一体釈尊像に関して。
其の1。

日蓮聖人が随身仏としていた立像釈尊像は、日蓮聖人の祈願によって、一命を取り留めた伊東の地頭が、漁網に入った釈尊像を聖人に奉納したものだと、今まで読んだ祖伝に記されていたので、「そうなんだ」と長年思って居りました。
ところが、「海中出現釈尊像説」を記している唯一の御書である『船守弥三郎許御書』は偽書の疑いが濃いとのことです。
 
新倉日立師の「日蓮聖人伝百話」に、詳しく偽書の疑いがある理由が書かれているので、その要旨を紹介いたします。
 
【1,確実な御書には伊豆国伊東郷に流罪されたとだけ記されており、流罪にまつわる伝記的な記述はほとんど無い。
2,祖滅200年頃成立の「日蓮大聖人註画讃」には、日朗由比ヶ浜別離や弥三郎伝説を記しているが、「註画讃」に先行する「元祖化導記」等の諸伝記には見られない。
3,「註画讃」の5~60年後に種々の祖伝を集大成して述作されたと云う「蓮公薩?略伝」にも船守伝説は載っていない。
4,船守弥三郎夫婦の給仕説は、祖滅200年頃成立の「註画讃」に至って、初めて見える事であり、「船守弥三郎許御書」は真蹟がかって存在したとの記録も無く、古写本も祖滅314年後成立の「本満寺本」に於いて、古写本が有るとされているだけである。
5,船守弥三郎給仕の事は、ほかの御書には、言及されていない。
よって「船守弥三郎許御書」は偽書と思われる。また船守弥三郎給仕供養説は伝説として扱った方が良い。】
と論じ、さらに、
【「元祖化導記」には「或書云」として、伊東郷七郷のうちの留津浦に着船、そこに三十日ほど逗留したのちに、伊東の領主八郎左衛門尉の宿所の近くにある、屋形と云う所にうつされ三年間すごされたと伝えているが、いずれにせよ、聖人は伊東八郎左衛門と云う伊東郷の地頭であった人物に預けられた。「弁殿御消息」に依れば、その間に八郎左衛門が重病にかかり、聖人の祈願によって一命を取り留め、聖人に帰依したが、やがて後にはまた念仏者真言師になってしまった、ということだけが確実な史実と言えそうである】
と述べています。
 
日興上人が他の五老僧批判を記したと云う『五人所破抄』には、五老僧側が「日蓮聖人所持の釈迦立像は聖人が自ら彫った仏像である」と云っていると記されています。また日興上人の直弟である日順の『法花観心本尊抄見聞』(富士宗学要集2-92)にも「日蓮聖人が彫った」と記してあります。
「船守弥三郎許御書」が偽書の疑いが濃厚となれば、「海中出現説」より「聖人自刻説」の方に分が有るようですね。
 
ついでですが、ある掲示板に於いて、大石寺系所属の者が「役人の監視が厳しかったので、たとえ彫刻用ノミといえども武器になり得るから、所持など許可されるわけがない。だから大聖人が釈尊像を彫ることなど出来なかった」と「聖人自刻説」を否定していました。
 
果たして、彫刻用ノミの所持使用も許可されなかったほど自由が無かったでしょうか。すこし考えてみましょう。
日蓮聖人の祈願で重病平癒の利益を得た八郎左衛門や、八郎左衛門郎党の日蓮聖人に対する接し方は好意的に成ったことでしょう。そして監視も緩くなったであろうと推測出来ます。
また、興門上代の文書の『御伝土代』に「その国の念仏者等あだをなし、毒害を思い、毒茸を持ち来たって聖人に奉る、聖人これを服して敢えてとがなし」と有ります。実際に有った事だとすれば、その不思議を知った八郎左衛門や郎党は「日蓮はただ者で無い」と畏怖を懐き、聖人に対する態度も改めたでしょう。
故に仏像を彫るノミぐらいの所有は許されたと推測し得ます。
真宗文化センター所長今井雅晴博士が『親鸞聖人の越後流罪を見直す』に於いて、
【一般的な流罪の実態。「流罪は流罪だから、いくら貴族出身、伯父が国司でも例外なんて認められないだろう。親鸞聖人はやはり田んぼに入って苦労されたのだろう」と現代人は思いがちです。違うのです。(中略)法然聖人は土佐国(高知県)に流されました。しかしそこへ行く途中で、讃岐国の九条兼実の領地に引き取られました。以後穏やかに暮らします。(中略)それに実際のところ、平安時代・鎌倉時代には、流罪に処せられるのは貴族等の社会的身分の高い者に限られるようになっていました。(中略)流刑地ではかなりの経済的権利を与えられ、また田も与えられ、それを付近の農民たちに貸し出して耕してもらい、自分は楽な日常というのが普通でした。これは刑罰史研究の成果です。一転して、江戸時代の流人は生活がひどい状況だったようです。どうも私たちは、江戸時代の流人の状態を親鸞聖人に重ね合わせてしまったのではないでしょうか。】(69~71頁)
と述べていますが、親鸞と時代の近い時分の日蓮聖人の流罪も「ノミの使用さえ許可されなかったと云うほどの厳しい監視でなかったと推測すべきでしょう。
 
其の2。
 
建治二年の『四條金吾釈迦仏供養事』に「釈迦仏の木像一体等云々」とあり、建治元年の『法蓮抄』には、「釈迦如来の御前に於いて自ら自我偈一巻を読誦し奉りて聖霊に回向す」との法蓮の報告が記されており、また建治二年の『光日房御書』にも「母、釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば、争か彼人うかばざるべき」とあって、信徒達が釈尊像を祭祀することを聖人が認めていた事がわかる。
 
弘安二年『日眼女造立釈迦仏供養事』に、日眼女造立の一体三寸の釈尊像について大聖人が
「法華経の寿量品に云く『或は己身を説き或は他身を説く』等云云、東方の善徳仏中央の大日如来十方の諸仏過去の七仏三世の諸仏上行菩薩等文殊師利舎利弗等大梵天王第六天の魔王釈提桓因王日天月天明星天北斗七星二十八宿五星七星八万四千の無量の諸星阿修羅王天神地神山神海神宅神里神一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる(中略)釈尊は天の一月諸仏菩薩等は万水に浮べる影なり、釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり」
と説明している。
すでに、『身延山大学東洋文化研究所報題17号』において桑名法晃師が指摘しているが、十方三世諸仏の根本本体仏と説明してあるから、日眼女造立の一体釈尊像を、久遠本仏と観じていることが判る。
 
中尾尭師が系年を建治三年としている『真間釈迦仏御供養逐状』
に「釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや」
と有り、釈迦仏像を「己心の一念三千の仏」と説明している。
「己心の一念三千の仏」とは「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり」(観心本尊抄)と有る三身円融具足無始の古仏であるから、釈迦仏像を久遠無始の古仏則ち十方三世諸仏の根本本体仏と捉えていたことが判る。
 
桑名法晃師が指摘しているが、『摩訶止観・巻第一下』の「仏の覩(み)て発心すとは」の項に、蔵・通・別円の異なった仏の相好を見て発心する事を列挙している。この部分を「輔行」が「此の蔵・通・別・円の四教の教主は、未だ開せざれば別仏のように思えるが、?(た)だ是れ一身であって、いわゆる一水四見で、機根の高下に随って、各々異なって見えるだけなのである。天台大師は、蔵教の仏の色相に於いて四見不同であることを述べているのである(意趣訳)」(天全263頁)
と補釈している。
桑名法晃師はこの「輔行」の文を挙げ、「『注法華経』に引用してあるので、日蓮聖人も機根の異なりによって種々の見方・捉え方が有る事を認識されていたことが窺える。」とし、その証として『法蓮抄』の「今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見菩薩は種種の色と見仏種純熟せる人は仏と見奉る」を引き、日蓮聖人が、「輔行」と同様に、一水四見の教説に立って教示している事を挙げ、さらに、結語として、
「同じ釈尊の一体像であっても、それを見る者の機根の異なりによって、或いは小乗の釈尊となり、或いは権大乗の釈尊となり、或いは法華経本門の教主釈尊となることを示すものであると考えられる。たとえ釈迦一尊に本化の四菩薩を添えることがなくとも、本門の教主釈尊として拝することができるのである。(中略)したがって、釈迦一尊であっても、日蓮聖人にとって、また日蓮聖人の教えを信奉する弟子・信者にとっては同様に本門の久遠実成の釈尊を示すものであったといえる。」
と論じている。
 
勿論、『観心本尊抄』に「正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか。(中略)小乗権大乗爾前迹門の釈尊等の寺塔を建立すれども本門寿量品の本尊並びに四大菩薩をば三国の王臣倶に未だ之を崇重せざる」
とも「伝教大師粗法華経の実義を顕示す然りと雖も時未だ来らざるの故に東方の鵝王を建立して本門の四菩薩を顕わさず」とあるので、脇士によって仏格を表すと云うきまりから、正式な形としては本化四菩薩を脇士とした、いわゆる一尊四士像をもって本門寿量品の釈尊を表現すべきと考えられて居たことは言うまでも無い。
 
興門の文書である『五人所破抄』に、
「日興が云く(中略)随身所持の俗難は只是れ継子一旦の寵愛月を待つ片時の螢光か、執する者尚強いて帰依を致さんと欲せば須らく四菩薩を加うべし敢て一仏を用ゆること勿れ云云。」
と、日蓮聖人持仏の釈迦像を貶しているが、上記に述べた日蓮聖人の一体釈尊像に対する見方を見逃している見解と云わざるを得ない。
 
また、日蓮正宗では「四條金吾や日眼女には対機説法的に一体釈迦像を許したものだ」等と弁明する場合が有る。
そこで四條金吾の信仰度合いは如何なるもので有ったかと云えば、
文永九年五月の『四条金吾殿御返事』には
「貴辺法華経の行者となり結句大難にもあひ日蓮をもたすけ給う事、法師品の文に『遣化四衆比丘比丘尼優婆塞優婆夷』と説き給ふ此の中の優婆塞とは貴辺の事にあらずんばたれをかささむ、すでに法を聞いて信受して逆はざればなり不思議や不思議や」
と強信を讃えられ、
建治三年九月の『崇峻天皇御書』
「返す返す今に忘れぬ事は頚切れんとせし時殿はともして馬の口に付きてなきかなしみ給いしをばいかなる世にか忘れなん、設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず」
と有り、また、
弘安三年十月の『四条金吾殿御返事』に「文永八年の御勘気の時既に相模の国竜の口にて頚切られんとせし時にも殿は馬の口に付いて足歩赤足にて泣き悲み給いし事実にならば腹きらんとの気色なりしをばいつの世にか思い忘るべき、(中略)在俗の官仕隙なき身に此の経を信ずる事こそ稀有なるに山河を凌ぎ蒼海を経て遥に尋ね来り給いし志香城に骨を砕き雪嶺に身を投げし人人にも争でか劣り給うべき」
と有って、熱烈なる強信を讃えられ、また、弘安二年十月の『聖人御難事』は門人一同に法難忍受の大覚悟を促した御書であるが、四條金吾はその保管を任じられている程の人物である。
こうした強信の四條金吾や妻に、建治二年や弘安二年の頃までも、『四條金吾釈迦仏供養事』や 『日眼女造立釈迦仏供養事』を差し出し、四條金吾夫妻の未熟な信仰に応同して、「真実の本尊義を隠して、一体釈尊像を讃えた」などと云う弁明などは、とうてい認めがたい。

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