倶生神に関する二三の質問について。
 
天台大師が『摩訶止観・八下』に、
「四種の三昧の何れでも修して、身心が調えられれば、道力(修行の功徳力)によって、衆病に罹らないで済む。たとえ、少し四大不調和になり、病気が起こっても、冥力(仏神の加護)の助けを受け平癒する。たとえ沢山の病気が次々と起こっても、「何れ死ななければならない身であるから、余命の日々を修行に励み、この修行の場で、命を終えよう」と、心を決めて修行し続けるならば、いかなる重い宿悪業でも、消滅できたり、その報果を軽く変化させて受け流す事が可能である。陳鍼や開善の実例がそれを証明している。不調があっても、決定として、四種の三昧を修すれば、四大や五臓の不調は調えられ癒えるであろう。
帝釈天の堂を小鬼が敬い避けるように、道場の神の守護力が大きければ、好き勝手に病魔も侵すことがない。また、城主が強ければ城を護る家臣たちの防戦力も強く、反対に城主が怯弱だと、家臣達の防衛力も弱くなるが、心は身の主である。同名・同生天(倶生神)が人を守護しているのであるが、心が固ければ倶生神の護りが強くなる。身の神と同様に、道場神も、修行者の心が固ければ、いっそう守護を加えてくれるのである。大智度論では、「鬼の五処を黏(ねん)する商主」の説話をもって、精進すべきことを教えている。ただ一心に四種三昧を修すれば衆病を消すことが出来る。」(天全止観4ー547~548頁の趣旨)
と述べています。

開善(かいぜん)の霊験談とは続僧伝の六に「開善が、金剛般若経を誦し、短寿を転じ長寿を得た」とあるそうです。
陳鍼(ちんしん)の霊験談は『随天台智者大師別伝』に出ている実話です。

天台大師の長兄である陳鍼が50歳の時、張果(ちょうか)と云う易者に占ってもらったら、「本年の暮れか新年早々に死ぬ定めだ」と云われた。相談を受けた天台大師は陳鍼に「方等懺」(懺悔行)を行じさせた。
夢か幻か、行中の陳鍼に、天上界に有るお堂が見えた。そのお堂の門の看板を見ると「これは陳鍼のお堂で、15年後に陳鍼が住むことになっている」と、書いてあった。そして陳鍼は実際にその後15年間生きた。
占った時より幾年も過ぎた時分、元気で居る陳鍼に逢った易者の張果が、驚いて「よほどの財を施して福を積んで寿命が延びたのか、しかし陳鍼さんはそれほどの財力はないはず、いかなる薬を飲んだのですか」と、問うと、陳鍼は「いや、ただ懺悔行を修しただけです」と答えた。易者の張果は「そうでありましょう。道力以外では貴方の寿命を延ばす手だてはなかったでしょう」と感嘆した。と云う霊験談です。(天台宗教聖典2ー1289頁)

『大智度論第16巻』にある
「鬼の五処を黏(ねん)する商主」の説話とは
【釈迦は先世で商主であった。諸の商人を先導し、羅刹が居ると云う険難処を行くとき、案の定、羅刹が出てきて、行く手を遮った。商主は右手を以て羅刹を撃つと、拳は羅刹鬼に著き、離す事が出来ない。商主は又、左拳・右脚・左脚を以て攻撃したけれど、手足はみな羅刹の体にくっついて離れなくなってしまった。頭を以て衝くと、頭も著いてしまい身動きが出来ない。鬼が「さあ、どうする。もう諦めろ。まだ逆らう気は失せないのか」と問うと、商主は「五処を繋がれても、心は終に休まず、精進力を以て汝と相撃つことを懈退せず」と答えた。すると、鬼はこれを聞いて歓喜の心を生じ、「この人の胆力極めて大なり」と念って、「汝は精進して必ず休息せざれ、我は今汝を放たん」と語った。この商主のように、行者は善法の中に於て、初・中・後夜に、身心懈(なまけ)ないようにすべきである】と云う話です。

さて、妙楽大師が「此に四の意有り。故に病として差えざること無し。一には道力、二には冥加、三には治法、四には不惜身命なり。」
と云って、病が癒える四つの条件をあげていると補釈しています。
天台大師は、病気平癒の条件の一つである冥力として、道場神と倶生神との守護力を挙げているのですね。
妙楽大師が、
「道場の神の護って、諸の病は浸さず。・・・城は身の如く、主は心の如く、守る者は身の神の如し。身と同名なり。身と同生なるは名づけて天神と為す。自然に有るが故に之を名づけて天と為す。常に人を護ると雖も、必ず心固きに仮って神の守り則ち強し。・・・身の両肩の神は尚常に人を護る。況んや道場の神をや。」
と補釈しています。

この『摩訶止観』の説明に基づいて、日蓮聖人も倶生神について、
「止観の第八に云く『帝釈堂の小鬼敬い避くるが如し、道場の神大なれば妄(みだ)りに侵嬈(しんにょう)すること無し、又城の主剛(たけ)ければ守る者も強し、城の主恇(おず)れば守る者忙(おそ)る、心は是れ身の主なり、同名同生の天是れ能く人を守護す、心固ければ則ち強し。身の神、尚爾(なおしか)なり、況や道場の神をや』弘決の第八に云く『常に人を護ると雖も、必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し』又云く『身の両肩の神、尚常に人を護る、況や道場の神をや』云云。人所生の時より二神守護す、所謂同生天・同名天是を倶生神と云う華厳経の文なり」(道場神守護事・1274頁・真)
と教示しています。
また、「五戒を持てる者をば二十五の善神これをまほる上、同生同名と申して二つの天、生れしよりこのかた左右のかた(肩)に守護するゆへに、失なくて鬼神あだむことなし」(種種御振舞御書・984頁)
とあり、また『乙御前御消息』には、
「地には三十六祇、天には二十八宿まほらせ給う上、人には必ず二つの天、影の如くにそひて候。所謂一をば同生天と云ひ、二をば同名天と申す。左右の肩にそひ(添)て人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし。況や善人におひてをや。されば妙楽大師のたまはく、『必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し』等云云。人の心かたければ、神のまほり必ずつよしとこそ候へ。是は御ために申すぞ。古への御心ざし申す計りなし。其よりも今一重強盛に御志あるべし。其の時は弥々十羅刹女の御まほりもつよかるべしとおぼすべし」(・昭定1098頁・真跡無)
と、「お題目を固く信じれば、地神天神や倶生神のご守護を受けるばかりでなく、なお一層強盛に信心を重ねれば、十羅刹女のご守護もいよいよ強くいただける事でしょう。」との旨を教示しています。

こうした教示を無視して「倶生神は人の善悪の行いを閻魔に伝達するだけの役割である」だとか「倶生神は自ら直接に守護するのでなく、他の諸天に、守護を依頼する仲介的な役割の神である」だとか、言い張る人が居ます。
御経によっては、「倶生神は自分が担当する人が行った善悪の行為の一つ一つを漏らすことなく閻魔様に報告するを神である」とのみ説いてある御経もありまが、「守護の働きをする」と説いている御経もあるのです。

『世記経・忉利天品第八』に
「一切の男子女人の初始生の時には、皆、鬼神あり。随逐擁護(ずいちくようご)す。もし其の死する時には、彼の守護鬼その精気を摂(と)る。」(長阿含経巻第二十・国訳一切経阿含部7・427頁)とあって、訳者注記に「此の一段に於いて鬼神の存在、並にそれが守護神たるを説く」とあります。また、
『華厳経巻第四十四・入法界品第三十四之一』にも、
「人の生に従ひて二種の天有り、常に従って侍衛(じえい)せり。一には同生と曰ひ、二には同名と曰ふ。」(昭和新纂国訳大蔵経経典部第十一巻1243頁)
とあります。「侍衛」とは「そばにひかえて、その身をまもる・こと」です。

 上のような『摩訶止観・八下』や日蓮聖人の御書、経典を根拠にして「倶生神は伝達の役目だけではなく、守護の働きもする」と私が云いますと、
「倶生神に守護の働きがあると仮定すると、誰にでも、生まれたときから、倶生神がついていると云うのだから、倶生神は悪人をも守護していることになる。悪者を守護する善神など無いはずだ。だから倶生神の働きは、その人の善悪の行為を閻魔に伝達するだけと考えることが道理上から正しい」と反論する人が居ます。

こうした反論をする人は、私が上に挙げた「倶生神は身の神で守護の働きをする」と説いてある『世記経』『華厳経』や、天台大師、日蓮聖人の倶生神観を否定することになります。
上掲の『世記経』の文は続いて、
もし、外道の修行者に『一切の男女の初始生の時には、皆、鬼神ありて隨逐守護するなら、何故に悪鬼神に障害を受ける者と受けないで済む者とが有るのか?』と訊かれたら、「汝等応に彼の言に答ふべし。『世人は非法行を為す。邪見顛倒して十悪業を作す。是の如き人輩の若しは百、若しは千に、乃ち一神護あるのみ。譬へば群牛群羊の若しは百、もしは千に一人の守牧なるが如し。彼も亦、是の如し。非法行を為し、邪見顛倒して十悪業を作せる是の如き人輩のもしは百、もしは千に、乃ち一神護あるのみ。若し人ありて善法を修行して、正信行を見、十善業を具す。是の如き一人には百千の神護あらん。譬へば国王、国王の大臣に、百千人ありて一人を衛護するが如し。彼れも亦是の如し。善法を修行し、十善業を具する是の如き一人には百千の神護ある。是の縁を以ての故に、世人は鬼神の為めに触嬈せられる者あり、鬼神の為めに触嬈せられざる者あるなり』と。」(世記経・国訳一切経阿含部7・428頁)
と有ります。『世記経』も「一切の男女に善鬼神が生まれたときより隨逐守護している。しかし、善法を修行し十善業を具する者は多くの神護を受けられるが、悪行邪見の者は強い多くの守護を受けられない」と云う教示をしています。

大正大蔵経Vol、76に、光宗撰『渓嵐拾葉集』と云うものがあります。光宗と云う人も「華厳経に云はく『一切衆生初生の時、二神が必ず随って生ず。一を同生天と名づけ、二を同命天と名づく。亦、遊行神と名づく。本有倶生神是れなり云々。』と。示して云はく、迷妄の時は、惡菩薩評量の霊鬼なり。覚悟の時は常随擁護の善神なり云々。」(783a)と述べています。文意は、「倶生神は衆生が迷い道に外れている時は、その衆生の悪の度合いを公平にはかり、修行の道を歩んでいる時には常に随って擁護する善神である」と云う趣旨でしょう。
天台大師も「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」と注意し、日蓮聖人も「今一重強盛に御志あるべし」と教示しています。倶生神は正法を固く信じ修する者を守護してくれると云うことです。
正法不信・悪者に対する守護は薄くなったり、ついには止めてしまい、単に伝達の働きをするだけになってしまうと考えれば、上記ような反論は出てこないでしょう。
また、「倶生神は単なる伝達神である」と云う考えに固執して、「直接倶生神が守護するのではなく、諸天に守護を申し込む伝達をするだけ」などと云うような事を主張する人がいます。この主張も天台大師や日蓮聖人の倶生神観を無視しているものです。
「倶生神が自分の守護力が及ばないときには上位の諸天善神に守護の応援を頼んでくれると言う伝達もしてくれる」と、考える方が、天台大師や日蓮聖人の倶生神観に適ったものでしょう。
また、【わたしたちには四大菩薩が前後左右を守ってくださっておりますのに、なぜ訳もわからない倶生神に頼る必要があるのでしょう。四大将軍が守ってくれており、そのほかにも法華守護の鬼子母神さまなどが守ってくれているというのに、どうして一伝令兵を頼む必要があるのでしょうか。】と云う質問を寄せた日蓮宗僧侶がいました。
この質問者は倶生神の事を「訳もわからない神」「一伝令兵に譬えられる神」と理解しているようです。
『華厳経』や天台大師や日蓮聖人が「身の神である」と明確に述べているのに、「訳もわからない神」などと、ことさら卑しめています。

『華厳経』や天台大師や日蓮聖人が「守護の働きをする神」と明確に述べている事実を無視して、一伝令兵としての伝達の働きだけする神であると、低く見ています。この質問者が「四大菩薩が守ってくれているのだから、倶生神に頼る必要など無い」などと云っています。しかし、日蓮聖人や天台大師が「倶生神が守護しくれる」と教示してあるのだから、その言葉を素直に信じて、倶生神の守護を願っても良いではありませんか。
『撰時抄』にも、「霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等、梵釈・日月・四天等、冥に加し顕に助け給はずば、一時一日も安穏なるべしや。」(1061頁)と有るように、正法の信行者は四大菩薩だけでなく、多くの諸天も守護しているのだから、四大菩薩だけでなく、諸天にも感謝と時に応じて守護をお願いしても良い道理です。『撰時抄』のこの文に、「四天等」と有りますが、この「等」は「その他の多くの諸天」と云う意味です。『華厳経』に、倶生神を「二種の天」と云って、諸天の一つとしているので、「四天等」の「等」の字の中に、倶生神も入っていると理解して良いでしょう。
 宗内には鬼子母神のお守りとか七面大明神のお守りとか、また、お寺の守護神(道場神)のお守りを授与する教師も居ることでしょう。しかし、そうした教師達も、「鬼子母神あるいは七面大明神あるいはお寺の守護神の守護だけを信じて、お守りを着けていれば良い」などと偏信している人など居ないでしょう。私も、「御本尊より倶生神の方を帰依礼拝の根本的対象としなさい」などと、馬鹿げた指導などしていません。
私は、「諸菩薩や鬼子母神やその他の諸天善神よりも、倶生神は、有り難い優れた神で有る」などと、馬鹿げた説明はしていません。
倶生神のお守りの着帯を強要したり、倶生神だけを偏信して、他の諸菩薩諸天ないし御本尊をないがしろにする信仰形態であれば大いにその偏信を批判すべきですが、倶生神をお守りの形として身に着けること自体は強いて否定する必要はないでしょう。
この質問者はさらに
「日蓮聖人はそれを中心的な神と位置づけたのでしょうか?」
「天台大師にとって根本的な神という位置づけだったのでしょうか?」
と訊いていますが、「倶生神は中心的な神、根本的な神である」などと云う馬鹿げた倶生神観を私が懐いていると勝手に決めつけて、得々と、的外れな質問を寄せています。
また、このような勝手な決めつけをして、さらに、「それほどまでに重要な倶生神であるならば、大曼荼羅のどこの、どの位置に勧請されているのでしょうか。」などと質問を寄せています。
日蓮聖人が「倶生神は身の神といって個々人の神」である説明しています。大勢の人が礼拝する大曼荼羅に、個々人を守護している倶生神を、勧請する訳はないです。それなのに、質問者は、「また仮にそのようなお曼荼羅があったとして、それは現存している大曼荼羅の何パーセントにあたるのでしょうか?」
などと訊いていますが、そんな大曼荼羅御本尊など無いでしょう。
また質問者は、「一兵卒も戦力のひとつですから全面否定するということではありません。しかし、「信仰の王道」と言ったのは、四菩薩や『法華経』擁護の神のご守護を願うのが筋ではないかということです。一部の妥当性をもって、全体を見失ってはいけないということです。」などと諭しを垂れています。
これも、「日蓮聖人は倶生神を中心的な神と位置づけている。諸大菩薩や鬼子母神等の諸大善神より、倶生神は有り難い上位の神で有るから、中心根本的な守護神として守護を求めて行くべきだ」などと云ってない私に対しては、全く不必要な説諭です。
また質問者は、「一兵卒・伝令兵の神の信仰を勧めたり、毎月交換しないと御利益がないという霊神符などをもたせるよりも、一生涯離さず持たせる大曼陀羅ご本尊を勧めてはいかがなのですか? 」と説諭を垂れています。
私は御存知のように、「罪障消滅・積徳・仏心顕現する為めに、御本尊を対象として唱題修行する人の事を諸菩薩・諸天神を始め倶生神も守護してくれますよ」と指導していますね。「倶生神だけ信じていれば良い」などと云う信仰を勧めてなどいませんね。
「毎月交換しないと御利益がない」などと説いていませんね。「毎月替えるごとに『倶生神が護ってくれているのだ』と、改めて意識するので「心固ければ護り強し」に繋がるし、信行に参加し、御本尊の前で読経唱題し、法話の聴聞もするので信仰増進の機会を持つことになる助けになる」と説いていますね。
日蓮聖人が、お守りとして懐中御本尊を信徒さんに授けた事例はたしかにあります。しかし信心未決定で退転しそうな人には御本尊を授けなかった事例もあります。懐中大曼荼羅御本尊をやたらに授けられないですね。

参考
 大正Vol、76のNO2410光宗撰『渓嵐拾葉集』
「一.本有倶生護法事 華嚴經云。一切衆生初生之時。二神必隨生。一名同生天。二名同命天。亦名遊行神。本有倶生神是也云云示云。迷妄之時者。惡菩薩評量之靈鬼也。覺悟之時者。常隨擁護之善神也云云是以釋尊ニハ普賢文殊也。藥師ニハ日光月光也。彌陀ニハ觀音勢至也。不動ニハ羚迦羅制多伽也。辨財天ニハ船車童子也。吒天ニハ須臾馳走頓遊行神是也。」(783a)
「倶生神が自分の守護力が及ばないときには上位の諸天善神に守護の応援を頼んでくれる」と、考える方が、天台大師や日蓮聖人の倶生神観に適ったものでしょう。
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