身と称しています。
河村孝照著『天台学辞典』にも、天台の仏性の概念について、
「仏性は通常、「仏となるべき可能性」という解釈がなされるが、天台一家にあっては、仏のもつべきあらゆる性能、即ち慈悲喜捨等の福徳智慧のことである。・・・一切衆生悉有仏性といえば、迷の衆生そのままにあって悟の仏徳が具有せられているという意味であって、仏になるべき可能性があるということではない。このように仏性とは、果仏の性徳なるが故に常住であり、また大涅槃とも別なものではない。」(283頁)
と解説しています。
天台教学では、仏性を「仏のもつべきあらゆる性能、即ち慈悲喜捨等の福徳智慧のこと。仏徳のこと」と認識していたと言えます。
一般的に「智顗の説く一念三千は、理(論)の上で性として一切衆生に仏界を具す(一切衆生悉有仏性)というものである。それは仏界と言っても、仏性であり、ただ一切衆生に仏になる可能性があるというにすぎない。」と説明されることが多いようですが、この説明は、上掲の証真『文句私記』の「衆生は果徳を具す」との解釈や『天台学辞典』の「迷の衆生そのままにあって悟の仏徳が具有せられている」との概念が少し欠けた説明のように思われます。

日蓮聖人の仏性観

日蓮聖人の場合は『観心本尊抄』に
「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」(昭定712頁)
と有るように、衆生所具の仏界を「三身にして無始の古仏」とし、
「仏のもつべきあらゆる性能、即ち慈悲喜捨等の福徳智慧のこと。仏徳のこと」との天台教学の仏性観より、具体的に「無始の古仏」と云う仏性観になっています。

天台大師の場合は、仏性(九識)久遠始成の有始無終の仏の仏徳を指し、仏性を顕現するには二十五方便、十乗観法の止観行を以てし、日蓮聖人の場合は、仏性は無始三身の古仏の仏徳を指しており、妙法五字の受持信唱の行をもって顕現するとしています。

涅槃経の仏性観

衆生所具の「仏性」「三身にして無始の古仏」はいかなる状態で在るのかと云う問題は、涅槃経の仏性観を参考にすべきでしょう。
『大般涅槃経』には、楽器(箜篌・くうごう)を壊して妙音を捜す大王に大臣が、「『夫れ声を取るとは、法として是くの如くせず、応に衆(あまた)の縁と善巧方便を以て、声は乃(はじ)めて出づべきのみ』と。衆生の仏性も亦復(ま)た是の如く、住まる処有ること無ければ、善方便を以ての故に得て見る可し。見る可きを以ての故に阿耨多羅三藐三菩提を得。」(新国訳大蔵経大般涅槃経698頁)と語り、また、仏が、「善男子よ、もし乳の中に酪の性有りとせば、応に復た衆(あまた)の縁の力を仮(か)るべからざるなり。善男子よ、氷と乳を雑(ま)ぜ臥(よこた)うこと一月に至るとも、終に酪と成らざるも、もし一渧(ひとしずく)の頗求樹(はぐじゅ)の汁を以て、之れを中に投(い)れば即便(ただ)ちに酪と成るが如し。若し本(もと)より酪有らば何が故にか縁を待たんや。衆生の仏性も亦復た是の如く、衆の縁を仮るが故に則便(ただ)ちに見る可く、衆の縁を仮るが故に阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得ん。若し衆の縁を待ちて然して後に成ずとせば、即ち性無きなり、性無きを以ての故に、能く阿耨多羅三藐三菩提を得。」(同699頁)

「善男子よ、衆生の仏性は有に非ず無に非ず。所以は何ん。仏性は有なりと雖も、虚空の如きに非ず。何を以ての故に。世間の虚空は無量の善巧方便を以てすと雖も、見ることを得可からざるも、仏性は見る可ければなり。是の故に有なりと雖も、虚空の如きに非ず。仏性は無なりと雖も、兎の角に同じからず。何を以ての故に。亀の毛・兎の角は無量の善巧方便を以てすと雖も、生ずることを得可からざるも、仏性は生ず可ければなり。是の故に無なりと雖も、兎の角に同じからず。是の故に、仏性は有に非ず無に非ず、亦た有にして亦た無なり。云何ぞ有と名づくるや。・・・
善男子よ、若し有る人が、『是の種子の中に果有りや果無きや』と問わば、応に定答もて「亦た有にして亦た無なり」と言うべし。何を以ての故に。子を離れて外に果を生ずること能わず、是の故に有と名づく。子が未だ牙を出ださず、是の故に無と名づく。是の義を以ての故に、亦た有にして亦た無なり」
(同954~955頁)
等と、仏性は「亦た有にして亦た無なり」であって、善縁によって顕現するのだから有と言えると説明しています。
法華経「方便品」の「法は常に無性なり 仏種は縁に従(よ)って起こると知(しろ)しめす 是の故に一乗を説きたまはん」(平楽寺・真訓両読117頁)と、仏種は善縁(浄縁)によって起こる(顕現する)との説明と同趣旨と言えます。

嘉祥大師の仏種観

嘉祥大師が『法華義疏』に於いては、
「仏種は縁に従って起こるとは、種子に三あり。一には一乗教を以て種子と為す。故に譬喩品に云く『仏種を断ずるが故に』と。則ち是れ教を破するなり。二には菩提心を以て種子と為す。故に華厳に云く『仏の種子を衆生の田に下して、正覚の芽を生ず』と。三には如来蔵の仏性を以て種子と為す。・・・仏種とは無所得の菩提心を仏の種子とするなり。此の菩提心は縁を仮って起こる。起こるとは則ち発るなり。是の故に一乗を説きたまふとは、菩提心は縁を仮って起こるを以ての故に、仏、為めに一乗を説いて菩提心を発さしめたまふ。一乗教は則ち是れ発菩提心の縁なり」(国訳一切経・経疏部三・171頁)
と、種子には、①本来所具の仏性②発菩提心③一乗教の三種子があるとし、一乗教を縁として、菩提心が発し、修行に因って衆生本有の仏性は開発顕現するとしています。
嘉祥大師は『法華統略・巻上末』においても、
「若し菩提心に自性有れば、則ち本来已に有り、縁を籍(か)らず、一乗を説くを須いず。菩提心に自性無きを以て、縁を仮りて発す。故に須く一乗を説くべきなり。
『仏種』とは、菩提心を仏の種子と為す。故に『華厳』に弥勒は百句をもて菩提心を嘆ず。命初に即ち云わく、『菩提は是れ仏の種子なり。三世の諸仏は、菩提心に由りて、正覚を成ず』と。故に但だ菩提心は要(かなら)ず縁を籍りて発す。縁は即ち一乗の教なり」
(法華経注釈書集成6法華統略上・157頁)
と、菩提心を発して正覚をを成ずるには、かならず一乗教と言う縁が必要が有るとしています。


日蓮聖人も、衆生所具の仏界を「三身にして無始の古仏」を「亦た有にして亦た無なり」と見ていたから、仏性顕現の善縁としての六波羅蜜の修行を具足できる行法として、また一念三千の観門に代わる行法として妙法五字受持信唱行を必須の行法としています。
「答えて曰く無量義経に云く『未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す』等云云、・・・釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、」(観心本尊抄711頁)

「問う汝何ぞ一念三千の観門を勧進せず唯題目許りを唱えしむるや」
(四信五品抄1298頁)
と有る所以です。

植種の概念

宗学用語として「仏種・性種」と「仏乗種」とがありますが、仏種(性種)とは衆生所具具の「三身にして無始の古仏」あるいは「仏の万徳、仏の果徳」であり、嘉祥大師の言う①本来所具の仏性②発菩提心に相当し、仏乗種とは修行・浄縁に相当し、嘉祥大師の言う一乗教の浄縁に相当します。

『大般涅槃経・師子吼菩薩品第二十三の二』に、
「善男子よ、汝が『衆生に若し仏性有らば、応に縁を仮るべからざること、乳が酪と成るが如し』と言うは、是の義然らず。何を以ての故に。若し五縁もて生蘇を成すと言わば、当に仏性も亦復た是の如しと知るべければなり。譬えば衆の石にして金有り銀有り、銅有り鉄有り、倶に四大を禀くれども、一の名に一の実ありて、其の出づる所も各々同じからず、要ず衆の縁の、衆生の福徳・炉治の人の功を仮りて、然して後に出生す、是の故に当に本より金の性無しと知るべきが如し。衆生の仏性も名づけて仏と為(い)わず、諸もろの功徳の因縁が和合するを以て、仏性を見ることを得て、然して後に仏を得るなり。
汝が『衆生に悉く仏性有るに、何が故に見ざるや』と言うは、是の義は然らず。何を以ての故に。諸もろの因縁が未だ和合せざるを以ての故なり。善男子よ、是の義を以ての故に、我は『二つの因あり、正因と縁因となり。正因とは名づけて仏性と為い、縁因とは菩提心を発こすなり。二の因縁を以て阿耨多羅三藐三菩提を得ること、石が金を出だすが如し』と説けり。」(新国訳大蔵経涅槃部3・763頁)
とあります。
この文で言う正因が仏種を指し、縁因が仏乗種のことであると考えれば、仏乗種(修行)によって「本有の仏の万徳、仏の果徳」「三身にして無始の古仏」すなわち仏種が顕われるが、修行が無ければ顕れないので仏種は無きに等しいと言えます。
「そもそも既に仏種を具えていれば改めて仏種を植える必要はないのではないか」との設問がなされる事が有りますが、「仏種を植える」とは乗種の必要性を語る言葉であると理解すべきでしょう。
日蓮聖人の『松野殿女房御返事』に
「譬へば女人の懐み始めたるには吾身には覚えねども、月漸く重なり日も屡過ぐれば初にはさかと疑ひ後には一定と思ふ、心ある女人はをのこごをんな(男子女)をも知るなり法華経の法門も亦かくの如し、南無妙法蓮華経と心に信じぬれば心を宿として釈迦仏懐まれ給う、始はしらねども漸く月重なれば心の仏夢に見え悦こばしき心漸く出来し候べし、」(昭定1792頁・真無)
とあるのは、仏乗種としての妙法五字が仏性(仏の智徳)顕現の作用をなす事を示している文と言えましょう。
また『観心本尊抄』に「但だ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。因謗堕悪必因得益とは是れなり」(昭定719頁)とあるように、謗る者も妙法五字と結縁され、その縁に因って、法華経信仰に目覚める時期をやがて向かえる事が出来るので、仏乗種には結縁の作用があるとされています。

宗門先師の始覚・本覚観

綱要導師の修性観


証真が「法華玄義私記・第七巻(天全玄義四・472頁)」に於いて、修行無し(因行無し)の自然本覚仏を立てる事を批判していますが、上掲の『法華文句』の「不軽之解者」部分の「私記」に於いて、「若し一如に約せば衆生即ち是れ中道実相なり。豈に具に仏の万徳有らざるや。」(天台全集。法華文句五・2502頁)と答えているので、衆生所具の「仏の万徳」を認めて居たと言えます。

綱要導師が「祖書綱要・巻第十」に
「『玄真記』が七(四十三紙巳下)に新成顕本の有無を論ずる下に、本覚の仏を以て名けて久本と為るの義を挙げて、広く四門を開して之れを破す。
謂く一には本覚を本と為すことを破し、二には自覚の仏有りと云ふを破し、三には他経・迹門に本覚を明さずと云ふを破し、四には大日の疏を引きて証と為すを破す(已上は取意)。」と証真の批判を要約し、
「若し爾らば終に『真記』の所破を免れず。況んや復だ高祖の所立は、迹門を始覚と為し、本門を本覚と為る。是れ則本覚を本と為るの義にして、『真記』の第一の所破に当れり。又、随自本門は、既に本来自証無作三身と云ふ故に、『真記』の第二の破に充る。又、当家は、爾前・迹門に本覚無作を明さずと立つ。是れ『真記』第三の責めに当る゜如何が之れを会せんや」
と設問し、

「夫れ当家に立つる所の迹門始覚は、即ち是れ始成正覚の義なり。凡そ迹門の意は、能説の教主釈尊、既に伽耶城を去ること遠からず道場に坐して始めて正覚を成じ玉ふ故に、所説の法門も亦た是れ一心三観を以て理性の三徳を研き因より果に至って、始めて三身の覚体を成ずることを明す。是れを迹門の始覚の三身と云ふ。」

「次に本門本覚とは、即ち是れ本来自覚の義なり。謂く、前の迹門に成ずる所の始覚の三身を以て本覚無作と明す。・・・既に「彼の迹門に於て成ずる所の始覚の三身を本覚無作の三身と明す」と云ふ。・・・是れ始覚の三身即(ち)無始本覚(なり)と顕はすなり。・・・是れ豈に本来自証の釈尊を以て本覚無作の三身如来と為ずに非ずや。而も此の本覚を以て本門の円果と為す。故に知りぬ。衆生在纏の理性には非ざることをなり。」(法華学報第十一号・787~789頁)
等と答えています。
「故に正直に方便を捨てて法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱ふれば、則ち本覚の法身仏に同共するを以ての故に、・・・肉身即ち無作の三身、本門寿量の当体蓮華仏なり。此れ即ち法華の当体自在神力の顕す所の功能に由る。故に、釈尊の因行果徳を妙法五字に具足し、我等、此の五字を受持すれば、則ち自然に彼の因果の功徳を受得して、須臾に妙覚の仏位に入る、是れ本化弘通の事の一念三千、事の即身成仏の大意なり。」(『祖書綱要巻第十』法華学報第十一号7頁)
「凡夫の身に既に無始本有の妙覚仏を具す。故に今、仏に成れども新成の妙覚仏には非ず。・・・応に知るべし。成仏とは只だ是れ我が身本果妙覚の三身如来の身体なりと開覚するのみなることを」
(『祖書綱要巻第十』法華学報第十一号33頁)
等と論じているように、所具の本覚無作三身の如来を円因を修して顕現するのだから、始覚は本覚無作三身の如来を顕現完了であり、始覚即本覚である、と言う認識です。
『祖書綱要』の、始覚によって本覚が顕れると云う考えは、仏乗種(修行)が無ければ顕れないので、所具の仏界(仏種)は無いに等しいと云う性種と乗種の関係を外していないと云えます。
『祖書綱要』は『総勘文抄』『授職灌頂口伝抄』『御義口伝』等を文証として論じているので、衆生所具の仏性・仏界を「九識本法の本仏」(法華学報第十一号22頁)と表現していますが、唯識で云う浄識ないし九識とその概念は同じでは有りません。

日輝上人の始覚本覚観

優陀那日輝上人も『妙経寿量品宗義抄・上巻』に、
「此の三身は開悟の時、始めて得るものに非ず。人々の生得の果報なるを本有無作。無始久遠の三身と云うなり。」(二紙右)
「是の故に必ず久遠の始覚に託して、無始本覚の能顕とする所以なり。」(五紙左)
と論じ、所具の「無始古仏」を「本有無作。無始久遠の三身」「本覚」と呼称し、『祖書綱要』と同じく、無始古仏を顕現するには修因の行が必要としています。

日受上人の始覚本覚観

日什門流の日受上人は、『本迹自鏡編下巻余之一』に、
「そもそも我等、釈尊事成の本覚の徳を具すと雖も、不覚を以ての故に、流転すること已に久しくして無始なり。
而るに今日始めて本覚の妙法を信ず、此れは始覚の最初にして、冥に本覚に契う。もし、昇進すれば則ち分に本覚を顕し、いよいよ昇進すれば則ち修顕得体す。
是れ則ち始覚の終わりにして、全体、釈尊同体の本覚と成り、即時に始本不二の妙体なり。」(宗全第六巻65頁)
と、「迷者である凡夫が妙法を信行し始め、そして修行が増進し、本来具足している釈尊事成の本覚の徳を顕わせば、釈尊と同体の本覚と成る」と論じ、
「釈尊もまた修顕得体の時には、必ず先仏同体の本覚と成るべし。
其の先仏も、またまた斯の如くにして、前前古仏相続して本、断ゆること無き。則ち是れ報応各三、無始事常住の覚体、無始の本因本果、無始の始覚本覚、事の一念事の三千の妙体なるなり。」(宗全第六巻65頁)
と、「釈尊も修行成就して開悟したときには、先仏同体の本覚を顕し終わった身と成ったので、始覚即本覚であるから、始覚でありながら無始の本覚の仏であると言える」と説明しています。  
いわゆる仏性を本覚と称し、始覚即本覚顕現であるとしている点は、
祖書綱要や日輝上人と同じ見方です。

永昌院日鑑上人の始覚本覚観

同じく日什門流の永昌院日鑑上人は『本迹立正義』に、
「釈尊も久遠の当初、未だ妙法を聞き給はざる時は、我等の如き愚凡にして、而も釈尊已前の無始の古仏の本因本果の仏徳を具し給へり。然りと雖も、不覚にして流転し給うこと我等と全く同じふして異なることなし。幸いに内外の薫力に由って、先仏の本覚の妙法を信受し給う。是れ釈尊始覚の最初なり。信念増進して分に仏徳を顕し、いよいよ増進して修顕得体し給う。是れ釈尊の始覚の終わりなり。
此の時、釈尊の始覚と先仏の本覚と同体にして一毫の差ひなし。・・・故に高祖『然我実成仏は我等が己心の釈尊なり。釈尊久遠実成の時、顕し給う処の仏は釈尊已前の無始の古仏なり』と判じ、また『無始広劫より未だ顕しまさぬ己心の一念三千の仏を造り顕しましますなり』と判じ給へり。」(宗全6-272)
と、「釈尊已前の古仏もそれぞれ、先仏の本覚と同体であるから無始無終である。釈尊の始覚は先仏の本覚と同体と成ったのであるから釈尊も無始無終の仏である」と説明しています。いわゆる仏性、所具の「無始の古仏」を「無始の古仏の本因本果の仏徳」「釈尊已前の無始の古仏」「己心の一念三千の仏」と呼称していますが、仏性を所具の本覚仏とし、始覚即本覚顕現であるとしている点は、祖書綱要や日輝上人と同じ見方であると言えよう。

日講上人の始覚本覚観

啓蒙日講上人は、
「一代説経の中に、釈尊より久しき仏なければ、これに託して無始仏界本有の深旨を談ずる時は、十界三千の依正さながら無始の覚体と顕れ、我等の如き迷位の衆生の色心、全く釈尊と同等なり。而も三世常住に本因の行菩薩道、本果に契当する道理なれば、始覚も本有の始覚と顕れ、始本不二の微旨(妙旨?)、一法の二義にして無始にして始、始にして無始の三世不改の不思議一の本迹なり」(巻之五・41~2紙)
と論じている。この文意は、おおよそ、「衆生に久遠所証の本覚の三身を具足して釈尊と同体である。釈尊の身土と成った十界三千の依正は本有無始の仏界となった。故に仏の身土に摂在された衆生の色心も釈尊と同等となった。本因の菩薩行を修すると同時に所具の無始の仏界が顕現するのだから、無始にして始、始にして無始と云う関係である」との意味です。
啓蒙日講上人も、菩薩行によって本覚が顕現するとし、仏性を所具の本覚(無始の覚体)と表現していることが分かります。

まとめ

特に日導上人は「本来自証の釈尊を以て本覚無作の三身如来と為すに非らずや。しかも此の本覚を以て本門の円果と為す。故に知りぬ。衆生在纏の理性には非らざることをなり。」(『祖書綱要巻第十』法華学報第十一号5頁)と云って、仏性を単なる理性や無形なものと考えないで、乗種修因によって全顕される仏身が本来自証の釈尊・本覚無作の三身如来であることを強調する立場のようです。しかし、
日導上人をはじま上記の先師は、本覚を始覚すると云う考えが共通の立場であって、仏種は乗種によって顕現するもの云う基本線を外していないと云えましょう。


本宗先師の法界観


天台大師が「類通三法」観から、九識を三因仏性に類通して説明し、、『証真玄義私記』が仏性を「衆生所具の仏の万徳、仏の果徳」と表現し、本宗においては、綱要日導上人が、『十如是事』『一念三千法門』『十法界事』『三世諸仏総勘文教相廃立』『阿仏房御書』『生死一大事血脈抄』『十八円満抄』『御義口伝』『御講聞書』等の用語に従って、九識を「本覚」「無作三身」「九識本法」等と呼称するようになったようです。
『祖書綱要』では
「九識本法本仏を以て」(法華学報第十一号8頁)
「所以に九識本法を指して、本覚法身と指す。」(法華学報第十一号7頁)
「所以に本覚と言ひ法性と言ひ真如と云ふは、皆な九識本法の妙法を指し玉ふなり。」(同9頁)
「九識本法の本仏」(法華学報第十一号22頁)
とあって、所具の無始の古仏を「九識本法」「九識本法の妙法」「九識本法の本仏」とも表現しています。
日導上人は、『日女御前御返事』に有る「九識心王真如の都」(昭定1276頁)を「九識本覚に非らずや」(巻第十・十一号44頁)と云い、また、「本門八品虚空会の本尊は、九界も無始の仏界を具し、仏界も無始の九界を備へて、身土不二依正一体にして、法法本有無作の尊形なり。・・・是の如き妙法の本尊、常に行者の胸中の八葉の白蓮華に住し玉ふ。」と述べ、所具の本覚法身を「本門八品虚空会の本尊」とし「身土不二依正一体にして、法法本有無作の尊形なり」と解釈しています。
身土不二依正一体であると云う立場から、『三世諸仏総勘文教相廃立抄』には、「本覚法身の一仏、十界を身と為し十界を心と為し十界を形と為し寂光土と云う」(巻第十・十一号44頁)
との文を根拠にして、「本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり、法界に周遍して一仏の徳用なれば一切の法は皆是仏法なりと説き給いし時・・・・十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う」と論理を進めています。

『祖書綱要』に於いては、九識を本覚如来の別称としているので、「当家の所立は九識本法の妙法蓮華経を以て三千世間の総体と為して迷悟の根源と為すことを。」(巻第十・学報第十一号23頁)

「十方法界の依正三千森羅の法法、生住異滅の当位、長短方円の分野、併せて本有常住にして妙法蓮華経の相なるを本法の体と云ふ」
(巻第十・学報第十一号60頁)
「此の本法の内証に約すれば、則ち十方法界は皆な寂光の妙土にして、十界の衆生は悉く本有妙法蓮華経の仏なり。迷いの衆生も無ければ、則ち説くべきの法も無し。」(巻第十・学報第十一号61頁)
と云う表現もしています。

綱要導師の法界観と近似

了義院日達上人『鷲峯群譚・巻第三・本門寿量品の文の底に秘して沈め玉へり』に、
「録外第二上野殿後家尼抄(昭定331頁)に云く『妙楽大師の云く「実相必ず諸法、諸法必ず如、十如必ず十界、十界必ず身土、と』法華経に云く、『諸法実相乃至本末究竟』等。寿量品に云く『我実成仏已来無量無辺』
此の経文に我とは十界也、十界本有の仏なるが故に浄土に住し玉ふ也・・・既に我とは十界也。十界本有の仏と云ふ、則ち是れ十界皆久遠の円仏を成ず。
金?論に云く『故に一仏成道して法界を観見するに、法界此の仏の依正に非らざること無し。』観心本尊抄に十界久遠の上と云ふは是れ也。」
とありますが、綱要導師の法界観と近似しているものと思います。。

『清水龍山著作集・第一巻』に
「当に知るべし、文上塵点は能顕の教相にして、文底無始は其所顕の実義なることを、夫れ竪に時間的には、無始無終三世常住、横に空間的には、十方法界・三千依正に周遍せる、本有無作の一大円仏実在す、この仏たる既に法界三千をもって相と為し(応身)性と為し(報身)体と為す(法身)故に法界一法として、此の本仏の妙体ならざるはなく、三千一塵として此の本仏の妙用ならざるはなし、本仏即法界、法界即本仏にして、法界は不変真如の本仏・本体・実在界より随縁縁起したるものにして、随縁真如の法界三千の現象界は、即是本仏の全体起用なり」(39頁)
も、綱要導師の法界観に近似しています。

『日蓮聖人御遺文講義7・宗旨篇』に、
「『成仏』とは諸法実相三千円融の理を観照体得したことである。既に久遠の昔にこの理を体得されたとすれば、それ以来この法界の全体は釈尊一仏の証悟の境界である。現顕の十界三千の諸法はそのまま釈尊一仏の証悟の活動に外ならぬ。寿量品の偈の『我が此の土は安穏にして天人常に充満せり。園林諸の堂閣、種々の宝を以て荘厳せり。宝樹華菓多くして衆生の遊楽する所なり。諸天天鼓を撃って、常に衆の伎楽を作し、曼陀羅華を雨して、仏及び大衆に散ず』とはこの境地を表現した言葉である」(329頁)
も、綱要導師の法界観と近似しています。

日什門流の日受上人が『如実事観録序』に、
「無始の十界なれば則ち十界に前後無く、事理不二なれば則ち事理に前後無し。事理不二の事常住十界互具の法体を用ちいて、即ち之れを束ねて以て一大円仏と名づくるなり。」(宗全第六巻159頁)
「仏法界縁起の法門に約して則ち此の無始十方界を束ねて以て仏法界に属す、故に一大円仏と名づく」(宗全第六巻160頁)
「宗祖は但だ本因本果の所顕を用て、以て無始の仏界縁起の十界を推し、還って之れを釈尊一仏の仏界縁起の十界に摂す」(宗全第六巻161頁)と述べ、また、『如実我此土安穏義』に、
「無始無終十界本来事理不二生仏不二なり。所以に十界各々十界を具す。然るに今は但だ釈尊を用ひ以て九界の衆生の主人公と為す。故に一切の凡夫、知らず慮はずに釈尊所証の体内に住在せり。然りと雖も凡夫の身口意の三業、悪縁の為めに牽かれて、但だ徒に苦楽昇沈す、悲しいかな。以ての故に吾が本師釈尊、偏に我等が為めに則ち極仏果上の慈智一体の仏法界縁起の法門を説き顕し玉ひ」(第三紙)
と述べていますが、やはり綱要導師の法界観と近似しています。

日受上人の云う「仏法界縁起」を平易に語っているのが、顕本法華宗の中川日史の次の説明と云えます。
「これらは(業感縁起論・頼耶縁起論・六大縁起論・真如縁起論・法界縁起論)いずれも哲学的に宇宙を論じて、それぞれ勝れた点を多分に持っているのであります。だが、宗教としての立場においてする時は、余りに理論的であって、いずれも雲を隔てて月を観るが
如き物足りなさと、靴を隔てて痒いをかくの感があるのであります。法華経はこれらの哲学的であり理論的である実相論・縁起論を綜合して、今一層哲学的に、今一層理論的に、現象即実在論を徹底せしめ、有名な「一念三千論」を教えて仏教の究竟的宇宙観を大成したのでありました。そして、この完成された宇宙観を哲学的基礎に置き、法界を宗教的に考察して観るならば、全法界は決して単なる理論や哲学の世界ではなく、無始の久遠より無終の永劫にわたり、迷妄の此岸にさまよえる私たちを、どうかして菩提の彼岸に到達せしめようと、不断に救済のみ手を垂れられている釈尊の慈悲そのものの世界であって、私たちが衷心から思いを凝らし、念を静めて法界をながめるならば、いかなる事物・事象の中にも本仏の大慈悲
が宿され、松吹く風の音にさえも、釈尊の大慈悲が現れていることに気づくのであります。かように法界はことごとくこれ釈尊の大慈悲のみ相そのものの現れであると観るのを、法華経の「仏界縁起の宇宙観」というのであります。かように法華経が宗教として宇宙観を論ずる時は、理論や哲学を無視するのではないが、それらの一切の理論や一切の哲学はしばらく基礎概念としてこれをおき、すべてのものを仏の慈悲還らしめ、またすべてのものを本仏の慈悲より緑起せしめて、法界に関する考察を教えたのであります。
であるから、法華経によって世界を観る上に、最も大切なことは、感激の念と感謝の念とであります。この感激感謝の念をもって世界を観るならば、そこに始めて宇宙の真面目に接することを得るので、どんなに理論を重ねてみても、哲学的に推考してみても、真の世界を認めることは不可能であります。かくて法華経は、上に本仏の不断の慈悲を教え、下に衆生の本仏への渇仰を教えて、私たちの心の中に潜在している仏性と呼ばれる遍流の生命を、不完全より完全に向かい、尊い価値を創造せしめてゆく舞台としてこの世界の実相を語るのであります。換言するならば、縁起論と実相論との究竟的説明は、「理の一念三千論」において私たちの一念に法界三千の諸法を本来具有することと、現象即実在論の上に法界の如実の相を論証して、世界の縁起と実相を語るのであるが、さらに、この理の一念三千論を『事の一念三千論』に進展せしめ、上に述べるように、本仏の慈悲に世界成立の縁起を教え、本仏の救済に対する衆生の渇仰の相に世界の実相を語って、感激感論の生活を教えるのであります」(体系的法華経概観691~692頁)

また、日蓮宗日辰師の『冠註観心本尊抄探霊』によると『啓運』には、
「顕本の時、法界皆な本仏の土にして無間の当体即ち本地の寂光なり。十界皆な釈尊一仏の所変なるは是れ本門の所談なり。経に云く衆生劫尽きて大火に焼かると見る時も我が此の土は安穏にして天人充満せり。御書に云く無間地獄の罪人一人も無く寿量品にして皆な成仏せし故なり云々。・・・仏知見の辺にては法界皆な寂光と雖も、衆生妄念の感見は無間の炎なる故に衆生妄見の辺に従って亦具無間大火災と云う」と論じているとのことである。

以上検討したように、綱要導師を初めとする先師は、「久遠釈尊の一念三千の法界との観点から見れば、法界全体が仏の依正である」としているようです。

尊舜と恵心僧都の法界観

室町時代天台宗慧心流の尊舜が『法華経鷲林拾葉抄』において「寿量品」に有る「如来秘密」の解釈を記する中で、
「三千の依正森羅の万法の上に、法報応の三身の体相、本来常住なるを云うなり」(巻十八の九)
「桜梅桃李の当体、天人修羅の造作にも非らず、而も三身の功徳任運自然なる処を、法体法爾とは名づくるなり。地獄餓鬼の当体、全く本地の三仏なり」(巻十八の九)
と述べて「法体法爾の三身」と云う語句の意味を説明している。

尊舜は、続いて
「天台には三身と名づけ、真言には四種の法身と称するなり。是れ開合の異にして体は一物なり。」
と、本地の三身仏と真言の四種の法身とは同じ意味合いだとし、
「四に、等流身とは、仏身には非らず。九界の形声なり。・・・
九界の等流身と云うも、遍照法界の身なれば大日と全く二無き故に、胎蔵界の曼荼羅の中に、十界の形像を図する事は、地獄鬼畜の当位、遍照法界にして遍照法界なる事を事相に顕すなり。
今、法体法爾の三身と云うも、また此の如く、鬼畜人天の体相併にして、本来当住の三身なり。之れを以て本地の三仏と名づけ、如来秘密とも称するなり。」
と、大日如来の等流を根拠にして、餓鬼・畜生・人・天も本来当住の三身・本地の三仏としています。
尊舜は、法界全体を大日如来の等流身と見、法界全体の理が法身報身応身の三徳 の働きをしていると見ています。
天台大師の云う「本地の三仏」は久遠実成の三身円満具足の釈尊を指しているが、 尊舜は、法界全体の漠とした法身報身応身の三徳の働きを指しています。

恵心僧都・尊舜と本宗先師との違い

恵心僧都の『真如観』に
「凡そ自他一切の有情、皆、真如なれば則ち仏なり。されば草木・瓦礫・山河・大地・大海・虚空、皆、是れ真如なれば、仏にあらざる物なし」
とあります。これは一切は真如の顕れと見る真如縁起の思想ですが、真如を大日如来と置き換えれば、尊舜の法界観と同じでと云えましょう。
恵心僧都や尊舜も「法界全体が仏である」と云っているので、先師の法界観と表面上類似していますが、恵心僧都や尊舜は、真如縁起と大日如来縁起から「法界全体が仏である」と云い、宗門先師は久遠釈尊の一念三千法界との視点から法界総て釈尊の身土依正であると云う思想を根拠にしているので、両者は表現上似ていますが、根拠とする所が違います。

注意を要する法界観説明

法界全体を大日如来の等流身と見、法界全体の理が法身報身応身の三徳 の働きと見る中古天台の尊舜の法界観と宇宙の大生命を宇宙の根源と見るニューエイジとの思想は近似しています。
宗門内でも仏界縁起を平易に説明する場合、例えば、日蓮宗霊断師会発行『聖徒タイムズ・第472号(四月号)一面』の『法話』の《 世界の始まりに、「平和な楽土を創造しよう」とされた仏さまの御心(一念)から無限の宇宙(三千)が現れました。その仏の心の現れの一つが「あなた」や「私」で、私たちは仏さまから、心と体をわけていただいて、この世界に顕れたのです。(中略)大宇宙創造の「仏さま」が全人類の心にいらっしゃるから」 》
と云う説明のように、尊舜や恵心僧都の法界観、または、ニューエイジの宇宙観と全同と思える説明をしている場合があります。
日蓮宗霊断師会発行『新日蓮教学概論』にある、
「九識は(中略)現象世界を顕現する本体界である。本体界は神秘蘊在せる秘密の世界であり、その本体界にこそ、万有の起源があり、万物の創造の意志があるのである。所謂、霊界はこの無相密在せる秘密の本体界であって、その霊界の主人公を名づけて神と呼ぶのである。」(『新日蓮教学概論』八九頁)
との法界観の説明。また日蓮宗の『宗報』(平成二十二年一月号)に掲載している都築友潤師の所論にある「宗祖は、私たちの己心(九識)である妙法蓮華経が大宇宙の生命たる本仏であると説かれている。即ち、諸法実相抄には、次のように、述べられている。
『されば釈尊、多宝の二仏と云ふも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にてはおはし候へ。経に云く[如来秘密神通之力]是れなり。』(諸法実相抄)宇宙全体は寿量御本仏の現れであり全体で一つの生命である。寿量御本仏から一念三千の創造原理によりすべては生まれ、その分身たる我等はこの世、つまり明在系の世界、暗在系の世界を行きつ戻りつ輪廻転生し、総和の人格たる本仏の創造に対し、ミクロのレベルで世界創造を進めているのであるが」(一六一頁)との説明は、上に挙げた宗門先師の法界観より、恵心僧都や中古天台の尊舜の法界観に近いと云えます。

まとめ

真如・実相は因果の理法の別名であとすれば、人格的善意志的なものとは言えないでしょう。
本宗の立場では、真如・実相とは、本有十界互具・十如実相なので、仏界だけでなく、同時に地獄等の九界も顕現するものと考えるべきでしょう。
無始の古仏釈尊の一念三千世界であると云う視点から見れば、身土不二・依正不二であるから、世界は釈尊の身土と云うことになります。そこから「故に本門の釈尊を以て三千世間の総体と為す。」と云う表現もなし得ると思われます。
しかし、釈尊から見れば常楽我浄の世界であっても、同時に地獄の衆生の一念三千の世界すなわち地獄の世界でもあるわけで、地獄の衆生を以て「三千世間の総体と為す」世界でも有ると言えると思います。
「善と悪とは無始よりの左右の法也。・・・元品の法性は梵天、帝釈等と顕れ、元品の無明は第六天の魔王と顕れたり。」(富木入道殿御返事・定本1520頁)とあります。
「善と悪とは無始よりの左右の法也」とは、宇宙進展の根本が人格的善意志だけでは無いと云えましょう。
本宗の場合は、久遠釈尊の証悟の身土として法界は「法界一法として、此の本仏の妙体ならざるはなく、三千一塵として此の本仏の妙用」と言い得ると思いますが、同時に地獄ないし人間の個々の身土としての法界でも有る事を忘れて説明すると『真如観』や尊舜の法界観或はニューエイジの宇宙観と全同になってしまうので注意が必要だと思われます。


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