無量義経について。

「法華経序品」に
「広大な教えであり、菩薩への教訓であり、すべての仏陀が支持しておられる偉大な説示(無量義)と名づけられる法門をお説きになった」(大乗仏典4・法華経1・11頁)とある「偉大な説示と名づけられる法門」は、「無量義経」の事ではないと云う見解があるようです。
そこで、嘉祥大師・天台大師・伝教大師等がいかなる理由を以て、『無量義経』を法華経の開経・序分であるとしたのか、検討してみました。
結論を云えば、法華経を説く前に「大乗経の無量義・教菩薩法・仏所護念」を説いたと有ることと、法華経の開経・序分として当てはまる経典は教理的に『無量義経』以外に、無いと判断されたからでしょう。
嘉祥大師が、「法華経義疏巻第二・国訳一切経経疏部三・56頁)」に、
次の五つの理由を挙げて、序品にある無量義経とは此の無量義経であるとしています。
一、処同。同じく王舎城鷲山にあって説くなるが故に。
二、衆数大同。謂はく万二千の声聞・八万の菩薩なるが故に。
三、時節同。法華に云はく、成道より以来四十余年に之を説くと。無量義経にもまた云はく、我成道より以来四十余年未だ実相の法を説かずと。
四、義同。未だ彰言して開三顕一を明かさずと雖も、而も旨経は密に一乗を開く。
五、翻経の人中天竺の沙門自ら、是れ法華の前の説なりと云う。宜しく応に之を用うべきなり。(これは「出三蔵記集巻第九」にある「注無量義経」の序の文に記されている伝え。)
以上の五義が理由です。ただし、二番目に衆数大同と有りますが、数は同じですが、列衆菩薩名は一致していません。法華経序品の18菩薩のうち八菩薩が無量義経徳行品には欠けているので、根拠としては説得力が無いように思えます。

なお、『無量義経』のお終いに「その時に大会皆大いに歓喜して、仏の為めに礼を作し、受持して去りにき」と有って、聴衆が散じ去った事になっている。ところが法華経の序品には聴衆が散じ去らないで、続いて法華経が説かれ始められたように記されているので矛盾があると、云う批判が有って、その疑問に対して、妙楽大師が
「問う。彼の経の末に受持して去ると云う。今何が故に散ぜずして待つこと有りと云うや。
答う。彼の結集家、通経の者を語るなり。恭しく厳旨を承けて聞くを必ず流通するが故に、而去と云う。今此の経、集衆の文なく、説き已って定に入り、定より起ちて即ち、告ぐるに拠らば、前に集むる所に告ぐ。散ぜざること何ぞ疑わんや」(文句記巻第三上・大正195b)と会通し、

また伝教大師も『注無量義経』において、この疑問を取り上げ
「受持而去というは、是れ則ち訳家、一部と為るが故に、此の一行を置く。例せば玄奘所訳の『顕無辺仏土功徳経』の『一切衆会聞仏説皆大歓喜信受奉行』の如し。其の『仏土経』は華厳の一品にして未だ部帙を了わらずといえども、然も一部を為るが故に、其の奉行を置くなり。奉行と而去とは其の字、別なりと雖も、而も訳家の加える所、その義、異なること無し。是の故に当に知るべし。仏此の経を説き已って結跏趺坐するに専ら大いなる妨げ無し」(伝教大師全集巻三・674頁)と会通しています。

いずれにしても、無量義経と同等の法門が法華経の前に説法されたと云う構成で、法華経が成文化されていると考えれば良いと思われます。
あるいは、『無量義経』の成文者が法華経の前に説かれた経として位置づけようとしたとも推測できます。

嘉祥大師は法華経の前に『無量義経』が説かれた理由について次のように論じています。(法華経義疏巻第二・国訳一切経経疏部三・56~58頁)
法華は一切の乗を会して同じく一乗に入る。今、将に収入の義を明かさんとするが故に、前に出生を弁ずるなり。
一法より一切の法を生ずるを以ての故に、一切の法は一法に還帰す。所以に将に収入を弁ぜんとして前に出生を明かす。
是の故に、前に出生を説くを収入の序とするなり。
四十余年、三教(三乗教)に封執するに由って、忽ちにして一に帰することを聞かば心即ち驚疑せん。
是の故に、先ず、一切の諸教は本、一より生ず、なんぞ一に帰せざらんやと明かす。・・
彼の経(無量義経説法品)に明かす、一切の衆生は一道清浄を失す、故に種々の道を成ず。諸仏無縁の大悲をもって、衆生をして一道に帰せしめんと欲したまう。是の故に一道より無量の教えを出すというのみ。・・
彼の経(無量義経)には直(ただ)、衆生一道を失して種々の道を成ずと明かし、また直(ただ)、諸仏一道を失する衆生の為の故に一道より一切の教を出すと説きたまふことを明かして、正しく縁と教と並びに一道より生ずと明かせども、而も方(まさ)に言って、未だ縁と教と並びに一に帰すとは明かさざるなり。・・
一道は本性清浄なれども、而も衆生虚妄にして一道を失するを以ての故に六道を成ず。
今、還って一道を悟らしめんと欲するが故に、一法より一切の教を出すと説くのみ。
もし衆生、本(もと)一道を失すと明さずんば、一切の教は一法より出ずと説くと雖も、ついに一道に帰せしむること能わず。
此の義は是れ法華の会三帰一の正意なり。
又是れ一切衆生をして作仏せしむるの正意なり。
もし先に此の意を明さずんば、法華に一切衆生皆作仏すと説くを得ざるなり。
二には、法華には一乗を明かす。今将に一乗を弁ぜんとするが故に、先ず乗本を明かす。乗本とは即ち是れ実相なり。・・
三には、無量義経は密に一を顕し密に三を破す。法華は顕に一を明かし顕に三を破す。
良に三執は傾き難く一乗は信じ難きを以て、今法華を説くの由漸を示す。故に密を前にし顕を後にするなり。・・既に一より多を生ずと明かすことは、既に密に一は多の本となるが故に即ち多は必ず一に帰すと顕すなり。
四には、彼の経(無量義経説法品)に説く、水は是れ一なれども、井泉に約して不同なるが如く、法水は是れ一なれども、衆生の得道に約して異をなすと。然るに法は既に一なり、得道に異あるべからず。今彼の疑情を動じて、後の一に於いて三と説き三を会して一に帰するを聞き、即便(すなわち)信解せしめんとなり。
五には、大いに仏化を明かすに凡そ四門あり。(一会一説・多会多説・多会一説・一会多説)
一会多説とは、浄名を説く前に普集経を説くが如し。また此の経の、将に法華を説かんとする前に無量義経を説くが如きなり。此の四事(四門)は皆是れ縁の所宜に適う。其の所由を責むべからざるなり。
六には、法華は既に三一を開会す。相をもって説くに似たり。之を聞いて著を起さんことを恐るるが故に、前に無量義を説いて無相を明かす。・・故に法華を説かんとして、前に無量義を説くなり。
・・無量義は無相を明かし,復た一法を明かす。法華に似ることあり。故に前に之を説く。
この六番目の理由の説明の中に、「涅槃経に有所得は是れ二乗、無所得を菩薩とするが如く、亦今一一の句中に於いて字の相を作さず聞の相を作さず、無相を以ての故に無上菩提を得るというがごとし」と述べています。法華経にはこの無相の面の強調が薄いと言うことで、「相をもって説くに似たり」と記しているのでしょう
等と、無量義経が法華経の前に説かれた理由を論じています。
おおざっぱに言えば、法華経に至って、会三帰一を説くために、その前準備として、無量義経にて、一法より無量を生ずと説く必要があったと言う見解です。

天台大師が「法華文句」に、「無量義とは一法より生ず。その一法とは、いわゆる無相なり。無相不相を名づけて実相と為す。此の実相より無量の法を生ず、所謂る二法、三道、四果なり。
今この文を釈するに、
無相とは生死の相無きなり。
不相とは、涅槃の相にあらざるなり。涅槃もまた無し。
故に不相無相と言う。
中道を指して実相と為すなり。
二法とは、即ち頓漸なり。頓は華厳の頓の中に一切法を謂うなり。漸は三蔵、方等、般若の一切法を謂うなり。
三道とは、即ち三乗なり。
四果とは、即ち羅漢、支仏、菩薩、仏なり。
これらの諸法を名づけて無量と為す。実相を義処と為し、一の義処より無量の法を出す。
無量の法の一義処に入るが為に、序と作ることを得。・・一より諸々を派(わか)ち、諸々を収めて一に帰す。開を合の序と為すもまたまた是の如し。
此の如くにして消釈するに、彼の経論に違わず、また此の経と合す」(文句巻第二下)
と、教理的面から無量義経が法華経の序分の位置にある理由を述べています。
ただし、経典成立史上、「無量義経」が「法華経」に先行成立したのか?。
「法華経」の成文化者と「無量義経」の成文化者とのつながりなどは分かりませんが、嘉祥大師や天台大師の経典内容理解から云えば、無量義経を開経・序分と位置づけることは妥当でありましょう。

四十余年未顕真実

実際上の経典成立史では、無量義経が釈尊説法開始「四十余年」後に説かれた経とは認められないから、「四十余年未顕真実」の言葉は全く無意味で、現代には通用しない言葉である主張する人が居ます。

「四十余年」を経典成立の実際の時期を指しているとのみ解釈しないで、語意は、方等十二部経・摩訶般若・華厳海空等の大乗経を指していると解釈すれば、「四十余年未顕真実」は、意義において現在でも通用する言葉といえましょう。

無量義経は、四十余年の間、「先に四諦十二因縁(阿含経典)を説き、次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いた」とし、方等十二部経・摩訶般若・華厳海空は「菩薩の歴劫修行を宣説」している経典であるから、真実すなわち「疾く無上菩提を成ずる法」を顕説されてないと主張しています。
方等十二部経・摩訶般若・華厳海空が「菩薩の歴劫修行を宣説」している経だという指摘を伝教大師が「注無量義経巻第二」に
「ただ随他の五種性等。門外の方便。差別の権教。帯権の一乗を説きて、未だ随自一仏乗等。露地真実。平等の直道。捨権の一乗を顕さず。この故に説きて、以方便力四十余年未顕真実と言うなり。
是故衆生得道差別と言うは、未だ直道の真実。甚深一大事因縁を顕さず。是の故に。諸乗の得道差別あり。
不得疾成無上菩提と言うは、未だ直道一乗の海路を解せず。未だ純円六度の固船に乗らず。未だ実相方便の順風を得ず。是の故に。横に三乗の険路に道き。歴劫留難多き処を歩行して。妄想夢裏の大河に勤苦す。是の故に説きて不得疾成無上菩提と言う。」(伝教大師全集巻三・625頁)
と説明しています。

江戸時代、華厳宗の鳳潭が『金剛槌論』で、
「諸経は歴劫修行を説いていると云う断定は唯だ無量義の虚説である。華厳経にも真言宗に速成を説いている(取意)」と主張しているに対し、本宗の了義日達師が『決膜明眼論』において反論しています。
了義日達師は「妙楽釈籤の十」の「故に知んぬ、一経(華厳経)三十七品は但だ菩薩の行位功徳を明かす」(天台大師全集五・362頁)と云う説明を承けて、「是れ則ち華厳は但だ菩薩の歴劫の行相を説いて、如来果分の直道を説かざること、文理炳然たり。」と述べています。
また
「華厳既に如来の智慧具足して衆生の身中に在り、但だ衆生顛倒の想い、覆うて知らず見ず。当に衆生を教えて永く妄想を離れ、具に如来の慧を見せしむべしと説く。此れ如来の性、惑の為めに覆わる。永く妄想を断じて方に仏智を顕す。則ち是れ別教の縁理断九の権説なり。豈に円実成仏の法ならんや。
況や復次上の文に云く『仏子、如来の智慧大薬王樹は唯だ二処を除き生長することを得ず。』と、所謂声聞縁覚の涅槃地、地獄深坑と及び諸々の犯戒、邪見、貪著、非器等なり。
若し一切衆生本来成仏を説かば、奈んぞ二乗及闡提を除いて斥りぞけて不成仏の人と為るや。寧ろ二乗永く成仏せずして余の八界成仏するの理有らんや。験かに是れ歴劫権門の所談なり・・・当に知るべし。華厳一経、則ち是れ菩薩、菩薩の為めに菩薩の法を説いて未だ果分直道を顕説せず。豈に因分歴劫の行にあらずや」(決膜明眼論巻二・初~十右)
と華厳経は菩薩の歴劫修行を説いていると指摘し、さらに鳳潭が「華厳経や真言宗も速成を説いている」として挙げている経証を詳しく評破しています。
天台・伝教両大師や日達上人の教理的検討を見ても無量義経の「四十余年未顕真実」は教理上、正確な断定といえると思います。

参考になると思うので、本多日生師の『法華経要義』に有る「四十余年未顕真実」に関しての解説をご紹介します。
「この四十余年未顕真実の文に就いてまた様々な悪口罵詈する者がある、大乗は非仏説であるからこんな事を言った所が当てにならぬとか、或いは法華経の味方をする者がこんな事を言ったのだといふて、この文に引っかかって他の宗旨の者が仏教全体をまで悪口をいふ、・・・また縦しこの無量義経だけは之を偽経として斥け得たとしても、法華経の中に入ってこれと対応する所の経文が沢山あって、そらはどうすることも出来ないのである、唯だ法華経の中の経文より一層明晰に茲に現れて居るに過ぎないので、これと同じ義理は法華経の中にもあるし、また総てお経を見る上に真実と方便との分界を立てない限りには、仏教は帰着を失ってしまふ訳である。
この文を憎むが為に仏教をして適縦する所を失はしめて見た所で、何にもならぬ。それは唯だこの言葉があるからというのではなくして、内容に於いて法華経に来たらんければ真実が顕れないのである、その顕れていないということは仏身観に於いて第一顕れていないし、人身観に於いても徹底を欠いているし、宇宙観に於いても無論本仏が判らぬようでは、真の宇宙観は判らぬのである。・・・それで何もこの文に依ってのみ他のお経が方便説だというのではない、この文を削ってしまってもお経の内容に入って調べたならば、やはり真実が顕れていないのであるから、その顕れていないことをこの経文に於いて、はっきり言い表したに過ぎぬ、言い表さないでも真実が顕れていないのは云うまでもない、だからこの文のみ憎んでもだめである。
唯だ応用する上にこういう適切な文があれば、そのお経の内容に入って細かく調べないでも、「四十余年には真実が顕れていないと説かれているじゃないか」という簡単なことで了解が出来るわけである、・・・それ故にこの文が有っても無くても差し支えはないけれども、この経文を軽蔑したり、反対論者が嫌がるからと言って之を除き去る事はいけないのである」(法華経要義23~26頁・略抄出)

見出しに戻る