1,エホバの証人の終末観について

エホバの証人では、間もなくハルマゲドンの戦争が起こり、その後、エホバの証人たちに依る千年王国と云う世界国家が成立する。と信じているようです。

 ハルマゲドンの戦争とは、
聖書の「ヨハネ黙示録」の予言の中に出てくる戦争です。

 「ヨハネ黙示録」とは、神がヨハネにこれから全世界に起こることを見せた記録だそうです。
 
「ヨハネ黙示録」によると、ハルマゲドンの戦(争キリスト勢力と反キリスト勢力との戦争)の後、キリスト勢力の平和国家が千年間続く。その後、悪魔が再び反キリスト勢力を引き連れ勢力を盛り返す。そして、いよいよ最後の審判の時が近づくと、大地震が起こり、太陽は黒くなり、月は血のようになり、星は地上に落ちるという天変地異が起こるというのです。さらに神の前に七人の天使がいて、
第一の天使がラッパを吹くと血の混じった雷と火が地上に投げつけられ、地上の三分の一が焼け尽きてしまう。
第二の天使がラッパを吹くと、燃えた大きな山が海に投げ込まれ、海の生き物の三分の一が死ぬ。
第三の天使がラッパを吹くと、星が水源に落ち水の三分の一が苦く成り、その水の為に多くの人が死ぬ。
 
第五の天使がラッパを吹くと、星が落ち、星の開けた穴から煙が上がり、その煙の中からイナゴの群が飛び出し、額に神の印を付けていない者に害を与える。その苦痛はサソリに刺されたようである。
 
第六の天使がラッパを吹くと、四人の天使が人類の三分の一を殺すために解き放たれる。
 
第七の天使がラッパを吹くと、いよいよ神の裁きが行われ、キリストを信じなかった者は硫黄の燃えさかる池に投げ込まれる。
と云う様な必ず起こると予言されたと云うのです。

 
使徒パウロも最後の日について、「平和だ安全だといっているその時に突然、破滅が襲う。妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、決してそれから逃げられない、主イエスは炎の中に姿を見せ、神を認めない者や、イエスの福音に従わない者に罰を与える」と書いています。

「終わりの日」とは、まさに神による人類大虐殺と云えましょう。
 いま仮に大戦争や大災害が起きたとします。がんぜない乳児や幼児、老人、身体障害者、慎ましく暮らしていた善良な人達まで犠牲となり恐怖と断末魔の苦しみを受けるでしょう。
戦争記録映画や災害のニュースなどに、絶命している母親に幼児が泣きすがっている場面。あるいは母親が子供をかばい抱え込んだ姿で焼死している写真もあります。
母親がどんなに子供を助けたかったか想像するだに涙を禁じ得ません。

 ただ自分を認めなかったと言う理由のみで、善良な人々まで想像を絶する恐怖と絶命の苦しみを与えると云うのでは、あまりにも残酷、理不尽、無慈悲な神ではありませんか。こんな神はとうてい尊崇する気持ちになりません。
そもそも人類の堕落は神にも大きな責任があります。
聖書によると、人間の始祖のアダムとイブは悪魔の誘惑で智恵のみを食べたので、堕落したと説明して有ります。

 アダムとイブに自由意志を与えたら悪魔の誘惑に負けてしまう事を予測できなかったのでしょうか。
 悪魔がアダムとイブを誘惑するのを気づき止めることが出来なかったのでしょうか。気づかなかった神は全知全能の神とは云えません。

 悪魔がアダムとイブを誘惑するのを防いでいれば、今になって何十億の人達を滅ぼす必要はないでしょう。

 手抜き工事、不良品の機械などで、怪我や死亡事故が起きると、手抜き工事をした人や不良品を作った人、あるいは検査責任者に責任が課せられます。
 過日女子高校生がコンクリート詰めにされた事件がありました。事件・裁判の顛末が「かげろうの家」と云う本になりました。加害者の男子たちが事件を犯した原因には、社会友人からの悪影響、本人の資質も有りましょうが、両親の教育の責任も見逃す事は出来ないでしょう。ある親は土地家屋を売り払って、賠償に当てたと云う事です。「このような子供に育てたことに責任を感じます。世間に顔向け出来ません」と語っているとのことです。

 このように人間でさえ責任を感じ責めを受けるのに、「エホバの神」は、自分で不完全に人間を造っておいて、後で悪くなった人間のみに罪をかぶせると云うのですから呆れたものです。
 たとえば子供が不良息子になってしまったから殺してしまえと云う無責任・無慈悲な親と変わりないでしょう。

 また校内暴力で非常に風紀が乱れてしまったので、「みな退学させ、校舎も建て替えて、新たに品行の良い生徒のみを集めてやり直そう。退学させた生徒なんか、どうなっても構わない」と云うメチャクチャな教育者と変わりないでしょう。

 ノアの子孫が悪化し始めた時点で最後の審判を済ましていたならば、何十億の老若男女を殺さないですんだはずですから、神の虐殺罪もやや軽かったことでしょう。永遠に罰せられる人間が何十億に増えるまで、なぜほっといたのでしょう。

聖書の「ヨシュア記」を見ると「エホバの神」は偏愛・残酷な神であることがはっきりしています。ヨシュアはモーゼの後継者です。
 神は「神が与えた土地に行くよう」ヨシュアに命じました。ところがイスラエル人が四百年間もエジプトの奴隷となっていた間に、其の地帯には多くの異民族が先祖代々住み着いていました。
神は「この全土を征服し、住民を皆殺しにせよ」と命じたのです。
 
エリコと言う町(国)を攻撃する際、かみはヨルダン川の水をからしイスラエル人を渡してやる奇跡や、城壁を崩してやるなどの奇跡を現してヨシュアの攻撃を応援したのです。ヨシュア達イスラエル人は「そして町にいる者は、男も女も、老いも若きも、また牛、羊、ロバをもことごとく剣で皆殺しにした」のです。

 イスラエル軍はリブナ市、ラキシュ市を侵略し全住民を殺しました。エグロン市を占領し住民を皆殺しにし、続いてヘブロン市とまわりの村々をかたっぱしから占領し皆殺しを続けたのでした。

 神がイスラエル人に約束した土地に住んでいたという理由だけで、がんぜない子供も老人も女も容赦なく皆殺しするよう神が命じたのです。こんな神が何で「愛の神」などと云えましょうか。

 仏教の終末思想として末法観があります。「法滅尽経」には釈尊の教えが衰滅する時代に起こる飢饉・疫病・戦争・災害の恐ろしい様相を説いて有ります。 では末法は救いのない絶望的将来なのかと云うと、そうではありません。

 本仏釈尊にとっては末法の衆生も愛しい大事な子供です。親は病身の子を特に心配し手をかけるように、極重病人に譬えられる末法の衆生を救うために、妙法五字を大良薬として残し、上行菩薩に末法に広めるよう命じています。
 そして世界中の人達が上行菩薩の垂迹を導師として妙法五字を唱えるようになれば、世界全体が平和に成るであろうと、予言されています。
「間もなく世界の終わりが来る。我が教団の信徒になれば救われる」などと脅かして入信を勧める変な教団に誘われないようにしましょう。

2,外れたエホバの予言

聖書の「ヨイハネ黙示録」には、次のような予言があるそうです。
 ある時期が来るとキリストが空中より再臨し、イスラエル民族の中より十四万四千人を選んで、空中に引き上げる。その後、反キリスト教の勢力が盛んになって、七年間にわたる患難時代が続く。
 
 そして反キリストの勢力が世界に君臨し、ユダヤ民族が全滅にひんした時、キリストが十四万四千人と共に再び地上に下って、ハルマゲドンの戦争で反キリスト勢力を全滅させる。そして「千年王国」と云う平和国家が千年間存続する。
 
 千年が過ぎると悪魔が牢獄より放たれて、反キリスト勢力をまとめて、再びキリスト勢力を全滅させようとするが、いよいよ神が最後の審判を下し、神を信じる者を神の国に入れ、神に反した者を永遠の地獄に投げ入れる。と云う予言だそうです。

 聖書のこの予言を下地にして、「エホバの証人」では創立当初から
「十四万四千人のエホバの証人の会員が出来ると世界中の世俗政府と一般のキリスト教会は滅んで、われらエホバの証人たちが世界を支配するようになる」
と教えているそうです。
 
 
創立者のラッセルは1882年に「聖書研究」誌上で
1915年までには一般キリスト教団は滅ぼされ、エホバの証人たちによる神の国が完成する」
と発表しているとのことです。

1914年にキリストが再臨し、旧約聖書に出ている予言者たちが大勢よみがえって来る。そして悪人を滅ぼして、千年続く平和国家を造る」と云う予言ははずれ、現実には第一次世界戦争が始まってしまったのです。するとラッセルは「戦争が始まったのでキリストの再臨は戦後に延ばされた。再臨は1918年に実現する」と、再予言したそうですが、これまた大はずれとなりました。
 
ラッセルの
後継者ラザーフォードは、1921年の「立琴65」誌上に
「数年のうちに世界は滅びる」
と発表しているとのことです。
 
 創立者のラッセルが予言した注目の1918年が来ると、後継者ラザーフォードは第一次全国大会を開き「世の終わりは必ず1925年に来る」と宣言したそうです。

 しかしその予言が外れると、今度は「1930年に実現するだろう」と宣言し、その上、墓から出てくる旧約聖書の予言者たちを迎えるための豪華な別荘をカリフォニア州のサンジェゴの町にこしらえたそうです。

 最近では「エホバの証人」は1969年10月13日から18日まで行われた「東京大会」で「1970年代の半ばには世界は終わる」
と明言したそうです。

 さらに「1975年10月はアダムが造られてから数えて満6千年になる。その時、世俗的なこの世の政府と一般的キリスト教会とは滅んで、われらエホバの証人の十四万四千人が世界を支配する」と宣伝したそうです。

 ついでに申しますと、人類出現から6千年きりたってないと言う主張は、現実の歴史を余りにも無視しています。勧誘訪問しているエホバの証人の信徒を見ると、身なりもきちんとしているし教育も有りそうな人達なのに、どうして歴史の事実を無視するのか、その気持ちが理解できません。

 ともかくエホバの証人の予言は大はずれしたのです。

 予言が当たらなかった言い訳を「アダムが造られてからエバが造られるまでの期間が延期されている」とか「十四万四千人のほかに選ばれる他の群がいる。その人達が会員になるまで延期された」と弁明しているそうです。まことに苦しい言い訳です。

 ハルマゲドンの戦争とは「ヨハネ黙示録」によれば、キリスト教勢力と反キリスト勢力」との大戦争のことですが、現実には世界がキリスト勢力と反キリスト勢力の二大勢力に分かれて戦争が起こる気配などまったくありません。

 仮にアメリカや日本に於いて、エホバの証人の信者達が反乱を起こしたとしてもアメリカや日本の行政機構を乗っ取ることは不可能です。日本の極左暴力革命活動団体の様に封じ込められてしまうでしょう。

 起こりもしないハルマゲドンの戦争勝利と千年王国成立が、ちかじか有ると思うのは誇大妄想です。

 もしもハルマゲドンの戦争が有れば、何十億の人が悲惨な犠牲者になるのです。ノアの箱船の時の洪水による人類皆殺しを初めとして「ヨシュア記」にある先住民族皆殺しの神の命令、終末時の人類大虐殺。「なんと冷酷無惨なエホバの神。また結果的に云えば、ほんの一握りの信者を神の国に入れ、残りの何十億の人を滅ぼす為に人間を造った無責任極まりないエホバの神」と云わざるを得ません。

3,エホバの死後観と復活観について

 次の話はテレビで放送されたものです。ある中年の婦人が時折ツワリのような苦しい状態になります。医師には神経性と診断され、サジを投げられてしまいました。
そこで慈雲法師と言うお坊さんのお寺を訪ねました。お参りを続けていると、その婦人がひょう霊状態を呈するようになりました。

 ひょう依した霊の語るところによれば、婦人のご主人の実家の地下に埋められている女性の霊で、不義の疑いで侍女と共に斬殺されたとのことでした。そして苦しみを救って欲しいとしきりに訴えるのでした。
 ひょう依状態の婦人と慈雲法師が指し示す場所を二メートル近くほど掘ったところ二人分の古い人骨が発見されました。
 家の一部を壊し床下を掘って骨を見つけるまでの一部始終が放映されました。慈雲法師やその家の人が、まえもって人骨を埋めておいたとは、とうてい考えられません。

 次の話は日蓮宗大本山中山法華経寺の渡部貫主さんの著書『唱題功徳抄』にある体験談です。
 昭和十年代のこと、広島の某警察署の巡査の奥さんが貫主さんの師父を訪ねてきました。若く美しい奥さんですが話をすると口元が引きつり顔が変わるのです。医師には「顔面神経痛の一種という以外には考えられない」と言われ、思い余って来寺したのでした。
 
毎日欠かさずお参りしているうち霊がひょう依し「自分は七年前に死んだ、この女の夫の母である。この女を嫁にしたくなかった。別の娘を嫁にと思っていたのに息子がどうしてもと言うので、それをさせないために、町の△△稲荷社の松の木へ祈りの釘を打った。しかし、とうとう息子はこの女を嫁にしたしまった。
 そうなってから、その事実を誰にも打ち明けることもできず、このままではどう言う事になるだろうと言う心配も重なり、悶々のうちに病気になり、世を去ったが自分の気持ちは今もなお、この女の上から去らないでいる」
と語りました。

そこで自分たちのいた町に住む伯父に頼み、伯父の計らいで、その松の木をもらい受け調べたのですがクギらしいものは見当たらないので「やはり迷信なのか」と思ったそうです。ところが伯父さんがタキギにでもと思いノコで引いていると、金物がかった色が見えたので皮をはいで見ると、打ち込んだ頭のないクギ跡がはっきり見えたそうです。姑の霊が語ったことは実証されたのです。

 この実例からも死者の霊には意識活動があることがわかります。このような実例は数多くあります。

「エホバの証人」が配布していったビラの『亡くなった家族の者にはどんな希望がありますか』に「死後には意識作用など持った霊などは存在しない」と主張していますが、意識作用を持った霊が存在する事実を無視したものです。

「意識作用など持った霊など存続しない」と言う考えの「エホバの証人」は当然、追善供養の意義など認めない教団と言うことになります。

 浮かばれていない有縁の霊をほっておくと、いつ霊障を受けるかも知れません。「エホバの証人」の信徒の中には、病気とか不幸・災難続きであったので入信した人もあるかと思いますが、その病気や不運続きの原因は、もしかしたら霊障であるかも知れません。

 大恩ある親、親愛なる兄弟、いとしい我が子の霊が苦しい状態にある場合が多々あるのです。それなのに「意識のある霊などない」と言って、霊の苦しみを救ってやろうとしないのでは、親不孝・不人情のそしりを免れないでしょう。

 また「エホバの証人」では「不信者は罪の報いで死後は無になる」と教えているようですが、もし身体や意識が完全に消滅すれば、暑さ、寒さ、痛さ、飢え、渇きなど身体的苦痛を感じることも無く、また精神的苦悩も悲しみ、不安も無くなります。
たとえれば熟睡している時の苦もなく楽もない状態と同じでしょう。むしろ平安とも言える状態です。
 ですから仏教でも小乗仏教では「灰身滅智」の悟りと言って、身体と心を完全に滅無することが悟りであるとしているくらいです。この身も心も分散消滅して、まったく無に成ると言うのでは罪を受けたことにならないでしょう。

 エホバの神を信じなかった者は善行の人も悪行の人も区別なく無になってしまうのでしたら、「悪いことをしても好い思いをした方が得だ」と言う道徳無視の人生観を助長すると思われます。

「自分の行為の一つ一つに対して必ず報果(結果)が現れる。この世に現れなくとも次の生には必ず報果を受ける。現在、不道徳の報いを受けないで安楽に過ごしている人もいるが、何年か後あるいは後生に悪報を受けるはめになる」と言う信念があってこそ、己を慎み善行を励む気持ちが湧いてくるのだと思います。

 エホバの神を信じてなかった人でも行い心掛けは種々さまざまです。ですから種々さまざまなる次の生存状態があるのが当然です。善行の人も悪行の人もおしなべて同じく無になってしまうのでは因果の道理が無い事になります。

「エホバの神を信じなかった者は死後、無になる」と教える「エホバの証人」は因果無視の邪見の教えと言わざるをえません。

 また「エホバの証人」では「エホバの神を信じた人は神によって再生復活してもらえる」と教えています。しかし「死ぬとチリになり、無になる」と言うことは、影も形もなくなると言うことです。

 私が死んで身体も霊的なものも全く無になってしまった後、神が私そっくりな人間を造ってくれたとしても、その人間は私ではありません。死後の霊的な存続を認めその霊的なものが新たなる身体を得ると言うのでなければ、再び生まれたとは言えません。たとえば壊れた茶碗を捨ててしまい、その後で新しい材料でそっくりな茶碗を造ったとしても、捨てた茶碗と新たに造った茶碗とは別物であるのと同じ道理です。

 たとえ神が私を記憶していて、あるいは設計図みたいな物を基にして、造ったとしても以前の私とは連絡性はありません。同じと思うのは似ているところから起きる錯覚です。ですから私が生き返った、復活したとは言えません。

 私どもはエホバの神に復活さしてもらわなくとも、もともと生き通しの命を持っているのです。三世にわたる因果の理法によって、善因善果・悪因悪果と言う因果応報で生存の形、境遇を受けて行くのです。
 仏・菩薩・善神の教導と守護を受けつつ、過去の悪行為の罪を消滅し、善功徳を積むことを努め、仏心を育成していく努力を続けて行けば必ず素晴らしい境遇に至る事が出来るのです。

 
4,エホバの証人の輸血禁止について

  
普通のキリスト教の見解

 「エホバの証人」では、輸血を受ける者は神から見放されると主張し、輸血を絶対的に禁じているとの事です。

 ところが「エホバの証人」とは反対に普通のキリスト教では

「いや、とんでもない。聖書が書かれた時代には、まだ輸血など無かった。無いものを禁じるわけがない。たしかに旧約聖書には血抜きしていない肉を食べる事を禁じているが、食肉と輸血とは性質がまったく事なる。
 聖書の本意から言っても食肉の禁止は流血(殺人)の禁止の前奏曲であり、根本的意図は生命(とくに人命)の尊重にある。
 輸血は他者の命を救う事を目的とする。したがって生命尊重を説く聖書の本意に合致する」

また
「ノアの大洪水のあとで神が〈動物の肉は、その命である血のままで食べてはならない〉と、掟を与え、モーゼも〈血を食べないように注意せよ。なぜなら血は生命であり、肉といっしょにあなたたちは、生命を食べてはいけないからである〉と繰り返している。しかし、この掟は新約時代になると、信者になったユダヤ人のために、当分のあいだ残された(使徒行録一五・二〇)しかし、間もなくこれは取り消され、使徒パウロは新約の自由を強く守っている。だから旧約時代の規定は今はもう通用しないことになる。エホバの証人たちは輸血が人の血を食べることに当たると断言するが、まったく無関係なことなのに、曲解もはなはだしい」
と、輸血は罪悪でないと反論しています。この一般のキリスト教の見解の方が正しいと思います。

 
 食血と輸血は同じではない

「エホバの証人」では、「食肉は悪である。食血と輸血は同じである。故に輸血は悪である」と言う論法だそうです。

 しかし、人命を救う輸血と血抜きしていない肉を食べるのは同じだと言うのは無茶苦茶な論理です。こんな論理で人を納得させようとしても無理でしょう。

 動物の命を取り、食欲を満たすため味わう食肉(食血)と人命を助ける輸血とは決して同じではありません。

「エホバの証人」では輸血の事故を書き立てているようですが、現に輸血によって助かった人が数多くいることを無視してはならないでしょう。

  
何時のまにか変えたワクチン禁止

「エホバの証人」の機関紙『黄金時代』の一九三一年二月四日号にはワクチン療法を「大いなる邪悪」ときめつけ
「神がノアと結ばれた永遠の契約を直接的に犯すことである」
とハッキリ発表してあるとの事。

ところが一九六五年八月二十二日号の『目ざめよ』にはワクチン療法は差支えない。むしろ推奨する旨を書いてあったとのこと。

ワクチン否定が肯定に変わった理由の説明はまったく無かったそうです。自らの聖書解釈の誤りに気付いてコッソリ何時の間にかワクチン肯定に変わったものと思われます。

 昭和六十年ごろ、交通事故の少年の両親が輸血を拒否した騒ぎが世間の注目を集めました。一度禁じたワクチンをいつの間にか推奨しだした前科がありますので、輸血禁止の教義もそのうち引っ込めるかも知れません。そうなったら、その両親はどんなにか後悔することでしょう。

  
命を大事に

 輸血によって助かるのに輸血拒否するのは人命軽視です。正しい方法による輸血によって病気が治ったら、社会や人のために尽くすなど有意義な人生を送れるでしょう。輸血を禁じるような神や教えは正常なものとは言えません。

 酔生夢死の長生きより、たとえ短命でも有意義な人生の方が価値がありますが、命を軽んじてはなりません。
 日蓮聖人が
「命と申す物は一身第一の珍宝なり。一日なりともこれをのぶるならば千万両の金にもすぎたり。・・閻浮(世界)第一の太子なれども短命なれば草よりもかろし。日輪のごとくなる智者なれども若死にあれば生ける犬に劣る・・齢もいまだたけさせたまわず。しかも法華経にあわせたまいぬ。一日も生きてをわせば功徳つもるべし。あらをしの命や、あらをしの命や」(可延定業御書)

と言われているように、命は何よりの宝です。

いかに社会に貢献できる能力を持っていても、またどんなに智恵ある人であっても短命・若死であれば、能力・智恵が無駄になってしまいます。一日でも長生きして、社会に貢献し、正しい信仰に励むべきです。

 また日蓮聖人が
「善行を行い安い極楽世界での百年の修行は、悪・苦難に満ちた穢土で、一日修行する方がはるかに功徳が多い(取意)」(報恩抄)
と、言われています。極楽のような理想郷に於いては善行の実践は容易ですが、悪と苦に満ちたこの現世において善心を保持し、善行を実践する事は容易でありません。悪い環境の中での善行実践は困難であるが故に尊いのです。輸血で命が助かるのなら輸血を受けて、一日でも長生きして正法の信仰に励み、人のため社会の為めに活動すべきでしょう。

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