「本尊問答抄」は一尊四士像を否定していない
 
知人(在家)が大石寺系信徒と議論応酬している或る掲示板を見てみましたが、大石寺系信徒は、法華経と釈尊をあきれかえるほど軽視し蔑んでいます。現在においては、浄土宗等の他宗信徒(一部信徒を除いて)でさえ、大石寺系信徒のように法華経・釈尊を酷く貶す者は居ないでしょうね。
大石寺系信徒が法華経・釈尊を侮蔑する原因は、祖文(日蓮聖人の論文や御手紙類)を正しく解釈出来ない事にあります。
その一つとして、『本尊問答抄』の文を大石寺系信徒は誤釈して、「大聖人は釈尊像など本尊として認めていない」などと主張しています。

その『本尊問答抄』の文とは
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし、・・・此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず、上に挙ぐる所の本尊は釈迦多宝十方の諸仏の御本尊法華経の行者の正意なり。・・・問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり、」(365~66頁)
との文です。口語訳は「〔答〕法華経の題目を本尊として崇敬すべきである。・・・不空三蔵の法華経の観智儀軌は宝塔品第十一の経文に基づいているのであり、法華経の教主釈尊と多宝如来とを本尊としているが、このような考え方は法華経の本意からはずれている。ただし前述した題目の御本尊は、釈尊と多宝如来をはじめ十方世界の諸仏の御本尊であって、法華経の行者の尊崇すべき本当の御本尊なのである。・・・
〔問〕それならばなぜ釈尊を本尊としないで、法華経の題目を本尊とするのか。
〔答〕それは前に引用した経文やその解釈を見ればわかるように、日蓮一人の勝手な考えではなく、釈尊も天台大師も法華経を本尊とされたのである。そのため末代の世にある日蓮も釈尊や天台大師と同じように、法華経を本尊とするのである。それは法華経は釈尊を生んだ父母であり、また諸仏の眼目であって、釈尊も大日如来も、十方世界のあらゆる諸仏もすべて法華経から生まれたのである。このため生みの親の法華経を本尊とするのである。」です。

大石寺系では、釈尊とお題目の妙法五字との関係についての日蓮聖人のお考えを亡失して、此の文を誤解釈し、「釈尊は本尊にならない」などと言う邪義を主張しているのです。

そもそも日蓮聖人の教示によれば、
1,妙法五字は法華経の肝心。久成釈尊の一切の所有の法・一切の神力・一切の自在の神力・一切の秘要の蔵・一切の甚深の事を結要したもの、すなわち神力品別付の結要の要法。
2,妙法五字は久成釈尊の功徳の結晶であり、妙法五字を通して釈尊の悟り・功徳を譲ってもらえる。
3,妙法五字は久成釈尊の証悟の世界、すなわち本仏釈尊の果上の事の一念三千である。
4,大曼荼羅御本尊は本仏釈尊の果上の事の一念三千の悟境界を表現したもの。
等々なのだから、久成釈尊に即して法華経・妙法五字であり、法華経・妙法五字に即して久成釈尊なのです。
ゆえに妙法蓮華経の五字を本尊とする事は久成釈尊を本尊にすると言う事なのです。本尊を法的に顕せば妙法五字であり、人的に表現すれば久成釈尊なのです。
文永九年の『四條金吾殿御返事』にも「釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし」(1122頁)
とも、また建治元年の『法蓮抄』にも「今の法華経の文字は皆生身の仏なり、」(1050頁)との説示があるのです。
ゆえに、この『本尊問答抄』にも「然れば則ち木像画像の開眼供養は唯だ法華経にかぎるべし(口語訳→法華経はたましいである。したがって仏の木像や絵像の開眼供養はただ法華経にかぎるのである。)」(366頁)
と仏像画像の釈尊の開眼について言及されているのです。
 
『本尊問答抄』には「法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり、故に今能生を以て本尊とするなり」とあって、「釈尊を始め十方の諸仏は法華経から生まれたのであるから、生まれた諸仏より、生んだところの法華経を本尊とすべきだ」と述べられていますが、ここに有る「釈迦・大日・十方の諸仏」とは先仏の説いた法華経に依て成道したと説明しているところの法華経前半や諸経に説かれている釈尊や諸仏の事です。寿量品で明かされている久成釈尊には師としての先仏は存在しません。ゆえに日蓮聖人も「此の過去常顕るる時諸仏皆釈尊の分身なり」(開目抄・124頁)(口語訳→この如来寿量品によって釈尊が無限の過去から教化をつづけてきた仏陀であるということが明らかになったとき、すべての仏陀は皆、久遠の釈尊の分身であることが認識される。それに対して、法華経以前の諸経と法華経の迹門のときは、諸仏は釈尊と対等の立場でそれぞれに修行をかさねた仏陀であるという認識であった)
と説示されています。

寿量品において明かされた釈尊の正体である久成釈尊には、先師である先仏が説いたところの教法としての法華経を修行して成仏した仏ではありません。
本有の妙法に則り修行して仏に成ったと言う面では、理法は久成釈尊を生み(能生)、久成釈尊は生まれた(所生)と言う関係ですが、理法を悟った久成釈尊(能覚の仏)が居なければ教法としての法華経も無いのです。理法としての本有の妙法は「妙法蓮華経」とも表現されますが、久成釈尊の覚り即ち教法の根本となる覚法、並に教法としての法華経も「妙法蓮華経」と表現されます。

『本尊問答抄』に本尊とすべき「法華経の題目」「法華経」とは、久成釈尊の覚法(久成釈尊の大悟界の内容たる本仏果上の一念三千)・教法としての法華経を指しているのです。先学が「久成釈尊の能覚の内容を能説の根本原理として、これを一言に説き顕したものが南無妙法蓮華経の五字であり、神力品結要の妙法五字であり、本仏久成釈尊の御覚り一念三千の結論、根本教法としての一言で本仏の心である。南無妙法蓮華経は名は法的表現だが体は本仏久成釈尊の覚り」と論じている通り、人的に表現すれば久成本仏釈尊、法的に表現すれば妙法五字なのです。
だから、『観心本尊抄』にも、
「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。」(248頁)とあります。口語訳は、「釈尊入滅後、正法一千年・像法一千年の計二千年の間には、迦葉尊者・阿難尊者を左右に脇士として従える小乗の教主釈尊を本尊として仰ぐ者、あるいは文殊(師利)菩薩・普賢菩薩を左右に脇士として従える権大乗ならびに涅槃経の釈尊を本尊とする者、法華経の迹門などの教主である釈尊を本尊として仰ぐ者もあった。[このように釈尊を本尊と仰ぎながら]あるいは小乗経典を説く釈尊として、あるいは権大乗経などを説く釈尊として、木像に造り上げたり、画像に描いたりすることは盛んに行なわれたが、いまだかつて如来寿量品で明らかにされた久遠実成の教主釈尊が造立されたことはなかった。そして今、末法という予告された時代に入り込んで、はじめてこの久遠実成の教主釈尊の「すがた」が現わし出される時機に至ったのであろうか」です。
このように「末法に入って、本化上行菩薩を脇士に添えた釈尊像を本尊として出現させるべきである」と、一尊四士像も本尊として奉安して良い趣旨を教示してあるのです。

『本尊問答抄』には「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず」と有るので、大曼荼羅本尊を本尊とすべきと述べていることが分かります。

なお、『観心本尊抄』には、久成釈尊の大悟界たる本仏果上の事の一念三千の境界を、「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり此れ即ち己心の三千具足三種の世間なり」(口語訳→ 本時という絶対時間に開き顕わされた娑婆世界は、その根本の災いである火災・水災・風災を超克し、また成劫・住劫・壊劫・空劫という雄大な循環を超克した永遠の浄土なのである。久遠実成の教主釈尊は、もはや過去世において入滅したこともなく、将来の世にも生まれ変わることはない。[このように法華経を説く教主釈尊は絶対にして永遠の仏陀であり、]しかも教化を受ける者もその永遠の釈尊と一体なのである。――ということこそ、凡夫の自己の心に三千の法界を具えているということであり、国土世間・衆生世間・五蘊(ごおん)世間という三世間を具えているということである。)
とのいわゆる四十五字法体段を指して「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」(247頁)と表現しています。この事からも、妙法五字は本仏久成釈尊の御覚り本仏果上の事の一念三千の境界意味することが分かります。
だから『本尊問答抄』に大曼荼羅本尊を本尊とすべきと有りますが、大曼荼羅本尊は、本仏久成釈尊の御覚り本仏果上の事の一念三千の境界でることを亡失してはいけないのです。
以上検討したように、「本尊問答抄」の文をもって、「久成釈尊は本尊の資格は無い。釈尊像ないし一尊四士像などの仏像本尊は本尊にならない」などと解釈して、久成釈尊・法華経を軽んじ侮蔑する事は、日蓮聖人の教示に背く大謗法なのです。
(引用御遺文頁数は創価学会版御書全集です。口語訳は日蓮宗電子聖典です)
 
追記

中山法華経寺現存の富木日常上人の『常修院本尊聖教録』に「釈迦仏立像並四菩薩  厨子御入」と有り、また中山日祐上人の『両寺(法華・本妙)本尊聖教録』を見ると、本妙寺の部に

「釈迦仏立像並四菩薩 大聖人御供養  厨子御入」

と記録してあるので、日蓮聖人が開眼供養した一尊四士像が本妙寺にも奉安されていたことが分かります。

一尊四菩薩がどうして、御本尊になり得ると云う理由は、山川智応博士が『本門本尊唯一精義』において「一尊は本果、四菩薩は本因で、本因本果のまします処、則ち本国土でありますから、そこに三妙具足して妙法蓮華経の身土宛然するので、『今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり(本国土)。仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず(本果)。所化以って同体なり(本因)。此れ即ち己心三千具足三種の世間なり』の意味となるのであります。また、一塔両尊四菩薩は、霊山虚空会上の八品の儀式を、略式によって示されたものであります。では、大曼荼羅は十界具足しているのに、一尊四士二尊四士には、縁覚以下の八界がないのはいかにといふと、それ等の八界は、法華経の会座では、みな本化菩薩の眷属の中にはいるのであります。二乗は迹門八品で、文殊、弥勒等の眷属にはいりました。その文殊、弥勒等は、寿量品の後は、本化菩薩の眷属にはいるので、「本尊抄」にも『釈尊の脇士は上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し』とあります。」(本門本尊唯一精義・87頁)と論じている通りでしょう。

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