日興跡条条事・日興上人御伝草案・聖人御難事等は板本尊の文証にならない。 「聖人御難事」が文証となり得ないとの論「余は二十七年なりの文意」を既に私のホームページ掲示してあるので御一覧いただきたい。多くの研究者が指摘している点を補足として述べておく。 大石寺では熱原の神四郎等三人の斬首は、弘安二年十月十二日と伝えてきているが、現在では十月十五日と見られているとのことである。 『日興上人御伝草案』に「法華宗二人は、頸を切られおわんぬ。その時、大聖人御感有って、日興上人と御本尊にあそばすのみならず、興の同弟子日秀日弁二人、上人号し給う」と有るので、神四郎等達が斬首されたのを知って、その不惜身命の強信に感銘を受け御本尊を図顕したと云う事になっている。 興門の関慈謙師著『伝灯への回帰』に「さて、問題は、線を引いた部分(その時、大聖人御感有って、日興上人と御本尊にあそばす)である。この記述からして、弘安二年十月に宗祖が戒壇本尊を書写したというのであるが、果たしてそうであろうか。 戒壇本尊は、宗祖の直筆となっているが、この文を宗祖が本尊を書写したと解釈して、素直に読めば、日興と二人で書写したとなる。そうすると、戒壇本尊は二人で書写したということになり、矛盾が生じるのである。あくまで戒壇本尊は、宗祖出世の本懐の曼荼羅であって、日興と二人の共同製作による本尊で また、先の『聖人御難事』の「余は二十七年なり」のあわせて、日興と打ち合わせて本尊を書写したともとることもできるが、そうすると、熱原三烈士の処刑日である十月十五日の三日前に本尊が書写されたことになり、矛盾が生じる。熱原三烈士処刑日については、更に検討を要するが、いずれにしてもこの文を以って戒壇本尊の宗祖日蓮書写の本尊の証明にはならないのである」(427頁) と『日興上人御伝草案』が板本尊の文証になり得ないと論じている。 日蓮正宗も関慈謙師も『日興上人御伝草案』の「大聖人御感有って、日興上人と御本尊にあそばすのみならず、興の同弟子日秀日弁二人、上人号し給う」の意味を「日蓮聖人が日興上人と一緒に本尊を図顕した」と読んでいるが、「日興上人と御本尊にあそばす」とあるのだから、「本尊に日興上人と書き入れた」とも、「日興上人と号して授与書きした御本尊を図顕しただけでなく、日秀日弁の二人にも上人号を付けた」とも解釈できる。 このような解釈も出来るので『日興上人御伝草案』は板本尊の文証にはならない。 日蓮正宗では、十月一日の「聖人御難事」を以て、「弘安二年十月十二日に出世の本懐である戒壇御本尊(板本尊)を図顕した事を述べている文である」と主張するのであるが、その主張だと、斬首の十一日(あるいは十四日)前に、日蓮聖人は斬首を知り、戒壇御本尊(板本尊)を造ろうと決めた事になる。 しかし、『日興上人御伝草案』では、斬首の後に図顕したことになっている。 十二日(もしくは十五日)に執行された斬首の知らが身延の御草庵に届くまで数日は掛かるだろう。『日興上人御伝草案』では斬首の報が届いた後に戒壇御本尊が図顕された事になっているから、本尊図顕は十二日(もしくは十五日)より数日後と云う事になる。 ところが、日蓮正宗では「聖人御難事」を証にして、一日に本懐(板本尊)を図顕したと云っているで、『日興上人御伝草案』と齟齬が有る。 大石寺の堀日享師が著書『熱原法難』に於いて、「先師がかって直ちに此の文を以て戒壇本尊顕彰の依文とされたようだが直接の文便はないようである」と述べているとの事だが、もっともなことで有る。 日蓮正宗では『日興跡条々事』の 「日興が身に充て給はる所の弘安二年の大御本尊は日目に□□□□之れを授与す、本門寺に懸け奉るべし」(宗全2-134)との文を以て「弘安二年の大御本尊」が板本尊の文証であると主張しているが、興門の関慈謙師はその著『伝灯への回帰』において、『日興跡条々事』の写真を掲示し、 【次のようなことがわかる。 ①第二条の弘安二年の大御本尊と日目の間、約四乃至五文字分が 空白になっている。 ②この空白部分が若干汚れて黒ずんでいる。 ③授与の字の上に更に字が書かれているように見える。あるいは、 相伝と書いてあるかもしれない。またあるいは、相伝の字の上 に授与と書かれてあるのかもしれない。 以上三点挙げたけれども、これらのことからすると、『日蓮宗宗学全書』及び『日興上人全集』の記述がもっとも信用できるようである。したがって、同書が指摘するように、空白の部分は後人が削り取ったものであろうし、また授与の字の上から他筆で「相伝之可奉懸本門寺」の九字を加えたということになる。 以上のことをどう考えたらよいのか。これが日興の親筆になる譲り状であるとするなら、かかる重要な書の一部を削り取るなどということはあるはずのないことである。 まして、宗祖日蓮および開山日興をことの他重要視する大石寺において、そのようなことがありうるはずがない。その上、日興直筆に手を加えるなどということもあり得ないことである。更にまた、譲り状に月日しかなく年号の記載がないことも不自然極まりないことである。更に、これがもっとも重要なことであるが、この書風である。この書風をもって日興の書とするには、無理があると思う。 日興からの譲り状に関しては、日興から西山本門寺祖日代に対する譲り状である『八通の遺状』(西山本門寺蔵)がある。これも真偽に重大な問題を抱える書であり、また、北山本門寺二代日妙に対する『日興譲状』も存在するが、これもまた、『八通の遺状』同様真偽に重大な問題を抱える書である。『日興跡条々事』もこれらの書と同様の譲り状と考えるべきである。以上のことから、この書を以って、戒壇板曼荼羅の根拠とすることには無理がある。】(416~7頁) と論じている。 日蓮正宗信徒のあるブログに 【年号が無いから偽書といえるのであろうか? 平和ボケし、他国からの侵略もない平和な国・日本であるが、現在を基準として元号が無いことに理由付けをしようとするから偽書だ!と言いたくなってしまうのである。 時は武士が権力を握る鎌倉時代である。朝廷は南朝、北朝が対立していた。今の中東シリアを想像せよ! 政府軍と反政府軍が国家を二分して争っているではないか!このような時代が日興上人の時代だったんだよ。(中略) ②南北朝時代の始まり 1329年 ③日興上人重須にて滅 1333年 (中略) 分かったか、習いそこないのボケ町人学者よ! 日興上人は明らかに当時の時勢を鑑み、北朝、南朝のどちら側にも付かず、中立という立場で元号を書かず日にちだけを書かれたのである。「そうではない!」というのであれば、他に理由は何か? 論証せよ。】 などと珍反論している。 角川日本史辞典によれば、 「1336年足利尊氏が光明天皇を推挙し、後醍醐天皇が吉野に移ってから始まる。全国的内乱は1331年(元弘1・元徳3年)の元弘の乱から」(721頁) と解説している。 『日興上人全集』に依れば、 『佐渡国法花衆等本尊聖教等事』は元弘二年七月二十四日日興花押(132頁) 『定補師弟并別当職事』は元弘二年十月十六日日興花押(133頁) と有る。元弘二年は1333年である。 既に全国的内乱期に入っていた元弘二年の両書には、しっかりと年月日を明記している。 『御本尊集奉蔵於奥法宝』収録の興師図顕本尊には、元徳二年(1330年)・元徳三年(1331年)と年号を明記している。 故に「日興上人は明らかに当時の時勢を鑑み、北朝、南朝のどちら側にも付かず、中立という立場で元号を書かず日にちだけを書かれたのである。」などと云う反論は成り立たない。 偽書の疑い濃いとされている『八通の遺状』(西山本門寺蔵)でも判るように遺状的書には年月日を記するのが定まりと云える。 関師の指摘しているように、譲り状に月日しかなく年号の記載がないことは不自然極まりないことである。 大石寺所伝文書の研究者である東祐介氏が論文『富士大石寺所蔵日興跡条々事の考察』を発表している。その論文の第二章に『日興跡条々事』の筆蹟について論証しているので、その部分を以下に紹介する。 【『日興跡条々事』の筆蹟について高橋(粛道)師は『日興上人御述作拝考』において、 [他の日興上人の筆跡と比較すれば真偽は一目瞭然である。私は一文字一文字を切りはなして照合したが、正しく跡条々事は日興上人の筆であることに確信を持った。「十一月十日日興花押」の興の字は日興上人晩年の筆跡であり、花押にいたっては元徳年間の数種の花押と一致する(山口範道師編『日興上人御筆御本尊目録付御本尊・消息花押臨写集』を参考)。これは私の独断と思われると困るので、古文書に造詣の深い山口範道師に依頼しての結果である。](述作拝考1-412頁) といい、これによれば、高橋師は山口範道師に『日興跡条々事』の筆蹟鑑定を依頼し、高橋師自身も筆蹟鑑定をした上で『日興跡条々事』は日興上人の筆蹟であると断じている。しかしながら、この点、首肯し難いものがある。 高橋師が依拠とした『日興上人御筆御本尊目録付御本尊・消息花押臨写集』は『日蓮正宗史の基礎的研究』に「日興上人・日目上人御筆御本尊略目録」として載録されているので、ここでは「日興上人・日目上人御筆御本尊略目録」と日興文書を参照にしつつ真実、高橋師の筆蹟鑑定が正鵠を射たものであるのか比較対照すと次の如くである。 (日興跡条々事の筆跡写真と日興上人の筆跡写真を掲示) さて、右に掲げた『日興跡条々事』と日興文書の相違点は次の如くである。 1.『日興跡条々事』の「日」宇の二画目は「フ」の如く記され、一画目の終筆に向かっている。これに対して日興上人は二画目は横線を記した後、垂直に縦線を引くのである。 2.『日興跡条々事』の「興」宇の十四画と十五画は「ハ」の如く記され、十四画と十五画がつながっていない。これに対して日興上人は「ム」の如く記されている。 3.『日興跡条々事』の花押は内部に入る際に空白の円形が作られていない。これに対して日興上人は必ず空白の円形を作ってから内部に入るのである。 4.『日興跡条々事』の花押は内部で二回転して「m」字を形成しているが花押の下線と内部での回転が接しておらず空白部分ができている。これに対して日興上人は内部で回転した際、必ず、花押の下線と接しているのである。 署名・花押は現代でいえばサインを意味する。それ故にその署名・花押は必ずその本人によってなされなければならない。しかし、『日興跡条々事』の署名・花押を比較対照すると同人の筆蹟とは到底考えられないものがある。 高橋師は『日興跡条々事』の花押について「元徳年間の数種の花押と一致する」としている。「日興上人・日目上人御筆御本尊略目録」には元徳年間の花押が十一種、載るのであるがそれらの中に『日興跡条々事』と同系の花押は見られない。 また、高橋師は『日興跡条々事』の文献的価値について「日興跡条々事」において、 [いずれにしても、『日興跡条々事』は内容といい日興上人の御正筆であることにいささかの疑いもない。](『日蓮正宗史の研究』二九〇頁) といい、『日興跡条々事』を日興上人の筆蹟によるものと見て、『日興跡条々事』には疑点がないとするのである。しかし、本稿で論じてきた如く三箇条の内容にも筆蹟にも疑点が散見されるのであり、高橋師の見解は正鵠を射ていない。】(16~19頁) |