三大秘法抄は日蓮本仏論の文証にならない 大石寺系教団信徒が『三大秘法禀承事』に有る「(釈尊が)実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒檀と題目の五字なり」(1021頁)との文を挙げて「法華経を説いた釈迦は成仏するために寿量品の本尊と戒檀と題目の五字を修行したと有る。釈迦が本尊として崇敬礼拝した寿量品の本尊が真実の御本尊で有る。よく読んで見ろ、釈迦は本尊にならないと云う意味だ。釈迦が本尊としたのは人法一体の日蓮大聖人だ」などと云うような主張をしてきます。この事について小考してみましょう。 結論を先に言えば、寿量顕本した久成釈尊は三世十方諸仏の根本仏(本仏)であるからには、久成釈尊を教導し開覚せしめた師匠としての先仏は存在しない道理です。久成釈尊を教導し開覚せしめた師匠として「人法一体の本仏即ち日蓮大聖人」が存在したなどと言う事は法華経にも日蓮聖人親撰御書にも書いてありません。全く文証の無い脱線見解です。もっとも大石寺系では御書を切り文して恣意的解釈を付け文証としますが、全く文証の価値がありません。 そもそも『三大秘法禀承事』は御真蹟が無く、古来真偽論があり、日蓮聖人御制作(親撰)と見る見解と偽作と判じる意見とがあります。 『日蓮聖人御遺文講義7』(鈴木一成師講義担当)に、偽作と見る主な先師、真作と見る主な先師、真偽未決とする主な先師と、その各師の認識の主な理由を簡単に評しながら紹介し、 「最後に自分は私一個の憶説を出して、大方の指南を仰ぐことにする。本抄の法門は聖人が六老僧や富木・太田等の教団の重立(おもだ)ちに、深秘の法門として口決相承されたもので、その内の一つである太田氏の手記が転々伝写されて、真作と伝えられるに至ったものであろうか。こう考えれば興師や祐師の聖教目録にも載らないことも、現在真蹟が存在しないことも、途中で真蹟が存在したといふ記録のあることも、ある程度に会通されるわけである。また文章に就いても、聖人直接の執筆であないから、多少の矛盾はあろうし、聖人口づから授かったものを直写したとすれば、用語文勢等も他の御遺文と共通点があるわけである。昭門流で指摘したといふ疑い、他の御書の例を破って、上行菩薩の再誕なりと直言された点なぞも、聖人の口授を筆録したものとすれば、あり得ることと思ふ。また内容の点から言っても、他に類例のない事の戒壇を沙汰するからといふ疑いも、口決相承であるといふ理由で解消されるわけである。また曽谷入道殿許御書(1033頁)に、上行別付の要法を示す経文を求むる問いに対して『口伝を以て之を伝えん』と記され、然も本抄の冒頭にその経文が掲げられている点は、この私の憶説に多少の根拠を与えるものであろうと思う。」(356頁) と真偽論に対しての鈴木一成師の推論を述べています。 本門法華宗の派祖日隆上人は、真偽未決との認識ですが、本門弘教抄巻八に「謀実の事は未定なり。去りながら文体に付いては不審繁多なり。能く々之れを明きらむべし云々。文釈の取り合いして不足なり。仍って本門本尊として証文経文解釈既に大部御抄の大旨に違ふなり」と文章的に真作を疑っているとのことです。 もしも、日隆上人所有本に「実相証得の当初修行し給いし処の寿量品の本尊と戒檀と題目の五字なり」とあったと仮定すれば、日隆上人はこの箇所にも不審を懐かれたであろうと憶測されます。 昭和定本と霊艮閣蔵版には、 「実相証得の当初修行し給し処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字也。」となっていますが、『類纂日蓮聖人遺文集』では「実成当初証得し給ひし寿量品の本尊と戒壇と題目の五字也。」です。 私は『類纂日蓮聖人遺文集』の文であるべきだと思います。 寿量顕本した久成釈尊は三世十方諸仏の根本仏(本仏)であると教示している親撰御書を挙げれば 「此の過去常顕るる時諸仏皆釈尊の分身なり」(開目抄・214頁)「華厳経の台上十方阿含経の小釈迦方等般若の金光明経の阿弥陀経の大日経等の権仏等は此の寿量の仏の天月しばらく影を大小の器にして浮べ給うを」(開目抄・197頁) 「教主釈尊は既に五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり大日如来阿弥陀如来薬師如来等の尽十方の諸仏は我等が本師教主釈尊の所従等なり、天月の万水に浮ぶ是なり、」(法華取要抄・333頁) 「久遠実成は一切の仏の本地譬へば大海は久遠実成魚鳥は千二百余尊なり、」(聖密房御書・898頁) 等の御書があります。 久成釈尊が三世十方諸仏の根本仏(本仏)であるならば、道理の押すところ久成釈尊の先仏は存在しないし、当然の事に、先仏の説いた教法としての法華経も存在しないと言う事になります。 と言う事は、久成釈尊の証悟已前には、寿量品の本尊と戒壇と題目の五字はまだ無いと言うことです。 故に「実相証得の当初修行し給し処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字也。」の表現には大いに不審があります。 「久成釈尊が実相を証悟して初めて明らかになった寿量品の本尊と戒壇と題目の五字である」との意が読める「実成当初証得し給ひし寿量品の本尊と戒壇と題目の五字也。」との『類纂日蓮聖人遺文集』の表現の方が正しいと思われます。 『三大秘法禀承事』には 「所居の土は寂光本有の国土なり能居の教主は本有無作の三身なり所化以て同体なり、かかる砌なれば久遠称揚の本眷属上行等の四菩薩を寂光の大地の底よりはるばると召し出して付属し給う、(1021頁)とあります。本弟子の上行等の四菩薩等を呼び出して妙法弘通を付属した仏は久成釈尊以外の他仏ではありません。故にここに有る「本有無作三身の能居の教主」とは久成釈尊で有ることは間違い有りません。それなのに大石寺系では「いや、本有無作の三身の教主とあるのは、人法一体の日蓮大聖人の事だ」などと言い張り、法華経の教相や日蓮聖人の説示に背いています。 また、『三大秘法禀承事』には、 「寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり、寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云、疏の九に云く『一身即三身なるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す』」(1022頁) 「此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」(1023頁) と有ります。釈尊が、無始より衆生を教導している久成釈尊である事を説くのが寿量品の主題です。だから大聖人は、釈尊の弟子本地上行菩薩として三大秘法の法門を教えていただいたのだと記しているのです。 さらに続けて「大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり」(1023頁)と、「今日蓮が広宣流布している三大秘法の法門は久成釈尊が証得された一念三千である 」と記しているのです。 以上のように検討すると『三大秘法禀承事』には、大石寺系が主張する「釈迦が本尊として崇敬礼拝した寿量品の本尊が真実の御本尊で有る。よく読んで見ろ、釈迦は本尊にならないと云う意味だ。釈迦が本尊としたのは人法一体の日蓮大聖人だ」などと言う文意など、全く無いことが解りましょう。 (引用御書は創価学会版御書の頁数です) 目次に戻る |