身延御草庵の本尊 『忘持経事』に「案内を触れて室に入り教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し五躰を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し歓喜身に余り心の苦み忽ち息む」(定1151頁)とも『兵衛志殿女房御返事』 に「今御器二を千里にをくり釈迦仏にまいらせ給へば」(定1399頁真無)と有り、また興師の『原殿御返事』にも「故聖人安置の仏にて候はば」(宗全2-172頁)とも『五人所破抄』にも「先師所持の釈尊は弘長は配流の昔之れを刻み、弘安帰寂の日も随身せり」(宗全2-83頁)とある事より身延御草庵には釈尊像を祭祀していた事は確かで有る。 また弟子信徒に大曼荼羅を御本尊とし授与しているからには、大曼荼羅を奉安していた事が十分推測出来る。 『阿仏房御書』「抑宝塔の御供養の物銭一貫文白米しなじなをくり物たしかにうけとり候い了んぬ、此の趣御本尊法華経にもねんごろに申し上げ候」(定1144・真無)とあるが、阿仏房は御草庵祭祀の曼荼羅を「御宝塔」と表現して供養を送って来たようである。 佐渡配流中の『妙法曼荼羅供養事』に「妙法蓮華経の御本尊供養候いぬ、此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども(中略)此の大曼陀羅は仏滅後二千二百二十余年の間一閻浮提の内には未だひろまらせ給はず」(定698頁真無)と有って、大聖人が大曼荼羅を「妙法蓮華経の御本尊」と表現されている事を本化妙宗の高橋智経師が指摘しているが、。建治二年十二月の『本尊供養御書』に「法華経御本尊御供養の御僧膳料の米一駄」(定1276・真無)とか『智妙房御返事』に「法華経の御宝前に申し上げ候ひ了ぬ」(定1826真)」また『大豆御書』に「法華経の御宝前に申し上げ候」(定1809真)等と有るので、御草庵には大曼荼羅が祭祀されていた事が判る。 池上御入滅の際、大曼荼羅の前、中央に釈尊像を安置したら釈尊像を脇に寄せさせたとの伝えが事実を伝えた話とすれば、身延御草庵では大曼荼羅の前にか、あるいは少し脇に寄せて釈尊像を奉安していた可能性がある。 しかし、身延御草庵の本尊形式を語る文献が無いので、明確な御草庵の本尊形式は不明と云うのが宗学者たちの共通認識で有る。明確な本尊形式は不明ではあるが、例えばHP『日蓮ノート』の、 (http://kominato-kataumi.jimdo.com/) 「身延草庵本尊の一考」において、 「ここでまとめれば、万年救護本尊の「大本尊」「上行菩薩」により、また「本尊」として書き顕した曼荼羅を門下に授与していることからも、日蓮も自らの居所に曼荼羅を奉掲したと判断される。その前提の上で「どの曼荼羅を奉掲したのか」について遺文との関連、授与書きより検討すれば、文永10年7月8日から「佐渡始顕本尊」、身延の草庵(弘安4年11月下旬以降は十間四面の坊)では文永11年12月からは「万年救護本尊」、弘安3年3月からは「臨滅度時本尊」だったと考えている。日蓮が身延に入山し、庵室が完成した文永11年6月17日に奉掲された曼荼羅はどれだったろうか?「佐渡始顕本尊」を奉掲したのか、または始顕本尊と相貌が近く、かつ庵室完成の6月に顕された曼荼羅11であったろうか。 」 と述べているので一考として紹介しておく。 日蓮正宗では、大石寺17代日精の『富士門家中見聞上』(富要集5-154)に「弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり、日興より又日目に付属して今房州に在り、」との説を根拠にし、「文永十一年十二月図顕の万年救護本尊(通称)を奉安していたが、弘安2年10月12日に本門戒壇本尊(板本尊)が造られたので、万年救護本尊を日興上人に授与し、代わって板本尊を御草庵の本尊とした」と主張しているが、日蓮正宗以外の門流や日蓮宗に於いては、大石寺所伝の本門戒壇本尊(板曼荼羅本尊)は後世の作であると断定しているし、言うまでも無く、日蓮大聖人御在世中に板本尊を造ったと云う証拠は全く無い。故に、「万年救護本尊の後は本門戒壇本尊(板本尊)を御草庵の本尊としていた」との日蓮正宗の主張は認められない。 万年救護本尊の讃文は 「大覚世尊御入滅後二千二百二十余年を経歴す、爾りと雖も月漢日三ヶ国の間未だ此の大本尊有(ましまさ)ず、或は知って之を弘めず、或は之を知らず、我が慈父仏智以て之を隠し留め末代の為之を残し玉う、後五百歳の時上行菩薩世に出現して始めて之を弘宣す」。 である。 本化妙宗の山川智応博士著『日蓮聖人研究第二巻』には、この讃文に関して以下の様に述べている。 「日蓮聖人を上行の応化と申すことは、御妙判の深意をさぐっていふことで、また「御義口伝」「日向記」等の御意からさかのぼって申すので、御妙判には『已二地涌ノ上首上行出デサセ給ヒヌ。結要ノ大法亦弘マラセ給フベシ』(教行証御書)とある以上に顕露なものはない。然るに此の御本尊の御賛文は何であるか。直に吾こそ上行菩薩ぞと仰せられてあるではないか。(中略)即ちこの御本尊は、本因妙の代表たる行者の本地を示されたもので、本因妙顕示の御本尊である。御自身も本地を顕発せられたから離るべからざる因縁ある本国土妙の代表たる『天照八幡』をも、本地を示して『諸佛』と 御図顕なったものであると存ずるのであります。 而してなぜ此の文永十一年十二月に、御自身の本地顕発の御本尊を御図顕なったかといふと、佐渡にお越しになるまでの「勧持品」の二十行の偈文の実行において、聖祖は上行菩薩の弘通における文証を実践せられた。ここにおいてか我れ使命を受けたる人として、三大秘法の中心たる本尊を顕はされ、また三秘建立をなされた。これ上行菩薩の弘通における理証を実践せられたものである。即ち上行菩薩でなくば悟り出し弘通することの出来ぬ理を悟り出し弘めはじめられたのである。けれどもまだ佐渡では現証が周備しない、自界叛逆難は当った。まぎれもなく当った。他国侵逼難も牒状は度々来たが、まだ実際は来なかった。然るに佐渡御赦免後、『ヨモ今年ハ過シ候ハジ』と仰せられた、その文永十一年十一月に蒙古は果して来たのである。その十二月十五日聖祖「顕立正意抄」を作って、「立正安国」の予言の符号を仰せられた。これ上行菩薩の弘通における現証を実現せられたものである、即ち霊的大威力者たる現証を完成せられたのである。こゝにおいてか聖祖御みづから此の御本尊を御認めになって、憚る所なく本地を御顕発になったのであると解して、非常に厳重なる御化導の隠顕進退が了られ得るのでありまする。」 (山川智応全集第四巻506~7頁) 山川智応博士は万年救護本尊を「本因妙・本国土妙顕発本尊」としている。 万年救護本尊の讃文に於いて大聖人は「日蓮は上行菩薩の応現であり、日蓮の本地は上行菩薩である」と明確に宣言され、また久成釈尊を「我が慈父」と尊崇し、「この大曼荼羅御本尊は久成釈尊が末法救済の為めに留め残され、末法に我が本弟子上行菩薩に弘宣を命じられた本尊であり、今上行菩薩の再誕として日蓮が弘宣するのである」と語っている讃文である。 この万年救護本尊の讃文は日蓮正宗の「日蓮本仏論」を真っ向から覆していることになる。 しかし、インターネットの掲示板を見ていると、日蓮正宗の者が「万年救護本尊は大聖人の本懐である戒壇板本尊を図顕する前の方便的対機説法的な本尊であるから、その讃文も大聖人の真実義でない。大聖人こそ本仏である。曼荼羅御本尊の中央に、南無妙法蓮華経日蓮と大書し、釈迦初め他の聖衆は脇士として小さく書き並べられている事実こそ、日蓮本仏の眼前の証拠だ」などと呆れた事を書いている者が居ました。 佐渡に於いて大曼荼羅本尊を始顕して已来、どの曼荼羅本尊にも「一閻浮提の内未有大曼荼羅なり」と記して有る事から分かるように、方便的曼荼羅本尊を図顕したなどと云う事はあり得ない。また大曼荼羅本尊に方便的教示など書き込む事もあり得ない。 |