倶生神符について 長尾佳代子女史の倶生神についての論文『漢訳仏典における倶生神の解釈』が、ネット上に公開されています。(平成11年度文部省研究費補助金による研究の一部http://ci.nii.ac.jp/naid/110002932972/ ) 長尾女史の論文の[『薬師経』の中の「倶生神」]の項では、 【サンスクリット本『薬師経』には、「生まれつき背後に結びついているデーバター(倶生神)」とあり、「善悪の 行為をすっかり書き取ってヤマ法王に提出する」役割を持つとされている(取意)】 と指摘し、 [守護神としての倶生神]の項には、 【グレゴリーショウペンの論証によると、 「生まれつき背後に結びついている」という語は、輪廻転生していく人に従って、これを守護するという意味で使われている、と指摘されている(取意)】 と述べ、 また 【漢訳『世記経』にも、「もしあらゆる男女の人々には生まれた時から皆、鬼神がいて、付き従って守護していて・・・」 とあり、人に付き従って守護するものとされている(但しパリー仏典の『世記経』にはこの部分が無いので、増広された部分と思われる)(取意)】 【『薬師経』の伝承者たちが『世記経』の伝承者たちと同じ立場に立っていたとすれば、『薬師経』伝承者たちも、「生まれつき背後に結びついているデーバター」は人の守り神と考えていたことになる。(取意)】 と論じています。 長尾女史の論文によれば、倶生神はヤマ法王に、各人の善悪の行為を報告するだけでなく、人の守り神としての役割を担っているとしている経典が有ることが分かります。 日蓮聖人の『道場神守護事』には、 「止観の第八に云く『帝釈堂の小鬼敬い避くるが如し道場の神大なれば妄りに侵・すること無し、又城の主剛ければ守る者も強し城の主、恇(おず)れば守る者、忙(おそ)る。心は是れ身の主なり同名同生の天是れ能く人を守護す心固ければ則ち強し身の神尚爾なり況や道場の神をや』弘決の第八に云く『常に人を護ると雖も必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し』又云く『身の両肩の神尚常に人を護る況や道場の神をや』云云。人所生の時より二神守護す所謂同生天同名天是を倶生神と云う華厳経の文なり、」(昭定・1274頁) と有って、倶生神は各人を守護する働きをするとしています。 『四条金吾殿女房御返事』 「人の身には左右のかたあり、このかたに二つの神をはします一をば同名二をば同生と申す、此の二つの神は梵天帝釈日月の人をまほらせんがために母の腹の内に入りしよりこのかた一生をわるまで影のごとく眼のごとくつき随いて候が、人の悪をつくり善をなしなむどし候をばつゆちりばかりものこさず天にうたへまいらせ候なるぞ。」(昭定・857頁) と有ります。「人をまほらせんがために」とあるように、倶生神は、梵天帝釈日月が人を護らす為めに、各人に付き随いさせた神であり、かつ、各人の善悪の行為を「天に訴へる」役目を持つ神であると説明されています。 同名同生の二神は、「各人の善悪の行為を天に訴へる」だけの、単なる伝達者でないことが分かります。 『四条金吾殿女房御返事』から「倶生神は、各人の善悪の行為を訴えるだけの働きをするだけである」などと、どうして読み取ってしまうのかと疑問に思いました。その様に解釈してしまう原因は 「梵天・帝釈天・日天・月天は倶生神の報告を受け、報告を受けた梵天・帝釈天・日天・月天が守護の手をさし伸べる。だから倶生神の役目は報告するだけのものである」と誤解したことと、『道場神守護事』の教示を忘れた結果のようです。 「人をまほらせんがために」の「まもらせん」は、使役を表し「守護させる」の意味でしょう。ゆえに、『道場神守護事』の教示と照らし合わせて「倶生神に守護させるため、倶生神を各人につけさせた」の意味に取るべきでしょう。 『諌暁八幡抄』(昭定・1843頁)において、妊娠成就祈願を掛けられた樹神が自分の力に負えないので、上位の四天王に依頼したと云う説話が紹介されていますが、この説話をヒントにして、細かい日常的な護りは、先ず倶生神が引き受けてくれ、倶生神の手に余る場合は、上位の諸神・菩薩等に守護の要請をしてくれるのではないかと私は想像しています。 身の神である一番身近で守護してくれると云う倶生神をお守り札として身に付ける事を特別とがめ立てすることも無いだろうと思います。 御遺文には七面大明神についての言及はありませんが、宗内では七面大明神のお守り札も出されています。御遺文に言及されている倶生神をお守り札にしても特別とがめ立てする必要は無いだろうと思います。 【さらに霊神符を帯する必要があるのだろうか。?】 と言う質問が寄せられますが、必ずお守り札にして着帯しなければならないと云う宗学的理由は無いと思います。 日蓮聖人は着帯されてなかったのですから、必ず着帯する必要が有るとは云えないと思います。 お護り札の形になっていれば、朝、着帯するさい「倶生神さま今日も一日お守り下さいと」と言う念のもとに着けるでしょう。この護りを信ずる念が、守護を受ける「心固ければ」との条件を自然と具する事になるだろうと思います。 ただし、行き過ぎた倶生神符の誇大宣伝はいけないと思います。 「金集め、儲け目的で着帯を勧誘しているお寺がある」との投稿がありましたが、実際に、そんなお寺があるかどうか分かりませんが、 かりに在るとしても倶生神符自体に罪が有るわけでないでしょう。 【三秘の受持、御本尊の受持を布教して勧めるべきであるのに、日蓮聖人の預かり知らぬ霊神符を勧めることは、常に第一義を説かれた日蓮聖人の教えに反する。】 との批判がありますが、倶生神符を取り替える為めに、寺院教会の信行会に出席すれば、必然的に、大曼荼羅御本尊を対象として唱題し、法話も聴くことになりましょう。大曼荼羅御本尊やお題目より倶生神の方が有り難いとか倶生神の方が帰依尊崇の対象であるなどと馬鹿な事を説法する教師など居ないでしょう。 ですから、【日蓮聖人の教えに反する。】と頭から否定する事は如何なものかと思われます。
【「整識観」「九識霊断法」「倶生神の守護」はセットになっているということである。セットということは「整識観」は「非」ならば三つとも「非」ということである。】 との批判が有りますが、倶生神符は『道場神守護事』と『四条金吾殿女房御返事』に根拠があるので、「整識観」や「九識霊断法」が無ければ倶生神は無いと云うものではないので、「セット」では無いでしょう。 「九識霊断」をしなければ、倶生神符を渡せないと云う事ではないでしょう。 「整識観」が「非」であるからと云って、倶生神も「非」であるとは断言できないと思います。 再び、倶生神をめぐって。 山崎師は三友健容博士の次のようなコメントを提示しています。 「【三友健容博士のコメント】 「生まれつき背後に結びついている」というのが、守護することであるというならば、悪人に生まれつき背後に結びついている倶生神は悪人を守護する神ということになるが、あくまでも個人の善悪の諸行を天に報告する神が原意であろう。
すなわち長尾氏は、『世記経』を取り上げて(「漢訳仏典における「倶生神」の解釈」『パーリ学仏教文化学』58頁)、この記述がディーガニカーヤ(DN)にないことから、DNのあとに増補されたものとし、 『世記経』の伝承者とは異なる思想的立場の求道者たちがいて、その人々は『守 護鬼』の存在を否定している
と述べ、 『薬師経』の伝承者たちが、『世記経』の同じ立場に立つているとすれば…その ひとの守り神だということになる。
と疑義的に推定している通り、ショーペンの言う「生まれつき背後に結びついたデーヴァター」が、閻魔に報告するという立場から守護する神に変わるとすれば、悪人にもデーヴァターがあるのだから、このデーヴァターは悪人も守護するという矛盾に突き当たることになる。それゆえ、ショーペンがどういおうと勝手だが、本来のデーヴァターは鬼神などに邪魔されることなく善悪の行為をあやまりなく記録し閻魔に報告する者というのが原意であることは明らかである。
倶生神について日蓮聖人は、 人には必二の天、影の如にそひ(添)て候。所謂一をば同生天と云、二をば同名天と申。左右の肩にそひて人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし。況や善人におひてをや。されば妙楽大師のたまはく、必仮心固神守則強等[云云]。人の心かたければ、神のまほり必つよしとこそ候へ。
『乙御前御消息』 (定遺一〇九八頁)
同生同名と申て二の天、生れしよりこのかた、左右のかた(肩)に守護するゆえに、失なくて鬼神あだむことなし。『種々御振舞御書』(定遺九八四頁)
日本国を捨て、同生同名も国中の人を離れ、天照大神・八幡大菩薩、いかでかこの国を守護せん。『曽谷二郎入道殿御報』(定遺一八七五頁)
といわれている。 『乙御前御消息』に仰せの「失なき者をば天もあやまつ事なし」の「守護」というのは、鬼神などに邪魔されず、そのひとの善悪諸行すペてを誤りなく天に報告するという意味での守護であって、霊断の「倶生霊神符」をもっているひとを無条件に守護するということでは断じてない。
このように理解すれば、おのずから、『曽谷二郎入道殿御報』の文章は「同生同名も国中の人を離れ」たがために、正確に天に報告することができず、天照太神・八幡大菩薩も善悪の判断区別ができないのだから、どうしてこの国を守護することができようか、ということになる。(以上、三友博士のコメント)」 三友博士のコメントによると、長尾氏が「『薬師経』の伝承者たちが、『世記経』の同じ立場に立つているとすれば…そのひとの守り神だということになる。」と論じているそうですが、この「倶生神はそのひとの守り神だ」と言う思想の系譜に『華厳経入法界品第三十四之一』や天台大師や宗祖は立っていると言えます。
三友博士は『乙御前御消息』や『種種御振舞御書』に示している倶生神の守護は「鬼神などに邪魔されず、そのひとの善悪諸行すべてを誤りなく天に報告するという意味での守護である」と限定していますが果たしてそうでしょうか?。
天台大師の「心は是れ身の主なり。同名・同生天は是れ神、能く人を守護す。心固ければ則ち強し、身の神も尚爾り。況んや道場の神をや。」(止観第八下)
との教示は、「観病患境」の中の文で「若し、善く四三昧を修して、調和所を得れば、道力を以ての故に必ず衆病無し、設ひ少しく違反すとも冥力扶持して自ずから当に銷癒すべし。仮令(たとひ)、衆障峰起すとも当に死を推して命に殉ふべし、残生余息、誓って道場に畢る、捨心決定せば何の罪か滅せざらん、何の業か転ぜざらん。・・・心は是れ身の主なり。同名・同生天は是れ神、能く人を守護す。心固ければ則ち強し、身の神も尚爾り。況んや道場の神をや。・・・但だ一心に三昧を修すれば衆病銷す。」(国訳一切経諸宗部三・323頁) と教示している中の文です。 池田魯参教授が次のように現代語訳しています。 「もしも四種三昧を行じて、あるべきように調和するときは、修行の力によって必ず病はなくなるであろう。仮りに少しく違反するようなことがあっても冥助を受けて自然に癒えることになるであろう。たとえ諸障が蜂起するようなことがあっても、死を賭して仏の教えに殉ずる決意で、残された命を道場で終えようと誓い、すべてを捨てる覚悟で心を決めれば、どんな罪も滅しないはずはなく、どんな業も転じないはずはないのである。陳鍼や開善がそうであった。云云。四大や五臓の病も調い治らないことはないはずである。たとえば小鬼が帝釈天の堂を敬い避けるように、道場の神が偉大であるから病は妄りに侵入することはないのである。また城主が剛ければ守る者も強く、城主が弱ければ守る者は逃げ出すようなものである。
心は身の主であり、「同じ名の、同じ生まれの二人の天の神が人を守護している」のであるから、心が固いとこの身の二神も同様に強くなるのであり、道場の神まで強くなるのである。例えば、『大智度論』で精進を釈して、鬼が五処に黏ずること云々。を示しているようなものである。ただ一心に三昧を修めれば諸病は治るのである。」(『詳解摩訶止観現代語訳篇』547頁) 天台大師は、倶生神の守護を衆病・衆障の除去を助けてくれる働きをすると見ていたことがわかります。
『乙御前御消息』に見える倶生神の守護も「鬼神などに邪魔されず、そのひとの善悪諸行すペてを誤りなく天に報告するという意味での守護である」と三友博士のように、単なる伝達神に過ぎないと限定的に見ることは文意に外れていることが引用の文の前後を読めば分かります。
この文の前後も揚げれば 「羅什三蔵は法華経を渡し給しかば、毘沙門天王は無量の兵士をして葱嶺を送し也。道昭法師野中にして法華経をよみしかば、無量の虎来て守護しき。此も又彼にはかはるべからず。地には三十六祇、天には二十八宿まほらせ給上、人には必二の天、影の如にそひ(添)て候。所謂一をば同生天と云、二をば同名天と申。左右の肩にそひて人を守護すれば、失なき者をば天もあやまつ事なし。況や善人におひてをや。されば妙楽大師のたまはく、必仮心固神守則強等[云云]。人の心かたければ、神のまほり必つよしとこそ候へ。是は御ために申ぞ。古への御心ざし申計なし。其よりも今一重強盛に御志あるべし。其時は弥々十羅刹女の御まほりもつよかるべしとおぼすべし。例には他を引べからず。日蓮をば日本国の上一人より下万民に至まで一人もなくあや(失)またんとせしかども、今までかう(斯)て候事は一人なれども心のつよき故なるべし、とおぼすべし。」 です。 口語訳は【法華経は女子に対しては、暗夜を行く時には灯火となり、大海を渡る折は大船となり、又怖しい場所では護となると誓はれてゐる。羅什三蔵が中國へ法華経を渡された時、毘沙門天王は無数の兵士を遣してこの三蔵を守り、彼の葱嶺の険を送られたと云ひ、又道昭法師が中国の曠野で法華経を読誦した時は、数限りない虎が現れて護ったと傅へらる。御許も亦羅什等のやうに、神佛が守護して下さるに相違ない。地には三十六神があり、天には二十八宿があって守られるばかりではなく、誰しも人には必ず二神が影の如く添うてゐる。即ち同生天と同名天がそれである。その二神が人の左右の肩に居られて守護ずるから、罪の無い者は天も罰ずることは出来ない。まして善人に罰無きことは言を待たない。それ故、妙楽大師は「人の志操が堅ければ堅い程、神の守護は必ず強い」と述べられ
てゐる。斯く申ずのは、御許の為めに申ずのである。日頃の法華信仰の御志は今更云ふまでもなく堅固であるが、其よりも尚一層強く信仰せられよ。其時は愈々十羅刹女の御守も強くなることゝ確信されるがよい。その志堅ければ神佛の守護も強い例を、遠く他人に求めるまでもない。この日蓮をば、日本國の上一人より下萬民に至るまで、一人も残らず害しようとしたが、今日まで、斯様に無事で居ることは、日蓮一人ではあるが、法華経に捧ける心が強いから、神佛が守護されたものと思はれるがよい。】(『日蓮聖人遺文全集講義第十六巻』199頁) と訳されています。そして注に「④ 華厳経(旧訳巻四十四)『入法界品第三十四之一』に『人の生に従いて、二種の天有り、常に隨って侍衛せり。一には同生と曰ひ、二には同名と曰ふ。天は常に人を見るも、人は天を見ず』とあり、聖祖はこれに依られたものらしい。」と注記しています。
三友博士は「日本国を捨て、同生同名も国中の人を離れ、天照太神・八幡大菩薩、いかでかこの国を守護せん」『曽谷二郎入道殿御報』(定遺一八七五頁)
の文意を切り文して恣意的に読んでいます。 この文は、「日本国の挙ぐるところの人々の重罪はなお大石(だいせき)のごとし。定めて梵釈(ぼんしやく)、日本国を捨て、同生同名(どうしようどうみよう)も国中の人を離れ、天照太神(てんしようだいじん)・八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、いかでかこの国を守護せん。」とある部分です。
「若し爾らば此の大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給うとも、法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給うべし。」(諌暁八幡抄1849頁)
「正直の人の頂の候はねば居処なき故に栖なくして天にのぼり給いけるなり、」(四条金吾許御文1823頁)
との御書を参照して読めば、「梵天や帝釈が日本国を捨て去り、倶生神も各人から離れ守護を止めてしまう。同様に天照大神・八幡大菩薩も守護してくれないであろう」との文意と見るべきです。
ですから文意は「梵天や帝釈や倶生神も日本国を捨て去り、離れてしまうし、同じく天照大神・八幡大菩薩も国を守護することをやめてしまうのである」と、いわゆる神天上の一片を述べている箇所です。そもそも「倶生神の報告伝達を受けなければ天照大神・八幡大菩薩は国を護らない」と言うような天照大神・八幡大菩薩観を宗祖が懐いていた文証は無いでしょう。
だから、 『日蓮聖人御遺文講義・18』においても、この箇所を 「これを日本国の人々の謗法の重罪に比較すれば、大石と軽毛とのおおいなる異があるのである。かく正法を国民が謗るために、正法守護の梵天や帝釈も日本国を捨て、一生身に添うて守って下さる同生同名神も、国中の人を離れ、天照大神・八幡大菩薩もこの国を守護しては下さらないである。(以上は謗法罪の重科なることを述べ、諸天善神、守護せざることを明かされたのである)」(373頁) と意訳しているのでしょう。 【 「同生同名も国中の人を離れ」たがために、正確に天に報告することができず、天照太神・八幡大菩薩も善悪の判断区別ができないのだから、どうしてこの国を守護することができようか、】というような文意ではないでしょう。
三友博士は 【「生まれつき背後に結びついている」というのが、守護することであるというならば、悪人に生まれつき背後に結びついている倶生神は悪人を守護する神ということになるが、あくまでも個人の善悪の諸行を天に報告する神が原意であろう。】 と述べていますが、守護の働きの中には「常に随って、その者が善道に向くように教導しようとしている」こともあると考えるべきだと思います。
と言うのは、倶生神が正神であれば、「我常に衆生の道を行じ道を行ぜざるを知って度すべき所に随って為めに種々の法を説く」との仏の精神や『大智度論巻第八』の文「今、十方の諸仏は、常に経法を説き、常に化仏を遣わして、十方世界に至り、六波羅蜜を説きたまへども、罪業の盲聾の故に、法の声を聞かず。是(ここ)を以ての故に尽く聞見せず、復た聖人は大慈心有りと雖も、皆な聞き皆な見しむること能わず。若し罪滅びんと欲し、福将(まさ)に生ぜんとすれば、是の時に乃ち仏を見、法を聞くを得ん。」に見える「罪業の者をも何とかして教導してやろう」との仏の慈悲に倣って、受け持ちの者が悪人ならば、その者を善導しようと努めるはずだからです。
山崎師が 【日蓮聖人御遺文を拝読すると、同名同生の二神は、「同名同生の天是れ能く人を守護す」と「天にうたへまいらせ候」と説かれているが、この守護とは梵天帝釈日月に知らせることにより間接的に善行者の守護となる「告げ知らせる神」と考えられる。】 と述べて、三友博士と同じく倶生神を「告げ知らせる神」すなわち単なる伝達神としていますが、私が上に述べたように、天台大師や日蓮聖人は、倶生神を各人を守護する身の神としているし、『華厳経・入法界品第三十四之一』に『常に隨って侍衛せり」と言って、各人を侍衛すなわち守護している神と言っているのです。
また山崎師は 【また、生まれると同時に身に添うている神であるならば「倶生神符」をわざわざ身に着ける必要は無い、ということになる。】 と言っていますが、宗祖や直檀が倶生神をお守りにして身に着けた事跡はないから、「必ずしもお守りの形にして着ける必要性はない」と前にも私は書いています。しかし、お守りと言う形にして身に着けることを強いて否定するまでも無いと私は主張しているのです。
月に一度でも倶生神符を受けに寺院教会結社に集まり、御本尊の前で読経唱題し、法話を聴聞することになる。
お守りと言う形にして着帯すれば「身の神である倶生神が常に護っていてくれるのだ」との意識を忘れにくくする。
などの利点があるので、お守りと言う形にして身に着けることを強いて否定するまでも無いと私は主張しているのです。
山崎師は 【 次に「倶生神」。高佐日煌師は、戦前から「倶生神」について述べている。『聖衆読本』には、
我身の無事安泰に就いては、寸時も離れず傍に附いて御守護下 さる、倶生霊神にお任せして置けば宜しいのであります。此の 守護神は太神が我等を生み給うと共に遣わされて云々
とあり、『皇道仏教読本』には、 世界の群類は理として申せば天之御中主神の胎中から生まれたのもので、伊弉諾、伊弉冊の二柱はその神業を直接に行われた遠祖であってこの御神を倶生の神と申す(一二四頁・拙著一五一頁)
とある。このように、高佐師がいう「倶生神」は、天之御中主神もしくは天照大神という本体・根源・創造主から生まれたものである。高佐師がいう「倶生神」と、日蓮聖人御遺文に記載された「倶生神」と名が同じだと関係があるように錯覚しているかもしれないが「法華思想の範疇の倶生神」と、「創造主から生まれたという外道の倶生神」とは天地の相違で両者は全くの無関係である】 といって倶生神符を貶していますが、霊断師会の『新日蓮教学概論』にも、こんな馬鹿げた倶生神観を陳述していないし、倶生神符を配布している教師の中にも、こんな馬鹿げた倶生神観を懐いている者など居ないでしょう。
言うまでもなく戦時中の時代迎合の高佐師の主張は大いに批判されるべきでものです。 高佐師も戦後は転向して、馬鹿げた倶生神観を披瀝主張していないし、現在の霊断師会においても高佐師の戦時中の倶生神観を継承していないでしょう。
もしも、現在においても霊断師会や倶生神符を配布している教師が、戦時中の高佐師の倶生神観のもとに倶生神符を配布しているならば、
その倶生神観を大いに貶しても良いでしょう。 しかし、戦時中の高佐師の倶生神観のもとに倶生神符を配布している者など居ない現在において、戦時中の高佐師の倶生神観を持ち出して倶生神符その物を貶すことは大いに筋違いでしょう。
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