日蓮本仏論をめぐっての応答
日蓮正宗の信者さんから質問がありました。 一つ目の質問は、【「日蓮上行菩薩にはあらねども、ほぼ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らいか」(新尼御前御返事906p)と、日蓮上行菩薩論を否定している御書があるが、どのように考えるのか】との質問です。 下記は私からの応答です。 この「新尼御前御返事」の文に似ている御書として、 「経には上行無辺行等こそ出でてひろめさせ給うべしと見へて候へどもいまだ見へさせ給はず、日蓮は其の人に候はねどもほぼこころえて候へば地涌の菩薩の出でさせ給うまでの口ずさみにあらあら申して況滅度後のほこさきに当り候なり、」(本尊問答抄374p) 「而るに予地涌の一分に非ざれども兼ねて此の事を知る故に地涌の大士に前立ちて粗五字を示す」(曾谷入道殿許御書1038p) 「然るに上行菩薩等末法の始の五百年に出生して此の境智の二法たる五字を弘めさせ給うべしと見えたり経文赫赫たり明明たり誰か是を論ぜん、日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、」(曾谷殿御返事1055p) 等が有りまが、これらは謙譲的表現とみるべきです。
末法の始めにおいて、妙法五字・三大秘法を弘宣し、勧持品予言の法難を受けてた人こそ、本化の上行菩薩の再誕なのですから、大聖人の実際の行跡を熟知している弟子信徒たちは、このような謙譲的表現の文を読んだ時でも「謙遜されているが日蓮聖人こそ法華経に出現が予言されている本化の上首上行菩薩の再誕に違いない」と確信したことでしょう。
大聖人が本化上行菩薩の再誕であることを、明らかに義として示している文は数多くありますが次の二文を挙げておきます。 「仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり、金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なしいかがせんいかがせん、抑たれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるる誰の僧か刀杖を加へらるる、誰の僧をか法華経のゆへに公家武家に奏する誰の僧か数数見擯出と度度ながさるる、日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし」(開目抄230p)
「法華経の故に日蓮程人に悪まれたる者はなし、・・・前代未聞の身なり後代にも有るべしともおぼえす、・・・日蓮日本国に出現せずば如来の金言も虚くなり多宝の証明もなにかせん十方の諸仏の御語も妄語となりなん、仏滅後二千二百二十余年月氏漢土日本に一切世間多怨難信の人なし、日蓮なくば仏語既に絶えなん」 (単衣抄1514p)
上行菩薩の再誕であると明確に言明している文には 「頼基陳状」の「其の故は日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば久成如来の御使上行菩薩の垂迹法華本門の行者五五百歳の大導師にて御座候聖人」(1157p) 「此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」(三大秘法禀承事1023p)や 文永11年12月図顕の本因妙顕発の御本尊とも称される御本尊 の讃文「大覚世尊御入滅の後、二千二百二十余年を経歴す、爾りと雖も月・漢・日、三ケ国の間に、未だ此の大本尊有さず、或いは知って之れを弘めず、或いは之れを知らず。我が慈父、仏智を以て之れを隠し留め、末代の為めに之れを残したまう。 御五百歳の時、上行菩薩、世に出現して始めて之れを弘宣す」等が有ります。これらは、大聖人自ら上行菩薩の再誕であることを明確に表明している文証です。 もしも貴方の解釈通り、『新尼御前御返事』が「上行菩の再誕で有る事を否定している」文だとすると、上行菩薩の再誕で有る事を義示あるいは明示している御書の意と反していますね。大聖人は自家撞着の分裂症人格であることになりますね。
二つ目の質問は【日蓮宗では、どうして大聖人を本仏と認めないで上行菩薩再誕と言い続けるのか】と言う意味の質問です。 下記はこの質問に対する私の応答です。 ○上記の応答のように御書を解釈するから、大聖人を上行菩薩の再誕と崇仰するのです。 大聖人を上行菩薩再誕と尊崇するのは日蓮宗だけでは有りません。ちなみに云うと、日興上人の『三時弘教次第』に「付属弟子 上行菩薩 日蓮聖人」とあり、また日興上人の正応二年の『申状』に「而るに日蓮聖人仏の使いと為り生を末世に受け正法を弘め」(興尊全集319頁)とあり、嘉歴二年の『申状』にも「此れは上行菩薩の再誕」(興尊全集322頁)とあり、また『五人所破事』にも「日蓮聖人は忝も上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり」(興尊全集290頁)等と有って興門上古では、大聖人を上行菩薩の再誕と仰いでいたことがわかります。
三つ目の質問は【また仏教では師弟子が未来世、過去世において入れ替わることは法華経でも説かれています。過去世では提婆達多が師匠で釈尊が弟子であったこと、今世では釈尊が師匠で提婆達多が弟子となっています。これと同じように上行と釈尊の関係も考えられないでしょうか?釈尊が法華経を説かれたときに釈尊の弟子として上行菩薩等が出現し釈尊の久遠成道の説を助けたこと。そして上行菩薩が仏の好相である三十二相を具えていることから本地は仏であり、互為主伴するのもありうるのではないでしょうか。】と云う質問です。 この質問に対する私の応答が下記です。 ○師匠がまだ完全な覚者達者でない場合は弟子が師より先に師匠以上の覚者達者に成ってしまい、提婆と釈尊の関係のように、師匠弟子の関係が逆転してしまうことは有り得るでしょうが、釈尊は久遠の昔に正覚をすでに成就しているのだから、弟子の上行菩薩に追い越されてしまうことは無いでしょうね。だから涌出品にも 「一面に住在し欣樂して二世を瞻仰す。」とあるように、上行菩薩等は弟子の礼を以て法華経会座に出現しています。また「我れ是の娑婆世界に於て阿耨多羅三藐三菩提を得已って、是の諸の菩薩を教化示導し、其の心を調伏しての意を發さしめたり。」と、上行菩薩たちは久成釈尊の弟子で有ると紹介しています。さらに「是の如き子等は 我が法を學して晝夜に常に精進す」と、久成釈尊の法を学し精進している菩薩たちであると説いています。 だから大聖人も、「我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり・・是くの如き高貴の大菩薩三仏に約束して之を受持す末法の初に出で給わざる可きか」(観心本尊抄)と、上行菩薩たちは久成釈尊の弟子であり、仏使として末法に必ず出現する旨を教示しているのです。 法華経の会座から末法濁世の初めまでの間に釈尊と上行菩薩の地位が逆転し、久成釈尊が根本教主本仏で無くなり、大聖人が代わって根本教主になると言う説などは経にも御書にも全く見えませんね。
上行菩薩たちが卅二相の相好を具えた姿で現れたと云うことは、内証的には久成釈尊と同等の高位の大菩薩であることを示しているのです。「卅二相を具えているから本仏だ」などと短絡的に考える事は大きな誤りです。卅二相を具えるほどの高位の大菩薩だから末法濁世において「遣使還告」の仏使としての大役を果たせるのです。 だから「天台大師云く『(地涌千界は)是れ我が弟子なり応に我が法を弘むべし』妙楽云く『子父の法を弘む世界の益有り』と」(観心本尊抄250頁)には教示しているのです。
大聖人を悪しく祭り上げく「釈迦は脱益の仏、脱仏だ」などと、釈尊を劣視する者は 「教主釈尊の御使なれば天照太神正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり、法華経の行者をば梵釈左右に侍り日月前後を照し給ふ、かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(種種御振舞御書919頁) との厳戒を思い起こして欲しいものです。 上記のような私の応答に対し、日蓮正宗信徒さんから 【大聖人が御自身を上行菩薩の再誕ではないとはっきり示しているのに謙譲的表現というのはそう思いたいだけではないでしょうか。 その理論でいけば自己に都合の悪い部分は全て謙譲的表現と言い逃れできませんか?ましてや大聖人が明言を頼基陳状でされていたという考えであれば以後の御抄においてもわざわざ謙譲的表現をするのは理屈に合わないと思います。】 と、再度書いて寄こしたので下記のように書いて送りました。
○繰り返しますが、末法の始めにおいて、法華経本門の三大秘法を弘宣し、勧持品予言の法難を受けてた人こそ本化の上行菩薩の再誕で有る事を知っていた信徒たちは謙譲的表現を拝しながらも「日蓮聖人こそ本化の上首上行菩薩の再誕に違いない」と受け止めていたように、貴方も理解したらいかがですか。
もしも『新尼御前御返事906p』の文を、貴方のように「大聖人が御自身を上行菩薩の再誕ではないとはっきり示している」と解釈したら、私が先に提示した『開目抄230p』『三大秘法禀承事1023p』などの重要御書の文や、また「文永11年12月図顕の本因妙顕発の御本尊の讃文」を否定することになります。 大聖人は分裂症などでは無いですから矛盾することをしたためることなど無いです。 『新尼御前御返事』の件の文の直前に「上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給いて、(中略)末法の始に(中略)此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、乃至後生の大火炎を脱るべしと仏記しをかせ給いぬ」と有って、続いて「而るに日蓮上行菩薩にはあらねどもほぼ兼てこれをしれるは彼の菩薩の御計らいかと存じて此の二十余年が間此れを申す」と有りますね。新尼御前は「大聖人は上行菩薩の働きかけを受けた菩薩として、法華経の本門の肝心妙法蓮華経を弘宣し、大曼荼羅御本尊を図顕し得たのであると書かれているが、大聖人こそ上行菩薩の再誕に違いない」と読み取ったことでしょう。 この文を「大聖人が御自身を上行菩薩の再誕ではないとはっきり示している」などと読み取ることは大きな誤りです。 手紙の相手によって謙譲的に「上行菩薩の再誕」であることを義として示すことは何ら矛盾はありません。 貴方のように読み取ると、大聖人が分裂症ということになるし、大聖人を上行菩薩の再誕と認識していた興師は大聖人の教示を無視した事にもなりますよ。
日蓮正宗信徒さんはさらに 【『観心本尊抄』の「但し彼は脱、此れは種なり」の解釈。久成釈尊は完全なる覚者と仰っていますが、印度応誕の釈尊は妙楽曰く「経に約すれば是れ本門と雖も、既に是れ今世の迹の中に本を指すを名づけて本門と為す。」とあるように印度応誕の釈尊が説いた法華経乃至本門は迹の立場より本門を顕していると明かされています。 つまり印度応誕の釈尊は久遠実成を説いているにも関わらず迹仏として迹門の中の本門しか説いていないということになります。 日興上人のお弟子の日順師の本因妙口決に曰く「尋ねて云はく・第十五に彼れは熟脱・此れは下種と云ふ姿如何、答ふ彼れは熟脱とは所開の本迹は熟脱の二益なり、迹門は熟益・本門は脱益なり、是れ則ち迹化付嘱の法門と云ふ事なり、此れは下種とは内証寿量品の肝心・久成の妙法なり。」と妙楽の釈を否定されずに釈尊の法華経は迹中の本門であり、大聖人のは本門そのものであると示しています。貴殿の「彼は脱、此れは種」の解釈と全く違う解釈を日順師はされていますね。 そもそもですが上行菩薩は釈尊の弟子だけというならば大聖人は印度応誕の釈尊の所持したまえる法である迹門の中の本門しか説くことができないのではないでしょうか?】 との質問を寄せています。 下記はその質問に対する私の応答です。 ○ 「本因妙口決」を論拠にしての貴方の主張ですが、そもそも「本因妙抄」や「御本尊七箇大相承」は偽書、「本因妙口決」は日順より後代の作成した文書であると大石寺系統以外では断定しています。 研究者が「本因妙抄の日時写本の字体が、日時の他の文献の字体と異なっているので、日時の写本と云うには疑義がある」旨を発表しているし、また「本因妙口決」には日順活躍当時決して使用されなかった「日蓮宗」という用語が使用されていることから、後代の偽作であると指摘されている文書です。 文献上疑義が強い大石寺文書を根拠にしての主張では、他門の者には通用しません。 私は重要御書の文意に基づいて、大石寺系統の種脱論を批判しているのですから、確かなる御書を根拠にしての反論でなければ俎上に上げるつもりは有りません。
貴方の【上行菩薩は釈尊の弟子だけというならば大聖人は印度応誕の釈尊の所持したまえる法である迹門の中の本門しか説くことができないのではないでしょうか?】と言う質問ですが、玄義や釈籖を切り文解釈するから変な質問が生じるのでしょね。 貴方が引用の『釈籖』の文は、「本利益妙」の「乃至寿命を聞き増道損生するは、皆是れ迹中の益なり。乃至中間の権実の益、亦是れ迹の益なり。迹を以て本に望むるに、本も亦応に偏円の利益有るべし。下方の菩薩、皆虚空に住する所以は、皆寂光に居するは本の益なり」についての注記ですね。
妙楽大師の「経に約すれば是れ本門と雖も、既に是れ今世の迹の中に本を指すを名づけて本門と為す」との意味は、「本成時の説法を本とすれば、それ以降の説法は皆迹と言えるから、今世の本門と言っても迹の説法と言える」との意味です。「今世の法華経の本門は真実本当の本門では無い」などと言う意味ではありません。【迹門の中の本門】などと云う恣意的造語使うから、【つまり印度応誕の釈尊は久遠実成を説いているにも関わらず迹仏として迹門の中の本門しか説いていないということになります。】との的外れな思い込みをしてしまうのです。 妙楽大師の考えは【本も亦応に偏円の利益有るべし】と記しているように、本成時説法の法華経本門を本の本門とすれば、今世の法華経本門はその本の本門の迹と云えるという説明です。件の妙楽の文の文節に「本事已に往なり、もし迹を借らずんば何ぞ能く本を識らん」と云っていますね。言い換えれば、今世の本門経を通して本の本門を識ることができると云うのが妙楽大師の見解なのです。 さらに、件の妙楽大師の注記は続いて、玄義の「迹を以て」の以下に対して「[迹を以て]の下は、重ねて本益の相を挙ぐ。本の文既に狭し。亦迹に擬して本を知らしむ。」と注記してますね。 この注記は、「久成釈尊本成時の教導を受けて本化菩薩は寂光に住する利益を受けたと云う本益の相を上げている箇所である」との意味です。 本利益を受けた本化菩薩の事を「玄義」は「本眷属妙」で説明しています。 「本眷属妙とは、経に云く、此の諸の菩薩は下方の空中に住す。此れ等は是れ我が子なり。我は則ち是れ父なり。・・・此の諸の菩薩、仏に隣りて智度の底を窮む。・・・地涌千界、皆是れ本時の応眷属なり。」 とあって、上行菩薩等は久成釈尊の弟子・眷属と説明しています。 本眷属・本弟子であるから久成釈尊の代行・使者として末法はじめの弘宣を命じられたのです。 本の本門経を、その迹である今世の法華経本門が知らしめているから、本地が既に本利益を得ている大菩薩で有るから法華経二十八品の底に説かれている妙法五字乃至三大秘法を汲み取ることが出来たのです。 貴方は、妙法五字乃至三大秘法は法華経には説かれてないと思って居るようですね。 大聖人の 「此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。・・・寿量品に云く「然我実成仏已来無量無辺」等云云、大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり、今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり・・・法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり、秘す可し秘す可し。」(三大秘法禀承事1023p)
「正しく久遠実成の一念三千の法門は前四味並びに法華経の迹門十四品まで秘させ給いて有りしが本門正宗に至りて寿量品に説き顕し給へり、此の一念三千の宝珠をば妙法五字の金剛不壊の袋に入れて末代貧窮の我等衆生の為に残し置かせ給いしなり」(太田左衛門尉御返事1016p)
「「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、」(観心本尊抄247p)
「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり」(開目抄189p) 等との教示を素直に正しく受け止めましょう。
「釈籖」の文を曲解したり「本因妙抄」「本因妙口決」などの変な文書を基にして考えないで、御書の教示を素直に理解して欲しいものです。 種脱については、私のHP「小論」の「『観心本尊抄』の「但し彼は脱、此れは種なり」の解釈。」を再読してください。 また、私の【師匠がまだ完全な覚者達者でない場合は弟子が師より先に師匠以上の覚者達者に成ってしまい、提婆と釈尊の関係のように、師匠弟子の関係が逆転してしまうことは有り得るでしょうが、釈尊は久遠の昔に正覚をすでに成就しているのだから、弟子の上行菩薩に追い越されてしまうことは無いでしょうね】との意見にたいして、日蓮正宗信徒さんが次のような弁明を寄こしました。 【互為主伴とは追い越す追い越さないの話ではなく、所持したまう法を説きあらわすため、また付属の為に仏が菩薩に降り、菩薩が仏となり師弟子を入れ替えることです。例えば釈尊が天照大神や八幡大菩薩として垂迹したように仏が菩薩や天人として現れることと同じことです。】と言う弁明です。 それに対しての私の応答を次のように書きました。 ○貴方は「互為主伴」との言葉を使っていますが、ようするに菩薩が釈尊と地位に取って代わるとの意味ですね。 【菩薩が仏となり師弟子を入れ替える】との貴方の主張ですが、法華経や御書のどこに「本化菩薩が師匠となり根本教主釈尊がその弟子になる」などと説いて有りますか? 真偽論の無い御書のどこに「我は末法の根本教主である」などとの教示がありますか?
【釈尊が天照大神や八幡大菩薩として垂迹したように】と例を挙げていますが、全く日蓮本仏論の例にはなりませんね。 八幡大菩薩は「釈尊に取って代わって我れが根本仏だ」などと云う御託宣をしたことも無く、国神としての分限を超えない神ですね。だから天照大神や八幡大菩薩の例など【菩薩が仏となり師弟子を入れ替える】例などにはなりませんね。ちなみに大聖人は「八幡大菩薩を釈尊の垂迹」と記しているものの、あくまで国神ないし仏法守護の善神として扱っていました。 「観心本尊抄」の 「本門の四依は地涌千界、末法の始に必ず出現す可し、今の遣使還告は地涌なり是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是れなり」(251p)と、また「我が弟子之を惟え地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり・・・是くの如き高貴の大菩薩三仏に約束して之を受持す末法の初に出で給わざる可きか」(253p) との教示を信受し、大聖人は根本教主釈尊の弟子、御使であると素直に受け止めれば良いのです。 日蓮本仏論を主張している大石寺所蔵の文書などは「観心本尊抄」などの真偽論のない重要御書の教示に背く文書です。 日蓮正宗信徒さんが寄せてきた反論の中で、 【創価学会らの言うところの釈迦と日蓮が別仏であるとする日蓮本仏論は大石寺の日蓮本仏論ではありません。本尊三度相伝に曰く「釈迦と申すは天照太神西天に釈迦と顕はれ諸仏の本誓妙法蓮華経を説き一切衆生悉く是れ吾が子なりと宣ふ、日本に又大明神と顕はれ正直に方便を捨つる本願の誓に酬て正直の頭に宿る、末法濁世の時は日蓮聖人と顕はれ諸仏の本意を顕はす、左れば釈迦上行天照太神、日蓮聖人只一躰の習」 本尊七箇相承に曰く 「日蓮と御判を置き給ふ事如何、師の曰はく首題も釈迦多宝も上行無辺行等も普賢文殊等も舎利弗迦葉等も梵釈四天日月等も鬼子母神十羅刹女等も天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり」とあるように釈迦多宝等の諸仏も十界の尽くが日蓮大聖人であるというのが日興門流の本来の日蓮本仏論です。妙楽曰く「十方法界に唯一仏のみ有ることを」と仏の垂迹が釈尊であり、本身が大聖人でともに同体というのが日興門流の日蓮本仏論です。】 と、弁明しています。 それに対する私の応えを下記のように書きました。 ○創価学会の「日蓮本仏論」と大石寺の「日蓮本仏論」は違うとの主張ですが、他門から見れば五十歩百歩ですね。 偽書の「本尊三度相伝」や「本尊七箇相承」は論ずる価値も無いですが、両書の思想は釈尊軽視の火種で有る事は間違いないですね。 『日眼女造立釈迦仏供養事』に 「法華経の寿量品に云く『或は己身を説き或は他身を説く』等云云、東方の善徳仏中央の大日如来十方の諸仏過去の七仏三世の諸仏上行菩薩等文殊師利舎利弗等大梵天王第六天の魔王釈提桓因王日天月天明星天北斗七星二十八宿五星七星八万四千の無量の諸星阿修羅王天神地神山神海神宅神里神一切世間の国国の主とある人何れか教主釈尊ならざる天照太神八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり、例せば釈尊は天の一月諸仏菩薩等は万水に浮べる影なり、釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり、譬えば頭をふればかみゆるぐ心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉ればゆるがぬ草木やあるべきさわがぬ水やあるべき。」(日眼女造立釈迦仏供養事1187p) と言う特異な教示がありますが、「釈尊は天の一月諸仏菩薩等は万水に浮べる影なり」と久成釈尊を中心にしていますね。 『本尊七箇相承』の文は、恣意的に『日眼女造立釈迦仏供養事』の文の「釈尊」を「日蓮」を入れ替えた文と云えますね。 『日眼女造立釈迦仏供養事』の文は、 「當知身土一念三千。故成道時稱此本理。一身一念遍於法界。」(止觀輔行傳弘決卷第五之三)との思想の面を用いて日眼女さんに説明している文と思います。端的に言い換えると「釈尊の証悟から見れば法界は仏の身土」と言う見方の面を用いて釈尊像造立の功徳を語っている文でしょう。 しかし実際には、大聖人は「最も尊仰すべきは三徳具有の根本教主釈尊であり、妙法五字は釈尊が与えてくれた大良薬である」と弘宣する仏使の役目を生涯掛けて全うしましたね。 その大聖人が遣使還告の仏使という分限を越えて、「日蓮が根本仏だ」などと主張をする道理がありません。 【釈迦多宝等の諸仏も十界の尽くが日蓮大聖人である】などと言う主張は釈尊軽視の基となる邪義と言わざるを得ませんね。
妙楽大師の「十方法界に唯一仏のみ有ることを」の文意のどこに 【仏の垂迹が釈尊であり、本身が大聖人でともに同体】と言う文意が有るのですか?大石寺系特有の恣意的切り文ですね。 参考に妙楽記の本文を掲示しておきます。 【(本有の四徳と修得の四徳の)二義斉等なる方に是れ毘盧遮那身土の相なり。若し塵刹重重に相入り重重に相有り重重に事等しく重重に説等しと云うは、未了の者の為に事を以て理を顕す。若し此の一旨を了せずんば誰か暁らめん。十方法界に唯一仏のみ有ることを。 亦他仏を許す、若し他仏を許さば他亦身上重重に互いに現じ互いに入り互いに融することを。】(従地涌出品の妙楽記) 末注を参考しながら読むと、この文の趣旨は 「修得の四徳と本有の四徳と斉等なるは遮那身土の相である有る事を理解できなければ一人成仏の時、法界皆この仏の依正であることを暁らめることが出来ないだろう。また一切の他仏もまた是くの如く重々互いに遍く、重々互いに入り、重々互いに現じ、重々互いに融す。当に知るべしである、一仏の外他仏有るを許す。その他仏もまた身土重々して互いに相入し互いに融通す。」 と語っているようです。 この文に続いて 「弟子の覆わるる義は師を覆うに当る。弟子若し顕るれば師顕れざること無し。故に弟子を顕す義は師を顕すに当れり。」と有ります。文意は「釈尊の弟子たる地涌菩薩が久成の人で有る事が隠されていると釈尊が久遠の仏で有る事が顕れない。涌出品で本化の菩薩が久遠劫以来の弟子で有ることを顕したので自ずと釈尊の顕本を示されるのである」と云う意味ですね。 このように「本化の菩薩は弟子、久成釈尊が根本教主である」と見てた妙楽大師が「仏の垂迹が釈尊であり、本身が上行菩薩である」などとの意味で【十方法界に唯一仏のみ有ることを】などと記す道理がありません。 |