『開目抄』には日蓮本仏義など無い 『開目抄』述作主目的 大石寺系教団では「開目抄は大聖人が末法の仏であると発迹顕本された御書である」と教え込まれ洗脳されてしまっています。 洗脳されているために『開目抄』を読んでも読めずの状態か、あるいは『開目抄』の全文を読まない為めか、彼らは「開目抄は大聖人が末法の仏であると発迹顕本を示した御書である、日蓮大聖人が仏だ、釈迦は役立たずの脱仏だ」と言い張り続けて云います。 しかし、『開目抄』は、決して「日蓮こそ末法の仏である」などと論述している御書ではありません。 『開目抄』に『我が身法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし。』とあるように、ご自身が法華経の行者であるかないかを厳密に検討することを主目的として論述された御書です。 『開目抄』に云われている『法華経の行者』と云う語句の意味は、「末法の初めに妙法五字を弘宣する命を受けた久成釈尊の本弟子である本化上行菩薩の応現者」との意味です。 『開目抄』には、「法華経の第五の巻勧持品の二十行の偈は日蓮だにも此の国に生れずばほとをど世尊は大妄語の人八十万億那由佗の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし、経に云く「諸の無智の人あつて悪口罵詈等し刀杖瓦石を加う」等云云、今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ、「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲」又云く「白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるること六通の羅漢の如し」此等の経文は今の世の念仏者禅宗律宗等の法師なくば世尊は又大妄語の人、常在大衆中乃至向国王大臣婆羅門居士等、今の世の僧等日蓮を讒奏して流罪せずば此の経文むなし、又云く「数数見擯出」等云云、日蓮法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台伝教もいまだよみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言のあふゆへに但日蓮一人これをよめり、(中略)日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。(中略)経文に我が身普合せり」 と、勧持品二十行の偈文を身読しているのは日蓮より以外には居ないと述べています。 類文は 『寂日房御書』 「 日蓮は日本第一の法華経の行者なりすでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり、八十万億那由佗の菩薩は口には宣たれども修行したる人一人もなし、(中略)経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ、斯人行世間の五の文字は上行菩薩末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり、日蓮は此の上行菩薩の御使として日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり、」(昭和定1669・学902) 『上野殿御返事』 「勧持品に八十万億那由佗の菩薩の異口同音の二十行の偈は日蓮一人よめり、誰か出でて日本国唐土天竺三国にして仏の滅後によみたる人やある、又我よみたりとなのるべき人なし又あるべしとも覚へず、」(昭和定1635・学557) とが有ります。 勧持品二十行の偈とは、菩薩が末法に法華経を弘宣する際の迫害受難を述べている経文です。日蓮聖人は、妙法五字末法弘宣を久成釈尊より託された本化上行菩薩が受ける迫害受難を予言している経文であると理解されていたのです。 『開目抄』述作の主目的は、勧持品二十行の偈文を身読した法華経の行者、すなわち上行菩薩の再誕であるか否かを徹底的に検討することに有ります。 「しうし(主師)父母」と「したし父母」とのどちらが正しい読みか 大石寺系では「『開目抄』の終わり部分に『日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり』と有って日蓮大聖人は主師親三徳を具していると述べている。主師親三徳を具えている大聖人は仏である」と主張しています。 しかし、本山本満寺発行した身延山久遠寺21世日乾法主の真蹟対照本には、真蹟は「日蓮ハ日本国ノ諸人ニシタシ父母也」であると記録しているので、大石寺系の読みが間違っていることがわかります。 また「日蓮は日本国の諸人にしたし父母也」の文の直前には章安大師の言葉である「『慈無くして詐(いつわ)り親しむは是れ彼が怨(あだ)なり』等云々」を挙げており、直後には、同じく章安大師の「彼が為めに悪を除くは即ち是れ彼が親」の文を挙げています。このような文脈から考えても、「誤りを正し、正道を教える真の親切者の父母である」事を強調表現した言葉で「したし父母(親し父母)」と表現したと見るべきでしょう。 『開目抄』述作の一月後の御書『佐渡御書』にも「日蓮当世には此の御一門の父母なり」とあり、また文永10年の『呵責謗法滅罪抄』にも「章安の釈の如くならば、日本国の一切衆生の慈悲の父母也」 と云って、主師親の三徳を並べ挙げないで父母(親徳)のみを挙げている表現と同じように、『開目抄』のこの文も、主師親を並べ挙げているのでは無く、父母(親徳)を三徳の代表として挙げていると見るべきでしょう。 根本的三徳者は久成釈尊 もちろん『撰時抄』にも「法華経をひろむる者は日本国の一切衆生の父母なり章安大師云く「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」等云云、されば日蓮は当帝の父母念仏者禅衆真言師等が師範なり又主君なり、」(昭定1018頁・学会版265) と有るように、日蓮聖人は主師親三徳を具えて居る事は云うまでも有りません。 しかし、日蓮聖人自ら「主師親の三徳者」であると云われていても、久成釈尊より根本の上位の主師親の三徳者などとは、これっぽっちも考えて居られません。 その事は『下山御消息』に、はっきりと示されています。 『下山御消息』には「そもそも釈尊は我等がためには賢父たる上、明師なり聖主なり、一身に三徳を備え給へる仏」(昭定1319・学348頁) と述べた後、 「 自讃には似たれども本文に任せて申す余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり、一には父母なり二には師匠なり三には主君の御使なり、経に云く[即如来の使なり]と」(昭定1331・学355頁) と、「慈悲をもって間違いを教え正していると云う点から言えば、日蓮も親・師匠・主君の使いとしての三徳を備えている」と云っています。ここにも御自身を「主君の御使」と云って、釈尊の御使いであると明言しています。主君である釈尊の指示で末法に使わされた御使いとは本化菩薩の上行菩薩等を指すことは明白です。 『下山御消息』の教示からも、日蓮聖人は、根本的な主師親三徳者は久成釈尊であると言う大義名分を堅く守られていることが判ります。 『開目抄』の「したし父母也」を、「しうし父母なり」と読んで、「『しうし父母なり』の文は、主師親三徳を具えた大聖人こそ末法の仏である事を教示している文である」などと解釈して、日蓮本仏論を主張する大石寺系は正に日蓮聖人の教示に背く者でありましょう。 目次に戻る |