お供えは食べて貰えるか?
 
食べる霊と食べられない霊
 
中村 元博士著『原始仏教から大乗仏教へ』の「第十六章 餓鬼」に、『阿毘達磨大毘婆沙論(第十二巻・大正蔵27巻59頁)』の論議が紹介されてます。
『阿毘達磨大毘婆沙論』に於いて、
「お供えすると、餓鬼だけは来るが、地獄の衆生、畜生、阿修羅は来ないのはなぜであるか?。先祖に食物をお供えすると、祖先の霊魂は、そのお供えを実際に食べることができるのであろうか?」
との質問を取り上げ、雑阿含経の『生聞経』(国訳一切経728頁)にある釈尊と生聞婆羅門との次の問答を紹介しています。
「このことは不定なり。もしも汝の親族が地獄の中に生ぜば、地獄の食(物)を食して自ら(生)存して(生)活するを以て、かれは汝の食(供え物)を受くること能わず。(死せる人が)傍生(=畜生)の趣または天の趣または人(間)の趣に生ずるも、また復た(やはり)かくのごとし。もしも汝の親族が(餓)鬼の趣の中に生ずれば、則ち能く汝の施すところの飲食を受けむ(取意)」
「もしもわが親族が鬼趣に生ぜざるときには、施すところの飲食を、誰かこれを受くべきや?」
「汝が供物を施してやりたいと想う親族が、もし餓鬼の趣の中に生まれてなくとも、余の親族の中で餓鬼に生まれている者が食する事を得る。もし余の親族も知人の中にも餓鬼に生じている者が無い時には、施主の汝自ら福を得るであろう(取意)」
との問答を紹介した後、さらに
「なぜ、祭祀すると、餓鬼は則ち供物を受けるために来るのに、餓鬼以外の衆生は供物を食べに来ないのか?」
の質問を設け、
「二つの縁に由るなり。一つには、かの餓鬼界の法爾(もともとのきまり)に由るが故なり。二つには業の異熟(果報)に由るが故なり。この故に、祭祀すれば、かれらの法爾力(自然のきまり)に由りて、則ち餓鬼は食べに来るけれども、余(他の趣の衆生)は供物を供えても、それを受けにやって来ない(取意)」
と説明しています。
お供え物をあげても、餓鬼の境遇を受けている者は受け取れるが、すでに人間や天上界に生じた者、また畜生地の境遇に堕ちた者は食べに来ないと説明しています。
 
お供えの行為は無駄にならない
 
では、先祖や肉親の霊に供物を供えることは無駄かといえば、餓鬼の境遇にある祖霊の誰かが食べてくれるし、食べる者が居なくとも施しの功徳は施主に具わるから、無駄にならないと云う事です。
また、『ミリンダ王の問い』には、餓鬼でも供物を受得できない餓鬼が居ると、説いています。
「四種の餓鬼のうちの三種の餓鬼、すなわち、1,吐いたものを食べる餓鬼。2,飢えと渇きをもつ餓鬼。3,および焼くごとき渇きをもつ餓鬼は<布施の果報を>獲得しない。
他者の施しによって生きる餓鬼は<布施の果報を>獲得するが、かれらとても臆念するときだけ獲得する。お供えを廻向しても亡者に届かない場合でも、贈り物を相手が受領しなかった場合、その贈り物は贈り主の所有となると同じように、布施者がその果を受けることになる(取意)」(平凡社東洋文庫『ミリンダ王の問い』61頁)
と説明しています。罪障の軽い餓鬼だけしか供物を受けられない。また供物を受ける餓鬼が居なくとも、施主が施の功徳を受けることが出来ると云うのです。
 
三種類の餓鬼
 
『瑜伽師地論』(第四巻・大正蔵30巻297頁中段)にも、供物を食べられない三種の餓鬼が説かれています。
【第1種,飲食物を得るのを外的に妨げられる餓鬼たち。たとえば、水を飲もうとすると邪魔が入ったり、あるいは水が膿や血に変わってしまい飲むことが出来ない。
第2種,飲食物を得るのを内的に妨げられる餓鬼たち。たとえば、食道は極端に細かったり、瘤があって食べたり飲んだり出来ない。
第3種,飲食物自体が妨げとなっている餓鬼たち。飲み喰らう度にみな焼かれ燃やされるので、飢渇の苦しみが止むことがない。臭穢の厭悪されるものしか食べられない餓鬼。(取意)】
目連尊者が与えた飲食物が燃えて食べられなかった尊者の母親は、第3種の餓鬼の境遇と云えるようです。
それから、一般的には命終すると中有の状態になると考えられています。そして中有は段食(物質的な飲食物)を食べるが、ただし「麁に非ずして細なり」と云って、香(微粒子)の食べるので、尋香とも食香とも名づけられています。
そして、少福の者は悪香を食し、多福の者は好香を食すと云われています。お供え物は湯気の立つ物を供える方が良いと一般に言い習わされている根拠のようです。
 
仏祖へのお供えは受領してもらえるか
 
また、『生聞経』の教説によれば、人間界と次元の異なる悟りの世界の方にお供えしても、受けて貰えないようですので、日蓮聖人に朝のお膳を供える事は無駄ではないかと言う問題が生じます。
『ミリンダ王の問い』という御経の中に有る「ブッダに対する供養の効と無効」についての、ナーガセーナ比丘とミリンダ王との問答が、この問題を考える上でのヒントになるようです。
「尊き師(ブッダ)は完全に死に給うたのです。(完全な悟りの境地に達した)それだから尊き師は供養をおうけになりません。・・再生をもたらすのこりのないネハンの境地において、完全に死に給うたブッダにとっては当然です。」
と答え、続いて、「ナンダカ夜叉(悪鬼)が長老サーリプッタを討って、みずから大地に没入したことが伝えられているが、悟りを得ていた長老サーリプッタは、かれの生命を奪わんとする者にたいしても怒りをいだかないし、他人が苦しみを受けることを望みまなかった。なのにナンダカ夜叉が大地に呑みこまれたのは、ナンダカ夜叉自身の不善業の強さによって大地に没入した・・・大王よ、不善業の強いために、ナンダカ夜叉が大地に没入したのであるならば、処罰を望まない人にたいしてすらなされた罪悪は、無効ではなく結果をともなうものです。大王よ、しからば善業が強いためによってもまた<同様に、何らの供養をも>望まない者にたいしてなされた供養は無効ではなく結果をともなうものであります。大王よ、この理由によってもまた、如来が完全に死に給い<もはや何らの供養をも>おうけにならないけれども、<そのブッダにたいして>なされた供養は無効ではなく結果(善報)をともなうものであります」(ミリンダ王の問い1・290頁)
と、譬えを挙げて、仏に対する供養は無効でないと論じています。
日蓮聖人の御尊像に、朝のお膳を供えますが、悟りの世界の方々ですから人間の食べ物など受けないのだろうと推せられます。しかし、ミリンダ王とナーガセーナ尊者との問答にあるように、お供えする気持ちは善業でありますから、「お供えは無効ではなく結果(善報)をともなうもの」と云うことになるのだろうと思われます。
 
食べ物のお供えだけでは駄目
 
原始仏典に属する『餓鬼事経』には、餓鬼道に苦しむ霊が回向によって救われた話が51話も集められています。藤本 晃博士が注釈書『餓鬼事経釈』を添えて訳した『死者たちの物語』と云う本を著しています。
第十九話「ダナパーラ」の話を紹介します。
【仏陀が世に出現され、やがて舎衛城に逗留されていたころ、舎衛城の商人たちが遠くのウッタラーパタでの商売を済ませた帰途、ある乾いた河のそばで野営しました。そこに一人の水を求めた来た餓鬼が渇きの為め倒れました。商人たちが餓鬼に問いました。「おまえは裸で、醜い姿形で、痩せて血管が浮き出て、肋骨も露わになっている。いったい何者か?」
「(インド中央部の)ダサンナ国エーラカッチャ市に暮らしていたダナパーラと言う名の長者だったが、布施を好まず、信心なく、もの惜しみして、ケチで、他人をなじっていました。布施しようとする人々を妨害しました。布施の善報などないと言って、蓮池や井戸や園林などを壊し、水飲み場や悪路に架けた橋も破壊していました。私は善を行わず、悪を行って、そこで死に、餓鬼界に生まれて、飢えと渇きにさいなまれています。四ヶ月後に餓鬼界での死が訪れ、今度は地獄に墜ちるでしょう」
商人たちは彼を憐れんで餓鬼の口に飲みものを注ぎました。しかし、何度も飲ませようとしても、餓鬼の悪業の果報のため、水が喉を通りません。
「たとえ皆さんが何度も水を注いでくれても一滴たりとも喉を通ることはないでしょう」
「渇きをなくす方法が何かないのか?」
「この悪業の果報が尽きたときか、あるいは、如来または如来の教えを聞く弟子たちに布施がなされたときに、その布施が私に指定される(廻施される)なら、私は餓鬼界から免れるでしょう」
それを聞いて商人たちは舎衛城に行き、世尊に餓鬼の話をして、仏を上首とする比丘サンガ(僧団)に七日間、大いなるお布施をして、その餓鬼に布施を指定(回向)しました。(趣旨)】
と、云う話です。
その他の話も、仏道修行者たちに布施供養した功徳を回向してもらって、餓鬼たちは救われたと云う話です。餓鬼は生前の罪障のために、食べ物や衣服などの供物を直接に受領出来ないと云う教説です。有名な『盂蘭盆経』の供養回向観も『餓鬼事経』の回向観と同じです。
 
お供えだけでは駄目
 
お盆や御命日に故人の好物であった物を供える事は尊い人情ですし、また子供に先祖を尊ぶべき事を教える大事な風習だと思います。
しかし、護持正法の為めに仏道修行者に施して、その功徳を霊に回向すると云う方法が供養回向の本来のあり方であることを知らないで、ただ、御位牌に果物や食べ物などを供えたり、お墓参りしていれば、それで供養になっていると考えている人たちも多いようです。
NHKラジオで香港在留中の人が「香港での先祖供養は儒教に基づいているから、昔から定まっている二十種類のご馳走を作り、お供えして親族で食べる習わしです」と話していました。話の様子では、お坊さんに追善回向の御経は上げてもらわないようです。
御位牌に果物や食べ物などを供えるだけで追善回向を頼まない風習のお宅が有るのは、昔日本に入ってきた中国の儒教の風習の残りかも知れません。
家人が仏壇に供物を供えたり、お線香をあげたり、墓前で手を合わせたりして、故人を思い出してやるだけで、喜び満足する霊もいるでしょうが、罪障が重い霊をいわゆる浮かばれた状態にするには妙法修行者(お題目を護り弘める修行者)に施して、その布施の功徳を霊に回向してやる必要があるのです。
 
護持正法の大志の功徳を回向すべし
 
日蓮聖人が『王日殿御返事』に
「仏はまことに尊いお方で、供養するものの量や質によって功徳に差をつけるということはありません。昔の得勝童子は、修行中の釈尊に砂の餅をご供養申し上げ、その功徳によって死後に阿育大王として生まれかわり、世界の大王となりました。また、貧しい女が自分の髪の毛を切って売り、その代金で油を買って仏に灯明を供養をしましたが、その灯明の火は、須弥山を吹きとばすほどの大風が吹いて他の人のかかげた灯明の火が全部消えた後にも、ただ一つだけ燃えつづけました。」(昭定1853・日蓮宗電子聖典現代語訳)
と示されています。いかなる気持ちで行ったかを重視する仏教の考え方を示している文です。ですから、妙法修行者に布施する時には漫然とした気持ちで施すのでは無く、大いなる志をもって施すべきだと思います。
法華経説法の聴衆の中に、羅ゴ阿修羅王(らごあしゅらおう)が挙げられています。インドの神話では、羅ゴ阿修羅王は帝釈天王と争ったほどの勢力を持っている者です。平安時代の『法華直談抄』に、羅ゴ阿修羅王について次のような逸話を紹介しています。
【昔、婆羅門有り、大福人なり。或る時、彼の婆羅門、四千両の車に食を載せて広野に出で、多くの乞食非人に施すなり。其の辺りに塔婆有り。折節、悪人有って火を放ち彼の塔を焼かんとす。
其の時、彼の婆羅門、四千両の車に水を載せて火を消して塔を助くるなり。其の時、婆羅門、発願して云う様は、願わくは我れ此の施力に依て大身を得て欲界の中に第一の者と成らんと願うなり。
もし信心堅固にして生死を出離するを願うならば、此の功徳に依て速やかに仏果菩提に至るべき処に、信心は無くして名利を好み大身を願う故に、今、羅ゴ阿修羅王と生まれるなり云々。
総じて末代の今も善根を成さん人は、よくよく心得べき事なり。たとい一紙半銭なりとも三宝に供養し、掌の中の食物を乞食非人に施すとも、偏に無上菩提の為めにせんと回向せば、功徳広大にして仏果の修因に成るべし。縦(たと)ひ、無差の大善行と云うとも名聞利養の為めに之れを施さば、有漏の果報と成って、還って出離生死の障りと成る。彼の羅ゴには異なるべからざるなり。】(法華直談抄1・215頁)
この説話は、たとえ大善行であっても、名聞利養の報果を獲たいと云う誓願をもって行うと、世俗的善報を得るだけに終わってしまう。だから布施供養の善行を行うさいには、「この善行が仏道成就の助けとなるように」との誓願のもとに行うべきである。そうすれば悟り(正しい心根)を増長させる事が出来る、と教えている話です。
追善供養のお布施をするさいには、「お題目の信仰を護り弘める支援として布施します。この故人の菩提のため、また自身が仏道を成就するための功徳となりますように」と念じれば大善行の追善回向となることでしょう。
 
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