高橋智遍先生講話
日蓮本仏論批判


昭和40年5月16日 大阪市成正寺に於いて
純正日蓮主義関西講習会第一回
本化妙宗聯盟学監 高橋智遍先生講話
『日蓮本仏論批判』の速記録写し


序説。


それでは昨日の講演会に引き続きまして、創価学会だけでなしに、これは大石寺の根本教学になっております、日蓮本仏論について、日頃かんがえている事を申し上げたいと存じます。で、なぜこれを講演会の席上で申し上げないかと申しますと、どうもこの大衆講演と申しますのは、余り精密な議論をしておりますと、話しが分かる人と分からない人が出て参りまして、講演がだれてしまうのであります。それで精密な議論は一切大衆講演では一切言い出さない事にしております。

で極く特殊な志のある方々だけに深い教義法門上のお話を申し上げる事に致しております。これから二時間以上に時間がなりますから長時間ですから皆様御楽な姿で膝をおくずしになって、ゆっくりと、これはテーブルを囲んで椅子に腰をかけて皆様と深く静かに御法門を研究する、そういう積もりで御楽になって御自由に御聞き取り願いたいと斯う存じます。
この大聖人が私共教義法門を学ぶ者にとって、非常に大切な事を教えて下さっております。
それは「法門と申すは心に入れぬ人には、申さぬ事にて候ぞ」という御妙判でありまして、法門というのはよく心に留めない人には、やたらにしゃべってはならんぞと、こういう教訓をしていられるのであります。

それから又大聖人の御門下の中で当然六老僧の中に入るべき人であった三位房日行という非常に機根秀抜な御弟子がおありになった。この方は弘安二年にはもうお亡くなりになっていられるんですけど、この方に与えられた御妙判の中に「汝等が如き者が日蓮の法門をば日毎に座毎に人毎に談ずべくんば三世諸仏の御罰を蒙る可きものなり、日蓮己証なりと常に申せしこれなり」とこういう事を言われております。

それは、もう大聖人の御弟子の中でも頭の良い点では、一番頭が良いと云われたこの三位房日行に対して、お前等のようなものがこの日蓮の大切な法門をば、日毎に毎日座毎に人が集まる度に人毎に人と会う度に、軽々しく日蓮の法門をば、しゃべったりしたなれば、それは三世諸仏の御罰を蒙るものなり、なぜかと云えば日蓮己証なりと申せし之なり。日蓮がこれは、さとった法門であって、日蓮がさとりを開くについては、二つの重大な理由がある、一つはこの本化上行菩薩として久遠以来之を保って来ておる。それから日蓮となってこの地上に生を受けからも、三度び国を諫め四度の大難に会って、血を流してさとりを開いた教えであるから、日毎に、座毎に、人毎に軽々しく、しゃべるという事はいかんぞ、こういう具合にいましめられているのであります。

私ども田中智学先生の高弟であられた山川先生の門に入門させて頂きまして、そうして教えを承りまして、この質問を致します時、深重なる態度を以て質問致しませんと、先生は教えて下さらなかったものです。

そういう軽々しい態度で法を聞くという馬鹿な事があるか、これは大聖人から田中智学先生に渡り、田中智学先生から我が輩の処に渡って来た、大切なる重要なる教義法門だ、それをそのなんかその辺り店屋に行ってキャラメルでも買うような積もりで、軽々しく聞くやつがあるか、こう言って、余り軽率にお伺いしたりすると御教訓を頂いたものであります。

ところが今日は昨日に引き続きまして、真面目に大聖人の正義をば求められる、深き信仰、それから同時に清らかな信仰、同時に公平無私なる道念をお持ちになっていられる方々でございますから、心置きなく、私も自受法楽の立場で、なんとも云えない楽しい立場で、自分で机に向かって、教義法門を調べて、自分で疑い、自分で答えて、これはどうだろう、あゝこれはこうなんだ、あゝそうだ、そうだという具合に、自分で問い自分で答えている時のあの楽しみというものはそれはもう自受法楽というのはああいうんでしょうね。

他から受ける法楽じゃない、自ら研究して、これはなんだろうなと思いますね、そうしてわからなくなって、色々な本をひもといて見て、あゝでもない、こうでもないと考えた結果一道の光明を見出して、あゝこれはこう解釈するのが、本当なんだなと思ってその光を見出した時の楽しみというものは、そらもう五百万円の宝くじが当たって、あんな楽しみてもんはないもんですけどね、
教義法門の上で正しい一つの解釈の道など見付けた時の楽しみというものは、それなもうなんとも云えない、楽しみなものでございます。自受法楽、他から受ける法楽でなくて自ら受ける法楽というのは殊に楽しいものでございます。

創価学会の日蓮本仏論を紹介する。

で、この日蓮聖人が、創価学会の方では日蓮聖人は本地は上行菩薩にましまされる。然し、それは一応であって、再往論ずれば本仏そのものである。本仏そのものが末法時代に日蓮となって現れたんだとこういう事を創価学会ではいうんです。
云うには、やはり云うだけの理由があるんです。なるほどな、そういう具合に解釈するのも無理ないなと思われる節があるんです。

それなれば、創価学会の云う処なんかはそのまま認めて良いかと云うと、これはね、一寸認めるわけに行かない。一例を上げますと、一例じゃない、此処に創価学会の教学問題の解説という、戸田城聖さんが書いたものがあります。

この中に日蓮本仏論が出てくる。で、あの方々がどういう立場で日蓮本仏を論じているかと申しますと、日蓮聖人は本仏そのものの現れであるという事をば、もっともまとまった形で、これを教学的に一応まとめたのは誰かと云いますと、丁度、大石内蔵助が御主君の仇討ちをした頃、徳川時代の元禄亨保時代にこの大石寺の方に日寛上人という方があった、日寛の寛は菊池寛の寛の字を書いた人で、大石寺日寛といっております。今学会の信者の方々が、なんかこれ位(三十六センチ)の御曼荼羅ですね、黄色な地に書いた御曼荼羅、皆んなおがんでおります。
大体この日寛上人の書いた御曼荼羅です、板曼荼羅じゃないんです。日寛上人の書いた御曼荼羅をおがましております。

あの大石寺日寛上人という御方が、ほぼ、日蓮本仏論というものをば、あの方々の立場でまとめたわけであります。そのむし返し、むし返しというと言葉が悪いんですけれど、それを敷衍して創価学会の方々が日蓮聖人を本仏だ本仏だとこう言っているわけです。

それならば日蓮本仏論のこの御妙判の上の証拠はどういうものを使うかと申しますと、
先ず観心本尊抄と、それから、経王殿御返事とそれから御義口伝と、大体この三つが主になりまして、その他の御妙判をば助証として用いております。

で、観心本尊抄ではどういう御妙判を使うかと申しますと、こういう御妙判を使います。
これは有名な御妙判でありまして
「在世の本門と末法の始めは一同に順縁なり。ただし彼は脱、これは種なり、彼は一品二半これはただ題目の五字なり」
これは有名な御妙判ですね。在世の本門と末法の始めとは一同に順縁である、これは在世とそれから滅後の末法、一同に順縁だというのは何が順縁だか。それはのべられるべき経文、御経が順縁なんだ。それからその御経を受けるべき機根が順縁の機根である。だから順縁には二つあるわけですね、経が順縁、それから機もまた順縁、こういう二つの意味があります。

仏在世の法華経の会座、この法華経の会座の時、仏様が一品二半をと説きになる。予備知識がないと少しわからんかも知れませんけれども我慢して聞いて下さいよ。それから末法の始めは妙法五字を説いた。妙法五字を説いた。で、一品二半の順縁の経であり、妙法五字も順縁の経である。一品二半を受ける虚空会の人々も順縁の教えを受ける順縁の機であり、妙法五字の順縁の教えをば、頂く末法の衆生も順縁の機なんだ。

順縁というのは二つの意味があるんですね、で、但しその在世はそれは利益から云ったらそれは脱益であって、末法はそれは種益である。下種益である。こういう具合に観心本尊抄に云われてあります。これは普通云われてある事でありました、これだけでありましたならば、何も問題は起きてこない。

ところがここへ持ってきて経王殿御返事を引いてくる。経王殿御返事を引いて来、(これは観心本尊抄)今度は経王殿御返事。その経王殿御返事に
「仏の心は、法華経なり。日蓮が魂は南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし」
こうやってくる。

これも経王殿御返事にちゃんとこう書かれてありますから、経王殿御返事そのものから云ったら何も問題ありませんね。
仏様は法華経を御説きになる。日蓮は末法の下種益であるから、妙法蓮華経の五字を説くんだ。こうなる。これもちっとも、おかしくない。経王殿御返事に云われている通りですね。

さて今度はどういう具合にあの方々が、結びつけるか、結び付け方に何というんですが、思い違い、或いは相撲で云ったら勇み足が出てくる。一寸オーバーになってくる。

一品二半と妙法五字についての学会説批判。

どういう具合にオーバーになるかというと、在世脱益の御釈迦様は、法華経を説いた。法華経二十八品を説いて、二十八品の中で一品二半を説いた。一品二半というのは、寿量品の一品と涌出品と分別功徳品の半分づつだから、一品二半ですね。これをお説きになったけれども、妙法蓮華経は御説きにならなかった。こうなるんです。

妙法蓮華経を御説きにならなかった。これは日蓮聖人は法華経は説かないけれども、法華経の一品二半よりも、もっともっと深い処の妙法蓮華経を説いたんだと、こういう具合に話しを持って行く。

この御妙判に基づいて、それで一品二半はこれは文上だ。妙法五字は文底だ。それで、例えて見れば一品二半は山だ、文底は玉だ、山の中に入っている玉だ、だから一品二半よりも、文上の一品二半よりも文底の方の妙法五字の玉の方が深い、一重立ち入った教えなんだ。これが、根本なんだ、その根本が日蓮の魂なんだ。御釈迦様はその点から云うと、この妙法五字を説かずに一品二半の文上しか説かなかったから、日蓮聖人の方が御釈迦様よりもすぐれているとこうなるんです。

こういう具合に立てて行くんです。これが勇み足で軍配が向こうに挙がっちゃった。一寸勇み足で、俵を踏み越しましたね。良い処を行ったんだけれど、一寸行き過ぎてしまった。

そこで今度はね。もう一つ彼等のやるやり方があるんです。それはどういうやり方だかと申しますと、

脱益の仏だからこれは脱仏だとこう云うんです。いい言葉を使ったもんですね。脱益の仏だから脱仏だ。それでも、まあ我慢します。土俵のね。俵のすれすれ迄来てるけれどまあ我慢しましょう。脱仏というのを、それからもう一寸勇み足になっちゃって、脱仏というのを、ぬけがらの仏とこうなっちゃうんです。

これは完全な勇み足ですね。ぬけがら、これは完全な勇み足で、これはもう勝負あったと云う事になるんですね。それから日蓮聖人は下種の仏だ、こう言うんですね。日蓮聖人はこれは下種益の仏であって、お釈迦様はこれは脱益の仏である。だから下種益の仏の方が脱益の仏よりもすぐれているんだとこういうんです。

それからもう一つ彼等がやるやり方は、これは御妙判の処々にありますけれども、一例を挙げますと、撰時抄に有名な御妙判がありますね、

三度び国を御諫めなさった事をば日蓮聖人は
「教主釈尊の御魂我が身に入り替らせたまいけるにや我が身乍ら悦び身に余る、法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」
だから御釈迦様の魂が日蓮の方に来てしまったから、それだから御釈迦様は魂がぬけがらになって、空っぽの仏だ。こういうやり方をやるんですよ。

或いはね、神力品で御釈迦様が、妙法蓮華経をば、上行菩薩に授与された、授けられた、付嘱された、だから日蓮聖人の御義口伝の中に於いて、何と言われているかと申しますと、妙法蓮華経は釈尊のものに非ず、既に神力品で上行菩薩は日蓮は御釈迦様から頂いてしまったから、釈尊の御ものに非ず、だから妙法蓮華経は釈尊の処になくて日蓮聖人の処に来ちゃているから、それだから御釈迦様はぬけがらの仏だとこうなるんです。また勇み足です。

どうもこの日蓮正宗というのは余り好きじゃないんです。なんでこうすぐオーバーになっちゃんですかね。一寸待ったと云って、そこでこの日蓮聖人の御妙判に書かれてあるものをば、正当に理解しなくちゃならない、正当に理解しないから各面発展があって日蓮聖人の特色法門というものが、全面的に各時代、各派祖方に依って、これが解明された事になるんですが、もう今日ではあれですね、勇み足の処をちゃんと消してしまって、日蓮聖人の全面的な教義の円満なる大系をというものをば、ととのえて行かなくちゃならないとこう思われます。

で、最初に先ず御釈迦様は法華経を知っておったけれども、妙法蓮華経は知っていたか、知らなかったか、こういうものなんです。
御釈迦様は一部二十八品は御存知だったけれども、お説きになったんだから、実際ちゃんと御経文があるんですから、それは御存知だったけれども、妙法蓮華経或いは南無妙法蓮華経というものをば、御釈迦様は御存知であったか、御存知でなかったか、ここの処をきちっとしておかなければなりませんね。

これはね、少しでも仏教をやった人、法華経を勉強した方だったら、誰でもこんな事は問題ににませんけれども、妙法蓮華経を御存知になってたから二十八品をお説きになったんだという事は、当たり前なんですけれど。所が創価学会の連中みたいなものを相手にして問答の議論のやり取りをする時は長たらしく説明するゆとりを彼等は与えない。パァーっと、やって来たら パァーと切り返さなくちゃならない。その切り返す時どういう具合に切り返したらよいか。

釈尊の御心は法華経なり、日蓮が魂は南無妙法蓮華経に過ぎたるはなし、だから御釈迦様は法華経は知っておったけれども、それは文上の法華経を知っておったので、文底の妙法蓮華経というものをば御釈迦様は知らなかった。なんて言われた時ね。、何を、とパーっとやらなくちゃならない、

馬鹿云うな。その時皆様にどうぞ御使い願いたい経文が二つあります。それは有名な宝塔品それから神力品、この宝塔品と神力品の経文二つ同じような経文でありますから、二つ出す。宝塔品の経文は多宝如来の証明の経文
「善哉、善哉、釈迦牟尼世尊、よく平等大慧教菩薩法、仏所護念の妙法華経を以て大衆の為めに説き給う、斯の如し、斯の如し、釈迦牟尼世尊所説の如きは皆これ真実なり」
多宝如来は証明しているではないか、御釈迦様が説いているのは、宝塔品迄ずーと説き進んで来たのは、それから宝塔品から以後またお説き述べになられるのは、平等大慧仏所護念という形容詞の付いている、そういうラッテルの貼られてある、内容証明のある、妙法華経をお説きになっているんじゃないか、御経文にちゃんと書かれてある、御釈迦様が二十八品を説いているのは妙法華経というものをば、敷衍して説いていられるんだ、その敷衍してなぜお説きになったかと云えば、それは君等の言う脱益の時代だから敷衍してお説きになっているんだ、これでスパッと、やる事ができますね。

それから神力品の所では、これは有名な御経文がありますね、

神力品は前五神力、後五神力と全部で十の神力があります。その第七番目の空中唱声、仏様が十神力を現じて、そうして妙法蓮華経をば地涌の菩薩にお授けになる、そのお授けになる時、十方世界が、皆んな娑婆世界で、御釈迦様が、雲の如く集まったこの本化の菩薩を始めとして迹化他方の菩薩に法華経をお説きになっている。

そうするとその遙か娑婆世界で、そうなしていらっしゃる光景を見る事が出来た、天から声があって、どういう事があったかと申しますと、
「即時に諸天虚空の中に於いて高声に唱えて曰く此の無量無辺百千万億那由佗阿僧祇の世界を過ぎて国あり、娑婆と名づく、この中に仏います。釈迦牟尼と名づけたてまつる。今諸々の菩薩摩訶薩の為めに、大乗経の妙法蓮華経教菩薩法、仏所護念と名づくるを説きたまう。汝等まさに深心に随喜すべし」

ちゃんと此の所にもね平等大慧、教菩薩法、仏所護念の妙法蓮華経が出て来る。その平等大慧、教菩薩法、仏所護念の妙法華経をば一部八巻二十八品としてお説きになり、その一部八巻二十八品の法華経を説かんが為めに、始め華厳経を説き、次に阿含を説き次には方等部の諸経、それから般若部の諸経を説いて、法華経に来ていらっしゃるんですからね。妙法蓮華経というものが中心になって、こう説かれてあるんだ。これは御釈迦様が自らおっしゃった というよりも、それを聞いている人々が証明した。ちゃんとね、空中唱声といい、多宝証明といい、この宝塔品の方は多宝の証明文、神力品の方は空中唱声文、よそ様がちゃんとそれを証明しておる。

そういう経文をば出して、御釈迦様がちゃんと御存知だったんだという事をば、証明する事ができます。

経文の上からこれを証拠だてている。

それから御妙判の方では、それはもう沢山あって、あってあってあり過ぎる程ございます。

もう各処に御釈迦様が妙法蓮華経というものをば、現わさんが為めに一代五十余年の諸経をお説きになったんだという事が沢山ありますから、これは申し上げるまでもなく、皆様よく御存知の事と思います。

一寸これは気付かない処ですから、宝塔品の多宝証明文と、それから神力品の空中唱声文を挙げておきます。

本仏とは、本有本来の仏なり。

さて愈々今度は本仏の問題に入って行きます。実はこのテキストを皆様方に差し上げたのでありますが、何と講義を進めてよいか私自身も戸惑いをするようなのでありまして、或いは全部を講じ終わる事が、到底出来ないのではないかと、心配する程であります。

先ずテキストの第一頁の終わりの方の至理名無し、これは当体義抄の御妙判ですね、至理名無しの処から入って参ります。

当体義抄にこういう具合に書かれてある。
「至理名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時不思議の一法これ有り、之を名づけて妙法蓮華と為す、此の妙法蓮華の一法に、十界三千の諸法を具足して闕減なし。之を修行する者は仏因仏果同時に之れを得るなり。聖人此の法を師となし、妙因妙果倶時に感得し給う。故に妙覚果満の如来と成り給ひしなり。」

これは非常に大切な御妙判でございまして、この法華経に来る迄仏様をどういう具合に明かしていられるかと申しますと、こういう具合に明かしていらっしゃる。それはご承知の通り、地獄があります。それから餓鬼がある、それから畜生があります。それから修羅がある、人間がある、それから天人がある、この天上界とそれから人間界と修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界、この事を六道と申しましております。
六道輪廻とか、六道流転とか良く云いならわされた言葉でありまして、この処から仏教は出てくる訳です。

現実の世界はこれは六道の世界、で六道の世界から、この天人や人間この人間や天人の中から志を立てて、あゝ、この世の中ははかないもんだ、どんなに栄えても永久の栄えなし、やがて衰滅してしまう。だからこの世の中に頼りにする可き何物もないから、この世の中を我々捨てて終って、真空寂滅の中に入ってしまおう、という志を起こしたのが、それが声聞、縁覚なんです。

所が一類の機類の中には自分だけ此の世の中から、六道の中から離れてしまおうと思うだけでなしに、此等の人々と一緒にこの世の中の苦しみを離れなかったら、真の解脱を掴む事が出来ないと言って、この人間や天人の中から、そういう志を起こしたものが出て来ます、それが菩薩になるんです。

一番先にあったのは六道の衆生、六道の衆生の中から、特別な上機上根の者が志を立てて声聞、縁覚、又それよりも上機上根のものは菩薩になる。その菩薩は三祇百大劫の間仏道を修行して「三千大千世界をみたてまつるに、芥子の如きばかりも、これ菩薩にして、身命を捨てたまう処に非らざること有ることなし」と六波羅蜜の修行を満足してそうして完全に菩薩が完成されてしまう。それが仏だ。

そこで声聞の修行としまして、四諦の修行、苦,集、滅、道の四諦の修行、それから縁覚の修行として、十二因縁の修行、それから菩薩の修行として、六波羅蜜の修行、こういうものが出て来るわけです。

さぁ、これがね法華経に来る迄の仏教の在り方なんです。そうしますと皆様これをどう思います。

そうしますと、この大宇宙というものは、迷った六道の方が、迷いの六道の方が先にあって、その六道の中から、特別な志を立てた、声聞、縁覚、菩薩、仏が出て来るんだ、だからこちらの方をば四聖と申しております。六道が先で、即ち迷いの六道が先で悟りの四聖の方がこれは後になる。迷先悟後なんです。迷いが先で悟りが後なんです。

これは法華経に来る迄、もう小乗仏教から大乗仏教一貫して、こういう作り方になっておるんです。

この宇宙というのは迷いが先になっているんだ、後から悟りが出て来たんだ。こういう具合になっている。

これは山川先生が良く言われたもんです。キリスト教なんかと全然反対なんです。キリスト教の方では始めに神様がある、この神様が宇宙を造ったんだから、キリスト教の方では悟りが先にあって、迷いが後から出てくる。悟りの中から出て来る。仏教はそのキリスト教と正反対なんです。

キリスト教の方では始めに神様がある、この神様が宇宙を造ったんだから、キリスト教の方では悟りが先にあって、迷いが後から出てくる、悟りの中から出て来る。仏教はそのキリスト教と反対になっておりまして迷いの無明の方が先にあって、その無明の中から悟りの法性の方が出てくる。こういう具合になっています。

でありますから、この地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天人ここまでは六道の方は宇宙が始まる時から動いている、迷いの方は宇宙が始まる時から動いている、所が清らかな方の声聞、縁覚、菩薩、仏というのは、これは始めからなかった、途中から出て来た、だから出来始まった、元がある、これは全部出来始まった、やり始まったその声聞の行、縁覚の行、菩薩の並に成仏したその始まりがある、最初がある、所が法華経の本門に来ますと、ここの処をひっくり返してしまったんです。

先ず法華経の迹門と本門の区別を申し上げますと、

法華経の迹門の方はどういう事を説いたかと云いますと、法華経に来る迄はこの地獄の衆生が志を立てて餓鬼になり、餓鬼から畜生に進み、畜生から修羅に進み、修羅から人間に進み、それから人間から天人に進むもの、人間から声聞、縁覚、、人間から菩薩、仏になるもの、こういう具合に進み方が違って来ますけれども、こういうものがこういう具合になっているんだ。

所が法華経の迹門では、人間の心の中に縁覚の性質も、声聞の性質も、菩薩の性質も、仏の性質も人間の心の中に皆入っているんだという事を明かした。

法華経に来る迄それを明かしてない。明かしてないから迷いが先にあって、悟りが後にある、これがね、わからなかった法華経に来る迄、なんで迷った所から悟りが出て来るか、男から女が飛び出すよりむつかしい問題なんです。

そうですね、迷いの泥の中からなぜ蓮華が生ずるか、これはわからない。所がその泥の中に蓮華のような清浄な花を開く性質がある、性がちゃんとひそんでいるんだという事を法華経の迹門で明かした、それを性具の法門と云う。大したもんですね、これは般若経とか、華厳経それから阿弥陀経でなんか、そういう処に明かしてませんよ、そんな事はね全然地獄の中にやがて仏になる可き性質がひそんでいるんだなんて事は明かしてませんよ。これは阿弥陀経の何処見たってねこんな事は出て来ないよ、

でありますから阿弥陀様が誌十八願の第十八願で、どういう事を云われたかと申しますと、南無阿弥陀仏と十回位唱えなららば、至心に信行して十回程唱えたならば、どんな悪いやつでも、この阿弥陀様の処へ引っぱって行ってやる、極楽往生させてやる、ただし、五逆罪をおかす人間と、謗法罪をおかす人間は御免蒙る、十八願にそう書かれてある、

それは、なぜかと言ったなれば、五逆罪、謗法罪これは地獄界に堕ちるものなんだ。その地獄界におちるものは仏性がないんだ。仏性のないものは、その極楽浄土においておくわけに行かない。性質の異なったもの、本質のつながりのないものを引っぱってくるわけに行かない。御飯の中に石瓦を入れるわけに行かない、これはお断りだ。

法華経の迹門に於いて始めて、この地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天人この六道の衆生に、ちゃんと声聞の性質も縁覚の性質も、菩薩の性質も、その菩薩が完成して行く仏の性質も皆仏性としてちゃんと具されているんだという、性具の法門が成立った。

さあなり立ってはみたもののですよ、成り立ってはみたもののまだ、これでは徹底しない、なぜかというと迹門でいいましたならば、これは本来の仏、本来の菩薩、本来の声聞、縁覚じゃない。
皆んな途中かあら声聞、縁覚になった。

所が法華経の本門に来て、この仏も、菩薩も、声聞も、縁覚も本来から有るんだ、だんだんに迷いの方が先で悟りの方が後ではないんだ、先迷後悟これは迹門迄こうなんだ。
所が本門になって来て悟りも始めから有るんだ、迷いの方だけでなし、悟りも始めからあるんだ。
でありますから無明と法性とが両方ともこの宇宙の始まりから活動しているんだ。という事をば法華経の本門で、寿量品で説き明かされた。これはね、もう仏教の大革命なんです。

もう五千巻、七千巻の経典の中に何処にもない事です。仏教の大革命。この大宇宙には今まで仏と云えば人間が志を立てて、そうして、難行苦行して菩薩から仏様へと悟りを開いて行ったもんだと思ったならば、あに計らんや、この大宇宙には地獄が本来あると同じように仏様も本来活動しているんだ、ただたんに仏性があるという、そんな生やさしいもんではない。仏性があるなんて、生やさしいもんじゃない。仏様もね、仏様が本来この大宇宙に地獄界がは動き出すと同時に仏界が動いている。

こういう具合に、本来大宇宙に仏様の方が動いている。迷いの地獄の方が動くと同時に本来仏様が動いている。こういうんです。さあ此所で我々大へんな重大な断定を頂いたわけですけれど、断定を頂くと同時に一寸困った事が出て来た、どういう点困ったかと云いますとね、皆さん、我々考えたらね、迹門の方が本当のような気がするんですね。

菩薩行の迹門と本門の相違。

それは菩薩行が済んで、それから仏様になったと云う事は因果の原則にちゃんと則っているけれども、始めから本仏が有るというと、
「我れ本、菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶尽きず。復、上の数に倍せり」
というのはこれはどうなるんだ、始め菩薩でそれから仏になる、これは迹門の仏なんです。本門の仏は始めから仏なんです。始めから仏だとなったら我本行菩薩道、所成寿命はどういう具合になるんだ。
これはね、法華経の本門の方の仏は、因果の法則というものをば無視したもんじゃないかと、こういう疑問が起きてくる。こういう疑問が起きて参りますね。

それは凡そ法華経の勉強をした人は、必ず一度は此の問題で苦しむんです。私もこの問題で苦しんだ。この問題で苦しんで、この問題を解決したい為めに私は当時日本第一の法華経の大学者と云えば田中智学大先生です。その田中智学先生はもう老境に及んでいられて我々弟子をお取りにならなかった、そこで田中智学先生の学問というものをば正統に御つぎになった山川智応先生の所に入門したその理由は、この問題を解決したかった、

一体この大宇宙に本仏というのは有るという話しだが、その本仏が有りますという事をどうして証明するか、そうして本仏は始めからの悟りの仏だというけれど、それならば因果の原則を無視した事にはならないか、一体これはどういう事なんだと、云う事が、もうわかり度くて、わかり度くて仕方がなくて当時代一流の最高の権威であった山川智応先生の門で学ばして頂いたのでありますけれど、実にまあ幸福といってこんな幸福な事はありませんね。

よく我々少年時代に丁稚奉公というのが有りましたね、今は丁稚奉公というのは無くなりましたね、中学校や高校を出ますと、すぐ就職です。そうして仕事しないうちから給料いくら呉れるか聞きます。私を使ってくださいじゃない、どうぞ私の所で働いて下さい、働いてやってもよいけど給料いくら呉れる、こりゃもうおどろいたね、我々の時はこういう事はなかったですね、職人やなんか新しく就職しますね、そうしますと始め給料の事言わなかったもんです。とにかく一ヶ月働いてごらん、その働きぶりによって給料やろうと云うんで一ヶ月働いてみてから給料が定まったもんですげね、近頃はもう働く前から給料いくら呉れるというんですね。冗談じゃない、働かない前に給料なんか定まるかと云うんですがね、そんな事云ったんでは人が来ないから働く前から給料定めてやっております次第でありますけれど、金儲けの為めに丁稚奉公したり、色々な商売の仕方を学んで、そうして世の中に立って行く。

それもまあ非常に結構な事ですけれど、私はその点非常に有り難かった事は、この仏教の根本的な重大問題を分かり度くて、山川先生の処に入門させて頂いたと云う事は非常に有り難かったですね、

で、山川先生に此の事をお尋ねすると、先生は始めから答えてくれませんよ。御答えにならない、それは理由があって御答えにならないですね。

で、なんと、おっしゃったかと云うと、お前が不思議に思ったらお前が解決したらよいじゃないか。剣もほろほろですよね。その問題は俺の本にもね随分書いてあるし恩師田中大先生の本にもね、随分書いてあるから、御妙判には至る所に書いてあるから、お前が見つければ良いじゃないか、こういう剣もほろほろの御挨拶で、そんな事よりも風呂掃除しなさいなんて言われて風呂掃除だの、庭掃除などさせられている中に段々それは有り難かったんですね。そうすれば先生が法門というものはこういう大切な法門は軽々しく教えてやったんでは決してわかりっこないから一つ汗を流してから教えてやろうというので、なかなか教えて下さらない内に今度は段々自分でわかるようになって来た。

で、私共最初に分かって来ましたのは当体義抄のこの御妙判、この当体義抄に、仏様の事が説かれてある。
「至理名無し 聖人理を観じて万物に名を付くる時」
此処の処の御妙判ですね、で、定まれる理というのは法と同じであります。
仏というのは、法を覚ったから仏であります。これは覚者である。
仏は法を覚った、法は同時に理であります。

で、理と云うのは、理と法はどう違うかと申しますと、これは理というのは能依それから事はこれは所依、で、事理の二つをつかねて、これを法というのであります。事理の二つをつかねて法という、でありますから理を覚ったという事は、或いは至理名無しという事は、法と云う事と同じであります。法の中の能依の理を挙げて、所依の事をば理の中に摂取した筈だ。

で、至理名無し、この宇宙を一貫している法というものは、名前がない、至理名無し。これは非常に考えなくちゃならない所ですね。
至理名無し、重大な事が、此の所から飛び出してくる。至理名無し、後でその説明を申し上げます。

「聖人理を観じて万物に名を付くる時」凡夫じゃない、聖人なんです。これが本仏なんです。
至理というのは、至れる理、至理はこれは本法、宇宙に本来存在している、本法、それから聖人理を観じてという聖人は、これは本来の仏の本仏なんです。

「至理名無し 聖人理を観じて万物に名を付くる時 因果倶時不思議の一法これ有り」
因と果とが一緒にもちつ、もたれつしている、因とも言い切れない、果とも云い切れない、両方とも互具一体になっている不思議の一法があった、其れが至理だ。それが本法だ。で、これなんと名を付けたら良いんだろうと、この聖人が考えた結果、妙法蓮華と名を付けられた、因果倶時不思議の一法を妙法蓮華と名を付けられた。

「此の妙法蓮華の一法に 十界三千の諸法を具足して闕減なし」
地獄から上、仏界に至る界界が悉く十界各々十界を具して百界、一界に十如を具して千如、それが三種世間に渡って十界が三千世間と互具しあっている、そういうものは
一法として闕減がない、これを修行するものは「仏因仏果同時に之を得るなり」さあ此処の処ですね、仏因仏果同時に之を得るなり、

これは非常に大切な事ですね、始め因があって果がくるんじゃない、因と果をこれを一緒に掴んでしまう事が出来る、因果というのは一緒にあるんだ。

「聖人此の法を師となし、妙因妙果倶時に感得し給う故に妙覚果満の如来と成り給ひしなり」
妙覚果満の如来になったんだ。で、ありますからこれを五重玄義に配当しますと、
「因果倶時不思議の一法これ有り 之を名づけて妙法蓮華となす」此処迄は名玄義。それから
「此の妙法蓮華の一法に 十界三千の諸法を具足して闕減なし」これは体玄義。
「之を修行するものは仏因仏果同時に之を得るなり」これは宗玄義。
それから
「聖人此の法を師となし、妙因妙果倶時に感得し給う故に妙覚果満の如来と成り給ひしなり」これは用玄義。
名、体、宗、用と教はこれは名玄義と一緒になっております。

こういう具合にちゃんと、五重玄義が此処に書かれてありますけれども、そうなっております。

本仏・本法の関係は始めから一体なり。
  (生・覚・成・説の相関)

それはどういう事かと申しますと、法というものは、これは仏を生ずるもの、で、仏は法が動いて仏が出てくる、その仏が法によって動かされて、そして法を覚ってくる、覚られるものは、法であります。
その覚られた法に則って、そうして仏は御自分の人格をば成就していく、仏はその成就された体験に則って法をば説いて行く、こういう関係になります。

法が仏を生む。法が仏を生むという事は仏智を、智慧を生むという事です。仏智を生む、法が仏智を生む、仏智は法を覚って行く、覚られた法に則って仏は修行する、そうして功徳を成就する、功徳を成就して仏は法を御説きになる。

で、ありますから法と仏の関係は生覚成説とこの四つの関係になっております。

さあ、一寸むづかしいね、一寸むづかしくなって来ましたけれども、我慢して下さいよ。

この大宇宙に真理が無始無終に存在すると云うのはね、迹門でも云っている、迹門でも、所がこの大宇宙にその真理と共に人格も又一緒に存在しているという事は、本門でだけしか云わない。真理と共なる人格が、この大宇宙に一緒に存在しておると云う事は、本門でなければ云わない、それならば真理が先にあって、覚った人格が後から出てくるというのが之が迹門なんですよ。

真理が動くと同時に真理と一体になっている人格が動くんだ。という事が法華経の本門の方なんです。こういう具合に動く、真理は智慧を生む、智慧は真理を覚る、覚った真理を仏は行う、行う仏は、どういう具合に行うかといえば法を説くんだ。

「成就」あの方便品を皆様御読みになりますね、あの時成就と云う言葉が出てきます。十如是の所迄に四回出てくる、成就甚深未曾有法、と出てきますね、あの成就です。成就と云うものは真理をば悉くわがものとなしてしまう、なかなか我が物となせないものですよ、真理というものはわかっていても、なかなか出来ないものです。

で、この私共は、仏様じゃないもんですから、凡夫の方の事は良くわかるけれど、さとりの方の事はなかなかわかりません。

凡夫の方の事で例を取ってみますと、我々の方は煩悩の法があると同時に、その煩悩の法が活動すると、凡夫が生まれてくる、我々の方は、そういったらよくわかりますね。我々「オギャー」と生まれて来ます、生まれて来ますと、先ず、呼吸をします。娑婆世界の空気をのむ、このお母様のお腹を出て娑婆世界の空気を始めて吸う、誰から教わったでしょう?、この智慧は、誰からおそわったでしょうね、おっぱいをの吸い方なんて、空気の吸い方なんて誰からおそわったでしょうね。なかなか赤ちゃんが、おっぱいを吸う時のあの実に微妙なこの口の動かし方とか息の吸い方と云うのは天才的なもんですね。私始めて子供を持ちました時ね、可愛くて、珍しくて仕様がないから、家内から赤ちゃんを取り上げて、自分のオッパイ飲ましてみた、飲ませてみたら途端にくすぐったい、くすぐったい、実にそのなんともいえない口の動かし方、息の吸い方、舌の回し方、もう千変万化を極めまして、天才ですよ、あれは、そういう法が凡夫と云うものの法が動き出していると、凡夫の智慧が動く、教わらなくちゃても、ちゃんとさとるから、凡夫の方は家元だからね。これね、その恋いなんて全然知らない人に恋を教えるとなったら、大変だろうと思いますね。お前ね、お前と異なった女性を見た時はボーとなりなさいよ、その時は心臓がときめく筈だから、そうなりなさいよ、はあ、そうですか、こうすれば良いんですか、(笑声)なんて言われたら、これは全然それを知らない人に教える事は一苦労ですね。

処が凡夫はちゃんと悟りを開く、無師独覚、師なくして一人覚りを開きますね、それはなぜかと云えば、家元だからです。法があって法が動いたら・・・(印字不明)だから素性の悪いやつは、素性の悪い事で覚りを開いてしまう。下衆(げす)は下衆の智慧を出す、

仏様はそれと正反対なんですね、宇宙の全体の真理を覚る智慧が自ずから法から生まれてくる、というのは法と人格、法格と人格が、根本に於いて一つであります。その根本に於いて一つなる法が動き出してくると、法とちゃんと一体不二の人格が動いてくる。
清らかな所に行きますとね、清らかな心になるんです。

それはまあ、この大阪あたりの自動車の排気ガスで充満した所を歩いてご覧なさいよ、頭がね、スモッグみたいになりますよ。智慧にかすみが掛かってくる。それを富士山の頂上なんかに登ってみると、何ともいえない、この清浄な気持ちになりますね。飛行機に乗ります、そうして地上三千五百メートルから段々八千メートル、一万メートルに登って遙か下の方に真綿のような雲がズーッと並んでいる、御天道さまが中天高く輝いておって、なんとも云えない清浄な感じがしますね。そういう所を飛んでおりますとね、まあ、天人の境地というのは、こういう境地だろうなという心になってくる、

それは法が智慧を生んでいる。宇宙の真理が動き出すと、真理が動き出したという事が智慧なんです。その智慧は自らの真理を今度覚る。自覚的にさとる、悟ったならば、その悟りに則って智慧を持っているあらゆる物をば自己の物と、意識的にこれはもう、成就する。そうして真理と智慧にうながされて衆生界を導く法を説く、法と仏というものは、元来こういうお互いに能所をなしていまして、お互いに因となり果となるものでありまして、これは元来一体です。

そういう本仏が宇宙一貫の真理因果倶時不思議の一法があった。それを何と名づけたらよいだろ、これは妙法蓮華と名前をつける以外につけようがないというので、至理に妙法蓮華という名前を御付けになったんだ。その妙法蓮華を修行したならば、修行するというのは此れは成就する。成就したならば、妙因妙果倶時に感得し給って、一ぺんに仏になっちゃった、

という事は、この大宇宙が動き出すと同時に仏は出来上がっているという事です。これを別の言葉で言いましたならば、始めからこの宇宙の本質に仏様があるんだと云う事です。

本仏・本法の関係は互具一体なり。

そこで今度は至理名無しの前の方の一番最初の
「水晶の玉の日輪に向かえば火を取り、月輪に向かえば水を取る、玉の体は一なれども、縁に随って其の功同じからざるが如し。
真如の妙理も亦是の如し。一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇えば迷いとなり、善縁に遇えば悟りとなる。悟れば即ち法性なり、迷えば即ち無明なり」

それで十界三千の諸法を具足して闕減なき処の因果倶時不思議の一法と云うのは何だ、因果倶時不思議の一法のこれは説明になるんでありますけれども、それはそれも例えて言われております。

所謂法性と無明で例えていらっしゃる、別の言葉で言えば、法性はこれ仏界であって、無明の方はこれは九界である。仏界と九界になるんですけれど、御承知の通り法華経に来る迄は無明を断じて法性だけになって成仏する。

所が法華経ではもう迹門の方便品から無明、法性は宇宙本有の法であって、これを断ずる事が出来ない。こうなりまして、法性が無明を具している。それから無明も又法性を具している。と云います事は別の言葉で言いましたなら、仏界が之は仏界をそなえると同時に九界を備えている。それから九界の方は、これは仏界を持っていると同時に、やっぱり九界を持っている。仏界が十界を具し九界が十界を具して、それで十界互具、百界千如になるんであります。

これをも少し別の言葉で言いますと、物は心を具し、心は物を具すあらゆるものに対して云う事が出来ますね。

凡そこの大宇宙に存在しますものは、その本体の方から申しましたならば、凡ゆる対立存在、善悪邪正、迷悟、美醜、凡ゆる対立存在はこれは外部から見たなれば、皆んな対立した存在だけれども、本質の方から見たならば、宇宙の本質は物にも非ず、心にも非ず、物よく心を具し、心よく物を具す。非心非物、非因非果の存在が宇宙の実体なんだ。

それを十界の方で云いましたならば、これは、仏界は九界を持っている、九界は仏界を持っている。その持っている所の十界というのは、これは同じだから、仏界即九界、九界即仏界というのは、これは体の方から云へば、体の方から、こっちの方は用の方から、仏と衆生はどういう点が異なっているかと云えば、持っている方は、持っている本体の方は、仏の方も仏界、九界。九界の方も九界仏界で、持っている界の方はこれは平等だ。九界即仏界、所が仏様は九界をば、化して用いている。悟りに化かして用いている。そして仏になっている。

九界の衆生の方は、この持っている仏界をば、これは迷化して、迷い化している。そして仏界の性質、仏性というものをば出せずにいる。そういう用の方では衆生と仏は違うけれども、持っている十界互具の方は同じなんだ。でありますから体は平等であって、そうして、用は差別である、となって来ます。

これはわかりやすい道理であります。その、これを天台大師は理体差なし、差は事用に約す、理体は差がないんだ、差は具体的な働きの上で、差を論ずるんだ。理体差なし、差は事用に約すと云われたのであります。

これは非常に良い言葉で、これは玄義の中でこう言われているんであります。で、この明快な天台大師の釈でありますね。
「理体差なし、差は事用に約す」こう言われております。それが因果倶時不思議の一法なんですね。
因果倶時不思議の一法、宇宙の万有と云うものは、理体からいったならば、皆んな差別が無いんだ。なぜ差別がないかと云えば、互具しているから差別がないんだ。

般若経なんかでは空だから差別がないんだと云う。法華経は違うんだ、互具しているから差別がないんだ。般若経は空平等、華厳なんかは縁起平等。同じ平等と云っても御経によって皆んな違います。華厳経の方は縁起平等、般若経の方は空平等、

それから法華経の方は互具平等、互具しているから平等なんだ。それが理体差無しだと、こう云っているんだ。

で、差別しているのは、これはこの用(はたらき)の方で差別しているんだ、そういう具合に論じて行きますね。で、この十界互具、此処の所が体の方は十界互具であります。十界互具の体の方、この体の方をば、当体義抄の方ではこう云われているわけですね。因果倶時不思議の一法、十界三千の諸法を具足して闕減なし。これは十界互具の体の方から論じたわけであります。

で、その体の方をば妙法、なんと名付けしか、そういう状態をば何と名付けるか、平等であって差別している。そういう状態をば何と名付けるか、何と説明したらいいんだろうというんで、水晶の玉の例を取られたわけであります。

水晶の玉をば御天道様に向けると、そうすると、水晶の玉が真っ赤に火のようになって終う。良い例えですね。それから同じその水晶の玉をお月様に向けますと、その水晶の玉が青白く輝いて水を取る。玉の体は一なれども縁に従って、その功同じならざるが如し。

十界互具しておって、日輪に向かえば仏界の火となり。月輪に向かえばこれは水の九界となる。玉の体は一つであるけれども、その用功(はたらき)と云うものは用であります。用は同じからざるが如し。

「真如の妙理も亦復是の如し、一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇えば迷いとなり、善縁に遇えば悟りとなる。悟れば即ち法性なり、迷えば即ち無明なり」
でありますから、この因果倶時不思議の一法、十界三千の諸法具足の一法、それは妙法真如である。図を出しておきました。

妙法真如で因にも非ず果にもあらず、だから因果具足なんだ、因にも非ず、果にもあらず。それで非因非果、善悪、非善非悪。もう凡ゆるものが入りますね、同じように類推して行って下さい。

凡ゆるものの入る処の非善非悪、非物非心、そういうこの妙法真如、それを、因果を特にこの所に挙げてありますけれども、因果を特に挙げられた。善悪等を挙げずに、因果を特に挙げられたのは深いわけがございます。

それは、段々説明致します。そこで 非因非果の妙法であるから、因も入っておれば、果も入っておる。その因の方を説いたものが迹門であって、果の方を説いたのがこれが本門である。

で、さて因の方をどういう具合に迹門で説いたかと申しますと、因果に約してこれをお説きになっている。その因果は、不覚、始覚、不覚の方はこれは染縁、九界の因、始覚の方は浄縁、仏界の果、さあこうなりますとね、迹門の方は染法薫じて迷いとなる、同じ非因非果の妙法でもこれを因の方から眺めて行きますと、迷いの九界の方は、これは不覚無明であって、やみである。

そこで仏の教えを聞いて始めて浄縁にふれてそうして悟りを開いているから即ち仏様九界の方から見てくるから、始めからの仏がないからそれで始覚、始覚が浄縁になって来ます。

所が本門の方は果の方から、本仏の方から、非因非果の妙法を見てゆくのでありますから、本仏の方からみますと、これは体、用で論ずるのでございます。
体、用で論じますと、この本覚の浄縁、宇宙の根本実在として、この本仏というものは始めから存在している。それは浄縁の本仏界の体として存在しておって、そうして本仏は九界の方をば覚りの働きとして御用いになっている。とこういう具合になっているんです。

此処の所一寸皆さんわかり難いだろうと思いますけれど、丁度御話しを始めてから一時間半になりますから此処で十分間休憩します。これはとても全部ご説明できませんから、今日は第一頁を御説明するだけで終わるかも知れませんが、一応此所で十分間休憩しまして、一息入れて又続けて研究して行きたいと存じます。

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本仏と本法の関係を再説す。


えゝ、講義をしておりまして、大変な所に入ってしまったと思いまして、我ながら苦しんでおる次第でございます。定めし皆様方にも、わかったような、わからんような一寸わかったような変な気持ちでいらっしゃる事かと思いますが、なぜこういう結果になってくるかと申しますと実は、基礎教学というものをば皆様が専門的にお備えになっていると非常に簡単なんですが、お備えになっていられない方々も御有りになるもんですから、勢いくどくどしく説明しなければならないようになるのでございます。そのくどくどしく説明している処がわかってみたり、わからなくなってみたりするわけでございまして、我ながらどうも話しというのは、むずかしいなという事を、話しをしながら自分ながら痛切に感じている次第でございます。

で、この大宇宙に真理と、智慧と、慈悲これを仏様の方で言います場合は法、報、応の三身と申しております。宇宙全体の真理というものをば我が身とされたのが、これが法身であります。その法身をてらしている智慧が報身であります。その報身、智慧から出てくる慈悲がそれが応身であります。

これを三身と云っておりますが、法華経に来る迄は、法身は無始無終であるけれども、報身は有始無終である、応身は有始有終である。法身はこれは法華経に来る迄、真理はこれは無始無終に始めから大宇宙に有るんだ、けれどもその真理をてらす処の智慧、智慧というのは、これは真理をてらし終わった始まりがあって、そうして、それは真理を全部てらしてしまうと、真理の永遠なるが如く、真理と常に共に無終になってしまう、その大智慧を以て、衆生界を導く慈悲を起こしてくる。その慈悲は、衆生界の出没に応じて、始めあり、終わりある、これが法華経に来る迄の仏身論なんです。

処が法華経の本門に来ますと、単に法身だけでなしに、智慧も、慈悲も共に無始無終なんだ。所謂智慧と慈悲、これを仮に人格とします。この法身の方を法格とします。

永遠なる法格これは法華経でなくとも説いている。処がその永遠なる法格と共なる永遠なる人格というのは、法華経の本門寿量品でなかったららば、これは説き出されてない。

さあ、そこで法格と人格がどういう関係になるんだというので、先程、生・覚・成・説と四つに分けて法格と人格となるもののお互いに能所となる関係を申し上げたのでありますが、これを、うんと簡単に云うとこうなるんです。

理がある。理が動けば智慧になる。智が止まれば理になる。こうなるんです。
理が動けば智慧になる。真理が動き出したら智慧になってしまう。智慧が静止したならば、止まったならばそれは理になるんだ。

うんと下劣な下品な例を申しますと煩悩の心がちゃんとある、煩悩の法というものがちゃんと人間の心に備わっている。その煩悩の法が人間の心にちゃんと生まれた時から備わっているんだけれども、動き出してくる。その煩悩の方が動き出してくると、人間の顔にニキビとなって現れてくる。そうすると、煩悩が働いてくる。煩悩の智慧が出てくる。それが煩悩の活動が盛んであるけれども、段々年をを取って、もう五十、六十、七十になってニキビが無くなってくると、煩悩の方が静止してしまう。智がね理の方に納まってくる。
まあ、こういう呼吸なんですね。

宇宙にはちゃんと、法界を一貫した真理がある、その法界を一貫した真理が動き始まると、仏様という人格が出てくる。それは元来は真理と智慧、法格と人格は元来一つもんなんだからです。
一つもの、その一つものだという事を非因非果の妙法だとこういうんです。

非因非果の妙法、その覚にもあらず迷いにも非ず、善悪、迷悟、十界三千混然と互具の体になっている処の妙法真如、その妙法真如をば因の方から見る、迷いの方から見れば、でありますからこれからこれはこうなりますね、妙法真如は十界互具、十界互具だから此れは非因非果ですね。

仮に九界を因とし、仏界を果にすれば、十界互具、だから因にも非ず、果にもあらず、これは妙法真如だ、十界互具というものをば迷いの方から見て行けば、因に約すと云う事は(図表です)これは迷いの方から見ればという事です。

迷いの方から見れば、迷った衆生の方は十界互具を知らない。知りませんね。迷った衆生の方は十界互具を知らない、知らないから不覚です。図表に出してあります。
知らないから不覚なんです。なぜ知らないかと云えば、正しい縁に会わない、染縁縁起、正しい縁に会わないから、これは不覚なんだ。十界互具を知らずに、そして浄らかな縁に会って、昨日の講演会のようなものにフーッと入って来てそうして何か講演で感動して、そうして法華経を始めて求めて行く、始めて求めて、はあ成るほど十界互具だったんだか、宇宙の根本実在は、妙法真如、非因、非果、十界互具であったのかと始めて覚るのが始覚なんです。

不覚から始覚に行く、これは十界互具の宇宙法界を、妙法真如の宇宙法界を、迷いの九界の方から見れば、因から果に行くんです。だから因に約し迹門に約せば従因至果、それが因に約す迹門、それは因果を示す不覚、染縁、九界、因それから始覚、浄縁、仏界、果とこうなります。

さて今度は同じ十界互具の妙法真如の中にあって、仏は始めから覚っている。始めから覚っている、その仏様の方から法界全体、妙法真如を見れば、所謂仏様の方から見ればという事は、果に約す、

仏様の方から見れば始めから覚っているからね、この始覚なんでない、本覚なんです。本覚、そうして九界をどうするかと云えば、九界を仏の用(はたらき)の自在なる応用面に持って行く、ここの所がわかって来ますと、後は一瀉千里にわかってしまうんです。

此処で我本行菩薩道の所が始めて、此処から出てくるわけです。先程ここに図を書きました。これは皆様見なれた図であります。
仏界が、仏界を具すと同時に迷いの九界をも具している。九界の衆生の方は仏様と同じく、仏界を持っている。そうして九界も持っている。だから持っている仏界九界は仏も、吾等衆生も同じだから、体の方の妙法真如から云えば九界即仏界、仏界即九界、仏即衆生、衆生即仏とこうなるわけですね。

でありますから生死一大事血脈抄には
「久遠実成の釈尊と、皆成仏道の十界互具の法華経と、我等衆生、と、この三つ全く差別なしとさとって、南無妙法蓮華経と唱うる所を、生死一大事の血脈とはいうなり」
こう説かれてあります。

仏様と我々が何で等しいかと云えば、等しくないですよ。普通から云ったならば、仏様は覚られたもの、我々は迷ったもの、何で等しいんだ。それは持っているものが同じだからこれは等しいんだ。

旦那様と奥様は等しくない、旦那様は男で、奥様は女だから違う。所が等しい、どういう点で等しいかと云えば、人間という点で等しい。人間の男が旦那様で、人間の女が奥様なんだ。だから男の婆々というのはない、あゝ女のばあちゃんが来た、君、女のばあちゃんなんて丁寧な事云わなくてもよい、女は始めから婆々に決まっているじゃないかと言ったら、とんでもない、男でもばばと云うのがある、馬場一郎なんて云う人があるなんて、落語をこの間、聞いたんですけど(笑声)馬場一郎、高田の馬場と云うのもあるからね。これは冗談でありますけれど、人間という点で男と女は等しい、それは、人間は体なんです。男と女は用(はたらき)なんです。

仏と衆生は用であって、持っている十界互具妙法真如の方は此れは等しいもんだ。

処が法華経に来る迄は、特に本門に来る迄は、九界の衆生が始めからあって、自分の心の中の仏界、心の中の仏界、仏様、我々の心の中に入っている仏界を何というかと云うと、仏性というんです。心の中に入っている仏界を仏性というんです。その仏性をどうして出すかというと、三観三諦、四種三昧、二十五方便の修行に依って、その修行が詳しく説かれてあるのは、安楽行品第十四なんですよ、ここの所で四種三昧の観法によって、この仏性を出してそうして、この九界の無明をば悉く仏界化して、そうして仏様に成って行くんだ。
だから成った仏の始まりがある。仏になる迄は凡夫なんです。仏ももとは凡夫なり。

処が法華経の本門に来ると、五百塵点、久遠無始の本仏が明かされて、本来から本来の仏なんだ、本有の仏なんだ、こうなりますね。

この大宇宙には本来から仏がある。本有の仏なんだ。それが本仏なんだ。本仏というのは本来の仏、本有の仏だから本仏というんだ。
さあ、そうなりますとですね、ここで問題になってくるのは、我本行菩薩道の経文なんです。

我本行菩薩道について。

どう解釈するか。我もと菩薩の道を行じて、成ぜし処の寿命、今なほ未だつきず。こうなってくるから、本仏だってもとは菩薩でなかったら、こういう迷いの菩薩が、菩薩道を行じて、そうしてさとりの五百塵点と云う、寿命を感ぜられたんではないか、だから始めからの仏なんか成り立たんぞ、ただ、それが五百塵点の大昔に仏に成られたからこそ本仏と云うんであって、本仏だって最初は迷いの凡夫で、それが菩薩道を行じて、五百塵点の、さとりの寿命を得られたんだ。こう思うんです。

処が始め凡夫で凡夫が志を立てて菩薩になって、菩薩が沢山修行して、仏に成った、そういう仏は、いくら昔に仏に成っても、それは迹仏なんです。

なぜかと申しますと、その事これから申し上げますけれど、さてそうしますと、いい所ですね、これは話しのしどころ、話しの聞きどころです。

ここの処は、これは我本行菩薩道と云うのは、どういう事を云ったのかと申しますと、仏になるには、九界と云うものをば、仏界化しなかったならば、仏になれないですね、

久遠の本仏が自分の心の中に地獄がある、法華経に来る迄は、地獄の心を切り捨ててしまって煩悩というものを悉く捨ててしまってそうして仏になるんだ、こう明かされてある。

法華経の方では煩悩を捨てよと云ったって、捨て切れるもんじゃない、煩悩は元来本有の存在で十界互具だから煩悩は捨て切る事に、なれないんだ。これは価値転換を行うんだ。価値転換を行って、それを仏の働きの中にしてしまうんだと云うのでありますから、この久遠の仏が、御自分の御心の中にあるものと、久遠の本仏が御自分の御心の中に持っていらっしゃる煩悩、九界の心、その九界の心をば仏界化する、九界の心をば仏界化する事が、我本行菩薩道なんです。そういう事なんです。我本行菩薩道と云うのは、

我もと菩薩の道を行じて、と云う事はそれは仏様が、始めなき始めに於いて、我が心の中の九界の心、迷いの心をば悉くさとりにしてしまう。九界を仏界化してしまう、そういう智慧と行、それが菩薩道になるんであります。

でありますから、うんと簡単に申しますと本有の仏界、本来の仏界の中の九界が本因なんです。そうして仏界の中の仏界がこれが本果になる。こういう具合になる。

本有の仏界と九界。

さてそこで、もう一つ問題が出てきますね。どういう問題かと申しますと、九界と云いますと、御承知の通り、九界は沢山あります。九つあるんですから、九界の中の一番偉い所が菩薩、それから声聞、縁覚(二乗)それから天人、人間乃至地獄、餓鬼、畜生こうあります。

法華経の本門では、仏も本来存在していると同じように菩薩も、声聞、縁覚も本来存在している、こう云うんです。

法華経に来る迄は法華経の迹門までは、菩薩はですね、人間が志を立てたのが菩薩になる。仏様に始まりがある処のさわぎじゃありませんよ。
迹門迄は菩薩も声聞の、菩薩になった時、声聞になったと云う始まりがあるんです。

始成の仏なんて云いますね。迹門の仏が始めて仏になる、始成仏であるなんて云いますね、冗談じゃない、仏様だけじゃない、迹門の方で云いましたならば、菩薩も、声聞も、縁覚も皆人間が志を立てて、菩薩になったり、声聞、縁覚になったりしたんだから、始めての菩薩になったり、声聞、縁覚になったりしたんだから、始めて菩薩になり、始めて声聞になった、そういう菩薩であり、声聞であり仏である。そういう始めから菩薩でない、人間が志を立てて、今までは凡夫だった、志を立てて、今度は菩薩になったという、そういう菩薩をば迹化の菩薩、迹化の菩薩というのはそういう菩薩なんです。

本化の菩薩と云うのは、始めっからの菩薩なんです。凡夫から菩薩になった菩薩じゃない。本化の菩薩と云うのは、始めからの菩薩なんです。そういう菩薩を法身の菩薩というんです。

そういう菩薩が此の大宇宙に存在している。始めからの菩薩、その始めからの菩薩は、菩薩はですよ、どういう具合になったかと申しますと、仏様が、本仏が動き出す、動き出して、最初に化導された相手が、この本有の九界の中の一番の親玉であった菩薩が、本仏に依って、最初に教化された。

大宇宙が動き出す、大宇宙が動き出すと、仏の智慧が活動する。仏の智慧と慈悲が活動する、うるとその中に本仏が永遠に存在すると同じように菩薩が永遠に存在する。その菩薩は、どうしても覚りを開く、自分の力ではどうしても覚りを開き兼ねておった。

本有の菩薩界でありますから、その本有の菩薩界の動き出した始まりの時は、大抵の点は、本有の菩薩ですから皆、わかっているんですけど、唯一つ、この大宇宙に本有の仏があるという事だけが、わからないでいるんです。その本有の仏があるという事がわからんという事をば、それを元品の無明という。

で本有の菩薩はなぜ仏でなくて菩薩かと云えば、元品の無明があったから、本化の菩薩なんです。その他の見惑、思惑、塵沙惑、それから、四十一品までの無明は全部整理は付いているんだけれども、この大宇宙に本仏本法というものが、本来一体になって存在して居るんだ。この事だけは本化の菩薩も最初ね、自らの力で破る事が出来ない。それを一番最初に破ってくれたのが本仏なんです。

だからその覚りと云う点に於いて、本仏は本来の菩薩に対して父であり、師であり、主である。
本仏は本化に対して主、師、親の三徳を持っていらっしゃる。ちゃんと御経に書かれてあります。

涌出品にこの事、大へんな事ですね。涌出品にどうかかれてあるかと申しますと、これはもう皆様よく御存知と思いますけれども、涌出品で大地が六種に震動して、地涌の菩薩摩訶薩が、この上行菩薩を先頭にして、六万恒河沙の菩薩摩訶薩が出現して来た、出現してきますと、菩薩摩訶薩の方々が仏様に対して、そうして御挨拶をする。

世尊は安楽にいますや、少病少悩にいますや、衆生を教化したまうに、疲倦なき事を得たまへるや、又諸々の衆生の化をうける事易しやいなや、世尊をして疲労をなさしめざるや否や、こう言って御質問申し上げる。そうすると仏様はそれに対してお答え遊ばされる。そばに居りました人々が、弥勒菩薩を始めとして、この地涌の菩薩は、何処から御出ましになった菩薩であり、誰の教えを受けて、こういう高貴尊特な御姿になられたのでございますかという事を、御質問申し上げる、

そうすると仏様はそれに対して御答えになったのが
「我此の娑婆世界に於いて、阿耨多羅三藐三菩提を得已りて、この諸菩薩を教化示導し、その心を調伏し、道の心を起こさしめたり、此の諸の菩薩は皆娑婆世界の下、この界の虚空の中に於いて住せり」この大地から湧き出た所の六万恒河沙の本化の菩薩、本来の菩薩はこれは誰から教わったものでもない、自分が、久遠本時の始めなきより活動し始めたその最初に化導した、菩薩が此等の菩薩なんです。こういう御答えなんです。

創価学会本仏論批判。

そこで私ね、創価学会の諸君に聞くんです。この経文解釈してごらん。創価学会でどう云います、創価学会ではこういうんですよ、
日蓮聖人の本地は本化の菩薩だ、本化の菩薩の本地は本仏だ。

はあはあ、では伺いますけれども、本来の仏だから本仏である、本来の菩薩だから本化の菩薩なんであって、その本化の菩薩がもとはと云えば本仏だと云ったら本化の菩薩無くなってしまう。本化の本と云うのは何だかと云えば、変わらないという事なんです。

本仏所化の菩薩、本仏所化の菩薩だから本化なんだ。その本化に本地があったら本化で無くなるじゃないか、成り立ちませんよ。

で、大体十界互具成立しない。本有の仏界がある、そうして本有の菩薩界があるから十界が成り立つんであって、その本化の菩薩界がもとはと云えば、本仏だと云ったら、菩薩界が無くなってしまう。十界互具なんて成立ちませんよ。

それから仏様を供養するものがなくなってしまう。供養するものが無くなったら、どうなりますか。御経文に我教化是等衆せりとこう書かれてあるのをどうするんですか。

創価学会の諸君、ここの処を解釈してごらん。本仏が本化を教化したという事はあるけれども、その本化と云うのはもともと俺だったと云う事が何処に書いてある。この経文を解釈してごらんと云ったら、説明出来ませんよ。

で、仏様が本化の菩薩を教化なさる時、どういう具合にして教化なさったかと申しますと、御自分の心の九界をば、仏界化する、その、仕方を以て菩薩を教化した。本化の菩薩を教化した。

でありますから我本行菩薩道というのは、その立場から申しますと、これはあく迄もその立場からですよ、あく迄もその立場から申しますと、「我もと菩薩の道を行じて」と云うのは、我もと菩薩を教化する事を行じて、と云う事なんです。

我本行菩薩道、その菩薩道は本化の菩薩を化導して、と、こういう意味にも、その点からは解釈出来るんです。
御自分の持っている九界をば仏界化した、それが菩薩道である。同時に、仏様が何で仏様かと云ったら、人を教化するから仏様なんです。

先程申しました通り、仏様と云うのは智慧を以て、法界の真理を覚って、そうして、慈悲を以てそれを化導するから、それだから仏様なんです。

覚りぱなしで化導しなかったら仏様じゃないですか。仏様が覚りを開いて、本化の菩薩を、汝、本化の菩薩よ、御前はどんなにしたって、元品の無明を自らの力でたち切る事は出来ないぞ、それは我、本仏の教化に依って、汝は元品の無明をたち切る事が出来るんだ。その元品の無明を破る処の利剣は法界は十界互具なんだと云う事を、誰によって知る事が出来るんだ。と云って、教わったから本化の菩薩は成る程そうかと、始めて本有の仏界の存在がわかったんです。

本化の菩薩というのは、また本化の菩薩を教化したから、本仏の用(はたらき)が出て来たわけです。教化しなかったら仏様じゃない。

もう一つ本化の菩薩が無いとしますと、創価学会の云う通り、日蓮聖人の本地は本化の菩薩だ。本化の菩薩の本地は本仏だといって、本化の菩薩が無いとすると、本仏もなくなる。

なぜか仏というものは教化をするから仏なんだ、本化がなかったら教化出来ない、教化をしない仏なんてあるかと云うんです。成り立つか、そんな事は、こう質問されたらどう返事します。

本化の菩薩があるから仏は、教化した、教化したから本仏の用が出て来るのでありまして、で、ありますから、皆さん法華の御信仰の方は「此経難持」の経文を読みますね、あの経文の終わりの処に何と書いてあります。「恐畏の世に於いて能く須臾も説かんは一切の天人皆供養すべし」 恐るべき世の中に於いて迫害を覚悟して、法門の一偈一句なりとも説くからその人に対して天も人も供養する。仏法を説かないお坊さんなんてないんだ。

近頃仏法を説かない坊さんもありますけれどもね、私は認めないんだ。そういうものは、「於恐畏世能須臾説」そこの処を抜きにして「一切天人皆応供養」だけやっている坊さんがいたらこらいかんね(笑声)恐畏の世に於いて能く須臾も説かん、そういう事をやるから一切の天人が供養する、

今度だって中之島公会堂でやるその、やる前に一番最初にやったのは布施の和田上人の所ですね。その布施でやった時なんかもうその、とてもこの間のどころじゃない、非常な迫害を受けた、私は受けなかったけれど、和田上人が、色々な迫害を受けた。その恐畏の世に於いて百千万の敵ありとも、この正法を護持せずば止まないと云う、迫害や苦しみを受けるから天が守るんですよ。

迫害や苦しみをうけなかったならなにも天、守る必要ない。何も苦しまない人間を守る必要ありません。苦しむから諸天善神が守る。日蓮聖人の首が平左衛門によって切られようとしたら光り物が飛んでくる、切られないのに光り物飛んで来たら、どうします。おかしなもんですよ。

日蓮聖人の一代記を拝見致しますとね、必ず、命に及ぶような事が出てくると、諸天善神があ動き出す。命に及ぶような事がなくて、天が動いたらおかしなもん、年百年中桜が咲いていたら、変なもんですよ。一年に一度三日咲いて、ひんぷんと散るから、あれ桜と云うのは良いんで、それがもう、お正月から十二月迄、年中桜が咲いたら(笑声)また桜か、というようなもんで、年百年中光り物が飛んでいたら、どうします。又光り物かな、珍しくなくて、仕様がないという事になりますよ。

あれはね、文永八年九月十二日丑の時に飛んだから、光り物有り難い。そういう訳ですね。

仏様というのは法を覚って、法を説く、法を説くというのは法を聞く相手があるからなんです。その法を聞く相手が本化の菩薩なんです。それが久遠の始めなき始め、この大宇宙が活動をしはじめるという事は、大宇宙と云えば、仏教でいうと十界以外にない。この大宇宙が活動し始める、大宇宙が活動し始めると、本有の仏界が動き出す。同時に本有の九界が動き出す。

そうすると、本有の九界が動き出す。本有の仏界が動き出すと、本有の仏界が本有の菩薩界の本化の菩薩に対して御自分の心の中の九界をば清めたような。御自分の心の中に九界というものがなかったらね、教化仕様がない。

我々の心の中に九界の心がなかったら、九界の人に法を説けない。仏様の心の中に本有の菩薩界がなかったならば、本化の菩薩を教化出来ない。
本有の地獄界がなかったら本有の地獄界を教化出来ない。

我々が丁度、例えてみましたならば、私共子供にものを教える、その時私共は子供にものを教える時、振り返って自己を反省します。こういう時にはこういう風に言えば子供はわかるな。といってそうして子供の心に立ち返って、子供を教化する。

それと同じように久遠の本仏は、久遠の菩薩の心に立って、お前はこ考えているだろうけれども、この大宇宙には久遠の本仏があるんだぞという事を教える。

そうして本化の菩薩は今迄いくら考えても、わからなかった久遠の本仏の実在という事をば、本仏直々の御教化によつて、納得出来て、あゝそうでしたか、宇宙法界は十界互具であつたんだわいと、わかったのが元品の無明を切った事なんです。

本仏の名は妙法蓮華経如来。

その処をよく翫味して頂きますとね、そうするとこの問題は一ぺんに解決してしまうのでございまして、仏の方から見たならば、果に約すれば体、用で示す。この仏界所具の仏界はこれは本覚なんです。仏界所具の九界は覚用なんです。本覚覚用です。

で、本覚はこれは本果です。覚用はこれは本因です。この本因が働いて本化の菩薩を教化した事をば、「我もと菩薩の道を行じて、成ぜし処の寿命、今なほ未だつきず、また上の数に倍せり」
こういう事になってくるんであります。

さて第二頁を開けて頂きます。第二頁はこれは自ら本有の妙法蓮華経と同じなんでありまして、第二頁の一番終わりの方に、この※を書いて置きましたけれども、仏智の対境たる時だけ宇宙は妙法なのではない。宇宙そのものが元来、妙法である。
で、その事がこの諸法実相抄と当体義抄に、始めの方は当体義抄の文であります。

「問う、妙法蓮華経とは其の体、何物ぞや。
 答う、十界の依正、即ち妙法蓮華経の当体なり。
 問う、もししかれば我等が如き一切衆生も妙法の全体なりと云わ るべきか。
 答う、勿論なり。
 経に云はく、所謂諸法乃至本末究竟等云々。
 妙楽の云く、実相必諸法、諸法必十如、十如必十界、十界必身土 云々。
 天台の云く、十如十界三千の諸法は、今経の正体なるのみ云々。
 」

これが当体義抄の御文。それから諸法実相抄は

「下も地獄より上仏界なでの十界の依正の当体、悉く一法ものこらず妙法蓮華経のすがたなり。
されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかわる事なし。釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給う時、事相に二仏と顕れて、宝塔の中にして、うなづき合い給う・・・さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ。実相とは妙法蓮華経の異名なり。諸法は妙法蓮華経と云う事なり。
地獄は地獄のすがたを見せたるが実相なり。餓鬼と変ぜば地獄の実相には非ず。仏は仏のすがた、凡夫は凡夫のすがた、万法当体のすがた妙法蓮華経の当体なり」

これは仏様の智慧にみられた時だけが、妙法蓮華経というのでなくて、法界そのものが、妙法蓮華経なんだ。即ち宇宙一貫の法は妙法蓮華経の法であって、その法が動いてくると、妙法蓮華経というこれは仏の智慧になるんだ。そうして妙法蓮華経という慈悲が此所に働いてくるんだ。こういう事なんであります。

でありますから、うんと簡単に申しますと、本仏というのはこれは
妙法蓮華経如来という事になるんです。妙法蓮華経如来、そして釈迦仏というのは、妙法蓮華経如来が衆生を化導するべく印度に現れて来た垂迹の仏になるわけであります。

妙法蓮華経如来が本仏の名前なんだ。御義口伝には、無作三身の宝号をば、妙法蓮華経と名付く、無作三身と云う永遠の慈智悲円満なる本仏、その本仏に名前を付ければ、妙法蓮華経如来と云う名前以外に付けられない。その妙法蓮華経如来が、如何に衆生界を導くか、その智慧と慈悲の働かせ方、それは、やはり妙法蓮華経の智慧と妙法蓮華経の慈悲なのであると云うんで、無作三身の所作は、何物だと云う時、所作そ云うのは、はたらきですね、所作は何物ぞという時、南無妙法蓮華経なりと。こういう具合に御義口伝に云われているのであります。

無作三身の宝号も、名前も妙法蓮華経なり。無作三身の久遠本仏のはたらきも南無妙法蓮華経なり。その南無妙法蓮華経如来という本仏が、衆生界を導く可く印度に釈迦如来と現れた。そういう事になるんであります。

で、ありますから印度に現れた釈迦如来は、これは垂迹、垂迹仏、その垂迹仏が、法華経の寿量品で、十九出家三十成道と今迄説いたけれども、五百塵点、久遠の無始から自分はほとけだったんだと、開迹顕本された。

その開迹顕本の開顕という立場から、開迹顕本に約して、本仏釈尊と云っている。

本仏釈尊と云う言葉は、或いは教主釈尊という言葉は、開迹顕本の立場から云っているんであって、そのものずばりの本仏の名前は、妙法蓮華経如来とこういう事になるんであります。
釈迦如来と云う名前は垂迹の立場から云っている名前であって、これは本来の名前じゃない。

私は高橋二郎という名前なんです。これは私の本当の名前じゃない。これは垂迹の名前、垂迹の名前なんです。私は本来高橋二郎てな名前持っているためしないんですから、ただ私の生まれる一週間程前から屋根の雨漏りがあって父親が屋根の雨漏りの修理をしておったのです。そこへ私の母親の兄が通って、やあ、お前ところで又うまれたってな、という話しで、父は屋根の上から、はあ、又出来ました。余計なものが出来た様に、えーまたできましたなんて云いましてね、これから役場に行くから、名前つけてくるか、はあ、おじさん名前つけて来てください、何とつけよう、いい加減につけておいて下さい、じゃ二番目だから二郎とつけておくよで、それで二郎とつけられた。

こんなおはね、本来の名前じゃない。これは垂迹の名前だ。本来の名前は戒名なんです。私が恩師から頂いた重玄院智遍日潦というのが、お前はこの覚悟で信仰をつらぬいて行けよ。法華信仰受戒の名前として、恩師から頂いた重玄院智遍日済という名前が、これが私の本地の方の名前。

皆さんだって、私は機会有る毎に申しあげるのですが、どうか皆様方信仰に御入りになったらね、早く御自分方の御尊敬なされる、御上人とか、宗教上の指導者の方々から戒名を頂いてください。垂迹の名前はね社会生活するには垂迹の名前必要ですけど、信仰の方では早く戒名を頂いて、戒名というのは信仰に入った途端に頂くものでありまして、そして、その戒名に則りまして、誓願を起こして信仰して下さい。誓願を起こして、願を立てて、私何故その願が必要だかと申しますと、願を立てないと、信仰に締めくくりがない。あの誓願を起こさない人の信仰と云うのは、悪気があるわけじゃない。まあ広宣流布して下さい。こういう仕事をして下さいと頼みますと一生懸命やってくれる、やってくれるけれども一人で置いたら、ポーッと 火が消えてしまう。安い炭みたいなもんですね。一人で置くとポーッと消えてしまう。処が、上等の炭と云うのはね、これは一人置いてもカッカ、カッカともえるもんです。戒名を持ってそうして誓願を起こすと、これはもう一人でもえる。仏様に誓いを立ててますから、その誓いを実行しないわけにはいかない。

でありますから、どういう誓願を立てるかともうしますと、これは、皆な各々、その人その人の本質がありますから、自己を反省して金で法を護るなら金で法を護るでいいんです。

唯ね私は何も出来ませんから、商売をやってお金で広宣流布のお手伝いをします。これはね、まだ誓願にならない、誓願と云うものは一生の間に五千万円法の為めに尽くすというのでこれで具体的になる。一円出すのも百円出すのも一万円出すのもね金で法を広めた事になるんですよ。だから自分は一生の間に何百万なら何百万或いは一年に自分は二回は、死ぬまで一生の間一年を通じて自分の金で自分の労力で一年の中に二度だけ広宣流布の講演会を開く、これでよい、或いは一生の間に自分は法華経のビラを一万枚柱に貼って歩く、これでもよい。具体的でなくちゃいけない。必ず、やりますよ。そのうち、そのうちでは駄目なんだ。死ぬまで、そのうちになってします。で、これは誓願でなくちゃならない。願を立てる。その願というのは来世に生まれて来る時の切符になる。誓願を立てずに死んでしまうと、無賃乗車ですよ。(笑声)

「あらいっちゃった」とい歌があるけれぼも、何かぼやぼやと生まれて来て、何か信仰をしちゃって、兎に角、御祖師様有り難いですよ、何が有り難いと云ったって、御祖師様本当に有り難いですよ、あんたも法華経を信仰しなさい位の事を知っている人に言って、それ位で死んでしまったらね、信仰の死に方じゃないです。こんな死に方は、そんなのは法華経の方の信仰の中に入れてない。信仰のムードの中に入っている(笑声)ムードの中に入っているけれども、本当の信仰と云うのは苦しまなくちゃ駄目なんです。精一杯の願を立てる。自分はどうも一年にね五十万位の金は儲けられるけれども、思ったらね、思ったらまあ六十万だけ法の為めに使おう位のね、仏様に約束してしまって、大へんな約束をしてしまったこら願を下ろしたいと云って、願を下ろしちゃ駄目ですよ。下ろさずにその誓願を貫いて行く、そこで始めて約束なんです。約束事になってくる。誓約になって来て、始めて誓願。未だ度せざるものは度せしめん、未だ解せざるものは解せしめん、未だ安ぜざるものは安ぜしめん、未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしめん、というのがこれが四弘誓願、この四弘誓願は別の言葉で言えば六波羅蜜、六波羅蜜は別の言葉で言えば、我れもと菩薩の道を行ずる。行ずるという菩薩道は未だ度せざるもの度せしめん、安ぜざるもの、解せざるもの、涅槃せざるものをば、涅槃を得せしめんという、この願を、これが菩薩道になるんです。

それが仏様の本因というものをば行う。創価学会なんかは本化の菩薩のもとは本仏だつた。そうしするとね、本因というのが無くなる。本果だけになってしまう。始めから本果だけになつてしまいましたらクリスト教の神様と変わりない。クリスト教の神様というものは永遠の神、その永遠の神は菩薩道を修めない神、始めからいきなり、ぴょこんと存在している神なんです。

如来寿量品の仏は、これは違います。それは化導するものを、ちゃんと化導し、本因妙に報われた、御自分の御心の中の九界をば仏界化するという、本因妙行に報われた、そういう仏でありまして、久遠の本仏が本化を教化なさる時、この大宇宙の根本実在は妙法であるぞという事を教えられる。その教えられて事に対して、その妙法を受ける事に依って妙法が現れてくる。妙法を持つ事によって妙法が行われてくる。そうして、この受持によって妙法というもいのが、それが成就する。妙法が現れて、妙法が行ぜられて、おうして妙法が成就されてくるのであります。

でありますから妙法蓮華経の五字に因行果徳の二法が具足している。我等その五字を受持すれば信力の故に受け、念力の故に持てば、釈尊の功徳が全部我々の方に、譲り与えられる。というのは成就される。本化の菩薩も、久遠の大昔、始め無き始めに於いて、仏様から久遠本仏から授けられた妙法蓮華をば受持された。

そしてそれが世世番番に、最初妙法蓮華経也と教えられた。成る程そうでございますと言って受持した人が本化の菩薩、所がそれがわからない人がある。そのわからない人々が退転して迹化になる。迹化他方の菩薩になる。その迹化他方の菩薩の方々が、大通智勝仏の時、或いは今の釈迦牟尼仏の時、再び仏様の御教化に何回となく、教化に浴して、そして二十八品を御聞きして、覚りを開いて、妙法を受持する事が出来るようになつた。

それが脱益なんです。それで解脱する事が出来た。解脱する事が出来た、もう時間が無いのでどうも、やり切りようありませんけれど、この二枚目の終わりの、ここの所を開いてください。

本門三益(特に本因下種について)。

これは肝心な所ですから申しあげます。
本門三益とありますね。この本門三益の中に、種、熟、脱とありますね。
種の処に久遠元初、本因下種とあります。これもね、名前をあげるとさしさわりがありますから名前はあげませんけれども、本因下種という事を、知らない人がいる。相当な坊さんで知らない人がいるんですよ。この本因下種という事をその坊さん、こういうんです。久遠の本仏が不軽菩薩のような姿をして、そうして人々に妙法蓮華経以外に仏になる方法が無いぞと、説いて歩いたのが本因下種だとこういっている。

仏教は童話じゃないですからね、本因下種というのは何か、不軽菩薩というのは覚りぱなしなんです。その不軽菩薩の本因妙行が示している事が何だ。本因下種というのは久遠の本仏が宇宙全体は妙法蓮華経なりと、覚られたという事が本因下種なんです。それ以外に本因下種ない。法界は妙法蓮華経に非らざる事なし。こう覚られた、其れは本因を、本因妙法蓮華経をば、本因本果具足の妙法蓮華経をば、法界全体にしるされた事なんです。それが本因下種なんです。
そこから覚りが出てくる。

日蓮聖人はこの本門三益の中の末法下種の処、この日蓮聖人の末法下種というのは何かといえば、日蓮聖人が末法下種だなんていったって、日蓮聖人の末法下種はどういうんです。一人一人に対して下種して歩いた事が、末法下種ですか、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊、諸宗無得道堕地獄の根元、法華経ひとり成仏の法なりと言ったのが下種だとしたならばですよ、日蓮聖人は何人に下種された、冗談じゃないですよ。そんな事を下種だなんてかんがえているから教学がわかりっこない。それでは日蓮聖人何人に下種しました、鎌倉時代の日本の人々は全部で四百万位しかなかった。日本人が全部で四百万その一割の人といったら四十万、まあ日蓮聖人メガホンを持って朝から晩までさわで歩いたって、四十万位しか下種出来ない。それじゃ、末法下種じゃないじゃないですか。

末法下種というのは、それは日蓮聖人が、旭の森に於いて、ゆり出づる日輪に対して、末法時代の成仏の法は法華経以外にないという、覚りを開かれて御題目を唱えられた。それは法界全体に対して唱えられた。その御題目から人類が救済されて行くから日蓮聖人の一声の題目が、末法の全人類救済の種を下ろした事になるんです。

それと同じように久遠の本仏が法界は妙法蓮華経に非らざる事なしと、覚られた一瞬が、法界全体に対する本因下種なんだ。
不軽菩薩のような恰好して久遠の本仏が法を説いて歩いたそれが本因下種だなんて、まるでね、不思議な童話みたいな事を言っている人がいますけど、そんな馬鹿な事ないです。

御経というのは、種、熟、脱の法門てなものは法華経最高級の教義法門なんですから、童話的に解釈されたらたまったものじゃない。

で、久遠の本仏が本因下種された。その本因下種を、最初に承って、納得した人が本化の菩薩でありますから、本化の菩薩のもとが本仏だなんていう事は到底成り立たない。そんな事をやったら本仏もなくなっちゃう。で、その本因下種で覚りを開かれたのが本化の菩薩、それから、世世番番に仏様の化導を受けて来た人々があって、そうして迹門三益が起きてくるわけですね。

で、大通結縁、中間前四味、迹門三周説法で、迹門の方は脱益している。

本門の方は、これは、分別功徳品から以後に於いて脱益の中に入ってくる。
でありますから、在世の本門と末法の初めとは一同に純円也、但し彼は脱、此れは種なり、彼は一品二半、此れは但だ題目の五字なり。こういう具合になってきまして末法下種、逆縁の為めは逆種、順縁の為めには順種になります。

それで末法時代は下種の中の熟益、脱益を認めるのであって、仏在世のような脱益は認めません。

仏在世の脱益は三十二相八十種好を現じて十八変を現じ雲に乗ったり光を出したりする様々の秘密神通力を具足した脱益になりますけれども末法は凡夫のままの脱益、それを信伏随従が下種益そして如説修行が熟益、それから受持成仏が脱益、こうなるのでございます。

もう此所まで出来ましても時間が超過しておりまして、私自身も甚だどうも申し訳なく心もとない説明になって終いましたけれども、最後に一言だけ申し上げて置きます。

本法と要法。

神力品で妙法蓮華経を上行菩薩に譲り与えられたら、本化の菩薩の方に妙法蓮華経が行ってしまって、お釈迦様の方は空っぽになる、だから抜けがらの仏だと、こいううんです。学会の方ではね。
これどういう具合にこれを、やっつけるかと云いますと、それは例えの取り方が悪い。神力品で付嘱されたのは、要法ですね。要法なんです。この要法は、神力品の場合はこれは要法です。それから寿量品の場合は本法なんです。この本法をば要法とされた。本法をば要法とされた。これなんか少し教学の素養がないと、なかなか此処の処の呼吸がのみこめませんけれども、寿量品で仏が、覚られた教えというものは、これは本法であります。

その本法をば、神力品で如来一切所有之法、如来一切自在神力、如来一切秘要之蔵、如来一切甚深之事、皆此経に於いて宣示顕説す。と如来の一切の法門も、それから力も、それから本体、それから因果も悉くこの経に於いて宣示顕説して、上行菩薩に譲り与えた、とあるもんですから、そこで要法となるわけです。

で、要法はこれは、名前が無い、無名、どういう名前があるかといえば、妙法蓮華経という名前なんです。それは本法は名前が無い、そんな事あるのか、先ほど拝読した通り、至理名無し、至れる法、至理というのはこれは無名なんです。

本法は名前がありません。で、この本法をば複製して、仏様名前なんか要らない。仏様の大慈悲から云ったら名前なんて要らない、名前というのは何故必要なんです。名前というのは頭が悪いから名前が必要なんです。ですから菩薩でもね、十地の菩薩というのがありますけれども八地以下の菩薩になると、しゃべらないとわからない。それはね、しゃべるというのはこれは名前をつづけて出して行くんです。名前によって、観念を呼び起こして観念というのは智慧だから、智慧によって理を照らす、そこで名前というのは必要なんです。

山本権兵衛という大臣がある、総理大臣が、権兵衛が種まきや、からすがほぜくる。権兵衛、山本権兵衛というのは、どうも総理大臣の名前としては、どうも余り安すぎるというので、名前を変えようという事になった、そこである智慧のある人が、山本権兵衛に授けて云く、山本権兵衛と読むから品がないんだ、烏がさわぐような名前だけれども、これを一つ同んなじ字であって山本の権の兵衛(ひょうえ)と読んでごらんなさい、如何にも総理大臣らしいんじゃないかというんで、それから権兵衛大臣、議会で何か言う時、勲何等山本の権の兵衛(ひょうえ)謹んで云く、なんて言うと、どどんとなったという。大笑い(笑声)でね。それと同んなじでありまして、名前というのは頭が悪いから必要なんです。頭が良くなったら説明聞かない、よく私、山川先生からこう話しをききました。山川先生が恩師田中智学先生の御給仕をしておられました時、田中智学先生が山川先生に、用事を言い付けられる、三分の一位迄お話になると、山川先生、はあわかりましたと行ってしまう、田中先生が何だお前は全部聞かないで何故行くんだ、はあーといって恐縮したという。山川先生、田中先生が三分の一ぐらい御話しなさると後、わかって終うんです。ですから、さーっと出て行ってしまうんです。私なんか二回ぐらい繰り返してもらわないとわからなかった。
これは頭がわるいからですね。

我々凡夫の頭は下劣ですからね、この本法というのは名前が要らない、妙法蓮華経という、名前は末代の凡夫のために付けられた名前なんです。

本法は常に本仏と倶なんです。今日でも本仏と倶なんです。今日でも久遠本仏がこの大宇宙の本質にましますんですよ。
本仏とともにましましている。それを本化の菩薩が神力品で、御釈迦様が久遠本仏が、この至理に名なし、この久遠の本法に名前の無いのを授けた人では、弟子も困るわけです。弟子が仕事をする時困るだろうというので妙法蓮華経と名前を付けられた。

又、本法というものを名前を以て表現する場合は妙法蓮華という表現の仕方以外に完全なる表現の仕方が無いんです。そして、この本化の菩薩が末代に御出現になる、。それですから御釈迦様がこの本化の菩薩に神力品で譲られたから、妙法蓮華経は釈迦牟尼仏の御ものに非ず、神力品の時、上行菩薩に譲り与えられてしまって、今は日蓮のもんだとおっしゃった。御釈迦様はもう、譲り与えられて空っぽになった、だから抜けがらの仏だ。脱仏だなんて成り立たないですね。

それはちゃんとね、丁度、宮中に於いて伊勢皇大神宮にちゃんと八咫の鏡をお祀りしておって、それとそっくり同じものをば宮中賢所に置かれたと同んなじように、本法の方は、伊勢皇大神宮にお祀りしてある八咫の鏡、要法の方はその本法の八咫の鏡とそっくり同んなじな、宮中賢所にお祀りしてある鏡なんです。複製されたものなんです。同んなじものなんだけれども、これは複製されたものなんです。だから空っぽにならない。空っぽになっちゃたというから、抜けがらの 仏だから脱仏。いい加減な落語みたいな事を言っていますからね、それから何故、この本仏が、日蓮聖人が本仏だとしたらね、私、非常に困りやしないかと思うんです。何故困るかというと、本仏が名字即の相(すがた)を現じられるか、本仏がどうして名字即の相を現ずる事が出来るんです。菩薩以外に名字即の相を現ずる事が出来ない。

末法はなぜ本仏が出現されず、
      本化の菩薩が出現化導されるか。

本仏というのはこの妙法蓮華経如来、妙法蓮華経如来はこれは、本仏であり、本法であるんですね。本仏であり、本法だ。この本仏本法の中の先ほど申しましたこれ久遠の仏界ですね。久遠の仏界の仏界所具の仏界が、これが本果だ。仏界所具の九界がこれが本因だ。

で、果は果の位、因は因の位、ここの処大切な所ですよ。どう大切だかと云えば、何故五逆謗法、三毒強盛の時代に、この本果の久遠本仏が、直々に出てこないで、本因の九界の中の菩薩界の本化の菩薩がお出ましになったか、本当から言いましたならね本仏御自ら御出ましになって、化導した方がいいんじゃないか。弟子を御出しにならなくてもいいんじゃないかと申しますと、果位の、本果の方の位、本果と本因というのは同んなじものなんですけれども、本果の果の位の仏が出ると、約束として三十二相八十種好を現じなくちゃならない。
仏というのは、所が菩薩と云うのは凡夫も菩薩になれる。刑務所の中に昨日迄極悪非道な事をして、刑務所の中にたたき込まれている人間があった、重罪犯人だ、その重罪犯人が教戒師のお話しを聞いて、あゝ、自分は悪かった、本当に自分は間違いであった、これは妙法蓮華経の信仰に行かなくちゃ、駄目なんだと言って、刑務所の中の重罪犯人が、未だ度せざる者を度せしめん、未だ解せざるものは解せしめんと願を起てた途端にこの人は、本化菩薩の流類なんです。

菩薩は下地獄界にある、菩薩というのは、本因の位。九界だから、でありますから我々凡夫、我々この九界の中の人間界ですね、九界の中のぼさつでもなければ声聞、縁覚でもない、天人でもない、人間なんですね。地獄じゃないですね。餓鬼でもない、況や畜生じゃない。我々は人間なんですね。その人間界を化導するには、人間の相を現ずる事の出来る本因妙の本化の菩薩でなければ出来ない。

本果の仏が出て来たんでは、出て来たんではこれ三十二相八十種好を現じなくちゃならない。もし日蓮聖人が御出ましにならずに、本化の菩薩が御出ましにならずに、本果妙の釈尊が出て来たとしたらどうなります。

三十二相八十種好を現じて、身体から光を出しまして、雲に乗ったりなんかしますよ。その時は大したもんですよ。兎に角、 大したもんだというんで、わあわあ集まって来ますよ。それきり、何でそれきりだかと申しますと、あゝあの人だから出来るんで、我々凡夫には出来ない、日蓮聖人は我々と同んなじ人間なんです。その同んなじ人間の位を以て出て来た日蓮聖人、おそらく日蓮聖人だってお酒を召し上がればですね、御気分のよい時は端唄なんか御うたいになったかどうか(笑声)わかりませんけれど、延年の舞なんか舞わせになられました時、まあ六老僧が左右に侍って十二中老等も侍る、そうして稚児僧等に延年の舞を舞わせられて、唄なんか御唄いになった時、悠然と大聖人は御酒を、聞召されながら、顔がポーッと赤らんで、そうして、日朗一曲歌ったらどうか、なんて言われるとね、日朗上人が、はあかしこまりましたと言って延年の舞を御歌いになられる。そうすると日像菩薩等が扇子なんかを持って、舞を舞われるね、その時の大聖人というのは何とも言えない、豊かなね、我々とこの血のつながっている御祖師様でなかったかと思いますね。

それはね御釈迦様ではそれ出来ない。三十二相八十種好を現じて、一代仏教何処を見たって御釈迦様が覚りを開いて後、おどりをおどったなんて経文にないから(笑声)お酒召し上ったいう経文もないですよ。

でありますから人間を化導するには人間の相(すがた)で出て来なくちゃ駄目です。
処が正法時代の人間というのは、これは、機根が違う。末法時代の人間はどういう人間だかと云うと、不思議な事、そういう事では容易に動かない。不思議な事を見ると、あれは我々と違うと、すぐ差別観を持つ人間が末法時代の人間ですから、この我々と同んなじような五逆謗法の心をちゃんとお持ちになっている凡夫日蓮、名字即の位で御出現になるのには、本化の菩薩以外にないんです。

それならば本化の菩薩と本仏というのは全然無関係かというとそうじゃないんです。どういう関係が有るかというと、これは本仏、本法の九界をば行った菩薩なんです。仏界所具の九界が動いてきたのが、日蓮聖人で、その点で、日蓮聖人は本法所持の菩薩なんです。本法をば我が身の物としていられる唯一の菩薩なんです。

こういう具合になるのであって、それであればこそ日蓮聖人が御出現になる時、帚星(ほうきぼし)とか地震とか、そういうものをば、日蓮が出現する前兆である。法界を動かして出て来た菩薩であるという事をば申されているのでございます。

結語。

日蓮聖人は本地は本化の菩薩にましまされる。その本地の本地が本仏だなんて事は、経文、釈義の上から、これはどうしても成り立ちにくい。

で、日蓮聖人はあくまでも本化の菩薩である。末法時代に天皇によって派遣された、派遣軍総司令官が本化の菩薩である。こういう具合に解釈するのが一番妥当な正しい解釈ではないかと思います。

どうも講義が徹底いたしませんで定めし、皆様方に於いても御不満の事と思われますが、私自身も何かもう話し切れなくて、実に不満足な次第でございますが、本仏と本法と本化との関係、我本行菩薩道の本因妙というのは仏界所具の九界を本因妙と云われたんだという事をばお話しして、まあ御許しを得たいと思う次第でございます。

南無妙法蓮華経、 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。

(文責在大阪支部)

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