『諸法実相抄』の解釈をめぐって。

大石寺系教団信徒は、『諸法実相抄』の文を挙げ、
【諸法実相抄に「されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」と有る。だから釈迦は本尊にならない。妙法蓮華経が本尊だ。また妙法蓮華経とは人法一体の日蓮大聖人のことだから、大聖人こそ本仏であって、釈迦は本仏などでない】などと日蓮本仏論を主張します。
 
そこで、「釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」との解釈について小考してみます。
 
そもそも、「諸法実相抄の後半部分は親撰であろうが、前半部分は偽作の疑いがある」と見る学者もあり、「(前半部分に)述べられている法門は、日蓮聖人の正系思想でなく、傍系思想である」と指摘する先師もいます。

『諸法実相抄』の後半部分には、
「日蓮末法に生れて上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立て粗ひろめ、つくりあらはし給うべき本門寿量品の古仏たる釈迦仏・迹門宝塔品の時涌出し給う多宝仏涌出品の時出現し給ふ地涌の菩薩等を先作り顕はし奉る事、予が分斉にはいみじき事なり」(諸法実相抄・1359頁)
(現代語訳→菩薩の弘められる妙法を、他の者に先立ってその概要を弘め、さらに本門寿量品の古仏たる釈迦仏を始め、迹門宝塔品のとき涌出された多宝仏、涌出品のとき出現した本化地涌の菩薩等をまっさきに作りあらわし奉ったことは、日蓮にとって大変に意義の深いことである)
と、本尊として、本門寿量品の古仏たる釈迦仏、多宝如来、本化の菩薩等を作り現したと説示してあります。
また、
「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり、地涌の菩薩の数にもや入りなまし、若し日蓮地涌の菩薩の数に入らば豈に日蓮が弟子檀那地涌の流類に非ずや、経に云く『能く竊かに一人の為めに法華経の乃至一句を説かば当に知るべし是の人は則ち如来の使如来の所遣として如来の事を行ずるなり』と」(同書1359頁)
(現代語訳→この大地の中からわき出たといわれる本化の菩薩のさきがけは日蓮一人である。地涌の菩薩の数に入っているのかもしれない。もしも日蓮が地涌の菩薩の一員として数えられるとしたら、まさに日蓮の弟子や檀那も地涌の菩薩の一類ということになるのではないか。法師品には「よくひそかに一人のために法華経の一句であっても説き聞かせたならば、まさにこの人はすなわち如来の使いであり、如来から派遣された人で、如来のなすべきことをなす人である」とあるが、これは別に他の人々のことを指しているのではなく、われわれのことを指しているものであろう。)
と、「日蓮初め弟子檀那は地涌の菩薩で久成釈尊の御使として仏願仏業を手伝う者である」との意を説示しています。日蓮本仏の思想など全く有りません。

また、
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く『我久遠より来かた是等の衆を教化す』とは是なり」(同書1360頁)
(現代語訳→日蓮と同意ならば地涌の菩薩ではないか。地涌の菩薩にさだまれば、釈尊の久遠からの本化の弟子であることは疑いのないことであろう。涌出品には「我は久遠よりこのかたこれらの衆を教化す」と説かれている通りである。)
と言って、「日蓮等は久遠の昔に久成釈尊の教導を受けた弟子で有る」と説示しています。ここにも日蓮本仏の思想など微塵も有りません。

また、
「今日蓮もかくの如し、かかる身となるも妙法蓮華経の五字七字を弘むる故なり、釈迦仏多宝仏未来日本国の一切衆生のためにとどめをき給ふ処の妙法蓮華経なりと、かくの如く我も聞きし故ぞかし」(同書1361頁)
(現代語訳→このような身の上となったのも、妙法蓮華経の五字七字の題目を弘めたからである。釈迦仏と多宝仏が、未来の日本国の一切衆生を仏にさせるために、留めおかれたところの妙法蓮華経であると、日蓮も聞いていたからである。)
と有って、「日蓮が弘通する妙法蓮華経の五字七字の題目は釈迦仏と多宝仏とが説き留めてくれた妙法蓮華経である」と説示しています。

日蓮聖人弘通の妙法蓮華経の五字七字の題目は、単なる真如実相ではなく、諸法実相真如を証悟した久成釈尊が、その証悟を基に教乗化された釈尊の功徳智恵の結晶なのです。
だから大曼荼羅御本尊の中央に書かれているお題目は、単なる諸法の真如実相を表す妙法蓮華経ではありません。釈尊の教法の肝心・功徳智恵の結晶なのです。日蓮本仏を表現しているものではありません。「大曼荼羅御本尊に書かれている妙法蓮華経と日蓮花押とは一具一体であって、妙法蓮華経は人法一体の日蓮大聖人を表している」との大石寺系教団の主張は間違いである事は既に私のホームページの「小論」で「御本尊の相が日蓮本仏の証?」において指摘しております。

また、
「日蓮もしや六万恒沙の地涌の菩薩の眷属にもやあるらん、南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女をみちびかんとおもへばなり、経に云く一名上行乃至唱導之師とは説かれ候はぬか」(同書1361頁)
(現代語訳→日蓮はもしかすると涌出品に説かれている六万恒沙の地涌の菩薩の使者であるかもしれない。それは南無妙法蓮華経と唱えながら、日本国中の男女を導こうとしているからである。涌出品の中に「一人は上行菩薩と名づく、乃至この人は唱導の師である」と説かれているではないか。)
と、「『涌出品』にある『末世に於いて法華経を弘通する者の一人は上行菩薩であり、人々を導く唱導の師である』との経文から推すると、日蓮は地涌の菩薩の使いであるかも知れない」とお書きになっています。
『諸法実相抄』の後半部分にある以上のお言葉からは、「釈迦は本仏でない。妙法蓮華経と一体の日蓮大聖人が本仏で有り、本尊なのだ」などと言う説示など微塵もありません。
 
前半部分の真ん中あたりの部分に「かくの如き等の法門日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、天台妙楽伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし胸の中にしてくらし給へり、其れも道理なり、付嘱なきが故に時のいまだいたらざる故に仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導上行無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、」
(現代語訳→このような法門については、日蓮を除いてはほかに一人も言い出した者はいない。先の天台・妙楽・伝教等の大師らも、心の中では知っていたが口に出して言うことをせず、深く胸の中にしまっておられた。それは道理のあることで、仏からこの経を弘めよという付属を受けていないからであり、また時期もまだその段階に至っていなかったからである。さらに仏の久遠の昔からの弟子ではなかったのである。地涌の菩薩といわれる仏の本弟子の中の上首で唱導師(しようどうし)たる上行・無辺行等の本化の菩薩よりほかの者は、末法の始めの五百年に出現して、法体の妙法蓮華経の五字を弘めることはできないのである。そのうえ、宝塔品で説かれているような釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で並び座し、大事な法門が説かれていった儀式の姿を作り現わしていくことは本化以外にはできないのである。)
と有って、「いま日蓮が弘通している法門を天台・妙楽・伝教大師等が弘宣しなかった理由は、釈尊の最初の弟子すなわち久遠よりの弟子で無いうえ、弘通を命じられて無かったからである。釈尊の本弟子の上首の本化上行等の地涌の菩薩でなければ、法体の妙法蓮華経の五字を末法の始めに弘宣出来ないのである。また二仏並座の霊山虚空会の儀式を大曼荼羅本尊として作り顕すことは本化地涌の菩薩以外には出来ないのである。」との趣旨を説示しています。
「末法に妙法五字を弘宣するようにと、釈尊より命じられた釈尊本弟子の本化の菩薩にして始めて、法体の妙法五字、すなわち久成釈尊の覚りの内容を弘宣し、大曼荼羅御本尊を作り顕すことが出来るのである」との文意です。ゆえにこの部分からも「久成釈尊が根本教主すなわち本仏でり、日蓮聖人の本地身である上行菩薩は釈尊の本弟子である」と日蓮聖人が認識していたことが分かります。この部分にも日蓮本仏論などの思想は微塵もありません。
 
さて、長文の引用となりますが問題の前半部分とは、
「問うて云く法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等」云云、此の経文の意如何、答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり依報あるならば必ず正報住すべし、釈に云く「依報正報常に妙経を宣ぶ」等云云、又云く「実相は必ず諸法諸法は必ず十如十如は必ず十界十界は必ず身土」、又云く「阿鼻の依正は全く極聖の自心に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云、此等の釈義分明なり誰か疑網を生ぜんや、されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時事相に二仏と顕れて宝塔の中にしてうなづき合い給ふ、
かくの如き等の法門日蓮を除きては申し出す人一人もあるべからず、天台妙楽伝教等は心には知り給へども言に出し給ふまではなし胸の中にしてくらし給へり、其れも道理なり、付嘱なきが故に時のいまだいたらざる故に仏の久遠の弟子にあらざる故に、地涌の菩薩の中の上首唱導上行無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし、是れ即本門寿量品の事の一念三千の法門なるが故なり、されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏二仏三仏本仏迹仏の通号なり」と判じ給へり、此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依つて倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、実相と云うは妙法蓮華経の異名なり諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり、此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。」
(諸法実相抄・1358~9頁)
です。赤字部分は私が上記に「前半部分の真ん中あたりの部分」と指摘した部分です。この下線部分を飛ばして、文をつなげた方が自然な文章になるので、下線部分は元々は11行後の「日蓮末法に生れて上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立て粗ひろめ、」とある行につながっていたと思われます。下線部分を省いて通解すると、
【問う、法華経の第一の巻の方便品に『諸法実相といふのは、万象の相(すがた)も性も体も力も因も縁も果も報も、本末の総てがそのまま真如法性の相(すがた)であるといふことである』とあるが、この経文はどういふ意味なのであるか。
答ふ、十界の中の下は地獄界から上は仏界に至るまでの非情の草木国土も有情の衆生も、その悉くがそのまゝ妙法蓮華経の相(すがた)であるといふ経文でありる。
草木国土の依報があれば、そこには必ず、有情の生物が住む。それゆえ妙楽大師は文句記の第十の巻に、『無相の実相といふのは、有相の万法の上の真理である。すでに諸法と云えば必ず相・性・体等の十如が具わり、十如は必ず各々に具わっている。十界は正報の生物と、依報の国土との二つから出来ている』と云い、また同書に『無間地獄の依報・正報は共に仏の心の中に在る、また仏の依報・正報も共に迷いの凡夫の一念の中に存する』と説いている。
かく明らかな解釈があるからには、一念の中に森羅三千の諸法があることは疑いの余地がないであろう。それゆえ宇宙法界の相(すがた)は妙法五字の外の何物でもない、釈迦・多宝の二仏も、妙法五字が作用(はたらき)を起こして衆生を利益する時、無相実相の妙法五字が釈迦・多宝の二仏の相(すがた)と現れて、宝塔の中でうなずき合われたのである。
それゆえ釈迦・多宝の二仏も妙法蓮華経の本体から作用(はたらき)を顕された迹仏であって、中央の妙法蓮華経の五字が本仏なのである。そのことを寿量品に説いて『如来の秘密、神通の力』とある。
『如来の秘密』といふのは、本体の法身・報身・応身の三身を具足する本仏で、『神通の力』といふのは、本仏から外部の作用(はたらき)を表した垂迹の三身仏である。我等凡夫は『毘盧の身土は凡下の一念をこえず』であるから本体本佛であって、仏は垂迹の用の仏である。故に釈尊は、衆生から見れば主君であり師匠であり親であるところの三徳を備えた仏であると思われたのに、事実はそれに反して主・師・親の三徳は我等凡夫の体の本佛から、用の迹仏に蒙らせたのであった。】(『日蓮聖人御遺文講義第八巻』183~192頁)と云う通解になります。
 
現象に即して十如十界互具の実相です。言い換えれば、十如十界互具の実相の動きが現象世界なので不離一体といえます。
元々、十界の何れの境遇にも変化する可能性を具しているから、何を意思し、何を行うかで、地獄や餓鬼、人間、聖者などの果報をそれぞれに受けるのであり、仏が修因に因って果徳を顕現し衆生救済の用(はたらき)を行えるようになったのは、十如十界互具の実相すなわち妙法蓮華経の体だからである。そこのところを「釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」と云っているのです。
十如十界互具の実相だから、凡夫はもともと仏界を所具している、凡夫と云う存在体が無かったなら仏に成る者も居ない。十界互具を具した凡夫が居るから、修因して所具の仏界を顕現した仏が存在することになる。だから凡夫が体が具えている仏界の働きを顕したと云う面に立てば「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、」と云うような趣旨を語っているのです。迷いの凡夫も本体は仏であると云う事を自覚し、釈尊の教えに従って修行し、本来的に具えている尊い仏界を顕現しなければならない事を強調している表現なのです。

諸法実相についての此の文段における説明は、「長寿(仏の功徳働き)はただ体(諸法実相)を証したる用である」と説明している迹門立脚の実相論を主眼とする天台の説明に近く、本仏久成釈尊の存在を説示する寿量品の思想が顕説されていないので、顕本法華宗の本多日生師が指摘しているように、本門立脚の日蓮聖人の正系思想と言えないでしょう。

『諸法実相抄』の前半に見える本迹観は、「六重本迹」の中の「理事本迹」に大分近いというか、また「真如は不変真如であるばかりでなく、染浄の諸法を顕現する動性である。事相差別の当相がそのまま真如の動態に外ならず、十界は悉く真如の随縁であり平等不二である」とする真如随縁思想の説明と大変似ている説明の仕方だと思います。ですから、『諸法実相抄』の前半を以て大曼荼羅の題目の意味合いを推測することは危険があるように思えます。

『諸法実相抄』の後半に、「既に多宝仏は半座を分けて釈迦如来にたてまつり給し時、妙法蓮華経のはた(旛)をさし顕はし、」(1360頁)とあります。これは虚空会の様相であり、また大曼荼羅を述べているものと理解すべきでしょう。中央の題目は「さし顕はされたはた(旛)」であるとしていますが、その旗は、「釈迦仏、多宝仏、未来日本国の一切衆生のために、とどめ(留)をき給ふ処の妙法蓮華経なりと。かくのごとく我も聞きし故ぞかし。」(1361頁)とあるように、単なる実相真如や、単なる在纏位の三身如来(仏性)を表す妙法蓮華経でなく、釈尊の教法(衆生を本有の尊形と為さしむ妙法)・釈尊の証悟を表す題目とするのが本義であろうと思われます。

決して、諸法の実相としての妙法蓮華経の方が釈尊より有り難いとか尊いとかを語っている文段であるとか、凡夫の方が本当の仏であるなどと釈尊軽視を語っている文段であるとかと云うように理解してはならないのです。
『開目抄』『観心本尊抄』等の重要御書に説示されている日蓮聖人の正系思想より見れば、『諸法実相抄』に有る「妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」を「釈迦は本尊ではない。妙法蓮華経こそ本仏であり本尊だ」との意味に取ることは大きな間違いなのです。
(現代語訳は日蓮宗電子聖典。御書頁数は創価学会版御書です。)

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