随分と以前のことですが、ニフティのパソコン通信時代に、五・六人連名での配信を受けた文書「日蓮正宗への批判」の「本門戒壇の板本尊批判」の部分の要旨を紹介します。配信者の所属団体は不明ですが、内容から推測すると美濃周人氏著『日蓮正宗・創価学会 虚構の大教団』の所説に拠っているようです。

板本尊は後世の偽造。

 

楠木でできている板本尊

 

日蓮正宗が「本門戒壇の大御本尊」と称する板本尊は、楠木で表面が黒漆、彫った文字を金箔加工してある。

大石寺六十六世細井日達法主が、

「戒壇の御本尊様は楠の厚木です。表から見るとこういう板です。ところが此れは大変な板です。ただの板ではないのです。こういう板になっているのです。だから後ろから見ると丸木です。丸木を表だけ削ってあるわけです。大変なものです。重たい。上はただ三寸そこそこの板ですけれど、まわりは丸木です。まん丸い木です。その丸い木を、前を削って板にしたにすぎません・・・」(昭和52年5月26日の大石寺大講堂・寺族同心会の指南)と、丸木の表を削って、前の表面だけ板にした、いわば半丸太・半丸木の本尊だと説明している。

 

板本尊の重量

 

大石寺四十八世日量法主著『富士大石寺明細誌』によると、板本尊の大きさは縦は約143センチ、横は約65センチである。元日蓮正宗信徒(法華講員)の文筆家・美濃周人氏は、楠木の平均重量を1立法メートル当り1.2トン(森林組合調べ)半径を約32.5センチで計算し推計している。その計算式は

   32.5×32.5×3.14÷2×143÷1000000×1200

となる。この計算式で算出すると、推定280キログラム。

他の人の推計でも、重量は少なく見積もっても百キロ以上、二百キロ前後ぐらいとする計算もある。

 

身延山に自生の楠木はなかった

 

鎌倉時代はろくな運搬手段のない時代である。巨大な板本尊を造立するのに必要な楠木を遠方から運んでこれるわけがない。故に日蓮聖人在世当時に、身延山や周辺において、楠木が生育していなくてはならない。

私たちは、林野庁・地元の森林組合をはじめとして各地の木材の専門家など、綿密な調査を行った。その結果、昔も今も身延山周辺はおろか、富士、富士宮、富士山周辺の山間部・平野部にいたるまで、自生の楠木は存在していないのである。この楠木という樹木は、黒潮本流の影響で比較的温暖な高知、和歌山や対馬暖流の洗う石川、福井等の西日本の沿岸地域のみに繁茂するもので、寒いところである標高千メートルの身延山・七面山や日蓮聖人の草庵があったその周辺に自生の楠木などあるわけがない。当たり前のことである。

 

室町時代以降、西日本から楠木が植樹された

 

わずかに身延・富士周辺の神社・仏閣などにおいて楠木が見受けられる。これは、私たちが調査したところ、室町時代以降において人の手によって植樹されたものであることがわかった。その謂われについて、森林組合や木材加工の専門家は、鎌倉幕府滅亡の後、建武の中興の時代、後醍醐天皇を奉じて活躍した武将・楠木正成公の徳を慕って関西地方から楠木が植林されたものが最初だと、述べている。

したがって、鎌倉時代には身延周辺に自生の楠木はなかった、ということになる。これはうたがいのない事実だ。

 

楠木が身延山にあると強弁

 

身延山には楠木が生えていなかった、という指摘に対して、大石寺六十六世細井日達法主は、法主登座以前の庶務部長時代の著書『悪書板本尊偽作論を粉砕す』の中で、

「現に、身延のあたりには楠木があるではないか・・・身延の入り口の大野山本遠寺には千二、三百年前からの楠木が今でも生きている。もしそれ が千年の木としても、大聖人様が七百年とすれば、まだ三百年以上の木があったわけである。何もそれ一本というわけではない。まだ沢山、あの辺には古い楠木があったはずなのである。」(昭和47年9月12日の日正寺・龍口法難会の説法会)

と反論している。

 

私たちの調査によると、身延山久遠寺周辺の楠木についてだが、先に述べたように自生の楠木は存在していない。地元の身延町森林組合の職員は身延山の楠木について、次のように証言している。

「身延山には自生の楠木はないとみてよいでしょう。現在、身延山には楠木はありますが、それは戦後、どこかの寺が人工的に植えたものです」

つまり身延山に楠木はあることはあるが、それは七百年前からあるものではなく、第二次世界大戦後に、どこかの寺の人が植樹したものだという。単純に大野山本遠寺に楠木があることだけを以て、「本門戒壇の大御本尊」が七百年前の宗祖日蓮聖人の時代に造立された証拠にしようとしているが、とんでもない信徒欺瞞の詭弁であると断ずる。

 

大野山本遠寺は江戸時代初期に建立

 

本遠寺の寺院境内地内には確かに楠木があるが、これはお萬の方の菩提のために人工的に1本植樹されたものだという。これ以外にここに楠木はない。

大野山本遠寺はだいたい、四百年前に創建された寺で、千二、三百年前からの古い楠木が沢山あるわけがないではないか。昭和47年9月12日の日正寺・龍口法難会の細井日達法主の説法もとんでもない大ウソの欺瞞説法ということになる。

七百年前の身延山に楠木はなかった。これも板本尊後世偽造の明確な証拠である。

 

日蓮聖人一門に漆・金箔加工は困難

 

漆加工について、石川県輪島市漆工芸美術館・漆器研究所に問い合わせると、鎌倉時代にも漆器はつくられていたが、値段は?となると、漆の塗り方にもよるが、厚く塗れば、当然、値段が高くなる。

現代の値段に換算すると、日本国内産のもので一貫目あたり、二十五万円から三十万円くらい。漆を一桶使うと百万円もするという。なぜこんなに高価になるかというと、ウルシの木から樹液を抽出して、漆加工をするまで技術者や必要であるし、資金ががかかる。だから、板本尊を造ることは大仕事である。

 

百歩譲って、漆加工は身延山中でもできたと仮定しよう。

日蓮正宗では、板本尊は弘安二年十月に身延山中で日蓮聖人、というより弟子の日法上人の彫刻で造立されたと説明している。しかし、身延山中で暮らす日蓮聖人一門は、大変な貧しい生活をしていた。身延山中で暮らす日蓮聖人一門の生活がどのようなものであったかは「富木殿御書」「乙御前御消息」「兵衛志殿御返事」「上野殿御返事」から推測できるが、米一合もない。餓死するかもしれない。僧たちも養うことができない。衣も薄く、食もとだえ。書く紙すらもない。と述べている。のと云う生活状況であった。

そういう時期に、高価な金箔加工を施す経済力はなかったことだけは、まちがいない、と断言できる

また、当時の日蓮聖人一門の中に、漆加工や金箔加工ができる職人がいなくてはならないが、そのような技術を有する者が弟子や信徒の中にはいないのである。

すなわち漆加工や金箔加工の件は、板本尊が後世に偽造されて物とする有力な証拠である。

 

板本尊を身延の草庵に安置できたのか?

 

御開扉のとき、お厨子の扉を開ける僧侶の身長と、戒壇の板本尊の丈はほぼ等しく見える。板本尊は人間の身長とほぼ等しいほど、大きい。

弘安二年十月当時、日蓮聖人の住まいは「草庵」であった。身延山中に十間四面の堂宇(身延山久遠寺)が完成したのは、弘安四年十一月のことだ。

質素な草庵のどこに「本門戒壇の大御本尊」を安置できたのだろうか?元日蓮正宗信徒(法華講員)だった文筆家・美濃周人氏は楠木の平均重量と『富士大石寺明細誌』に書かれている板本尊の寸法から推計して、板本尊の総重量を約280キロと計算しているが、少なく見積もっても、板本尊の重量は百キロは下らないだろう。

これだけの重量の板本尊を質素なつくりの草庵に安置しようとすれば、この重量だけで底がぬけてしまう危険にさらされる。まるで矛盾したハナシであり、有り得ないことだ。

 

細井日達法主自身の自語相違

 

、日蓮正宗第六十六世細井日達法主の説法によると、

「戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。・・・・・そして本堂で(戒壇の)御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは信者だけですから、だれでも直接に(戒壇の)御本尊を拝めたのです」(昭和40年2月16日の大石寺大講堂・第1回正本堂建設委員会の席での指南)

「身延の日興上人御在住の時の細井日達法主自身の自語相違説法には・・・戒壇の大御本尊を安置してあったことは明らかであります。その大御本尊を日興上人が大石寺の本堂に安置され、大聖人生身の御影は御影堂に安置せられましたが、その後、本山の陵夷により本堂御影堂が一堂となり、戒壇の大御本尊は御影とともに安置されてあったようであります。しかしその後、御宝蔵が大きく造立せられてから、大御本尊は御宝蔵にお移し申し、御影堂には日精上人の板本尊が安置せられたと思われます」(昭和47年1月号『大白蓮華』に寄せた指南) とのことだ。板本尊は身延の十間四面の堂に安置されていて、参拝の信者はだれでも本門戒壇板本尊を拝めたのだというのである。なんと秘蔵されていなかっと云うのである。

 

ところが、かつて細井日達法主は、本門戒壇板本尊についてかく説法していた。

「広宣流布を待ってはじめて本門寺を建立、戒壇の大御本尊を安置し奉って事の戒壇建立ということになるのでございます。それまでは戒壇の御本尊をおしまい申しかたく護る。先師方が客殿の後ろの奥深くに戒壇の御本尊をお護り申すということを仰せられております。わが本山の先師方のこれが心でございまして、客殿の後ろに奥深く戒壇の御本尊を蔵し奉る、しまっておく、広宣流布の暁までは、しまっておくということになる。・・・・戒壇の御本尊はどこまでも蔵の中にあるのでございます。誰がみても今の奉安殿は外から見ても立派である。しかし戒壇の御本尊様のまわりをご覧なさい。石である。石で囲ってあるきりで、蔵ではないか。そこに何を供えてあるか。・・・シキミの花を供えるのが本意であります。奉安殿の中にシキミがありますか。ないじゃあないですか・・・そのシキミは客殿にあります。客殿にみなさまが(丑寅)勤行において二回目に唱える奉安殿に向かって遥拝する、あそこにシキミがある。だからこれを以て推していくと、戒壇の御本尊はどこまでも蔵の中にしまってある。蔵してあって拝むのは、外から遥拝する。ただ特別に内拝のために(戒壇の御本尊の)そばまで行って拝めるというのである。だから今度はその戒壇の御本尊のお出ましを願って、はじめてそこに本門寺の戒壇建立ということが出来上がるのでございます。お出ましは先程から申すところの、いわゆる広宣流布の暁である」(日蓮正宗機関誌『大日蓮』163号)

広宣流布の暁までは、本門戒壇板本尊を客殿の後ろの奥深くの蔵の中にしまって置くと云うのでは、秘蔵せずに参詣の信徒が誰でも拝めるようにしていた、日蓮聖人や日興上人の化儀ではないということになる。

 

日蓮聖人一門の誰も戒壇板本尊の存在を知らない

 

身延山のお堂に安置されていて、誰にでも本門戒壇板本尊が拝めたというのなら、日興上人以外の五老僧や中老・下老の僧侶、信徒たちが皆、本門戒壇板本尊のことを知らないはずがないではないか。ところが、日蓮聖人一門の弟子僧侶・信徒のだれも本門戒壇板本尊の存在を知らないのである。だれも記録に書き留めていない。消息文などを見ても、だれも本門戒壇板本尊のことについて、全く触れていないのである。これは絶対におかしい。もし本門戒壇板本尊が身延山久遠寺の本堂に安置されていて、みんなが拝することができたというなら、こんなはずはない。

室町時代・中世以降、大石寺で本門戒壇板本尊の内拝を受けたとか、あるいは本門戒壇板本尊の存在について記した記録や手紙、法門書が残っている。

たとえば大石寺十五世日昌法主の時代に、京都要法寺の僧侶・日陽師(のちの要法寺法主)が登山して本門戒壇板本尊の内拝を受けているが、日陽師はこれを著書「祖師伝・付録」(日蓮正宗五十九世堀日亨法主編纂の『富士宗学要集』に収録)の中で「日本第一の板御本尊」を拝したと記録に書き留めている。あるいはこれと同時期の保田妙本寺貫首・日我師が大石寺の本門戒壇板本尊のことについて、自らの著書の中で述べている。これ以降、大石寺の本門戒壇板本尊について述べた記録や手紙がかなり残っている。

したがって、日蓮聖人一門あるいは日興上人の時代もふくめて、だれも本門戒壇板本尊を知らずに、何の記録も残っていないというのは明らかにおかしいのである。

 

四世日道法主ですら板本尊について全くふれていない

 

さらに驚くべきことに、歴史上、最初の日蓮聖人の正確な伝記といわれる――というふうに、日蓮正宗が言っている――日蓮正宗大石寺四世日道法主の著書「三師御伝土代」にすら、まったく本門戒壇板本尊造立について、触れていないのである。

漆金箔の板本尊造りは資金手間から云っても大事業であり、また参拝の信者がだれでも拝めたのであるから、多くの信徒がその存在を知っていたはずの板本尊。しかも日蓮正宗では「日蓮大聖人の出世の本懐」と言っているほど、重要な存在の板本尊のはずであるが、大石寺四世日道法主は日蓮聖人の伝記を書き残すにあたって、板本尊図顕について、一言も触れていないのである。

 

広宣流布の暁までは蔵の中に秘蔵する、といっておきながら、身延山時代は秘蔵されずに、堂宇の本堂に安置されていて、だれでも本門戒壇板本尊を拝めたなどと細井日達法主自ら認めている一方で、ならば本門戒壇板本尊の存在を誰も知らないという矛盾。しかも秘蔵されていなくて、当時の僧俗でもその存在が知られていたはずの板本尊、日蓮大聖人の出世の本懐とまで日蓮正宗が言うほど重大なはずの板本尊造立について、大石寺四世の日道法主が、日蓮聖人の伝記を書き残すにあたって、一言も触れていないという矛盾をどうするの?全く何もかにもが矛盾に満ちていて、ハナシがメチャクチャである。つまり日蓮聖人在世の身延山時代も日興・日目・日道各大石寺法主の時代も、「本門戒壇の大御本尊」という板本尊は、存在していなかったということだ。

 

不埒な弁解をする人たち

 

近年のことだが、「後世の偽造」疑惑をきびしく問い詰められると、「本門戒壇の大御本尊さまは弘安二年十月十二日に図顕されたときは紙幅の御本尊だった。それを後から、大石寺の法主が板に摸刻したもので、もともとの紙幅の御本尊は、大石寺の御宝蔵に収蔵されている」などと弁解をする人たちがいる。

しかしこの不埒な弁解を、日蓮正宗第六十七世阿部日顕法主が近年、総本山大石寺広布坊で行われた法華講連合会・夏期講習会講義の席で、公式に否定している。

 

手斧(ちょうな)けずりを根拠にした細井日達の鎌倉時代造立説はとんでもない欺瞞だ

 

大石寺法主・細井日達(六十六世法主)が、随所の説法の席で「本門戒壇の大御本尊」が手斧(ちょうな)で板の表面を削ってあることを根拠にして、「本門戒壇の大御本尊」が日蓮聖人在世の鎌倉時代に造立されたことに間違いがない、などと説法して、僧俗を欺瞞している。        

 

「また戒壇の御本尊様は楠の板である。楠の板で大部古くなりほこりが後ろの方にたまり今度御水洗いする事になり洗ったのである。実際に大御本尊は楠の板で其の時分ははカンナがなかった。鎌倉時代には手斧(ちょうな)である。だからあの御本尊は手斧けずりである。それを見ればすぐ分かる。それを知らないで漆を塗ってあるからあれは足利時代に出来たとか最近は徳川時代に出来たなどととんでもない事を言う。ところがあれは後ろを見るとみんな削ったあとがちゃんと残っている。それを見ても明らかに鎌倉時代である。 しかも手斧で、明治時代の人は知っている。丸いものではない。あの時代には鉞(まさかり)みたいな手斧で削った。其の板です。実際に見ればはっきり分かる。そういう事はこちらも誰も言わないけれども信者の人なら申しても差し支えないから申し上げます。表の方は本当は漆を塗ってあるから分からないけれども私は御虫払いでいつも、御拭きしますから分かります。今の板御本尊みたいに滑らかではない。ぎざぎざしている。それに漆を塗ったのである。そういう事を見てもはっきり鎌倉時代の板本尊である…」

(日達上人全集二輯五巻434,日興跡條々の事 s47/9/12 日正寺竜口法難会砌)

 

鉋(かんな)は、江戸時代に発明されたものであることには間違いはない。

つまりそれ以前の手斧(てちょうな)丁鉋(ちょうな)鑓手斧(やりちょうな)といった木工工具では、まっ平らに削ることができなかった。どんなに削っても1ミリ~2ミリ程度のデコボコ、乃至、凹凸がどうしてもできてしまうのである。したがって木の表面を見て、完全なまっ平らなのか、多少のデコボコ、凹凸があるが、を見て取れば、江戸時代以降にできたものか、あるいはそれ以前にできたものかは、判別することができると言えよう。判別できるのは、江戸時代以降か、それ以前か、なのである。木の表面のデコボコ、凹凸だけで鎌倉時代のものだ、などとは断定できるものではない。

 これを裏付けるためにわかり易い一例を言おう。大石寺客殿の中央に鎮座する「譲座板本尊」をよく見ていただきたい。この板本尊は二祖日興上人が書した「御座替わりの御本尊」を江戸時代初期の法主が板に模刻したものであるが、黒漆(うるし)が塗ってある表面にはかなりの凹凸が見える。これはもちろん鉋(かんな)ではなく、丁鉋(ちょうな)鑓手斧(やりちょうな)といった古来の木工工具で削ってあるからだ。しかしこれは、鎌倉時代のものではなく、江戸時代初期に造立されたものだ。鉋(かんな)は、江戸時代に発明されたといっても、現代のように、何か便利なものが発明されて世に出ると、あっと言う間に広まるといったものではなく、世間一般に広まるにはかなりの時間を要した。江戸時代初期といっても大石寺のある駿河地方には広まっていなかったのであろう。

 

年代測定の科学的な検証方法の一つが「炭素14年代測定法」である。これを使った製作年代の算定は、世界中で広く行われている。堂々と科学者の手による「炭素14年代測定法」での科学鑑定に委ねてはどうなのか。

 

近代になってからでも、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」等は後世の偽作なのではないかとの指摘が各方面からなされてきた。その主なものを挙げてみれば北山本門寺三十四世貫首・玉野日志氏の書面(霑志問答)、日蓮宗僧侶・安永弁哲氏の著書「板本尊偽作論」元創価学会員・松本勝彌氏の著書や元日蓮正宗・正信会僧侶・久保川法章氏の書面、元法華講員・玉井礼一郎氏の著書、元創価学会員?法華講員の美濃周人氏の著書、美濃周人氏とジョージ左京氏(元創価学会員?正信会信徒)の共著等がある。当初は他宗派からのものであったが、近年は日蓮正宗の内部にいた人たちから偽作論が沸き上がっている。

 

これに対して日蓮正宗は、玉野日志氏に対して大石寺五十二世法主・鈴木日霑が書面で答え、安永弁哲氏に対しては六十六世法主・細井日達(当時庶務部長)が「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」という著書を書いているが、鈴木日霑も細井日達も感情的議論を展開しているだけだ。二人とも理に詰まると、至る所で平気で大ウソをついたり、ハッタリやデマカセを述べたり、相手の些細なことの揚げ足取りをしたり、さらには頭が悪いだの気がふれているだの物の怪に憑かれているだのと、ただ感情的に相手を罵って議論を煙に巻こうとしている。内容的には、まるで破折にも反論にもなっていないものである。

 近年の美濃周人氏・ジョージ左京氏らの指摘に対しては、日蓮正宗謀略機関紙『慧妙』や僧侶等が「大半がすでに破折しつくされた内容だ」として、氏の著書の中から漢字の読み方の間違いや記述の誤りなどの細かい揚げ足取りをしているだけである。美濃周人氏やジョージ左京氏らの指摘の内容は独自の調査・研究によるものが大半で、すでに破折されたものではない。

こうした偽作ではないかとの各方面からの指摘にろくに答えないという日蓮正宗の態度は、とんでもない欺瞞でありゴマカシである。

 

追加

要法寺所属の柳澤宏道師著『石山本尊の研究』に於いて、「日蓮正宗では、マンダラこそが本門戒壇に懸け奉るべき唯一の本尊であると主張するが、日興上人が『本門寺懸け奉る云々』と添え書きしてある宗祖真筆の曼陀羅御本尊が四幅も現存している。」と指摘して、日興上人の添え書きを掲示した上で【ここで明らかとなった事は、興尊御在世当時、もし板マンダラが存在したのならば、各添え書きのごとくを、板マンダラのみに記しおくべきが、基本であろう。現在の石山のごとく、板マンダラのみを「法華本門寺」に懸けると主張するならば、興尊は「自立廃亡」となってしまう。ここでも、板マンダラが興尊在世に存在しなかったことが興尊の添え書きにより、明確となったのである】と断言している。

 

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